ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

三陸鉄道リアス線全線乗り通す①

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(写真1 ホームで列車を歓迎する子どもたち。岩手船越駅で)

盛から久慈へ8年ぶりの全通

 震災の影響で不通となっていた山田線沿岸部が復旧し、盛駅から久慈駅まで8年ぶりに鉄路でつながった。3月23日復活の記念運転が行われた後、翌24日から通常の運行が開始された。
 なお、山田線そのものは、盛岡駅から宮古駅を経て釜石駅を結ぶ路線で、このうち沿岸部を走る宮古駅-釜石駅間が被災した。内陸部を走る盛岡駅-宮古駅間はそのままJR路線として運行が続けられている。
 形式的には、まずJR東日本が山田線の宮古駅-釜石駅間を復旧させた上で三陸鉄道(三鉄)に移管し、三鉄は南リアス線盛駅-釜石駅間、北リアス線宮古駅-久慈駅間と統合し全線を新たにリアス線として開通した。統合されたリアス線は、営業距離が163.0キロとなり、第三セクター鉄道として最長となった。駅数は40。
 東日本大震災で大打撃を受けた岩手県の三陸沿岸部では、鉄路での復旧を強く待ち望んでいて、リアス線の開業は復興への大きな弾みとなるものと期待されており、沿線では列車に向かって手を振る人々の姿があちこちで見られた。
 また、三鉄は、旧国鉄の解体による特定地方交通線を転換して開業した初めての第三セクター鉄道として1984年4月1日に発足したものであり、リアス線の開業は、悲願の三陸縦貫鉄道中心区間を三鉄単独で実現する画期的なものとなった。

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(写真2 三陸鉄道久慈駅)

 リアス線には、久慈駅から乗車した。前日のうちに現地入りしていて、3月25日、久慈8時05分発盛行き。全線を走り通す列車で、行き先表示には「盛」の文字が見え、久慈からついに盛まで一本で直通できることに感激した。列車番号は5108D。

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(写真3 真新しくも誇らしげな「祝三陸鉄道リアス線開通」のヘッドマーク)

 車両は新製車のようで、日頃は車両にさほどの関心を示さない私だが、この時ばかりは、「平成30年三陸鉄道」「新潟トランシス2018」といった銘板をメモした。また、車両先頭には「祝三陸鉄道リアス線開通」の真新しいヘッドマークが輝いていた。
 久慈駅は、八戸線が発着するJRとの接続駅だが、乗車する列車は三鉄ホームからの発車。1両のディーゼル列車ワンマン運転。
 久慈を出ると、陸中野田で海に面した。野田玉川を出て堀内の手前で渡ったのが安家川橋梁。我が国におけるPCトラス橋の代表例で、高さは33メートル。列車はこの橋の上で徐行運転をしてくれた。車窓内陸側には、並行する国道45号線のものか、道路橋の橋脚工事の様子が見られた。

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(写真4 島越駅に接近する列車)

 島越(しまのこし)。トンネルとトンネルの間に設けられた谷間の駅で、駅舎も線路も集落も全て流出した。震災後何度も訪れたが、立派な駅が再建された。旧駅舎時代にもあった吉村昭文庫も復活した。ただ、駅周辺の住居は高台移転していて、車窓から見る限りひっそりとしていた。
 摂待(せったい)を出て6532メートルという長いトンネルをくぐると田老。摂待-田老間は駅間距離も8.8キロと長く、この間には今年10月には新駅(仮称新田老)が設けられる計画のようだ。三鉄の積極的な経営がうかがわれる。
 田老は、津波で町が壊滅した。度重なる津波に備えて〝万里の長城〟とまで呼ばれて町の自慢だった防潮堤が二重三重に町を防御していたものだったが、その防潮堤もこのたびの津波では破壊された。

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(写真5 宮古駅に接近する列車。北リアス線時代は左端にある行き止まりの小さな三鉄ホームだったが、リアス線となって右に渡り1番線ホームへと入線した)

 そうこうして宮古9時45分の到着。ここまでは北リアス線71.0キロの区間だった。駅数で17。宮古駅はJRとの接続駅だが、三鉄の駅舎は閉鎖され、JRの駅舎が三鉄との共用になっていた。駅の管理も三鉄が行うことになったらしい。到着したホームも1番線で、まるで宮古駅の主人のような様子だった。