ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

『岩波新書解説総目録』刊行

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創刊80年約3400点

 岩波新書の1938年の創刊から2019年までの80年分のラインナップ約3400点が総覧できる。判型はもちろん岩波新書と同じサイズながら約700ページもあって、歴史の重みをずしりと感じる。
 初めての解説総目録なそうで、刊行順に配列されていて簡単な解説文が施されている。また、巻末には書名索引と著訳編者名索引がついており、資料価値も高いように思われる。
 この頃では数多くの出版社から新書が刊行されているが、岩波はその嚆矢となった。当時、すでに岩波文庫は発行されていたが、どうして新書を発行しようとしたものか。本書に収録されている岩波茂雄による「岩波新書を刊行するに際して」によれば、古典的知識を念頭とした岩波文庫に対して、岩波新書は現代的教養を目的としたと位置づけている。
 ともあれ我々は、文庫、新書、単行本などと多様な形態の書物によって読書の楽しみと広範な知識と教養を得ることができており、大変ありがたい読書環境にある。
 岩波新書は随分と数多く読んできた。新書はタイムリーな企画が勝負だから各新書ともにしのぎを削っており、岩波に限らず内容次第だが、私が手に取る新書のうち岩波は3割くらいに上るから少なくはない。
 岩波新書で私にとって一番思い出深いのは岩崎昶『映画の理論』だ。もう50年数年前にもなるか、高校時代に手に取ったのだが、むさぼるようにして読んだし、当時、映画青年だった私にとってはバイブルのような本だった。このたび取り出してみたところ、これほど書き込みの多い本もなかったと気がついた。定価は130円だった。
 岩波新書としてユニークなのは巴金の『憩園』だろう。小説は文庫に回すことが一般的な岩波としては、翻訳とはいえ新書に収められたのは珍しい。しかも、わざわざ書名の上に小説と小さい文字で断っているところなど面白い。岩波自身異例のことと認識していたのであろうか。私の手元にあるのは昭和28年8月20日発行の第1刷で、私は古書店で手に入れた。
 しかし、このたび本書岩波新書解説総目録が出たことによって調べてみたところ、本書に前後して趙樹理『結婚登記』と老舎『東海巴山集』がやはり岩波新書として刊行されており、中国の人気作家の小説が立て続けに出版されているのが注目される。
 私の手元になかったのでこれまで気がつかなかったが、こういうこともあるから総目録はありがたい。
 ちなみに、岩波文庫総目録で調べてみたところ、この新書3冊が発行された昭和28年当時、中国の小説は1冊も岩波文庫からは刊行されていない。おそらく、現代文学ということで新書に回されたものであろう。
(岩波新書)

利尻島の岬と灯台

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(写真1 船上から見たペシ岬。独特の景観がすばらしい。奥に見えているのが礼文島)

最北の離島を訪ねて②

 礼文島からは翌日利尻島に渡った。二つの島は姉妹みたいなもので、礼文水道を挟んで8キロしか離れていない。利尻島は礼文島の南に位置する。礼文島からは間近に見えていた。

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(写真2 礼文島から見た利尻島)

 利尻島(りしりとう)は、平べったい礼文島とは対照的で、島の中央に利尻山(通称利尻富士、標高1,721メートル)がそびえる火山島である。面積は182平方キロあり、礼文島の倍以上、人口も5400人と倍近い。

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(写真3 礼文島と利尻島を結ぶハートランドフェリーの「ボレアース宗谷」。稚内から来た船だ)

 香深港13時30分発のフェリーに乗った。この船もハートランドフェリーが運航しており、稚内港から香深港を経て利尻島の鴛泊(おしどまり)港に向かう。稚内から礼文に向かう船は波も高く揺れっぱなしだったが、この日は快晴で波も静か、3500トンもの船だから穏やかだった。
 香深港から約40分、14時10分鴛泊港に着いた。香深港に向かったときもそうだったが、船は島が近づいてからが長い。それでも、フェリーはダイヤが正確で、この日もぴったり定刻通りの到着だった。

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(写真4 鴛泊港の様子)

 鴛泊港は利尻島の北側、礼文島に近いところにあるのだが、鴛泊港が近づいたら独特の姿のペシ岬が迎えてくれた。鴛泊港の湾口に位置し、この時のノートには、「何と表現したら当を得ているのか。クジラが頭だけ海面に出したようにも見える。この岬もかねて踏破をしたいと念願していたもので、やっと思いが叶ったようだ」とある。
 この日の宿は港に近い高台にあり、岬の付け根のようなところ。部屋に荷物を置いて何はともあれペシ岬に登った。しかし、これがなかなか急な登りで、ペシとはアイヌの言葉で崖を意味するというが、そのままにきつい登りだった。

