ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

映画『ミナリ』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

韓国系アメリカ映画

 韓国人の移民家族が、カリフォルニアから新天地を求めて南部のアーカンソー州に越してくる。家族は、夫のジェイコブ、妻のモ二カ、娘アン、息子デビッドの4人。時代は、テレビニュースにレーガン大統領と出ていたから80年代か。
 ジェイコブは、大農場を夢見て50エーカーもの広大な土地を購入した。アーカンソーに着くと、土地は荒地であり、住む家もトレーラーハウスとあって、モ二カは将来に不安になり、話が違うといってジェイコブと言い合いになる。
 そんな折、一家はモ二カの母親スンジャを呼び寄せる。一家は英語を話せるのだが、お祖母ちゃんはまったく話せない。
 一家の仕事は農業用の井戸を掘るところから始まる。飲料や生活用水だけは水道が引かれているが。ジェイコブは韓国野菜を作って韓国人マーケットに売り込もうと構想していた。カリフォルニアよりも近いのだから新鮮な野菜は売れるはずだというわけである。
 面白いのはお祖母ちゃんの存在。子どもたちに花札などを教えている。デビットと出かけて沢を見つけ、そのほとりにミナリを植える。祖国から苗を持参していた。ミナリとは韓国語でセリのこと。セリは年2回収穫できるので、おいしいし経済的助けにもなるはずだということである。このミナリがなぜ映画のタイトルになったのか、その理由は最後の場面で納得できる。
 移民の苦難が描かれ、家族の絆が訴えられる。アメリカ人の好む開拓物語である。ストーリーに新鮮さはないが、アメリカで生きていくすべてが描かれている。
 映画は、英語と韓国語がちゃんぽんになっている。それもどちらかと言えば韓国語の方が多かったか。それで強いていえば、これは韓国系アメリカ映画と言えるものなのであろうか。
 監督は韓国系アメリカ人のリー・アイザック・チョン。

宮古から田老そして島越へ

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(写真1 防潮堤の上から見た田老の街)

大震災から10年目の被災地へ③

 宮古では1泊し、翌日さらに三陸鉄道(三鉄)を北上し、田老から島越へと向かった。前日の雨はやまず、かえって風雨は強まっている。しかも寒い。

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(参考1 被災した工場には〝全員無事です〟と消息が書かれていた=2011年)

 宮古には震災直後から毎年訪れていて、印象に残っていることもある。被災状況を調べていたところ、初めて訪れたときのこと、魚市場にほど近い岸壁沿いの鉄工場には、トタン張りの工場建屋の壁面に〝全員無事です〟とカラースプレーで消息が書かれていた。これは大変心強いこと。このときは会うことはできなかったが、翌年訪ねて社長に話を伺ったところ、地震の強さから津波の襲来をすぐさま予測し、従業員を向かいの高台に避難させたということだった。もっとも、社長自身は、逃げ遅れたものはいないかなどと点検しているうちに自分自身が逃げ遅れ、2階の天井にしがみついて九死に一生を得たということだった。津波は、とっさの判断が生死を分ける。

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(写真2 1年前に開業したばかりの「新田老駅」)

 宮古からはまず田老に向かった。田老の一つ先の駅新田老下車。2020年5月20日に開業したばかりの新駅。田老駅は町外れだったが、新田老駅は街の中心にあり、役場なども近い。3階建てで、建物自体は宮古市田老総合事務所となっており、田老保健センターや宮古商工会議所田老支所、宮古信用金庫田老支店が入っており、新田老駅は3階になっている。
 防潮堤に登った。そもそも田老の防潮堤は、度重なる津波から街を守ろうと築かれていたもので、高さ10メートル、延長2.4キロに及び、その偉容は〝万里の長城〟とよばれて町民の自慢だった。
 しかし、このたびの津波では、その防潮堤も乗り越え街を襲来し壊滅させた。復興にあたって田老は、防潮堤については破壊された部分の修復のほかは、1メートルほど高くした程度とし、住民は高台移転させた。従来の市街地は商業地とし、住宅の建設は制限している。

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(参考2  防潮堤から見た被災直後の田老=2011年)

