(写真1 国道45号線沿いに延々と続く防潮堤の壁)
7年目の被災地へ③
遅れていた山田の市街地でも復興工事が急速に進んできていた。市街中心部では銀行の支店が次々と開業し、スーパーマーケットなど商業施設も賑わっていた。
海際を走る国道45号線沿いには高さが10メートルを超すであろう防潮堤の壁が延々と続いていて、まるで万里の長城かと思われた。
(写真2 宮古駅周辺の再開発で建設中のビル)
次の宮古では、宮古駅前の再開発工事が進められていて、駅の裏手に新しいビルの建設が行われていた。2018年7月のオープンを目指しており、表側と跨線橋で渡るようになっていて、町の活性化に大いに期待できそうだった。
続いて田老(宮古市)。ここも被害の大きかったところだが、復興は早かった。岩手県沿岸部の中では最も早いのではないか。復興計画の青写真をいち早く引いたせいで、住宅は高台に移転させ、旧市街中心には商業施設や野球場などを集約させていた。
歴史上度重なる津波から町を守ろうと高さ10メートルもある防潮堤を二重にめぐらしていて、〝万里の長城〟と呼び町の自慢だったが、このたびの震災ではそれさえも乗り越えられてしまった。また、その防潮堤への過信が、逃げることの判断を遅らせ、人的被害を大きくしてしまった。
その教訓ということなのか、このたび訪れるとその防潮堤のさらに外側(海側)に新しい防潮堤を築いている工事中で、どこまでも津波と闘うという姿勢が見えた。
(写真3 新しく3本目の防潮堤(左奥)を築き強固な防護の工事が行われていた田老)
7年目の被災地を巡って感じたこと。復興後の町の外郭が見えてきていた。早いところでは住宅も建ちはじめていた。商店街も形成されつつあるようだった。
やっとそこまで来たか、随分と遅かった、というのか、このあたりの評価は分かれるに違いないが、意外に早かったと感じている人はいないだろう。
これで、山田線宮古-釜石間が来年3月に復旧すれば、復興にも大いに弾みがつくのではないか。復旧後は三陸鉄道へ移管されることが決まっており、久慈から盛まで岩手県沿岸部は三陸鉄道による鉄路で一本につながる。
自動車専用道路の建設も急速に進んでいて、三陸沿岸を南北に結ぶ道路も部分開通を重ねながら全面開業を目指しているし、内陸部と沿岸部を結ぶ盛岡-宮古道路の建設も進捗しているし、物流とともに人の往来も活性化するものと期待される。これも大半が山間部での建設だから、トンネルだけでも40本も掘らなければならなかったほどで、大工事の連続だった。
ここまで来てふと思いをめぐらせることは、ふるさとを離れ避難していた人たちは果たしてどれほど戻るのだろうかということ。7年も経てば、避難先とはいえ新しい生活がすでに定着しているのではないか。
盛岡へ避難している人たちの間では、都会は病院も近いし、仕事も確保しやすいというようなことで、ふるさとへ戻ることを手放しで考えている人たちの方が少ないという状況もあるようだ。
震災時小学校6年生だった子どもたちも、すでに高校を卒業して新生活に入っている。友だちも大部分は避難先にいる。
このような事情が垣間見られる中で、被災地がいかにかつての輝きを取り戻し復興しているのか、果たして働く場はあるのか、産業は育成されているのか、難題が山積している。
国道45号線を走っていると、ここはもともと国立公園であるところ、美しい海岸線が続いていて、豊かな景観がやわらかに身を包んでくれる。
どこまで進んだら復興が完了したと言えるのか、それはわかりにくいことではあるが、ふるさとに避難先から人々が帰ってきて笑顔が取り戻せるよう念願して止まないところだ。