 20分ほど登ると岬の頂上。展望台になっていて、礼文島から北海道本島までぐるり見渡せる。案内板によると、礼文島香深港までが19キロ、稚内港までは52キロとあった。

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(写真5 ペシ岬の劈頭に立つ真っ白な鴛泊灯台。水平線に北海道が横たわっている)

 岬には劈頭に真っ白い灯台があった。鴛泊灯台である。礼文島の灯台は赤か黒の横帯が塗色されていたから真っ白い灯台は利尻島に来てはじめて見た。100メートルほどの断崖に立っており、遮るもののない景観だ。遠く水平線ぎりぎりに北海道が横たわっており、北海道を望んで旅情が高まる。

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(写真6 会津藩士の墓)

 岬には会津藩士の墓というのがあった。利尻富士町が建てた立て札によると、蝦夷地防衛の命を受けた会津藩士は、1808年、部隊を編成して利尻島に本陣を置いたのだが、しかし、多くの守備兵は寒さのため水腫病におかされ死んでいったのだという。鴛泊には3基あり、ほかに島内あちこちに墓があるという。なお、墓石は新潟より運んで建立したものだということである。

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(写真7 ペシ岬のカフェの窓辺。旅愁が深まる)

 また、岬にはカフェがあった。ギャラリーも兼ねたしゃれたもので、この日は「さいはての島」という写真展をやっていた。ご主人がカメラマンのようだった。カフェの窓辺にたたずんでいると、旅愁が深まっていくようだった。
 夕方、旅館の若女将のすすめで、温泉に入りに行った。教えられた道を10分ほどのんびりと歩いた。利尻富士温泉といい、茶色がかった湯で、表示には42度とあったが、熱い湯が好きな私にはややぬるかった。帰途虹が見えた。

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(写真8 夕陽が沈む灯台。灯台表によれば、鴛泊港島防波堤東灯台のようだ)

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(写真9 夕陽に染まる利尻富士)
 温泉から戻ると、若女将が夕景を撮りに出かけないかと誘ってくれた。大きなカメラを持っていたから写真好きと判断したのだろう。自身、写真好きなそうで、撮影ポイントなどよく知っていた。
 夕食には新鮮な魚が並んだ。タコのしゃぶしゃぶというものもあって面白かった。酒は「りしり」という名の焼酎を飲んだ。
 翌日はレンタカーで島を一周した。島はほぼ円形で、一周約60キロ。時速60キロならちょうど1時間で回れるとこれは若女将の話。島の中央にそそり立つ利尻富士の裾野が島全体に渡っている。海抜ゼロメートルから頂上に登れるというのが謳い文句となっている。

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(写真10 工事中だった石埼灯台)

 起点とする鴛泊は島の北にあって、時計回りに島を巡った。20分も走ると4時の方角に石埼灯台があった。ところが工事中のようで、すっぽり緑のシートで覆われている。結構背が高いようで、灯台表によれば、塔高は32メートルもあり、魹ヶ埼灯台よりは低いが尻屋埼灯台とほぼ同じ。日本で五指に入るのではないか。白地に赤横帯3本の塔形だということである。利尻水道を照らしている。

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(写真11 オタトマリ沼から望んだ利尻富士)

 どこまで行っても利尻富士が見えている。少しずつ山容を変えているようだが、いつも頂上付近は雲に覆われていて、富士山らしい姿はなかなか拝めない。まだ10月だというのに頂上付近は冠雪していた。

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(写真12 仙法志埼灯台)

 ちょうど南、6時の方角まで進むと仙法志の海岸。溶岩でゴツゴツしており、利尻島が火山島であることを物語っている。仙法志埼灯台があった。こちらも白地に赤横帯3本の円塔形だ。灯室の部分まで赤というのは珍しくはないか。

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(写真13沓形岬付近から見た利尻富士。珍しく頂上に雲がかかっていない)

 さらに進んで、島の西側、9時の方角が沓形岬。珍しく利尻富士の頂上付近の雲が一瞬途切れて美しい姿を現した。

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(写真14 沓形岬灯台。奥に見えるのは礼文島の島影)