 この防潮堤には毎年のように登ってきており、ほぼ同じ位置から写真を撮ってきているのだが、防潮堤内に住宅建設の制限があるせいか、10年経っても歴然とした変化は見られない。この部分の利用拡大が新しい田老の活性化には重要だと思われた。

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(写真3 高台に移転した住宅地の様子)

 大きく変わったのは町外れの高台に建設された住宅地。見事な住宅地に生まれ変わっており、大都市圏の新興住宅地と見まごうばかりだ。保育所や診療所、駐在所などもあって新しい生活に不自由はないように思えた。

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(参考3 被災間もないのに復興支援列車が走っていた)

 初めて田老を訪れたときには、震災から間もないにもかかわらず、〝復興支援列車〟が運行されていた。三鉄の時速な対応は、どれほど復興を力づけてきたものか。

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(写真4 新田老駅に置かれているノート)

 新田老駅には、待合室にノートが置かれていて、訪問者が自由に書き込めるようになっている。2021年3月11日の日付には、関西から来たという人や遠く高知から来たという人もいた。また、この中には、「今日はお父さんの墓参りに来ました。そして息子の誕生日です」と書かれたものがあった。現在はどこに住んでいるものか、書かれてはいなかったが、鎮魂が伝わってくる。
 新田老から再び三鉄で北へ向かい島越へ。ここはもう岩手県の三陸海岸の中では北部にあたる。途中、いくつものトンネルを抜けてきたが、ここ島越は、トンネルとトンネルの間に開けた狭い空間だが、この狭いところを津波は駆け上がって駅も集落も壊滅させた。

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(写真5 島越駅外観)

 島越駅にはカルボナーラという愛称がついていて、駅舎もかつてのものはとんがり屋根のかわいらしいものだった。現在の駅舎は煉瓦壁の堂々たるもので、内部には、簡単な飲食もできる休憩室などもあり、待合室には吉村昭文庫もあって、吉村作品が常備されている。

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(写真6 クウェートからの支援に感謝するプレート)

 玄関にはプレートがはめ込まれていて、「クウェート国からのご支援に感謝します」とアラビア語、英語、日本語で書かれている。クウェートは東日本大震災にあたって多額の義援金を出していて、三鉄の復旧に多大な貢献を成してきた。プレートは三鉄の車両にもはめ込まれている。

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(写真7 島越駅周辺の復興工事はあまり進んでいるようには見えなかった)

 駅前の住宅は、高台に移転して何もないし、海側もいまだ工事中のようであまり進んでいるようには見受けられなかった。

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(参考4 被災直後の島越駅周辺)

 気仙沼から陸前高田、大船渡、釜石、宮古、田老と鉄道の距離にして169.3キロ、大船渡線から三陸鉄道へ、大震災から10年目の被災地を駆け巡ったが、現地は、道路が整備され、橋が架けられ、区画が整理されて復興は、工事としてはほぼできあがっていた。これからは建物がどれだけ築かれていくかどうかというところだが、ここまでの進捗は10年としては早かったのかどうか。
 そのことを評価するには、住民が戻ってきているのかどうか、そのことも見極めなければならない。しかし、人々が戻ってくるには被災地に魅力ある産業が立ち上がっているかどうかということが大きいわけで、結局、総合的には10年は遅すぎたと言えるのではないか。つまり、10年もかかったことによって、よそに避難していた人たちはその地で新しい生活を築いてしまっているわけで、よほどの魅力がないと、いかに生まれ故郷といえども戻るという動機にはならないのではないかと残念ながら思われる。

陸前高田から大船渡そして宮古へ

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(写真1 大船渡線BRTと三陸鉄道が接続する盛駅)

大震災から10年目の被災地へ②

 陸前高田からは再び大船渡線BRTで大船渡へ向かった。雨は強まるこそすれ弱まる気配はまったくない。車窓から写真を撮ろうにも曇ってうまくいかない。

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(写真2 風光明媚な海岸も曇ってよく見えない)

