ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

男鹿線男鹿駅

シリーズ 行き止まりの終着駅

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(写真1 初めて降り立った1995年の男鹿駅)

入道埼への最寄り駅

 私はそもそも岬が好きで、全国の岬・灯台をこつこつと訪ね歩いてきた。
 そんな折、宮脇俊三さんの名著『時刻表2万キロ』を読んで、全国の鉄道を踏破するなどということをやってのけた人がいるということを知った。そんな途方もないことができるのかとも思った。2万キロとは、当時の国鉄全線の営業キロ数である。
 岬は端っこにあるから、私も随分と鉄道は乗っているはずと思い、どれほど乗っているものか試しに調べてみた。そうすると、約7割にも及んでいた。これは随分と多い。これなら、私にも全線踏破が可能かと思い、岬へ行くときには、できるだけ乗ったことのない鉄道も乗るようにしてきた。しかし、このことは宮脇さんも指摘していたことだが、初めの7割と残りの3割とは難易度がまるで違った。
 例えば、男鹿線。男鹿線は奥羽本線の追分と男鹿を結ぶ全長26.6キロの短い路線だが(すべての列車は秋田発着)、男鹿半島の突端入道崎を訪ねるためには、バス便との連絡上、男鹿の一つ手前の羽立で乗り継ぐ必要がある。男鹿まで行ったのではバスに連絡できないのである。そもそも岬を訪ねるのが目的だったから、これで何の痛痒も感じていなかったのである。とにかく列車本数、バスの本数が少なくて連絡に自由度が少ないのである。これは岬巡りの宿命みたいなもの。
 ところが、全線を踏破しようとすると、残った一駅羽立-男鹿間のわずか2.9キロを改めて乗りに行かなければならない。このように虫食いのように残った全国の線区を改めて乗りに行くこととなった。
 結局、今にして思えば、岬なら岬、鉄道なら鉄道だけに絞って旅を続けていたなら、もう少し深い旅ができたのかもしれない。
 そのことはともかく男鹿駅。私が初めて入道崎を訪れたのは1990年(平成2年)1月14日だが、このときには羽立からバスに乗り継いだから、男鹿駅に寄ることはなく、結局、男鹿駅に初めて降り立ったのは1995年9月15日だった。初めての入道崎訪問から4年半が過ぎていた。また、このときには男鹿駅に着いたというだけで、結局、入道崎には行かなかった。男鹿まで来ていながら入道崎に寄らないとは、岬好きにあるまじきことだった。

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(写真2 1995年当時の男鹿駅ホーム)

 当時の男鹿駅は1面2線のホームだった。平屋建ての駅舎があるだけで、降り立つ人も少なく、駅前はがらんとしていた。昼食時だし、寿司を食べようとしたが、駅周辺には適当な店が見当たらなかった。
 次に、男鹿駅および入道崎を訪ねたのは2015年(平成27年)7月2日で、このときには男鹿駅と入道埼を同時に訪ねることができた。男鹿駅で入道崎行きのバスに連絡できるようになったのである。随分と改善してくれた。

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(写真3 2015年に降り立った当時の男鹿駅)

 このときは、秋田12時12分発男鹿行き列車に乗車。男鹿13時06分着。入道崎行きのバスは13時09分発。きわどい乗り継ぎ。事実、乗り遅れた人もいて発車したばかりのバスに駆け寄ってくる人もいた。
 途中寄った羽立駅前では同じ列車で来た人が乗り込んできた。バスを確実につかまえるためにはこれが賢明である。ただし、この人は岬好きではあっても鉄道ファンではないのかもしれない。鉄道ファンなら、終着駅には降り立ちたいもの。ちなみに、帰途は、男鹿まで行ってしまったのでは連絡列車に間に合わず、羽立でなければ接続できないのである。

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(写真4 2015年当時の羽立駅。初めて入道埼を目指した1990年当時はひなびた木造駅舎だった)

 岬と終着駅。この二つの両立はなかなか難しい。スケジュール上も、岬だけを念頭に置くと、終着駅についてはおろそかになる。駆け足になって終着駅の魅力を損ないかねない。しかし、岬も鉄道もとても魅力のあるもの。なんとか折り合いをつけたいものである。

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(参考 ぴったり北緯40度線上にある入道埼灯台。左が北緯40度線記念碑)

