ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

角島灯台(山口県下関市)

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(写真1 すらりと背の高い角島灯台)

重要文化財指定現役灯台巡り③

 角島(つのしま)は、山口県北西部の島。現在は2000年に完成した角島大橋によって結ばれている。海域としては日本海のうち響灘の北のはずれということになる。角島とは、島の東西にある二つの岬が角のように見えるところから名づけられたらしい。角島灯台は、この二つの岬のうち西の夢崎にある。

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(写真2 角島灯台への最寄り駅滝部駅)

 角島灯台へは、山陰本線の滝部駅あるいは特牛駅からバス便がある。ただし、便数が非常に少なく、慎重に時刻表を検討する必要がある。

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(写真3 本土から角島に渡る角島大橋)

 滝部駅7時58分発。始発で、角島を巡回して戻ってくるルート。乗客1名。つまり自分だけということ。あらかじめ運転士に下車したい停留所名を知らせておいた。30分ほどすると角島大橋にかかった。見事なコバルトブルーの海に長い橋が架かっている。全長1,780メートルもある。さらに進むと、角島灯台公園前。運転士が声をかけてくれて、灯台への道順を教えてくれた。
 すぐに灯台が見えてきた。バス停から徒歩10分ほど。すっくと立ち実に美しい灯台だ。全国に姿のいい灯台は数多くあるが、これは五指に入るのではないか。感動する。

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(写真4 角島灯台の初点銘版。明治九年三月一日とある)

 しかも、145年前の完成当時のままの姿だというから驚く。初点灯が1876年(明治9年)である。
 ブラントンの設計で、このたび重文に指定された4基の灯台はすべてブラントンの設計によるものだ。ブラントンはイギリス人技師で、この角島灯台を設計した当時は34歳だったようだ。7年余の滞在中、26もの灯台を手がけていて、この角島灯台が最後の仕事だったという。その名の通り「日本の灯台の父」である。

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(写真5 海側から見上げた灯台)

 灯台は、高さ(地上-灯頂)が29.62メートル、灯火標高(平均海面-灯火)44.66メートルとなっており、大変背が高い。15メートル程度の台地に立っているので高い灯台にしたものであろうか。
 花崗岩による石造で、堂々として風格がある。上部に独特のデザインがあって、西洋の列柱に見えなくもない。
 半円だが、両腕を伸ばして測ってみたところ18尋(ひろ)ほどあった。尋とは両腕を伸ばした長さのこと。170センチある自分の身長から勘案すると約30メートルということになる。前日訪れた部埼灯台よりは断然太い。

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(写真6 巨大な第1等フレネルレンズがわずかに目撃できる)

 灯台は登ることができる参観灯台で、展望デッキに立つと、眼下に日本海が大きく広がる。快晴だからであろうか、日本海にしては波が静かで、碧い海が美しい。灯台の魅力が増す瞬間だ。階段の終わりあたりからレンズがちらっと見えた。日本に5基しかない第1等フレネルレンズである。また、クヅ瀬照射灯という設備が付属している。

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(写真7 クヅ瀬照射灯)

 灯台のほか、現在は記念室として使われている灯台守の旧退息所や倉庫なども重文に指定されている。

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(写真8 ブラントンの座像がある展示室)

 記念館には、ブラントンの座像があり、業績を讃えた展示が行われていた。展示室には第1等フレネルレンズの模型があって、高さが2メートルもあろうかという大きさで驚くほどだった。

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(写真9 重文に含まれている旧退息所。現在は記念館となっている)

 周辺は、角島灯台公園として整備されていて、自生しているというハマユウが美しい白い花をたくさん咲かせていた。

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(写真10 ハマユウが咲き誇る公園から遠望した灯台)

                        (2021年7月20日取材)