 大船渡線は、大船渡やがて盛が終点。ここでも途中下車した。大船渡が近づくと、大船渡湾沿いに走る。BRTとは言え、8つも駅があり、湾の深いことがわかる。鉄道時代でも4駅だった。天然の良港である。もっとも、このリアス式海岸が津波被害を大きくしたのだけれども。魚市場が操業している。三陸沿岸は漁場に恵まれていて水産業が盛んであり、どの町でも魚市場の復旧が最も早かった。
 やがて盛到着。大船渡線の終着である。BRTはここまで。ここから先は三陸鉄道となる。沿線自治体は、鉄道の復旧に際し、JRの提案するBRTにするか、あくまでも鉄路での復旧を目指すか、それぞれに判断が分かれた。
 BRTならば復旧が早いし、運行経費も少なくて済む。元来、利用者が少なく赤字路線となっていて、廃線も取り沙汰されていた。それで、大船渡線や気仙沼線沿線はBRTを選んだ。
 これに対し、山田線の沿岸部宮古-釜石間の沿線自治体はBRT化を主張するJRに対しあくまでも鉄路での復旧を粘り強く求め、この結果、JRは復旧させた上で三陸鉄道(三鉄)に譲渡し運行を委ねることで妥協した。
 三鉄は、旧山田線部分を間に挟んで南リアス線(盛-釜石間)と北リアス線(宮古-久慈間)を含め1本の路線リアス線として一体運行することとしたのだった。これによって三鉄リアス線は南は盛から北は久慈まで営業距離は全長163.0キロに達し、第三セキターとしてはわが国最長の路線を運行する鉄道会社となった。東日本大震災からの復興は鉄路によって成し遂げようという沿線自治体と三鉄の固い絆によって進められることとなったのである。

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(写真3 新しい街に生まれ変わってきた大船渡市街中心部)

 大船渡市街を巡ると、大船渡駅周辺は銀行やホテル、商店が建ち並び新しい町へと生まれ変わっていた。かさ上げもされたが、陸前高田ほどの大規模なものではない。街は高さ10メートルほどか、高い防潮堤によって守られていた。

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(写真4 大船渡の市街を守る防潮堤)

 街の中心にはビルが1棟残っていた。旧商工会議所の建物のようで、遺構として残してあるもののようだ。見ると、3階建てのうち2階までは完全に津波によって破壊されているのに、3階部分にはガラス窓が残っていた。わずか1メートルほどの差によって被害がくっきりと分かれるのは、津波の怖さであり残酷さである。

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(写真5 遺構なっていたいた旧商工会議所ビル)

 さて、盛駅は、駅自体は高台にあったから津波被害を免れたのだが、前後を含め周辺の各駅で津波に遭わなかったのはこの盛駅だけである。運命は微妙である。

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(参考1 津波によって破壊された線路=2011年)

 震災直後に訪れたときには、線路は破壊されて見るも無惨な状態だった。
 盛からは三鉄。BRTから乗り継ぐと、なぜかほっとする。やはり鉄道はいいと実感する。
 旧南リアス線だった区間は沿岸部が多いから津波被害も各所で遭遇した。それも新しい路線、駅に生まれ変わって真新しい。そうこうして釜石。ここも駅自体は津波被害を免れた。釜石線との接続駅である。

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(写真6 釜石駅で発車を待つ三鉄列車)

 釜石からは旧山田線だった区間。津波に徹頭徹尾やられた路線で、ラグビーワールドカップの会場となった鵜住居や大槌、陸中山田などと続く。残念ながら街の様子は雨で曇っていてつぶさには見えない。この間、岩手船越は本州最東端の駅である。ここは津波被害を免れた数少ない駅の一つである。
 やがて閉伊川を渡ると宮古。この閉伊川を渡る鉄橋も津波で破壊された。

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参考2 津波で落ちた山田線閉伊川鉄橋=2011年)

大震災から10年目の被災地へ①

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(写真1 復興で生まれ変わった陸前高田の新市街)

