ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

山田線と北リアス線

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(写真1=橋桁が架けられた山田線閉伊川鉄橋)

被災鉄道の今
 山田線(盛岡-釜石間)のうち、沿岸部を走る宮古-釜石間55.4キロは津波被害が大きく、宮古駅に近い閉伊川鉄橋が崩落したほか、沿線の大半で線路が流出し、陸中山田、織笠、大槌、鵜住居では駅舎も流出した。
 魹ヶ崎からの帰途、宮古に向かう途中、山田線の沿線を国道45号線で走った。そうすると、復旧工事は着実に進んでいる様子だった。
 工事は被害の大きかったところから進められているようで、それも駅舎の建築などよりは路盤の構築と線路の敷設が優先されているように思われた。

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(写真2=山田線磯鶏駅の今。線路は草むしているが、駅前には新しい住宅が建ち並んでいて鉄道の復旧を待ち望んでいるようだった。左にSLが見える)

 磯鶏駅などは、大人の背の高さほどにも津波をかぶったようだったが、待合室はかろうじて原型を保っていたし、ホームもそのままだし、線路は草むしてはいるものの無傷のように思われた。路盤と線路を点検すれば復旧するのではないか。
 ホームに立ってみると、駅名標がまだ新しそうで復旧を待っているようだったし、構内に展示されているSLが放置されたままでもの悲しそうだった。
 宮古駅に近い閉伊川鉄橋では、鋼製の橋桁が真新しく架けられていて、工事の進捗を示していた。この鉄橋は、津波で大部分が崩落していて、今年の3月に訪れた際にも工事に着工の気配はあったものの、橋桁はまだ崩落したままだった。
 山田線の帰趨についてはJRと地元及び三陸鉄道との協議の結果、JRが復旧工事を行った上で三陸鉄道に譲渡することで合意に達しており、JRでは、平成28年度内にも復旧工事を完了し三陸鉄道に引き渡したい計画で、これが実現すると、岩手県沿岸部のうち、久慈から盛(大船渡市)に至るまで三陸鉄道で鉄路が一本につながることとなる。
 一方、その三陸鉄道の復旧はめざましく、壊滅した南リアス線も含めて震災後3年で全線で復旧させている。
 三陸鉄道は旧国鉄路線を転換した第三セクター鉄道で、厳しい業績を余儀なくされているが、それでも部分開通を重ねながらついに全面復旧にこぎ着けていて、沿線市町村にとって大変心強いものとなったいる。
 とくに、この部分開通を積み重ねていったことが結果的によかったのだと思われる。そこには三陸鉄道と沿線住民にとって鉄道をともかく途切れさせないという不断の決意があったのではないか。
 北リアス線では地震発生からわずか12日後には宮古-田老間で復旧させ「復興支援列車」を走らせている。これが沿線住民にどれほどの勇気を与えたものか。鉄道にはそういう側面があるものなのであろう。

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(写真3=宮古行き列車が入線してきた田老駅)

 その北リアス線宮古-田老間をこのたびの宮古訪問で乗車してみた。夕暮れの時間帯だったのだが、高校生はじめ通学通勤の乗客で賑わっていた。
 また、降り立ってみた田老では、復興後の姿が徐々に形となってきていた。住宅の高台移転が進んでいたし、防潮堤に近いところでは野球場を建設したり、太陽光発電のための膨大なソーラーパネルの敷設が行われていた。
 これらは今年3月に訪れた際には見られなかったもので、復興復旧がやっと軌道に乗ったような印象だった。

本州最東端魹ヶ崎

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(写真1=本州最東端に立つ魹ヶ埼灯台)

日本で最も美しい灯台
 釜石線を終着駅釜石で下車。乗り継ぐべき山田線が不通のままのためレンタカーで魹ヶ崎を目指した。釜石側からはバス便もないのである。
 魹ヶ崎は、岩手県宮古市にある本州最東端の岬。重茂半島の突端にあるが、岩手県の地図を広げても、重茂半島自体に気がつく人は少ないかもしれない。つまり、北から南へと地図をなぞっていってもなだらかにつながっているように思われるだろう。
 しかし、子細に見ると、北の宮古側では宮古湾が、南の山田側では山田湾がそれぞれ深く入り込んでいて、このことによって重茂は半島となっているのだが、しかし、一般の半島や岬のイメージとは違って鋭く突き出ているわけではないので、なおさら半島とは思われにくい。また、重茂をおもえと読める人はさらに少ないだろう。
 釜石駅前を11時20分に出発。国道45号線を北上し、半島への山田側の入口である大沢で12時ちょうど。ここから細いくねくねした道をひたすら進む。これは岬に至る道の常で、海沿いだが眺望が開けることもないが、突然対向車に出くわしてびっくりすることたびたび。