 沓形岬には沓形岬灯台。こちらは白地に赤横帯1本の四角い塔形。

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(写真15 登山道の途中にあった甘露泉水)

 利尻山には島内あちこちから登山道があるようだが、沓形からは5合目までよく整備された舗装道路があった。その途中に甘露泉水という名水があった。なるほどおいしい水だった。
 稚内に前泊したから3泊4日になった礼文・利尻の旅。大変印象深く美しい旅だった。利尻島からは空路利尻空港から新千歳を経由し羽田に帰った。

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(写真17 利尻富士を背景に新千歳空港行きの航空機)

 

<利尻島の灯台メモ>(灯台表、ウィキペディア、lighthouse-japan等から引用)
●鴛泊灯台
航路標識番号(国際番号)/0523(M6915)
名称/鴛泊灯台(おしどまり)
位置/北緯45度14分8秒 東経141度13分9秒
灯質/単閃白光 毎15秒に1閃光
塗色・構造/白塔形
灯高/76メートル
光達距離/21海里
塔高/9.4メートル
明弧/105度~20度(利尻水道では本灯と野塚岬を結んだ線以南は陸地により灯光が遮られる)
初点灯/1892年11月

●石埼灯台
航路標識番号(国際番号)/0537(M6928)
名称/石埼灯台(いしさき)
位置/北緯45度09分0秒 東経141度19分7秒
灯質/単閃白赤互光 毎20秒に白1閃光、赤1閃光
塗色・構造/白地に赤横帯3本 塔形
灯高/35メートル
光達距離/16海里
塔高/32メートル
初点灯/1943年10月3日

●仙法志灯台
航路標識番号/0535
名称/仙法志埼灯台(せんぽうしさき)
位置/北緯45度05分9秒 東経141度14分2秒
灯質/単閃白光 毎5秒に1閃光
塗色・構造/白地に赤横帯3本、塔形
灯高/29メートル
光達距離/12海里
塔高/13メートル
初点灯/1971年10月

●沓形岬灯台
航路標識番号/0532
名称/沓形岬灯台(くつがたみさき)
位置/北緯45度11分2秒 東経141度07分8秒
灯質/単閃白光 毎3秒に1閃光
塗色・構造/白地に赤横帯1本、塔形
灯高/24メートル
光達距離/7海里
塔高/12メートル
初点灯/1952年5月

礼文島の岬と灯台

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(写真1 日本最北限の地スコトン岬。沖は灯台のあるトド島)

最北の離島を訪ねて①

 利尻・礼文――なんと美しい響きか。日本地図を広げて最北の日本海に浮かぶこの二つの島に行ってみたいとは誰しも願うこと。宗谷本線が日本最北の終着駅稚内を目前にサロベツ原野にさしかかると左窓に利尻富士が見えてきて旅情がいや増す。二つの島はひとくくりに呼ばれることが多いが、それぞれに個性的で二つとも続けて訪ねてみたい。
 二つの島ともに幅約10キロの利尻水道を挟んで南北に連なっており、北にあるのが礼文島(れぶんとう)。稚内の西方約60キロの日本海上に位置する日本最北の島。

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(写真2 ハートランドフェリー「サイプリア宗谷」)

 礼文島へは、稚内から船で渡った(2009年10月13日)。稚内港14時30分発礼文島香深港行きハートランドフェリー「サイプリア宗谷」。出港するやたちまち豪雨となり、赤と白の縞模様の稚内灯台が波打ち際に屹立していた。日本で二番目に高い灯台だが灯台には見えにくい。灯台は、普段は陸地側から見るばかりで、海上から見ることは少ない経験だからとても興味深かった。

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(写真3 船上から見た稚内灯台)

 波が高く海は荒れている。船は大揺れに揺れた。30分もしないうちに礼文島は見え始めていたのだが、そこからが長くてなかなか近づかない。船というのはそういうものなのだろう。ぴったり定刻通り16時25分香深港に到着した。ほぼ2時間。夕暮れ寸前でフェリーターミナルがかすんでいる。

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(写真4 船上から遠望した礼文島)

