ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

小川クニ『ゆりかご ごっこ』

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心温まるエッセイ集
 80台を前に来し方を振り返りつつ綴ったエッセイ集である。著者は岩手県在住。地元新聞岩手日報の随筆欄に投稿して掲載された作品が多く、29編が収録されている。80歳前後から折々に書かれているのだが、通して読めば、エッセイで綴った自伝といった趣きになっている。
 母が後妻だったために「後家の子っこ」いじめられた子ども時代の話。駆け巡った野や山のこと。気の強かった母との葛藤、優しかった父のこと。貧しい家庭と知りながら「嫁に行くときは簞笥も着物もいらないから」と両親を説き伏せて女学校へ進学させてもらったこと。小学校の教員となって結婚したものの別れて実家に戻ったこと。しかし実家には居場所がなく二歳の子どもを連れて北海道に渡ったことなどが丁寧に綴られている。
 厳しい生活、温むことのない人生が描かれて胸に迫られるが、そこには強く生きようとする著者の生命力が感じられるし、何よりも慈しみが感じられて好ましいものだった。
 巻頭の「北へ-子を連れて」がいい。
 「昭和三十年春、結婚につまずいた私は、死んだつもりで知らない土地で生きようと、満二歳になった娘を連れて北海道に渡った」「たどり着いたのは、海鳴りの聞こえる町であった。ようやく見つけたアパートは、窓も押し入れもない四畳半の暗い部屋だった」「教員の資格を持っていた私は、すぐ地元の小学校に採用された。……娘を教室の隅に座らせて授業をした。……いつも静かに本を見ていた」「娘は教師になった。他県に嫁いだので年に数回しか会えないが、会うと必ずあの頃の話になる」
 結局、北海道には10年いてふるさと岩手に戻ったのだが、この北海道時代については折に触れてたびたび書かれている。
 「毎年夏には娘夫婦と北海道旅行に出かけ、昔住んでいた町を訪れる。だいぶ変わってしまっているが、母子で記憶をたどりながら、町のあちこちに当時の面影を探しては、懐かしさに浸って帰る」(「北国の冬」)
 「町はひっそりと私を待っていた。昔はにぎやかな漁師町であったが、今は駅も映画館もなくなって、無人となった家もちらほら見える。昔の面影を探しながら、私はゆっくりと、海へ向かう道を歩いた」(「夕日と貝殻」)
 赴任した小学校の中にはすでに廃校となったところもあるらしい。母に手を引かれて北海道へ渡った娘はその後教師となったのだが、その娘が廃校となった校舎を町から借り受けて夏の間だけそこで暮らすようにしたという。
 そこにはギャラリーも設けていて、毎年展覧会を開催しているとのこと。第1回の展覧会は、エッセイスト・フォトアーティストみやこうせい氏の写真展だった。みやさんはルーマニアの写真で知られるが、「異国の風景は校舎の白い壁に不思議に調和した」とある。
 また、第2回は自身のちぎり絵展を開いたのだが、地元新聞に載った記事を見てかつての教え子たちが駆けつけてくれたとある。
 廃校になった小学校はどうやら歌越小学校というらしい。調べてみたら、天塩郡遠別町にあったものらしい。今は廃線になった羽幌線に歌越(うたこし)という駅があったが、ここが最寄り駅だったのであろう。
 羽幌線は、留萌本線留萌駅と宗谷本線幌延駅を結ぶ全線141.1キロの長いローカル線で、延々と日本海沿いに走っている路線である。
 当時の時刻表によると、函館本線の深川から直通列車が出ていて、留萌本線を留萌で羽幌線に乗り継ぎ約3時間、留萌からでも2時間ちょっとのところである。随分と遠くへ流れてきたものである。
 なお、本書カバーの写真がみやさんの写真で、優しい著者の心象が良く表現されているように思われる。私は本書をみやさんからいただいた。
 また、本書にはところどころに美しいカラーの絵が挿入されているが、どうやらこれは著者のちぎり絵であるらしい。
 80を過ぎて書きためてきたエッセイをまとめて一冊の本にする。厳しかった人生を振り返りながらも温もりを感じさせてくれるエッセイ集だった。
(制作協力岩手日報社) 

