ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

髙村薫『作家的覚書』

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骨太の時評集
 多くは2014年から2016年までの期間に「図書」や読売新聞、京都新聞などに掲載された時評が収録されている。
 相変わらずこの人の時評は、調査を吟味し熟慮を重ねた上で慎重に筆を進めているという印象で、事象に対して直角に切り込んでおり、骨太の時評という内容だ。
 本書以前に毎日から出版されていた『作家的時評集』の時にも感じたが、なぜわざわざ作家的と断らなくてはならないのか、これはもはや小説家が雑文を書き散らしたという程度のものではなく、現代日本を代表する論客の痛切で鋭い時評だ。
 いくつか拾ってみよう。
 「図書」2014年5月号に載せた「絶望のかたち」には、東日本大震災から3年の節目に初めて被災地を訪ねてみたとして、「復興の状況はさまざまだが、肝心の被災者たちは仮設住宅や他県へ移り住んでおり、そこにはいない。そのせいだろう、家族を失い、財産も仕事も将来の見通しも失った人びとの絶望はかたちもなく、あるのはただひたすら巨大な土木工事の喧噪、もしくは人間の暮らしの気配もない海風と原野だけなのだ。それを眺めながら、よそ者の私はふと、数十万の被災者たちの絶望はいま、どこで、どんなかたちをしているのかということを思った」とし、「個人の心身においてさえ、絶望は絶望になりきれないのかもしれない」と結んでいる。
 「図書」2014年11月号「歴史を書き換えられて」では、いわゆる慰安婦問題に関連して、「この不作為と不誠実の根底にあるのは、結局私たち日本人の、歴史への向き合い方のあいまいさであり、真実を希求する国民全体の意思の不在ということなのだと思う」と断じている。
 「図書」2016年8月号の「二〇一六年のヒロシマ」では、オバマ大統領の広島訪問で、市民たちの手に握りしめられた星条旗、人びとの感動の面持ちなどは私にとって不思議に感じられたとして、「一日本人として、大きな違和感とともに「なぜ」と自問せずにはいられなかった。なぜ、あの日広島には怒りの声一つなかったのか。なぜ、誰ひとりとしてアメリカの原爆投下を非難しなかったのか」と問いかけている。また、「戦後七十一年の日本の歩みと現在の立ち位置を考えるとき、アメリカによる原爆投下がまぎれもなく人道への罪であった事実を黙って飲み込むほかないのは、私たち日本人が耐え忍ばなければならない不条理であり、歴史の非常である。だからこそ、なおさら個々人の怒りは燃え続けるほかなく、被爆地も被爆地である限り、その怒りを永久に刻み続けるほかない」として、「核のボタンを持参して平和公園に立ったオバマ氏と、怒りを失った被爆地の姿が、くしくも核兵器に溢れた世界の現実を表している」と結んでいる。
(岩波新書)