<角島灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号[国際標識番号]/0715[M7397]
位置/北緯34度21分1秒 東経130度50分5秒
名称/角島灯台
所在地/山口県下関市豊北町角島
塗色・構造/無塗装塔形、石造(花崗岩)
レンズ/第1等大型フレネル式
灯質/単閃白光 毎5秒に1閃光
実効光度/閃光67万カンデラ
光達距離/閃光18.5海里(約34キロ)
明弧/352度-232度
塔高/29.62メートル
灯火標高/44.66メートル
初点灯/1876年(明治9年)3月1日
管轄/第七管区海上保安本部門司海上保安部

六連島灯台(山口県下関市)

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(写真1 島の北に建つ六連島灯台)

重要文化財指定現役灯台巡り②

 六連島(むつれじま)は、響灘(日本海)に浮かぶ小島。下関から渡船が出ている。下関駅前の漁港側から歩いて5分ほど。竹崎桟橋。渡船場のそばにキョウチクトウ(夾竹桃)が咲いていた。珍しくも淡い桃色をして実に美しい。

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(写真2 六連島への渡船六連丸)

 六連島と結ぶのはその名も六連丸。定員80人の小さな船。日に往復4便しかない。16時40分発の便に乗船。乗客は10数人。全員島に帰る人たちか。

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(写真3 出港後の渡船から振り返ってみた六連島桟橋)

 六連島は、下関の西約4キロメートルに位置しており、周囲わずかに3.9キロ。航空写真で見ると、空豆のような形をしている。高い山はないようだ。
 竹崎桟橋を出港すると、細い水路を走っていく。左は彦島というらしい。大型船は通れないのではないか。途中右手に造船所。クレーンが4基ほど林立していたが、漁船など小型船の建造が中心のようだ。

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(写真4 彦島大橋と右下は造船所)

 やがて、彦島大橋をくぐると外洋に出た。貨物線やコンテナ船など大型の船舶が多い。係留されている船も少なくない。その中に東京海洋大学の船があった。真っ白い船体が美しい。
 甲板で一緒になったおばあさんが話し好き。下関の病院に行った帰りだという。島が多く、いろいろと名前を教えてくれる。彦島は橋ができて得をしたと言う。
 途中、緑色と朱色の二つの浮標が見えた。間隔1キロほどか。大型船はこの二つの浮標のあいだを通る決まりだという。六連島灯台はとてもいい場所に建っていると重要性を強調していた。

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(写真5 六連島に向かう船の背後には小倉の街。製鉄所のキューポラが見える)

 背後に目をやれば、小倉の町がくっきりと望める。おばあさんは、若いころは島から小倉まで泳いで渡ったことがあるらしい。

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(写真6 渡船から遠望した六連島灯台)

 そんな話を伺っていたら、そうこうして六連島が見えてきた。竹崎桟橋から約20分。島の右端に灯台が見えている。おばあさんによれば、海沿いの道を行けばすぐに灯台への登り口があるとのこと。
 なるほど、10分も歩かないうちに登り口。階段を登るとすぐに灯台。いかにも古い灯台。初点銘版に明治四年十一月廿一日とある。ただし、これは旧暦で、新暦なら1872年1月1日である。神戸以西で3番目、山口県内で最も古い灯台。

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(写真7 灯室にはLED灯器)

 ブラントンの設計になるもので、白色塔形で、半円の付属舎がついている。いかにもブラントンの特徴が出ている。石造無塗装で、花崗岩がやや経年変化してくすんできている。灯室を仰ぎ見ると、レンズはフレネルではなくLED灯器だった。
 この灯台は、関門海峡を抜けてきた船舶が初めて目にする光で、東端の部埼と結んで関門海峡を睨んでいる重要な役割を担っている。くだんのおばあさんの話の通りだ。幕府が英国に対し大坂条約で約定した部埼、六連島と二つの灯台が、そろって重要文化財に指定されたということで、大変意義深い。なお、この二つの灯台は、設置理由・時期、設計・建設が近似しているところから双子灯台と呼ばれることがあるらしい。