  この日はフェリーターミナルにほど近い旅館に泊まったが、斜め向かいが公営温泉「うすゆきの湯」で、礼文島唯一の温泉は2週間前に開業したばかりといい、無色無味無臭の単純温泉だった。
 礼文島は、東西6キロ、南北21キロの平べったい島。中央部にある礼文岳が標高490メートル。人口は3千ほど。礼文郡礼文町は一島一郡一町である。島を南北に縦断する道路は東側を走っており、西側は断崖になっているようだ。香深港は島の東南に位置する。
 翌日は朝8時からレンタカーで島内を巡った。礼文島は、まるでクワガタのような形をしており、北に向かって2本の角が鋭く突き出ており、左がスコトン岬で、右が金田ノ岬だ。
 まずはスコトン岬をめざした。須古頓ともあてるようだが、礼文島最北端であり、日本地図をながめながらかねて一度は訪ねたいと思っていた岬だ。
 すでに観光シーズンははずれていたから道はすいていて、長いアプローチの末岬に着いた。なかなかの眺望で、思い描いていたとおりの岬らしい風情がある。左右両手を広げたよりも視界は開けているから遮るもののない240度もの眺望か。
 視界が良ければサハリンも見えるというが、この日は晴れてはいるものの島影は見えなかった。

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(写真5 〝最北限の地スコトン岬〟の木柱と1キロ沖合にトド島)

 岬の1キロほど沖合に小さな島がある。トド島といい、これも平べったい。無人島で、島の西端やや高いところに海驢島灯台が見えた。白と黒の縞模様のようだ。緯度は日本最北端宗谷岬灯台よりはほんの少し南に位置する。

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(写真6 スコトン岬の売店。昆布ソフトの幟が立てられている)

 岬には売店があり、ソフトクリームを食べた。何でもカモメはソフトクリームが好きなのだそうで、そう言えば、1羽のカモメが自分の方に寄ってくるではないか。少し分けてあげたらすぐに一口でぱくついた。
 また、岬の先端近く崖下に民家があって、看板には民宿スコトン岬とあった。日本最北端の民宿ではないか。
 島は、〝花の浮島〟と呼ばれるほどに美しい花々が咲き乱れるようだが、すでに秋になっていたのでレブンアツモリソウやウスユキソウも見られなかった。

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(写真7 10キロに渡って海食崖が連なる澄海岬)

 スコトン岬からは澄海岬(すかいみさき)に寄った。島の西側に位置する岬で、この周辺は海食崖によるもののようで、海岸は切り立っている。その名の通り海は澄んでいて、透明度は非常に高いようだ。海でこれほどきれいな水も珍しい。

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(写真8 スコトン岬から遠望した金田ノ岬。細長く平べったい岬だ)

 澄海岬からは戻るようにして金田ノ岬へ。クワガタの右の角である。船泊湾を挟んでスコトン岬の対岸にあたる。

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(写真9 定期便の運航もない礼文空港)

 岬を目指していたところ、途中に礼文空港があった。随分と日本中の空港に降り立っているが、ここはその名すら知らなかった。定期便の運航はなく、使われることは少ないようだ。ただ、きちんと管理はされているようだった。

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(写真10 〝滑走路の端に灯台?!〟)

 空港を見下ろす高台に登って驚いた。滑走路の端に灯台があるではないか。場所柄、空港施設のようにも思えるが、どう見てもれっきとした灯台である。道らしき道もないし難儀だったのだが、近づいてわかった。白地に赤帯2本。これが金田ノ岬灯台だったのである。高台からは滑走路の端にあるように見えたが、実際は滑走路の端からは少しだけだが離れていた。それはそうだ。

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(写真11 金田ノ岬灯台)

 金田ノ岬そのものは、海沿いに岬を回り込むように道が続いていてあまり風情はない。灯台は高台にあるのである。
 金田ノ岬からは島の南にある元地灯台に寄る予定だったが、クワガタの2本の角で手間取ってしまい、時間がなくなってしまった。香深港から午後のフェリーで利尻島へ渡る計画なのである。
 最後に、香深港を目指していたら、途中、高台に灯台の姿が目に入った。香深灯台である。既視感があったが、小樽の日和山灯台に近似しているように思われた。なお、この灯台は2015年廃止となったようだ。

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(写真12 香深港の高台に香深灯台。現在は廃止されているようだ。なお、データで灯台表とウィキペディア等と違う場合は灯台表を優先している)

 

<礼文島の灯台メモ>(灯台表、ウィキペディア等から引用)