アンソニー・ホロヴィッツ『その裁きは死』

 

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本格ミステリーの傑作

 『メインテーマは殺人』に続いて探偵ホーソーンシリーズの第2弾である。本作も事件は難解で、第一級の傑作ミステリーである。
 主人公は元刑事のダニエル・ホーソーン。ロンドン警視庁の顧問として難事件の捜査に当たっている。ホーソーンの助手であり記録係はアンソニー・ホロヴィッツ。本作の著者自身である。
 事件名は、事件が発生した場所から名づけて〝ハムステッドの殺人〟。著名な離婚弁護士リチャード・プライスが自宅で殺害された。未開栓のワインボトルで頭を殴打された上、砕けてギザギザになったボトルを喉に突き立てられていた。
 すぐに容疑者にあがったのはアキラ・アンノという女性作家。プライスに1千万ポンドにも上る巨額財産をめぐる夫とのの離婚訴訟を依頼していたのだが、元妻のアンノにとって極めて不満な結果となっていた。それで、アンノは、レストランでプライスの顔にワインをぶちまけ、ワインのボトルでぶん殴ってやると脅かしていた。そのことは大勢の人間がその言葉を聞いている。アンノに明確なアリバイはなかった。ただ、犯行現場には壁に緑色のペンキで182という数字が書かれていた。ちょうどリフォームに用いられている塗料だった。
 捜査に当たっているのは、ロンドン警視庁のカーラ・グランショー警部とダレン・ミルズ巡査。グランショーはいかにも横柄な態度の意地悪な大女。
 プライス邸には、当夜訪ねた者がいることは近所の住人の証言で明らかになっていた。犯人を迎え入れているところから、知っている相手だったと思われる。飲み物も勧めていて、テーブルには2本のコーラの缶が載っていた。プライスは酒は飲まない。
 なお、凶器となったワインは2千ポンドもする高級なもの。アンノの夫エイドリアン・ロックウッドからのものだった。離婚調停のお礼だったのであろう。
 調べていくうちに、次々と新たな事実が浮かび上がってくる。そして、それらがすべて読者の前に開陳されている。あまりにも材料が多くて読者はかえって推理が難しくなってくる。よほど頭脳明敏でないと、どれが重要な手がかりで、どれが脇道にそれていく材料か記憶にもできない。二度三度と読み返せば、伏線が張られていたと気づくだろうが、何気なく捨てられていたヒントに留意することは難しい。
 私はミステリーが好きで、たくさんの小説を読んできた。本格もの、探偵もの、警察もの等々と。
 それで、随分と勘は良くなってきたつもり。筋が読めることもあるし、犯人がわかることもある。
 しかし、勘が良くても推理ができるとは限らない。私は情緒に流されやすいのであろう。これでは探偵になれないなと思っている。刑事にはもっと向かないであろうし。
 とくにホロヴィッツのミステリーは複雑で、名探偵ホーソーンならずとも一直線には推理は進まない。
 ただ、私は勘はいいようで、本書でも早いうちにおやっと思うことがあった。このことが頭の片隅に引っかかったまま読み進んだ。しかし、それはいかにも突拍子もないもので、動機も犯行の道筋もわからなかったから、最後になるまで手がかりとは確信できないでいたのだった。
 本書では、最後の、本当に最後の場面で犯行が明かされた。わかってみれば、何のことはない、それとは気がつかないくらい小さな伏線が張られていたのである。このことは、私の推理勘がいいのかどうか、本書の表現にそれと臭わせるところがあったものかどうか、ミステリーファン、とりわけホロヴィッツ好きにとっては悩むところではある。
 本書でもたびたび登場する『刑事フォイル』がいかにもイギリス伝統のドラマで好ましいものだったから脚本を書いたホロヴィッツの名は古くから知っていたし、傑作『カササギ殺人事件』があって、ホーソーンシリーズも2作目に入って、いよいよホロヴィッツに挑戦しようという気概がわいてきているのである。訳山田蘭。
(創元推理文庫)

静岡県立美術館

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(写真1 ロダン<カレーの市民>の展示)