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(写真2=魹ヶ埼灯台への登り口。灯台まで3.8キロとある)

 岬の付け根にあたる姉吉の集落に到着したのは12時40分。当初計画では11時40分到着予定だったから、釜石駅での出発が遅れたせいもあるが、ちょうど1時間も遅れている。集落には漁船が数隻貯まっていて、魚市場とは言えない程度の小さな魚の水揚げ場があった。付近にはキャンプ場もあった。
 ウォーキング用に着替え、カメラなど機材を担いでいよいよ出発である。12時50分。付け根には魹ヶ崎灯台への自然歩道入口の立て札があり、灯台まで3.8キロとの表示がある。1時間の予定だが、果たしてどうなるか。
 すぐにきつい登りとなった。これが10数分も続く。喘ぎながら登っていく。普段の不摂生を呪う。しかし、この岬は初めてではないのでこの登りは覚悟していた。また、スタートしてすぐのこの登り坂を張り切りすぎるとこの先の長い道のりがさらにきつくなることも知っていたから、イーヴンペースでしっかりと登っていった。
 100メートルも一気に登ったのだろうか、このきつい登り坂を過ぎると、後は緩やかなアップダウンが続く。
 足下から潮騒が聞こえてくる。小鳥が鳴いている。カッコウの鳴き声もこだましている。山の中腹に取り付けた道だから、林に遮られて視界が開けることは少ない。しかし不満はない。静謐で気持ちがいいし心が安らぐ。樹木にはクリなどブナ系が多いようだ。

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(写真3=道ばたに立てかけられていた魚つき保安林の表示)

  途中に、営林署が立てたものであろう、「この森林は魚にいこいの場と餌を補給する役目を果たしています」と記した看板が立てかけてあった。畠山重篤さんの好著『森は海の恋人』を思い出した。この本は森と海の関係を説いたものだった。
 ところどころに標柱があって、魹ヶ埼灯台まで0.8キロなどとある。なお、岬の名称に当てる漢字だが、岬名を記すには崎とすることが大半で、灯台名の場合だけは埼となる。これは海上保安庁の用語によるものであろう。
 今か今かと期待していたところ、突然のように眼前に白亜の灯台が現れる。どきっとして、そして感動する。時に7月1日12時50分。登り口からちょうど1時間の道のりだった。
 灯台は太平洋に向けてすっくと立っている。まことに美しい。これほど美しい灯台がほかにあろうか。岬好きで、各地の灯台を訪れているが、日本で最も美しい灯台ではないか。
 灯台は岩礁の上に建っていて、すらりと背が高い。灯高(地上から灯火までの距離)は34メートルとある。白亜の円形である。太いのだが、背が高いからさほどにも感じない。
 灯台のそばには休みどころが設けてあって、そこから海に目をやると、大きな太平洋がどこまでも広がっている。両手を広げて余るほどに遮るものがないから240度もの眺望であろう。岬自体は鋭く突き出ているわけではないが、この眺めは一級品だ。
 この岬に立つのはこれで4度目。初めて訪れたのは50数年も前で、その時は灯台職員が常駐していて、てっぺんまで登らせてくれたものだった。
 3度目の前回は平成2年6月15日と記録にあるから、24年ぶりの再訪ということになる。何度訪れてもこの魹ヶ崎の感動は薄れない。魅力も変わらない。
 岩礁の上には本州最東端の碑があった。大きな岩に鉄板を埋め込んだもので、座標は灯台の位置で北緯39度32分54秒、東経142度04分19秒である。

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(写真4=本州最東端の碑と魹ヶ埼灯台)

