ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

釜石から田老へ

f:id:shashosha70:20170702084457j:plain

(写真1 6年目にして初めて住宅が建ちはじめた大槌市街)
6年目の被災地へ(2)
 釜石を後に国道45号線の北上を続けた。鉄道でいえば、山田線の沿線ということになるが、津波被害のもっとも甚大だった地帯でもある。
 壊滅した大槌で、新しい道路が引かれ、区画整理が進んでいた。真新しい住宅がぽつりぽつり建ち始めていた。1年前には見られなかった状況で、6年目にして初めてのことだった。うれしくて何かしら目頭が熱くなりジンとこみ上げてくるものがあった。これで、復興が早いというのか、遅いのというのか、評価の分かれるところではないか。
 おびただしいほどの電柱がきちんと並んで建っていて、それが区画整理地内全域に及んでいて、独特の風景となっていた。この際、無電柱化は考慮しなかったのであろうかとも思われた。

f:id:shashosha70:20170702105515j:plain

(写真2 陸中山田駅前に完成したアパート)
 次に山田。ここも復興の遅れているところだったが、随分と家が建ち始めていた。山田線の帰趨がはっきりし、陸中山田駅で駅舎やホームが完成していた。古い駅は流出しており、土地のかさ上げなどが行われたりして数百メートルほど移動したもののようだった。駅前の再開発が進んでいて、しゃれた街になりそうだった。
 山田線の復旧工事が進んでいて、あちこちで、線路の点検などが行われている様子が見られたし、宮古駅に近い閉伊川橋梁では、流失した橋桁に変わる新しい橋が昨年までに架け替えられ、今年は線路が敷かれレールがきちんとつながっていた。
 田老。6年前に初めて目の当たりにした被災地がここ田老だったのだが、とにかく壊滅した町を見て呆然としたのだった。
 その後も1年に1度は必ず訪れて定点観測を続けてきたのだが、ここの復興は印象深い。まず、度重なる大津波から街をぐるり取り囲むように築かれた高さ10メートルもの防潮堤。万里の長城と呼ばれ、町の自慢だったが、このたびの大震災ではそれすらも破壊されてしまった。
 一部の残った防潮堤にはかさ上げが行われ、今年訪れたらさらに新しい防潮堤が古い防潮堤を護るように海側に建設されていたし、湾口には消波ブロックがうずたかく積み上げられ、二重三重の防潮対策が行われていた。
 防潮堤の内側の街区には対応が二つに分かれたようだ。一つは高台に移転したこと。町全体が見下ろせる高台に新しい街が生まれていた。新築住宅が連なっていて、まるで大都市近郊の新興住宅街のようだった。各地で行われている高台移転としては大規模な方だろう。
 もう一つはかさ上げしてその地にとどまった人たちもいた。おもに商店など事業を営んでいる人たちが多いようだった。かつての町の中心だった場所には野球場が建っていた。

f:id:shashosha70:20170702084633j:plain

(写真3 田老では全壊を免れた防潮堤のかさ上げとその外側にもう1本の防潮堤の建設が進められていた)

 6年目の被災地を訪れて感じたことは、沿道の町々で、再建される姿がやっと見えてきたことだった。ここまで6年かかった。復興とは時間のかかるものものなのだろうが、これは早いと言えるものなのか、やはり遅いと言うべきものなのか。あるいは問題はこの先かもしれない。
 つまり、ここまでは復興計画さえまとまれば土木工事の世界で、時間と金さえ投下すれば何とかなってきた。
 しかし、この先、町を離れていた人たちが果たして帰ってくるものなのかどうか。それには地元に産業があるかどうか、魅力ある町に生まれ変わってるものなのかどうかが肝要だ。
 例えば、盛岡などに避難していた人たちは、もう6年も暮らしていると新しい生計が確立されているだろうし、過疎の進んでいた町に比べれば学校や病院も近くにあるし、都会の魅力を知ってしまっている。
 そういうなかで、復興したとはいえ、積極的にふるさとに帰られるものなのかどうか、私にはいささか心配だ。
 それでも、三陸は断然風光明媚だし、魚はおいしいし、人情は細やかだろうし、よそ者が簡単に言えることではないが、元気に復活した三陸の姿を是非みたいものだ。(つづく)