ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

村を守った「普代水門」

f:id:shashosha70:20180507112203j:plain

(写真1 海側から見た高さ15.5メートルの巨大な普代水門)
先人の信念高さ15.5メートル
 漁業が主な産業で人口3千人に満たない岩手県下閉伊郡普代村。陸中海岸の北部に位置している。
 その中心、三陸鉄道北リアス線の普代駅から陸中黒埼灯台を目指すと、ほどなく普代川を渡り、川沿いに海岸に向けて坂を下っていくと、途中に巨大な水門が現れる。これが東日本大震災で津波から村を守った、今や伝説の「普代水門」である。また、海沿いに先に進むととてつもなく高い壁が続くが、これが太田名部防潮堤である。
 水門は、普代川の河口から約300メートルに位置し、高さが15.5メートル、幅は205メートルでコンクリート製。三陸地方では沿岸部に設置されている水門や防潮堤は高いものでも10メートル程度だから、これは特別な高さ。大田名部防潮堤も同じ15.5メートルの高さである。
 この水門が威力を発揮し、津波は普代川を遡上してきて一部は水門を乗り越えたもののすでに勢いは弱く、水門から数百メートル上流で津波は停止した。これによって付近にあった小・中学校や住宅への浸水被害がなかった。また、死亡者もゼロという、甚大な被害が多かった岩手県沿岸部では奇跡のような結果となった。
 また、水門は高さのみならず構造も強固だったようで、決壊に至らなかったことも大きな効果を生んだ。しかも、地震発生時、消防署が水門を遠隔自動運転で閉じようとしたものの停電で運転不能となるや、署員が水門に駆けつけて手動で閉めたという。水門を閉め終わるや津波が押し寄せてきた音を聞いたというから、消防署員の決死の行為が村を救ったとも言える。
 普代村では、明治三陸地震や昭和三陸地震による津波で多くの犠牲者を出してきたという経験があり、当時の和村幸得村長は国や県に働きかけて水門の建設に動いた。1984年のことである。その際、和村村長が主張したのは高さを15メートルとすることだった。
 そうすると、総工費が36億円にも達する巨額で、あまりの高額に反対もあったらしい。村長としては「二度あることは三度あってはならない」というのが信念で、明治三陸地震の津波高さが15メートルだったことが頭か離れなかったようだ。
 普代より南側宮古寄りに位置する田老では高さ10メートル、延長2.4キロに及ぶ防潮堤は万里の長城と呼ばれるほどのものだったがこのたびの津波ではやられたし、田老に限らず沿岸部では軒並み津波被害が大きかった。
 また、水門より一足早く1970年に完成していた太田名部防潮堤も村を守った。こちらは総延長155メートル、津波は堤防を越えなかったという。
 先人の信念が村を津波から救ったわけである。

f:id:shashosha70:20180507112258j:plain

(写真2 上流側から見た普代水門)