素晴らしいロダンのコレクション

 美術が好きで、美術館にはしばしば足を運ぶ。旅行などで地方へ出かけたときには、その地の美術館を見学する。時間が許す限り駆け足でめぐることもあれば、あらかじめ美術館を旅程に組み込むことも少なくない。だから、県美の大半はこれまでに見てきているのではないか。美術館にはそこでしか見られない作品があり、チャンスは貴重だと考えている。
 しかし、静岡県立美術館にはこれまで一度も来たことがなかった。それはなぜかというほどに機会がなかった。静岡にはたびたびやって来ていたのに。

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(写真2 静岡鉄道県立美術館前駅ホームにはロダン<考える人>が)

 静岡県美への最寄り駅は静岡鉄道の県立美術館前駅。新静岡と新清水を結ぶローカル私鉄。新静岡と新清水のちょうど中間くらい。ここから徒歩15分くらい。バス便もあるが本数は多くない。

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(写真3 県立美術館前駅から美術館へと続く美しいケヤキの並木道)

 しかし、ここは是非歩いたほうが良い。美術館へのアプローチはすでにここから始まっているのである。駅前から緩い坂道になっていて、登り坂だが、美しいケヤキ並木が続いている。両側には住宅やしゃれたカフェ、ブティックなどが点在していて、歩くのが楽しくなる。

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(写真4 舟越保武<杏>)

 10分も歩かないうちに県美の敷地に入る。ここからのプロムナードがじつにいい。この日は冬だったから残念だったが、カンツバキ、ヒメシャラ、ヤマモモ、キンモクセイ、ドウダンツツジ、モクレン、イチヨウザクラ,サルスベリなどと季節の花が植えられている。さぞかし美しいのだろうと思われた。

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(写真5 佐藤忠良<みどり>)

 このプロムナードには、樹木の間に彫刻が置かれている。舟越保武<杏>、佐藤忠良<みどり>などとある。舟越の<杏>は先日、サトヱ記念美術館で見たばかりだった。また、戦後日本を代表する彫刻家である舟越と佐藤は美校(後の芸大)で同期であり、親友だった。ほかにも内外の一流彫刻家の作品13体も展示してあった。この屋外彫刻を見るだけでもこの美術館を訪れた価値があるというほどだった。

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(写真6 ロダンの作品が32体も収蔵してあるロダン館の展示)

 この美術館の自慢はオーギュスト・ロダンのコレクションであろう。本館とは別にロダン館が設けられており、何と32体もの作品が展示してある。これほどのロダン作品は、パリのフランス国立ロダン美術館を除けば世界屈指のものであろう。ロダン美術館とは友好関係にあるということである。
 吹き抜けになったガラス天井の明るく広い展示室には、ロダン作品がびっしりと配置されている。

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(写真7 ロダン<カレーの市民>のうちジャン・デール)

 世界的にも知られた作品が多くて枚挙にいとまがないが、圧巻は<カレーの市民>。英仏戦争カレー包囲戦におけるカレー市民6人の英雄を描いた作品。上野の国立西洋美術館にもあるが、西洋美の作品は6人がひとかたまりになって台座の上に立っているが、県美の作品は、1体ずつがバラバラに大きな円を描くように立っている。しかも、6体のうち1体ユスターシュ・ド・サン=ピエールだけはちょっと離れてあった。
 いずれにしても、もともとエディション数の少ない作品であってみれば大変貴重なものだし、しかも、目の高さで見られるというのも他の美術館にはないありがたさがある。

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(写真8 ロダン<考える人>=これは大サイズ)

 ほかにも<地獄の門>があったし、<考える人>に至っては3種類あるサイズすべてがそろっているというのも大変貴重なもので、展示してあった大サイズはさすがに迫力があった。
 なお、この日は企画展としてムーミン展が開催されていて、コレクションの展示はほとんどなかった。このため、伊藤若冲<樹花鳥獣図屏風>や横山大観<群青富士>なども残念ながら見られなかった。

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(写真9 静岡県立美術館外観)

三保の松原の清水灯台

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(写真1 地元では三保灯台と呼ばれている清水灯台の美しい姿)

八角形の美しい灯台

 通称三保灯台と呼ばれる清水灯台は、三保半島の東端に位置する。一帯は、世界遺産三保の松原で知られる景勝地であり、灯台は松林の中にたたずんでいる。
 清水灯台へは、東海道本線の清水駅からバスが出ている。静鉄ジャストライン三保山の手線で約30分、終点東海大学三保水族館下車。
 三保半島は、清水港を囲むように、まるで釣り鉤のような形をして左回りに大きく湾曲している。かつては半島の先まで清水駅から国鉄清水港線という鉄道路線が出ていた。もっとも、廃線直前には1日1往復という希有なダイヤで、このため〝国宝級〟と揶揄されていた。清水港線の終点三保駅で下車すると、駅前は造船所だった。