釜石線 賢治と民話豊かなライン

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(写真1=美しい緑が連なる釜石線沿線風景。並走する国道283号線と猿ヶ石川)

イーハトーヴの世界
 先週末から4日間にわたって岩手県と宮城県の沿岸部を旅行した。重茂半島と牡鹿半島を訪ねるのが楽しみ。併せて被災鉄道の復興状況も知りたい。
 まずはJR釜石線。7月1日金曜日。上野6時10分発の東北新幹線やまびこ41号を新花巻で下車9時07分着。すぐに釜石線に乗り換えた。
 新花巻はちょっと変わっていて、新幹線から在来線へはいったん駅を出て連絡通路を進まねばならない。新花巻は東北新幹線の新花巻駅開設に合わせて開業した新駅で、いかにもとってつけたような構造。片側1線の狭いホームがあるだけである。

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(写真2=列車の到着を待つ釜石線新花巻駅ホーム。クロスしている上部は東北新幹線である。駅名標にはエスペラント語も併記されている)

 釜石線は、東北本線の花巻と釜石を結ぶローカル線で、全線90.2キロ、駅数は24。岩手県の中央部を北上盆地から北上山地を越え三陸沿岸へと横断している路線である。
 新花巻9時19分発快速はまゆり1号釜石行き。3両のディーゼル。できれば列車には始発から、あるいはその線区の頭から乗りたいものだが、新幹線との乗り継ぎ時間の都合でやむをえず新花巻からの乗車となった。
 新花巻を出てほどなく北上山地へと分け入っていて登坂が続いている。宮守を出てすぐに宮守川橋梁を渡った。通称めがね橋と呼ばれて親しまれている橋だが、乗車していては美しい3連アーチもチラッとしか見えなかった。この橋は宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルとなった橋である。
 賢治と言えば、この釜石線は銀河ドリームラインの愛称があって、各駅にはエスペラント語の愛称がつけられている。例えば、新花巻はステラーロ(星座の意)だし、土沢はブリーラ・リヴェーロ(光る川の意)である。
 沿線は、田植えが終わり水が張られて、青々としみずみずしく美しい。何の変哲もなくのどかな風景だ。しかし、心安まる風景でもあって、賢治が理想郷としたイーハトーヴの世界を連想させた。
 遠野10時01分着。6割方が下車した。民話のふるさとであり、人気の観光地である。途中下車したいところ、次の都合もあるしそのまま乗り通した。
 仙人峠を25‰の急登坂で越えてそうこうして釜石10時48分着。三陸鉄道南リアス線の列車が隣のホームでアイドリングしていた。なお、この釜石が起点である山田線は震災の津波被害により不通のままである。

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(写真3=釜石線の終着駅釜石。駅の目の前は新日鐵住金の工場である。ラグビーが盛んで、2019ラグビーワールドカップへの期待が高まっている)

あこがれの車掌車

 

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(写真1=真岡鐵道真岡駅に併設された鉄道博物館SLキューロク館に展示されている車掌車ヨ8000形)

 

究極の移動する書斎
 車掌車とは、貨物列車の最後尾に連結されている車掌が乗務するための業務用車両のこと。なお、貨物は積載しないこととなっていて、車掌車に貨物も積載する併用タイプは緩急車と呼ばれて区別されている。
 この頃では、この車掌車を見かけることはなくなっているが、これは1985年に貨物列車の車掌乗務が原則廃止となったためだで、常務車掌は車両の切り離しや緊急時のブレーキ操作なども行っていたらしい。
 私はこの車掌車に非常なるあこがれがある。つまり、この車掌車を書斎代わりにしてはどうかというのである。なお、このアイデアは、関川夏央『家はあれど帰るを得ず』(文春文庫)から得た。
 車掌車には、一般的なヨ8000形の場合、机や長椅子、だるまストーブ、トイレなどが設備されているが、私は中古の車掌車を購入して専用とし、この車掌車を貨物列車の最後尾に連結してもらい、貨物列車の赴くところ一緒にふらりふらり全国各地を旅して歩きたいのだが、これぞ極上の旅であろうし、究極の移動書斎であろう。

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(写真2=ヨ8000形車掌車車内。SLキューロク館で)