岩手県沿岸部を北上

 2011年3月11日に発生した東日本大震災からちょうど10年目。昨年こそコロナの影響で来られなかったが、震災直後から私は毎年欠かさず被災地を訪れてきた。今年もコロナは収まってはいないが、10年目のことだし、復興はどのように進んでいるのか気になって、3月13日から15日まで無理をして出かけてきた。
 現地へは鉄道で入った。例年はレンタカーでつぶさに巡っていたが、今年はすべて鉄道を利用した。車窓から眺めただけのこと、何ほどのこともないのだが、できるだけ途中下車を繰り返して不足を補った。
 東北新幹線を一関で大船渡線に乗り換え。北上山地の南端を横断する路線で、初め、一関-気仙沼間62.0キロは山間部を走るので震災の影響は少なかったが、気仙沼から先、盛間43.7キロは沿岸部のため甚大な被害となった。
 気仙沼駅そのものは高台にあるため津波被害は免れた。このため、一関-気仙沼間は一般の鉄道が走っているが、気仙沼-盛間はBRT(バス高速輸送システム)による運行である。

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(写真2 気仙沼駅で発車を待つ盛行きBRTバス)

 気仙沼駅の構造は合理的で、列車からバスへ平面で乗り換えができる。気仙沼で降りてしまった客が多かったようで、2両のディーゼルカーで来たのにバスに乗り継いだ客は半分にも満たなかった。なお、この日は翌日も含めてあいにくの雨で、雨風が強く、晴れ男も勝てないほどの台風並みの低気圧だった。

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(参考1 鹿折唐桑駅前に打ち上げられた貨物船=2011年)

 気仙沼を出るとすぐに海岸沿いとなった。鹿折唐桑はきれいに整備されていた。震災直後には、この駅前に数百トンもの大型貨物船が打ち上げられていたものだった。駅前は海岸から500メートルも離れているというのに。
 鹿折唐桑を出るといったん山間部へと入りやがて陸前高田。大きな市街で、ほぼ壊滅する被害に見舞われたが、復興工事は随分と進んでいた。

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(参考2 かさ上げのための土を運ぶ壮大なコンベアが活躍した)

  ここの復興工事は極めて特徴的で、広大な旧市街地で軒並み土地のかさ上げを行った。このため、町外れの山を一つ切り崩し、かさ上げのための土を壮大に張り巡られたベルトコンベアで数キロにも渡って運んだ。
 新しい市街地の中心では、かさ上げは14メートルにも及んだということで、町の中心に立つと、ここがかさ上げされた場所だとは気がつかない。それほど広大なのである。

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(写真3 BRTの陸前高田駅)

 中心には、BRTの陸前高田駅や商店が次々と建ってきていた。また、周辺には文化会館なども建設され、次第に都市の骨格が姿を見せ始めていた。市役所も3月中には完成するということである。
 かさ上げされた土地の縁に立つと、かつての地面は谷底のようにも見えて、かさ上げされた土地の高さが実感できるようだった。

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(写真4 遺構となっているかつての商業ビルはかさ上げされた土地とちょうど同じ高さだった)

そこには鉄骨のビルが1棟だけ残っていて、その高さはちょうどかさあげの高さと並んで見えた。このビルは、個人の所有になる商店のようで、どうやら所有者は遺構として残すつもりなのだろう。

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(写真5 東日本大震災津波伝承館の展示の様子)

 また、海岸は津波復興祈念公園として整備されていて、〝奇跡の一本松〟がその象徴のようになっていたし、東日本大震災津波伝承館が完成していて、多くの参観者が訪れていた。

 陸前高田は、海に面して扇状地のように開けてところで、それだけに津波被害は広大なものとなった。市街地は壊滅した。この復興にあたって、街全体の土地をかさ上げしようとしたので随分と時間がかかった。津波被害に遭った沿岸の町々ではどこもかさ上げを行ったが、ここほど大規模になったところはない。
 しかし、土地のかさ上げが一定程度済むと、町の整備は一気に進んだ。道路やインフラの建設と区画整理がほぼ終了した様子で、駅や病院、学校などが建設され、新しい町が見えてきた。

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(参考3 奇跡の一本松=2011年) 

映画『私は確信する』

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(写真1 映画館に掲示されてあったポスターから引用)