 ◍海驢島灯台
航路標識番号/0513
名称/海驢島灯台(とどしま)
位置/北緯45度28分6秒 東経140度57分7秒
灯質/単線白光 毎3秒に1閃光
塗色・構造/白地に黒横帯2本、塔形
灯高/53メートル
光達距離/7海里
塔高/12メートル
初点灯/1959年11月27日
管轄/第一管区海上保安本部稚内海上保安部

 ◍金田ノ岬灯台
航路標識番号/0516
名称/金田ノ岬灯台(かねだのみさき)
位置/北緯45度27分6秒 東経141度02分0秒
灯質/群閃白光 毎8秒に2閃光
塗色・構造/白地に赤横帯2本、塔形
灯高/27メートル
光達距離/12海里
塔高/12メートル
初点灯/1953年11月
管轄/第一管区海上保安本部稚内海上保安部

今野敏『清明 隠蔽捜査8」

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竜崎伸也 神奈川県警刑事部長に着任

 竜崎伸也を主人公とする警察小説のシリーズ長編8作目。
 竜崎は、そもそも東大法卒、警察庁のキャリア官僚だったのだが、警察庁長官官房総務課長だったときに、組織の不正を正そうとしたものの、警察庁の方針に逆らったとして階級は警視長のままながら警視庁大森警察署の署長に左遷された。
 所轄の署長は大規模署といえども警視正あたりが就くのが一般的だが、竜崎は臆することなく原理原則の信念を貫いた。初め、変人とみられていたが、私利私欲が全く見られないところから、次第に部下の信頼が高まり、末端の刑事までもが竜崎の判断を尊重するようになっていった。手柄は部下に与え、「責任は俺が取る」が信条。
 その竜崎が神奈川県警刑事部長に転任した。警察庁キャリア同期の伊丹俊太郎警視長が警視庁の刑事部長だから、本来の職制に戻ったということだろう。警察庁幹部にも竜崎の能力を再評価する動きが出てきたということでもある。ちなみに、竜崎と伊丹は幼なじみでもあり、伊丹は竜崎を堅物ながらも私情に流れず適切な判断をする人物として買っていた。
 着任後すぐに殺人および死体遺棄事件が発生した。伊丹からの連絡で事件発生を知ったのだが、警視庁の刑事部長がわざわざ神奈川県警刑事部長に連絡したのは現場が沢谷戸自然公園だったからで、この公園は、東京都町田市にあるのだが、この一帯は神奈川県川崎市と横浜市に盲腸のように突き出しており、東京都と神奈川県の境界線が複雑に入り組んでいる地域。町田署に捜査本部が置かれたが、伊丹は神奈川県警との合同捜査本部にすることとし、竜崎に協力を要請してきたのだった。
 捜査は当然警視庁主導になり、伊丹が臨席していることもであり、竜崎は当初捜査会議に臨席するつもりはなかったが、刑事部ナンバーツーの阿久津重人参事官の強い要請もあって捜査会議に臨席することとした。
 警視庁と神奈川県警との確執は根強く、阿久津にしてみれば警視庁においしいところを全部持って行かれたら面白くないわけで、バランス上も竜崎の臨席は必須だとのこと。
 被害者は三十代後半から四十代の男性。身元不明で所持品もなし。別の場所で殺害されてこの公園に遺棄された可能性が高い。死因は頸椎の損傷。頸部を急速に捻られたと思われた。素人の犯行とは思われにくかった。
 まだ、初動捜査の段階で、身元の割り出しと目撃者の洗い出しが行われていたが、神奈川県警の阿久津参事官が気になることを言った。被害者は外国人かもしれない。つまり中国人ということだが、手口も訓練を受けたものの仕業と思われ、日本人らしくない。
 このことを捜査本部で話すと、警視庁の刑事たちは笑った。しかし、神奈川県警の連中は蓋然性が高いと考えていたし、それは東アジア最大の中華街を管内に抱えるからで、竜崎も警視庁の連中の態度に腹立たしさを感じていて、感情の変化に自身驚いていた。
 やがて事件は華僑の協力が必然となり、背景に中国と公安の動きが見えてきて俄然複雑になっていった。
 隠蔽捜査シリーズは、警察庁のキャリア官僚を主人公とする珍しい警察小説。警察小説もこの頃では様々なバリエーションが誕生しているが、この主人公は破格。原理原則を貫きながら部下を尊重し、私利私欲が全くないところから信頼を獲得している。
 シリーズは本作が長編の8作目。短編集も含めれば10冊目。2005年の第1作から好んで読んできたが、竜崎も何か甘くなったというか、どこか丸くなったようなところが出てきた。所轄の署長から県警の刑事部長となって角が取れてきたように思う。
(新潮社刊)