 それで、JR貨物に電話して、車掌車の中古車両を販売していないかと問い合わせたところ「それはやっていない」とすげない返事だった。なお、コンテナの中古販売は行っているようで、同社のホームページに営業案内が載っていた。
 しかし、全国各地の公園などには車掌車が展示されているところもあるし(世田谷公園など)、また、宗谷本線勇知駅のように車掌車を駅舎として利用しているところもあって、もうちょっと研究してみたい気はあるのである。

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(写真3=ヨ3500形車掌車を駅舎として再利用した宗谷本線勇知駅。2016年3月28日)
   

 

 

岬と鉄道ぶらり旅

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(写真1 日本海に臨む秋田県男鹿半島の突端入道崎)

 

留萌本線増毛駅

 岬が好きでよく訪ね歩いてきた。日本全図程度の大きなスケールの地図に載っているような岬はほとんど踏破したと思う。
 ともかく、一般人が自由に到達できるという意味で、最北端宗谷岬(北海道)、最南端高那崎(沖縄県波照間島)、最東端納沙布岬(北海道)、最西端西崎(沖縄県与那国島)にはいずれも足跡を残した。
 岬の魅力は寂寥感だろうか。劈頭に立つ爽快感も忘れがたい。断崖から思わず海に飛び込みたくなる誘惑に駆られるが、幸いと言うべきか、これまではそういうことは一度もなかった。
 岬にはずいぶんと鉄道で行った。岬は辺境にあるから、鉄道も隅々まで乗ってきた。
 ある日、(宮脇俊三さんの著作を読んで刺激を受け)ざっと調べたら、全体の7割ほどを乗っていた。これなら全部に乗れるのではないか、そう思い全線踏破を目指した。
 しかし、はじめの7割と残る3割、難易度が違った。虫食いのように残っている路線をつぶしに行く、そのような旅が毎週末続いた。
 例えば、男鹿半島の入道崎には秋田から男鹿線の終点男鹿の一つ手前、羽立駅が入道崎へのバス便の最寄り駅となる。男鹿まで行ったのではバスに連絡しないのである(現在は異なって、男鹿駅発のバスは男鹿線の到着を待って発車する)。
 従って、全線踏破のためには、一駅分だけ残った男鹿線にまた乗りに行かなければならないということになるのであって、それはそれで楽しみではあるのだが、何とも物好きなことに、まるで修行者のように端っこをつぶしに行く旅が続いていたのである。
 その気になってから18年。2003年7月17日、留萌本線増毛駅をもってついに旧国鉄(JR・第三セクター鉄道)全線完乗を達成した。格別の達成感もなかったが、大きな肩の荷を下ろしたような気分だった。
 旅はいつも一人だった。時には妻を誘うこともないわけではなかったが、汽車に乗っているばかりの旅じゃつまらない、と言って敬遠されてきた。
 その妻が、最後の留萌本線だけはつきあってあげる、と自分から言い出した。増毛に向かう列車で車窓から入る薫風が頬に心地よかった。

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(写真2 娘が作ってくれた全線踏破記念の幕を手に増毛駅で=妻が撮影した)

ブログ開設の挨拶

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(写真は北海道恵山岬。大海原を前に両手を広げて余る240度もの眺望だ)

 旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。
 出版社勤務をリタイアし今日も旅枕に夢を見る古希男が勤務時代のブログ「秋葉原日記」、「AKIBAノート」を踏襲しつつ退職を機に新たに個人で起ち上げました。
 秋葉原日記からAKIBAノートへとタイトルは変わりながら通算9年間も毎日(土休日は除く)ブログを執筆してきました。
 それは必ずしも楽なことばかりではなく、退職を機にこの際のんびりしようと考えないわけではありませんでしたが、しかし、ブログの執筆を止めて老け込むのも嫌だったし、「何でも見てやろう」という私のモットーである好奇心が薄れていくことがつまらなくもありました。結局、私は、ある種、「表現者」なのだという自覚を改めて感じたのでした。
 これからも、鉄道に乗り、岬を訪ね、本を読んだりときどきは映画を見たり美術を鑑賞したりして行きたいと考えておりますし、そうした日々の徒然を綴ってまいりますのでどうぞご愛読下さい。また、ご意見等も賜りたくよろしくお願いいたします。