ミュージアムカフェ

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(写真1 テラスに面した明るい大川美術館のカフェ)
大川美術館
 美術館にはよく出かける。興味深い企画展があればちょくちょく顔を出すし、旅先でも美術館を訪ねることは少なくない。
 美術館では、美術を鑑賞したあと、時間の許す限りカフェに寄ってコーヒーなどを楽しむ。
 美術館は、建物自体が一個の美術作品である場合も少なくないし、魅力的なカフェが設けられているところも多い。
 カフェでは、見たばかりの作品を手帳にメモをする作業をしたり、購入した図録をめくったり、気に入った作品の絵はがきを買ったりして印象を深くしたりもする。また、旅先では、絵はがきを書くこともしばしば。そのために切手を常に用意しているほど。
 だから、ミュージアムカフェは私にとって至福の時でもある。気に入ったカフェがあればなおさらである。

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(写真2 大川美術館外観)
 さて、大川美術館。ここはコレクションといい、カフェといい、私の大好きなところ。
 美術館は、群馬県桐生市所在。JR両毛線桐生駅から徒歩約15分。歩きはじめて数分で上毛電気鉄道の昭和レトロのような西桐生駅の脇を通り抜け坂道を登っていく。水道山という小高い山の中腹にあり、この登り坂と急な階段がなかなかきつい。
 美術館は斜面に建っていて、入口が最上階。展示室が連なっていて、下へ下へと下る順路となっている。こういうのをスキップフロアというらしい。
 松本竣介を中心としたコレクションがすばらしい。竣介好きとしては何度でも訪れたいところ。実際、私はこれまでに6度も見学している。
 展示替えを繰り返しているから訪れるたびに新しい発見があるのだが、代表作「街」(1938)のほかに、この日は「建物(青)」(1948)が初めて見るもので注目された。
 カフェは庭に面してガラス窓が大きく開けている。この美術館としては1階ということになるのであろうか。
 室内とテラスにテーブルと椅子が配置されている。こぢんまりとしたカフェだが、とても落ち着ける。コーヒーはおかわりをしたくなる美味しさ。庭に立てば梢越しに桐生の市街が眼下に広がっている。カフェの隣には図書室もあって、美術書が置いてあるから手にとってパラパラめくってみるのも楽しい。

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(写真3 松本竣介「建物(青)」=美術館で販売されていた絵はがきから引用)
 

とみあさ公園のヨ13973

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(写真1 とみあさ公園の車掌車ヨ13973)
シリーズ 車掌車を訪ねて
  とみあさ公園は、栃木県佐野市所在。東武佐野線・JR両毛線佐野駅からタクシーで約5分ほど。佐野市文化会館に近く、住宅街の中にある。
 公園は、子ども向けの遊具があるほかはベンチも少なく広い敷地があるだけ。訪れた日は平日の午前中だったから閑散としていた。
 車掌車はその一角に線路に載せられ1両だけぽつんと鎮座していた。

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(写真2 車両側面)
 車体には、ヨ13973と車両番号が記され、形式ヨ3500と示されていた。これは当初ヨ3500形として製造され、その後、2段リンク化の改良が行われ、ヨ5000形に変更となったと読める。ヨ3500形として製造された際の車両番号は3973であり、5000形に改良された際に10000番が付与されたものである。
 調べてみたら、この車両は、1952年に多度津工場で製造され、その後、1967年に鉄道車両工業において2段リンク化の改造が行われたもののようだ。
 なお、2段リンクとは、2軸車の走り装置のことで、1段リンクに比べ高速化が可能となり、多くは貨車に適用された。つまり、2段リンク化とは、1段リンクを2段リンクとする改造のことである。
 車両はシンプルに保存されていて、自由に出入りできるようになっている。ただ、窓枠は外されており、車内の設備にも変更が加えられ、長いベンチが付け加えられていた。休憩所としての利用を念頭に置いたものであろう。
 この周辺は、古くから石灰輸送など貨物需要が高く、この車両も往時、あるいは長大な編成となる貨物列車の最後尾に連結されて活躍していたものかも知れない。