ビワの実

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(写真1 黄色に熟したビワの実)

隣家からお裾分け

 お隣からビワの実をいただいた。これも季節の果物。
 実は、このビワの木は我が家との垣根越しにあって、庭に面した私の部屋から毎日眺めていた。
 一月ほども前になろうか、青い実が成ってきて、隣家のことながら熟すのが待ち遠しいようだった。ご主人は袋をかけて鳥などに狙われないように大事に育てていた。
 つい先日のこと、雨で袋が破れ、黄色い実があらわになった。すると、ご主人はもう待ちきれなかったのか、実を早速収穫していた。
 それが我が家にもお裾分けされて届いた。まさか、私が今か今かとにらんでいた視線を感じていたのではないだろうが、大変ありがたいこと。
 このお宅では、食べ残った種を数粒無造作に植えたら芽が生えてきたとのこと。何でも、8年かかって初めて実が成ったとのことだった。
 ビワの木は、背丈を上回るほどにまでなっており、葉が細長く大きい。この葉と実の形から琵琶と呼ばれるようになったとか。
 いただいたビワの実は、収穫がちょっと早かったからか甘さが足りなかった。あるいは、初めて成った実だからかもしれない。ご主人は「来年はもっと甘い実をお届けしますよ」と話していたが。
 それにしてもビワの実は種が大きくて、食べられる部分が少ない。この種の大きさは種の保存のためだろうか、実にもに滋養分を含んでいるものか、それで、種を蒔くと簡単に発芽するのであろうか。何の知識もない憶測だが。
 なお、これは家内が言っていたことだが、ビワの木は庭に植えてはいけないのだそうだ。なんでも、根が強く大きく張るから家が倒れる恐れがあるという言い伝えがあるらしい。

秩父鉄道に乗る

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(写真1 貨物線の三ヶ尻線が右に分岐する武川付近)

コロナ自粛後初の鉄道旅

 コロナ騒ぎで自粛していた鉄道旅を再開し久しぶりに出かけた。全線で運転を再開した常磐線に3月16日に乗りに出かけて以来だからほぼ3カ月ぶり。
 どこに行こうかと思案をしていたのだが、いきなり遠くへ出かけるのはそれこそ自粛してまずは近場ということで隣県埼玉県へ。
 気象情報をにらみながら梅雨の合間を縫って6月24日出かけたのは秩父鉄道。
 秩父鉄道秩父線は、羽生駅から三峰口駅間を結ぶ全線71.7キロの路線。埼玉県北部を東西に走っている。ほかに線区としては貨物線として三ヶ尻線7.6キロがある。

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(写真2 秩父鉄道秩父線の起点羽生駅改札口)

 羽生駅は、東武鉄道伊勢崎線との接続駅。私も東武から乗り継いだ。ホーム番号も東武からの連番になっていて秩父線は4番5番の1面2線。自動改札はなくて、ICカードも使えない。そもそも、一日乗車券がほしかったのだが、平日は発行されていないようだ。
  ともあれ、9時57分発三峰口行きに乗車した。時刻表を見て気がついたが、次の列車まで1時間半ほども間が空いている。それも途中駅まで。途中下車を繰り返しながらのんびり進もうと考えていたが、これではままならない。まずは終点まで一気に行ってしまうこととした。3両のワンマン運転。次の熊谷行きは2両となっていた。

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(写真3 熊谷駅に停車中の三峰口行き電車)

 羽生を出ると左右に田園地帯が広がっている。駅名標には手作り感があって愛着が持てる。行田市などとあって、やがて左に寄ってきた上越新幹線の高架をくぐり、高崎線を跨いで熊谷到着。中山道の宿場町だったところで現在も交通の要衝でありこの地方の中心。そして何よりも夏の猛暑で知られている。40度を超して日本の最高気温を記録したこともあったはず。今年も連日30度を超していて、どれほどのものなのか体験をしてみたいものだとつまらぬことを念じていたが、この日は幸か不幸かあいにくと涼しいくらいの気候だった。ただし、電車の冷房は強かった。コロナ対策のせいで、車両の窓は一つおきくらいに上部10センチほどが開けられていた。
 熊谷を出るとやがてひろせ野鳥の森。新しく開設された駅で、右に隣接して貨物の操車場があった。
 明戸を出て右に分岐していく線路が見えたら武川(たけかわ)に到着した。分岐していたのは貨物専用線の三ヶ尻線。この先三ヶ尻にセメント工場があり、さらに高崎線の熊谷貨物ターミナルへと延びている。機関車だけが3両停車していた。
 そうこうして寄居。JR八高線と東武東上線の接続駅で、広い構内があり、右にJR、左に東武のホームがあり、秩父鉄道は真ん中に1面2線のホームがあった。

