ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

宮古から田老そして島越へ

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(写真1 防潮堤の上から見た田老の街)

大震災から10年目の被災地へ③

 宮古では1泊し、翌日さらに三陸鉄道(三鉄)を北上し、田老から島越へと向かった。前日の雨はやまず、かえって風雨は強まっている。しかも寒い。

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(参考1 被災した工場には〝全員無事です〟と消息が書かれていた=2011年)

 宮古には震災直後から毎年訪れていて、印象に残っていることもある。被災状況を調べていたところ、初めて訪れたときのこと、魚市場にほど近い岸壁沿いの鉄工場には、トタン張りの工場建屋の壁面に〝全員無事です〟とカラースプレーで消息が書かれていた。これは大変心強いこと。このときは会うことはできなかったが、翌年訪ねて社長に話を伺ったところ、地震の強さから津波の襲来をすぐさま予測し、従業員を向かいの高台に避難させたということだった。もっとも、社長自身は、逃げ遅れたものはいないかなどと点検しているうちに自分自身が逃げ遅れ、2階の天井にしがみついて九死に一生を得たということだった。津波は、とっさの判断が生死を分ける。

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(写真2 1年前に開業したばかりの「新田老駅」)

 宮古からはまず田老に向かった。田老の一つ先の駅新田老下車。2020年5月20日に開業したばかりの新駅。田老駅は町外れだったが、新田老駅は街の中心にあり、役場なども近い。3階建てで、建物自体は宮古市田老総合事務所となっており、田老保健センターや宮古商工会議所田老支所、宮古信用金庫田老支店が入っており、新田老駅は3階になっている。
 防潮堤に登った。そもそも田老の防潮堤は、度重なる津波から街を守ろうと築かれていたもので、高さ10メートル、延長2.4キロに及び、その偉容は〝万里の長城〟とよばれて町民の自慢だった。
 しかし、このたびの津波では、その防潮堤も乗り越え街を襲来し壊滅させた。復興にあたって田老は、防潮堤については破壊された部分の修復のほかは、1メートルほど高くした程度とし、住民は高台移転させた。従来の市街地は商業地とし、住宅の建設は制限している。

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(参考2  防潮堤から見た被災直後の田老=2011年)

 この防潮堤には毎年のように登ってきており、ほぼ同じ位置から写真を撮ってきているのだが、防潮堤内に住宅建設の制限があるせいか、10年経っても歴然とした変化は見られない。この部分の利用拡大が新しい田老の活性化には重要だと思われた。

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(写真3 高台に移転した住宅地の様子)

 大きく変わったのは町外れの高台に建設された住宅地。見事な住宅地に生まれ変わっており、大都市圏の新興住宅地と見まごうばかりだ。保育所や診療所、駐在所などもあって新しい生活に不自由はないように思えた。

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(参考3 被災間もないのに復興支援列車が走っていた)

 初めて田老を訪れたときには、震災から間もないにもかかわらず、〝復興支援列車〟が運行されていた。三鉄の時速な対応は、どれほど復興を力づけてきたものか。

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(写真4 新田老駅に置かれているノート)

 新田老駅には、待合室にノートが置かれていて、訪問者が自由に書き込めるようになっている。2021年3月11日の日付には、関西から来たという人や遠く高知から来たという人もいた。また、この中には、「今日はお父さんの墓参りに来ました。そして息子の誕生日です」と書かれたものがあった。現在はどこに住んでいるものか、書かれてはいなかったが、鎮魂が伝わってくる。
 新田老から再び三鉄で北へ向かい島越へ。ここはもう岩手県の三陸海岸の中では北部にあたる。途中、いくつものトンネルを抜けてきたが、ここ島越は、トンネルとトンネルの間に開けた狭い空間だが、この狭いところを津波は駆け上がって駅も集落も壊滅させた。

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(写真5 島越駅外観)

 島越駅にはカルボナーラという愛称がついていて、駅舎もかつてのものはとんがり屋根のかわいらしいものだった。現在の駅舎は煉瓦壁の堂々たるもので、内部には、簡単な飲食もできる休憩室などもあり、待合室には吉村昭文庫もあって、吉村作品が常備されている。

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(写真6 クウェートからの支援に感謝するプレート)

 玄関にはプレートがはめ込まれていて、「クウェート国からのご支援に感謝します」とアラビア語、英語、日本語で書かれている。クウェートは東日本大震災にあたって多額の義援金を出していて、三鉄の復旧に多大な貢献を成してきた。プレートは三鉄の車両にもはめ込まれている。

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(写真7 島越駅周辺の復興工事はあまり進んでいるようには見えなかった)

 駅前の住宅は、高台に移転して何もないし、海側もいまだ工事中のようであまり進んでいるようには見受けられなかった。

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(参考4 被災直後の島越駅周辺)

 気仙沼から陸前高田、大船渡、釜石、宮古、田老と鉄道の距離にして169.3キロ、大船渡線から三陸鉄道へ、大震災から10年目の被災地を駆け巡ったが、現地は、道路が整備され、橋が架けられ、区画が整理されて復興は、工事としてはほぼできあがっていた。これからは建物がどれだけ築かれていくかどうかというところだが、ここまでの進捗は10年としては早かったのかどうか。
 そのことを評価するには、住民が戻ってきているのかどうか、そのことも見極めなければならない。しかし、人々が戻ってくるには被災地に魅力ある産業が立ち上がっているかどうかということが大きいわけで、結局、総合的には10年は遅すぎたと言えるのではないか。つまり、10年もかかったことによって、よそに避難していた人たちはその地で新しい生活を築いてしまっているわけで、よほどの魅力がないと、いかに生まれ故郷といえども戻るという動機にはならないのではないかと残念ながら思われる。