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(写真3 車両内部)

人間・髙山辰雄展

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(写真1 会場で配布されていたチラシから引用=中央の絵は代表作「少女」)
森羅万象への道
 世田谷美術館で開催されている。
 髙山辰雄(1912-2007)は、大分県出身だが終生世田谷を拠点とした日本画家で、会場には過去最大規模となる約120点もの作品が集められており、「森羅万象への道」の副題のもと髙山の画業の全体がわかる内容となっていた。
 展示作品は、1934年から2007年まで70年余にわたって画業の全域にまたがっていたから一括りにするのは難しいが、印象に残った作品を一つ二つ、それも一言二言で。
 「砂丘」(1936)は藝大の卒業制作で、初期の作品にはこういうメリハリもあったのかと感心させられた。セーラー服の女性がモダンで、豊かな色彩はまるで油彩画かと思わせられた。
 「少女」(1979)は鋭い目が不気味さを感じさせる。全般にこの時期の作品は描かれる人物がひょろっと背の高いのが特徴で、幻想的であり、深遠な人間の内面が感じられた。
 初めて自画像を描いたという最晩年の「自写像二〇〇六」(2006)は、ステッキを手に立っているのだが、もはや輪郭もぼわっとし表情も定かではなくて、来し方を振り返っているのか、その心象は容易にはつかめなかった。

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(写真2 「夕」(1981)=会場で販売されていた絵はがきから引用)

千住友の会再び

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(写真1 千住友の会の面々)
北千住で飲む
 何かにかこつけては飲んでいた時代。何も飲むのに理由などいらないのだが、あれば集まりやすい。
 千住友の会は、北千住駅を通って通勤している者たちの会で、もちろん北千住で飲む。
 北千住駅は、常磐線、地下鉄千代田線、地下鉄日比谷線、東武伊勢崎線、つくばエクスプレス線が交差する、首都圏でも十指に入る巨大ターミナル。
 会社が秋葉原だから当然利用者も多い。利用者全員が集まるわけではないし、参加しなければならないわけではさらさらないし、利用していなくとも参加は大いに歓迎される。しかし、参加者には大酒飲みが多い。
 そんなかつての仲間たちが、「たまにはどうですか」と声をかけてくれた。もちろん喜んで駆けつけたという次第。
  北千住駅前の居酒屋に陣取ってまずは生ビールで乾杯。至福の時である。リタイアしてからはこういう飲み会も少なくなっているからとてもうれしい。
 話題に会社のことは入れないというのはこれは当初からの不文律。サラリーマンが飲んでいるのだから上下関係がまったくないとはいかないが、そういうことを感じさせない気楽な集まり。
 話題はまずは野球。大谷については全員異口同音に賛嘆の声。次ぎに巨人。大半が巨人ファンだからこれもいつも通り。優勝しない限り高橋は今季限り。後任は誰か、ここが難しいところで、松井はない、中畑もない、意外なところでは原の復帰という声も上がっていたし、玄人好みなところでは川相などという名前まで出ていた。
 次ぎに大相撲。稀勢の里の復活優勝を期待する声が圧倒的で、ほとんど悲鳴に近いほどだった。白鵬は引退が近いだろうし、鶴竜では華がない。遠藤については、「お茶漬け」では力が出ないのではないかとの指摘があった。
 そんなこんなで楽しくて、つい飲み過ぎた。これも久しぶりのことでうれしいことだった。