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(写真4 波久礼を過ぎると左窓に荒川が見えてきた)

 次の波久礼(はぐれ)に至って左に川面が見え隠れするようになった。渓谷になっており、カヌーが浮かんでいた。
 この渓谷は荒川であろうか。やがて長瀞に至った。急流で知られる長瀞ラインが人気の観光地である。
 この周辺は山が両側から迫っていて、細長い盆地となっている。タチアオイが咲いていた。夏なのである。

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(写真5 秩父駅には多くの側線。貨物輸送が大きな柱の鉄道らしい)

 秩父に至っておびただしいほどの側線を持った構内が現れた。構内には長い貨物列車が留置されていた。秩父鉄道は、そもそも石灰石を運ぶ貨物輸送で栄えてきた歴史があり、現在も貨物の収益が大きな柱となっているし、セメント会社が筆頭株主である。また、秩父はもとより秩父地方の中心。秩父神社の夜祭りなどで知られる観光地でもある。

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(写真6 御花畑付近で左の坂を登っていくのは西武線への渡り線)

 秩父を出るとすぐに御花畑。本線から離れて左に上っていく線路が見て取れた。これは西武秩父線との渡り線で、段の上には西武秩父駅が見えた。西武線から秩父線の間には直通列車も運転されている。また、両駅は乗換駅として設定されており、乗り換えは容易である。

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(写真7 終点三峰口駅)

 そうこうして終点三峰口到着。12時12分。羽生から2時間15分も要した。三峯山への登山口であり、この日は午後になっていたから姿は見えなかったが、いつもなら登山客で賑わっているところだ。
 また、この駅構内のはずれには秩父鉄道公園があったはずだが見当たらない。駅員に尋ねると廃止になったという。なんたることか。秩父鉄道の貨車や車掌車も展示されていたのに残念なことだった。
 それで12時28分発ですぐに折り返したのだが、この列車は影森止まり。しかも、影森からの連絡が悪くて、次の列車まで1時間以上も間が空いてしまった。
 しかし、このことで二つの幸運に恵まれた。一つ目は、駅員に教えて貰ったそば屋。駅からほど近いところにあって、ここのそばが絶品というほどにうまかった。人気のそば屋らしく満席だった。
 駅に戻ってくだんの駅員にそのように話したら喜んでくれて、そのついでに影森駅のこと、秩父鉄道のことについていろいろと教わった。このことが二つ目。
 影森の駅を出ると左から坂を登っていく線路が見えたのだが、石灰石を採掘する武甲山へ向かう引き込み線だとのこと。ここで積まれた石灰石は三ヶ尻へと運ばれるわけだ。列車は20両編成で、700トンもの石灰石を運んでいるそうで、1日6往復しているとのこと。どうりで頻繁に貨物列車に行き違うわけだ。
 セメントは産業と生活にとって大事な資材であり、秩父鉄道はその重要な役割を担っていたわけだ。

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(写真8 影森駅)

賑やかにグループSUN展

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(写真1 多彩な作品が並んだ会場の様子)

多彩な才能のアーティスト一家

 グループSUN展。今年は銀座のギャラリー向日葵を会場に行われた。
 展覧会でグループ展はよくあるかたち。さまざまな組み合わせがあるが、グループSUNの面白いところは一家ということ。
 画家の三浦千波さんを中心に、妹で書家の千江美さんや、そのお嬢さんたちの望愛さん、新奈さんら出品していて、とても賑やかなものだった。
 千波さんは油彩、千江美さんは書を出品していたほか、望愛さんらはグワッシュやイラストを出品していて、一家の多才な才能ぶりに驚かされた。
 私は昨年のこの展覧会で望愛さんのグワッシュ「灯台」に惚れ込んでその作品を購入していたほどだが、望愛さん、新奈さんはイラストなどに新境地を開いていて、ほとばしる才能が感じられた。この先、どのような成長を示していくのか楽しみな様子だった。

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(写真2 三浦千江美書「百福」)