サスペンスな裁判劇

 主婦スザンヌ・ヴィキエが忽然と失踪した。夫と三人の子どもは残したままだった。遺体は発見されなかったし、決め手となる証拠も発見されなかったのだが、周囲の証言だけを元に夫ジャックに殺人容疑がかけられ拘留された。
 後に〝ヴィキエ事件〟としてフランス全土にセンセーショナルに報道された事件はこうして始まった。
 ジャックはその後釈放され、スザンヌ失踪は未解決事件となっていたが、7年後、ジャックは殺人容疑で告訴される。第一審では新たな証拠もなかったし、動機にも明確なものはなかったところから無罪となった。ところが、検察は控訴に踏み切り第二審が始まった。事件発生から10年が経っていた。
 映画は、実際に起こった事件の顛末を丁寧に追い、真相を追究していく。
 重要な役割を演じているのはノラという女性。レストランで働くシングルマザーで、息子の家庭教師をしているのがジャックの娘。
 ノラは、ジャックの無罪を確信していて、仕事が危うくなるほどにあちこち駆けずり回ってヴィキエ事件を追求していく。
 ノラが頼みとするところは、弁護士のモレッティ。敏腕弁護士で、初め一顧だにしていなかったが、ノラの執拗な頼みで弁護に動く。
 ここで、重要な手がかりとなるかもしれないと思われたのが250時間もの事件関係者の通話記録。数十枚にも及ぶCDがあり、モレッティはノラにCDの文字おこしを依頼する。
 ノラはそれこそ寝食を忘れてCDに取り組む。CDを聴いていくうちにノラは様々な矛盾に気がついていく。
 ノラが発見した新事実を、モレッティが法廷で明るみに出していく。膨大な証人が登場するのだが、それが突き詰めていくと途端にあやふやになり、証言がひっくり返ることもしばしば。当初、刺殺とされていた殺害方法を絞殺だと主張する証人まで現れたのである。
 仮説のオンパレードばかりで、物的証拠もないまま証言だけで組み立てた犯罪の危うさ。自供すらなかった。
 マスコミが過熱するあまり、完全犯罪とか、情痴殺人とか受けを狙った報道に世間は流されていく。
 フランスの法律がどうなっているのかわからないが、〝推定無罪〟の原則すらここではあやふやに見えた。
 フランス語がわからなくてわかりにくい映画だった。延々と続く録音テープ。大部分を占める法廷の場面。フランス語がわからなくては微妙な瑕疵にも気がつかないまま。英語も苦手だが、英語ならまだしも少しは理解できたかもしれない。
 圧巻は、モレッティが法廷で延々と演説する最終弁論。中身はわからなくても、判決は無罪になるだろうと思わせるほどの迫力だったし、これとて私には、パヴァロッティのテノールのように聞こえてしまったのだった。髭面で何やら風貌も似ていたし。

津軽線三厩駅

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シリーズ 行き止まりの終着駅

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(写真1 津軽半島最北端津軽線三厩駅=2017年9月4日)

色濃く漂う最果ての旅情

 太宰治も『津軽』で「この先に道はない。だぼんと海に落ちるだけだ」と書いていたように、龍飛への道は一本道で、龍飛へ行こうとすると鉄道はどうしても三厩で降りなければならない。
 津軽線は、青森と三厩を結ぶ路線。私はこれまでに6度龍飛崎を訪ねたが、そのいずれもが三厩から向かった。青森-三厩間55.8キロ、駅数18。
 青森を出ると、列車はしばらく陸奥湾を右窓に見ながら津軽半島を北上していく。途中の蟹田で陸奥湾から離れていくのだが、この蟹田はやはり『津軽』で太宰が「蟹田ってのは風の町だね」と書いたところ。龍飛の手前ですでに風が強いのである。
 次の中小国がJR東日本とJR北海道の境界駅で、さらに進んだ津軽二股は北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅と連絡している。この奥津軽いまべつ駅は本州にあるのにれっきとしたJR北海道の駅である。、私は非常なる興味があってかつてわざわざここで北海道新幹線から津軽線に乗り換えたことがある。やがて津軽浜名に至って再び海に面する。すでに津軽海峡である。