ユルリ島の野生馬

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(写真1 会場の様子)
岡田敦写真展
 豊島区の大正大学で開かれている。
 「馬の楽園」と呼ばれながら絶滅の危機にあるユルリ島の野生馬の生息を追った写真家岡田敦の渾身の写真展である。
 ユルリ島は根室半島昆布盛沖合の無人島。周囲7.8キロ、面積168ヘクタール。海抜43メートルの台地状になっており、かつて昆布漁の干し場として利用された。
 ただ、島は絶壁になっており、断崖の上に昆布を引き揚げるために馬の労力が必要とされた。馬は櫓の滑車を引くために島に持ち込まれたもので、島には最盛期には9軒の番屋と7基の櫓があったという。
 しかし、昆布漁の近代化が進むと漁師は次第に撤収していき、馬だけが取り残された。島には水と餌となる草が豊富だったところから馬たちは生き延びられると判断された。
 最後の漁師が島を出たのは1971年で、その後、馬たちは交配や出産も自然の成り行きにまかされて生き延びていき、いつしか島は「馬の楽園」と呼ばれるようになったという。
 ただ、多いときには30頭も生息していたのに、牡馬がいなくなると世代の交代もなくなり、2006年には牝馬だけ14頭、2011年には12頭と減っていった。
 岡田がユルリ島野生馬の生息を撮り始めたのは2011年で、根室市からの委託だった。根室市としては無人島の生態系の観察が目的だったのであろう。
 岡田敦は、1979年北海道まれ。2008年には写真界の芥川賞と呼ばれる木村伊兵衛写真賞を受賞するなど気鋭の写真家として知られる。
 しかし、撮影は困難ではなかったかと作品を見て容易に察せられる。厳寒の中での撮影のみならず、おそらく無人島で野営もしたのではなかったか。
 会場には約20点の写真が展示されていた。吹雪を避けようと寄り添う馬たち。年老いた馬が多いようだ。白い鬣(たてがみ)が厳しさを物語る。馬の睫毛はこんなにも長かったのかと思う。あるいは吹雪から目を守るために伸びたものかも知れない。
 屍ももちろん放置されている。自然の摂理とは言え無残な姿だ。
 草原に白い花が咲き、白と黒の縞模様の灯台が建っている風景がある。
 しかし、写っている馬は、あるときは9頭だったのに、7頭になり5頭になっている。
 岡田によれば、2017年には3頭にまで減ったという。
 島は野生馬の生息地であると同時に、貴重な植物の生育地でもあるのだが、馬がいなくなれば、馬の餌となるイネ科の植物などで島は覆われ、希少な植物が追いやられ、植生が変わっていてしまう。
 岡田の写真は、ユルリ島の野生馬を一切の修飾を省いて写し出しているが、それだけに生き残っている馬たちの末路を思うと残酷でもある。そう感じられて印象深かった。ユルリ島の野生馬についてはかねて関心があって、その様子が具体的に見られて得がたい体験だった。

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(写真2 岡田の作品=会場で配布されていたパンフレットから引用)

東大でジャズ

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(写真1 イベントの模様)
柏キャンパス大気海洋研究所
 ブルース・ナイト・オブ・カシワというジャズの催しが6月2日に行われた。会場は東京大学柏キャンパスの大気海洋研究所に隣接した学内食堂「お魚倶楽部はま」付近。
 今年が3回目で、周辺の市民に広く呼びかけて行われ、夕方5時から三々五々集まってきた観客は、特別に販売されているビールや枝豆などのつまみを片手に日頃聴くことの少ないジャズのライブ演奏を楽しんだ。オープンスペースであり入場無料。

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(写真2 パーバースの演奏の模様)
 5つのグループが出演していて、ジャズのポピュラーな曲を選んで演奏してくれたので気楽に楽しめた様子だった。どうやら、はまの主人がジャズ好きで、その縁で集まったグループのようだった。
 柏キャンパスは、東大で本郷、駒場に次ぐ3番目の主要なキャンパスで、学融合を指向する理系の大学院や研究機関が集まっていて、「知の冒険」がキャッチフレーズだ。
 2010年に開設されていて、現在は、大学院新領域創成科学研究科、ノーベル物理学賞梶田隆章教授が所長を務める宇宙線研究所や物性研究所、大気海洋研究所のほか4つの研究センターに加え、国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構などとあって、先端的な研究機関が名を連ねている。現在の教職員数は大学院生も含めると約3,100人。理系だけあって大学院生が修士約1,100人、博士約580人と多いのが特徴だ。
 このうち、大気海洋研究所は、地球環境や気候変動、生命の進化に関する基礎的研究を推進していて、柏キャンパスでは物性研と双璧をなす大規模な研究機関だ。毎年秋に行われるキャンパス一般公開では子どもたちに最も人気の高い研究機関でもある。

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(写真3 大気海洋研究所外観)