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(写真2 三保の松原から見た海の向こうに富士山)

 停留所からすぐに海岸に出て、海沿いの道を右手に進む。松林が続き、遊歩道・自転車道になっている。左が海で、海の向こうに富士山がくっきりと見える。この日は快晴だったが、それにしてもこれほど美しい富士山を見ることはまれ。感嘆するほどの美しい姿だ。
 しかし、ちょっと待てよ、清水に来て富士山が海の向こうに見えるのはおかしくないか。地図が頭にないとちょっとまごつく。つまり、半島は大きく湾曲しているために清水の市街は対岸に見えるのである。
 海辺では釣りをしている人の姿が多い。隣同士が接近していて、糸が絡まるのではないかと心配になるほどだ。
 この日は冬だったからそれほどでもなかったが、これが夏だったならばこのあたりは白砂青松ではないか。
 途中に、海岸に飛行場の滑走路が見えた。三保飛行場というのだそうで、赤十字の飛行訓練のためのものだということである。付近には、「甲飛豫科練之像」という予科練生徒を描いた銅像が建っていたから、戦時中には予科練の飛行場だったのであろう。

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(写真3 松林の中にたたずむ灯台)

 20分ほど歩いたころ、松林の切れ間にくっきりと建つ白堊の灯台が見えた。大型のものではないが、とても美しい。高さは18メートルほど。八角形をしている。両腕を伸ばして測ってみたところ、1辺は両腕を伸ばして少し余るほどだから、170センチである私の身長から類推すると約150センチほどか。ということは、塔の太さは12メートルということになる。
 塔を見上げると、灯室に小振りなレンズが見える。第6等フレネルレンズということである。このごろでは、こういう小さな等級のレンズはLEDに変わっていることが多いから、かえって珍しいくらいだ。

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(写真4 塔頂の風見鶏は羽衣伝説にちなんで天女である)

 そして面白いのは、塔頂の風見鶏が天女になっている。三保の松原といえば羽衣伝説であり、それに倣ったものであろう。

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(写真5 清水灯台の初点銘版)

 初点銘版には、「初点明治45年3月、改築平成7年3月」とあった。何でも、鉄筋コンクリート造の灯台としては日本で最も古いものだそうで、それで、歴史的文化的価値が高いところからAランクの保存灯台となっている。
 灯台は、大雑把には、清水港の港口と外海である駿河湾の境目あたりに位置しているようで、大きな港である清水港の安全を担っているのであろう。
 また、灯台からも左に富士山が見えた。真っ白い灯台と冠雪した富士山が一枚に見えて素晴らしい景色となっていた。実は、灯台の後ろ隣には三保園というホテルがあって、ここの3階からならば、灯台と富士山が一直線に見えるのではないかと期待してホテルを訪ねたところ、この日は残念ながら営業をしていなかった。コロナの影響で、このごろではこういうことが少なくない。
 さすがは駿河の海、穏やかな気候で、ダウンのコートでは汗ばむほどの陽気だったし、風光明媚なところに建つ灯台は、灯台の持つ厳しさは感じられなくて、まるで天女の降り立つ塔のようにも思えたのだった。(2021年2月10日取材)

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(写真6 灯台の奥に富士山が遠望できた)

<清水灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号[国際標識番号]/2473[M6248]
位置/北緯35度00分35秒 東経138度31分50秒
名称/清水灯台(愛称三保灯台と看板にある)
所在地/静岡県静岡市清水区三保
塗色・構造/白色塔形、コンクリート造
レンズ/第6等フレネル式
灯質/群閃白光 毎20秒に2閃光
実効光度/5万カンデラ
光達距離/14海里(約26キロ)
塔高/17.73メートル
灯高/21.00メートル
初点灯/1912年(明治45年)3月1日
管轄/海上保安庁第三管区海上保安本部清水海上保安部
備考/Aランク保存灯台、近代化産業遺産、土木遺産

笠間日動美術館

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(写真1 笠間日動美術館外観)