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(写真2 三厩駅ホーム。駅名標に〝みんまや〟=1992年12月20日)

 そうこうして終点三厩。青森から直通する列車は日に1本しかないが、約1時間30分。現在は〝みんまや〟と読んでいるが、初めて降り立ったころは〝みうまや〟と読ませていた。

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(写真3 1989年6月17日の三厩駅ホーム。駅名標には〝みうまや〟)

 津軽半島最北端の駅であり、ここまで来るとさすがに最果ての旅情が色濃く漂っている。1面2線のホームがあり、駅舎は何度か通っているうちに新しくなった。

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(写真4 1989年6月17日の三厩駅外観)

 駅前の広場からは、龍飛崎へのバスが出ている。外ヶ浜町営で、三厩から龍飛漁港まで約30分。

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(参考 龍飛埼灯台=2017年9月4日)

越美北線九頭竜湖駅

シリーズ 行き止まりの終着駅

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(写真1 越美北線の終点九頭竜湖駅=1993年6月27日)

越美国境越えられず

 鉄道の路線名は、鉄道の成り立ちを背景に決められる場合が多い。釜石線や長崎本線などのように終点の駅名を取ることも多いし、起点終点の旧国名や駅名を組み合わせる場合も少なくない。予讃線は伊予と讃岐を結ぶからだし、米坂線は米沢と坂町が起終点の駅名。
 しかし、当初の建設計画が頓挫したりして路線名だけが残ってしまったような場合もある。名松線は、そもそもは松阪と名張の間を結ぶ計画だったのでこの路線名がつけられたのだが、種々理由があって伊勢奥津で打ち切られたが、しかし、路線名はそのままに今日に至っている。
 北線、南線と名のついている路線はちょっとややこしい。越美北線は福井県内(旧越前国)だけを走っているのになぜ越美なのか。
 この路線は、そもそもは福井(旧越前国)と岐阜県の美濃加茂(旧美濃国)の間を結ぶ計画だった。それで越美線である。福井側、岐阜側双方から工事が始められたのだが、途中で、越美国境を越せずに中断しそのままになってしまった。岐阜側は、越美南線として美濃加茂-北濃間が開業、福井側も福井-九頭竜湖間が越美北線として開業した。当初は、この北濃-九頭竜湖間には連絡バスが走っていて、越美線全線での運転に執着を示していたそうである。その後、越美南線のほうは第三セクターの長良川鉄道に移管されてしまった。
 さて、越美北線のこと。線区上は、越前花堂-九頭竜湖間だが、すべての列車は福井発着である。全長52.5キロ、駅数22。全線を通して運転される列車は4本のみで、残りは越前大野止まりが5本、あるいは越前大野-九頭竜湖の区間運転が1本となっている。
 福井から乗ってくると、越前大野で乗客はごっそりと降りた。越前大野は沿線中随一の都市である。越前の小京都と呼ばれる美しい町。ここでそばを食べたことがあるが、おろしそばは口がひん曲がるかと思われるほどに辛かった。長いトンネルを抜けると終点の九頭竜湖だった。

 

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(写真2 九頭竜湖駅ホーム)

 九頭竜湖駅は、片側1線のホームに、ログハウス風のしゃれた駅舎。地元の観光物産館も兼ねていた。実は、この駅に降り立つのは1993年と2015年の2度あって、20数年も置いて印象がまったく変わっていなかったことに驚いた記憶がある。
 そして、この駅では、帰途の昼食用にと思い、特産のマイタケ弁当を買ったのだった。2度目の際にも、それがとてもうまかったからだが、あの弁当は今でも売っているものかどうかと九頭竜湖に着く前から期待して行ったらなんとまったく同じ弁当が売られていたことにはとてもうれしかったものだった。

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(写真3 2015年3月19日当時の九頭竜湖駅)

 九頭竜湖駅からは九頭竜湖までは約6キロ。初めて降り立った際には湖まで自転車を借りて訪れてみたのだった。なお、九頭竜湖は、九頭竜川のダム建設によって生じたダム湖(人造湖)である。

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(参考 九頭竜湖の様子=1993年6月27日)