充実したコレクション

 銀座の日動画廊の創業者である長谷川仁・林子夫妻が縁の笠間市に建てた私設の美術館。日本を代表する画商だけにさすがに素晴らしいコレクションで知られる。
 笠間城跡の山麓にあり、市街中心の笠間稲荷神社にも近い。隣が、笠間藩家老だった大石邸跡である。〝かさま観光周遊バス〟のルート上にあり、笠間観光の代表的なスポットとして人気も高い。
 広大な敷地にギャラリーが点在していて、周遊バスの停留所から入るとまずは企画館。企画展示のための展覧館で、この日は「異国の景色」という展覧会が行われていた。
 パリを中心に海外で学んだ画家たちの作品が展示してあった。膨大なコレクションから選りすぐったもののようだが、佐伯祐三<パリの街角>(1927)、田村能里子<陽炎女>(1984)などとあった。

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(写真2 鴨居玲<私>=美術館で販売されていた絵はがきから引用)

 また、鴨居玲については1室が当てられていて、作品のみならず鴨居の画業がわかるような内容で、鴨居に関するこれほどのコレクションは、生まれ故郷金沢の石川県美に次ぐものではないかと思われた。展示品の中には司馬遼太郎のメモがあって、そこには、その美しさ、そのあまりにも大胆な個性の表現にである、などと絶賛されていた。
 3階建ての企画館からは通路で野外彫刻庭園を挟んでフランス館、パレット館へとつながっている。

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(写真3 野外彫刻庭園の様子。眼下に笠間市街が望める)

 野外彫刻庭園では、緩やかな斜面に彫刻が林立している。眼下には笠間市街が遠望できた。作品の中には、舟越保武の<原の城>があった。有名な作品だが、いつ見ても舟越の精神性宗教性がうかがわれて印象深い。

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(写真4 舟越保武<原の城>)

 なお、館内には舟越の作品が多数あって、それも、代表作<春>や<C夫人>などと並んで、<長谷川林子像>が大理石製とブロンズ製の2体もあった。創設者長谷川夫妻はよほど舟越と親交が深かったものであろう。

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(写真5 アンディ・ウォーホル<C夫人の肖像>)

 フランス館は常設展示。ユトリロ<パリの通り>、ゴッホ<サン=レミの道>や、モネ、ドガ、ロートレック、ルノワール、ピカソからアンディ・ウォーホル<C夫人の肖像>などとあって、いやはや充実したコレクションには驚くばかりだ。
 デッサンが集められたデッサン室には、松本竣介の<少年>(1946)のデッサンがあって、結局、ここでは、好きな画家と彫刻家である松本竣介と舟越保武の作品が同時に見られて堪能できた。ちなみに、松本と舟越は盛岡中学(現・盛岡一高)の同窓生である。
 なお、この美術館で感心したのは、作品の写真撮影が許されていること。撮影禁止の作品にはカメラに横線が入ったアイコンが付されていてわかりやすい。

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(写真6 正面中庭に建つ舟越保武<春>)

笠間にて

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(写真1 日本三大稲荷の笠間稲荷神社)

笠間稲荷の門前町

 冬の日差しを選んで茨城県の笠間を訪れた。笠間は、茨城県の中部、水戸の西に位置し、栃木県境に近い。笠間稲荷の門前町として栄え、笠間焼で知られる陶器の町でもある。古くは笠間藩の城下町でもあった。
 現在の笠間市は、旧笠間市に友部町と岩間町が合併して広域になったが、古くからの笠間への最寄り駅は、水戸線の笠間駅。しかし、常磐線の友部駅から〝かさま観光周遊バス〟が運行されている。周遊バスでも笠間の中心街まで10数分。笠間の主だった観光スポットを回る。
 友部駅を出発すると少しして笠間焼の窯元の看板が目立って増えてくる。ギャラリーロード、工芸の丘・陶芸美術館などと続き、笠間日動美術館あたりから笠間の中心に入り、やがて稲荷神社。

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(写真2 笠間稲荷の門前通り)

 笠間稲荷は、日本三大稲荷に数えられる神社で、五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから信仰を集め、年間350万人もの参拝者が訪れるという。ちなみに、三大稲荷とは、京都の伏見稲荷大社を筆頭にここ笠間稲荷と愛知県の豊川稲荷。ただし、諸説ある。
 赤い大きな鳥居をくぐって進むと立派な本殿。コロナ下であり、初詣の時期もずれているから人出はさほど多くはない。正月三が日の初詣には80万人もの参詣者が訪れるというが、この時期は1年で最も少ない参詣者なのかもしれない。

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(写真3 そば屋のいなり寿司は中身がそばだった)

 それでも、門前通りには参詣者の姿が多く見られた。いなり寿司を売っている店が多い。そば屋も多い。そば屋でそばを食べたが、一緒に頼んだいなり寿司は中はご飯ではなくてそばだった。そば稲荷というらしい。これは珍しい。また、この店のきつねそばは、大きな揚げが載っていて稲荷そばと称していた。
 一方、笠間は城下町でもあり、街の東側に笠間城跡がある。小高い丘の上に天守があったようだが、現在は石垣が遺構となっている。この日は寄らなかったが、かつて見学した際にはあまりにも急な登りに難儀したものだった。それでか、殿様も普段は麓の館に住んでいたらしい。

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(写真4 浅野家家老大石内蔵助の銅像)

 城主は頻繁に改易、転封となっており、その後赤穂に移った浅野氏が入っていた時代もあった。笠間日動美術館の隣には家老だった大石邸跡があり、赤穂浪士討ち入りで名高い大石内蔵助良雄の討ち入り姿の立派な銅像が建っている。(2021年2月3日取材)

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(写真5 笠間市街を回る〝かさま観光周遊バス〟) 

日高本線と様似駅

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シリーズ 駅 情景

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(写真1 日高本線の終点様似駅)

さようなら様似駅

 災害に見舞われて不通になっていた路線が復旧されずにそのまま廃線になるほど腹立たしくも悲しいことはない。
 高千穂鉄道がそうだったし、岩泉線も結局そうなった。災害から7年を経て復旧した名松線は希有な例だろう。
 日高本線は、室蘭本線の苫小牧から様似を結ぶ路線。全長146.5キロ。ところが、2015年の高波被害で鵡川-様似間が運休となっていた。この間はバス輸送に代替されていたのだが、そもそもこの区間はJR北海道にとって「単独で維持困難な線区」にあげられており、これまで満足な復旧工事も行われてこなかった。結局、本年2021年4月1日付で廃止されることとなってしまった。廃線区間は116.0キロに上り、全区間の約8割にも達する。
 日高本線にはこれまでに1988年10月1日と2010年2月11日の二度乗ったことがある。
 2010年に乗車した際には次のような記録がある。
 苫小牧10時17分発様似行に乗車。ディーゼルの1両ワンマン列車。
 休日の下り列車にも関わらずすべてのボックスが埋まっている。観光客や鉄道ファンらしき姿は見えない。

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(写真2 太平洋に注ぐ川は結氷している)

 右窓に太平洋を見ながら日高地方をひたすら走る。鵡川、沙流川、厚別川などと日高山脈から流れてきた川が太平洋にそそいでいるが、いずれも川面は氷結している。
 うす雲を通す日差しは弱々しく、窓外はもちろん雪景色だがさしたる積雪量でもなく、枯れた地表が浮き出ていてそれだけに茫漠たる風景がいやます。

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(写真3 冬でも屋外に放たれている馬)

 新冠のあたりから沿線に牧場が目立って増えてきた。静内、浦河などと競走馬の名だたる産地が続く。馬は冬でも屋外に放たれているらしく、雪の中に静かにたたずんでいる。

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(写真4 様似に到着した列車)

 様似13時35分着。日高本線の終点で、苫小牧から146.5キロ、2時間18分。札幌からなら普通列車で約5時間の乗車だった。片側1線のホームがある。
 初めて降り立った1988年の折には、駅舎はスーパーも兼ねていた。

 

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(写真5 かつてはスーパーも入っていた様似駅の駅舎)

 結局、様似で降りた乗客はたった4人だけで、それも苫小牧から通しで乗ってきたのは2人のみだった。駅前は、休日のせいばかりではないだろう、実に閑散としていた。
 様似駅に降り立ったのは二度だが、いずれも襟裳岬を訪ねるため。駅前から広尾行き日勝線のJRバスが出ており、途中、中間地点で襟裳岬に停車する。

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(写真6 襟裳岬灯台)