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(写真8 灯台から見た本土側)

 灯台からはしきりに航行する大型船舶と、下関と北九州がまるで海峡の対岸のように見えた。

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(写真9 史蹟 六連島燈台行幸所の石碑)

 灯台のそばに「史蹟 六連島燈台行幸所」なる石碑が立っていた。明治5年6月12日、明治天皇が中国・九州地方巡幸の際、西郷隆盛らを従えて来島した記念のもの。明治天皇が灯台を行幸したのはこのときが初めてだったとのこと。
 帰途、渡船場で帰りの船を待つあいだ、付近をぶらぶらしていたら、細長い大きな段ボール箱を持ったおばさんに出会った。伺うと、花を運んでいるのだという。この島はウニやアジなどの海産物のほか花卉が産物なのだという。なんでも、瓶詰めのウニを工夫したのはこの島が最初なのだということだった。
 灯台が重文に指定されたことは歓迎される。島起こしにしたい。それで、灯台に登る階段の草取りなどをして整備しているが、島全体としてはまだ盛り上がりが少ない。
 とにかく島は年寄りばかりで若者がいない。渡船の便数も減って住みづらい。以前は保育園もあったが数年前になくなった。小学校もないから、子どもたちは船で下関の学校に通ってる。高校まではそうやって通っているが、卒業すると島を出て行って戻ってこなくなると語っていて、典型的な過疎の様相だった。
 渡船場から振り返って島を見上げると、島の斜面に段々と家並みが見えた。島内では、男が軽トラ、女はオートバイが足らしく、くだんのおばさんもオートバイにまたがっていた。

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(写真10 船着場から見た島の様子)
                         (2021年7月19日取材)

<六連島灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号/5537
位置/北緯33度58分7秒 東経130度52分1秒
名称/六連島灯台
所在地/山口県下関市六連島
塗色・構造/白色塔形、石造(花崗岩)
レンズ/LED灯器
灯質/単閃白光 毎3秒に1閃光
実効光度/閃光3700
光達距離/閃光12海里(約22キロ)
明弧/140度-12度
塔高/10.6メートル
灯火標高/27.9メートル
初点灯/1872年1月1日新暦(旧暦明治4年11月21日)
管轄/第七管区門司海上保安部

部埼灯台(北九州市)

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(写真1 周防灘に面した部埼灯台)

重要文化財指定現役灯台巡り①

 現役の灯台が初めて国の重要文化財に指定された(2020年12月23日付)。指定されたのは、千葉県銚子市の犬吠埼灯台、山口県下関市の六連島灯台と角島灯台、福岡県北九州市の部埼灯台の4基。いずれも明治初期の点灯で、150年近い歴史を有するものばかり。これらの灯台にはこれまでにも何度か足を運んだものもあるが、重文指定を機に北九州山口地区の灯台を改めて訪ねてみた。
 初めに部埼(へさき)灯台。北九州市門司区所在。九州最北東端企救半島の突端、つまり、周防灘に面し、関門海峡の九州側東端に位置する。
 部埼灯台へは、門司港駅からタクシーを利用した。約40分。途中の白野江というところまでバス便があるのだが、そこから約1時間も歩かねばならず、岬巡りを趣味とする者、1時間程度の徒歩は覚悟の上なのだが、白野江にはタクシーはないというので、この日は真夏の炎天下、熱中症が懸念されてやむを得ずタクシーに乗ったのだった。
 灯台は丘の上に建っているのだが、麓から灯台まで手すりのついた階段が設けられている。この灯台を訪れるのは3度目だが、前回来た5年前にはなかったから、あるいは重文指定に伴って新しく整備されたものかも知れない。階段は真新しい花崗岩造りになっていて、これはこの周辺の採石場から運んだものであろう。来る途中に巨大な採石場があった。花崗岩の産地なのであろう。

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(写真2 灯台から周防灘を望む)

 灯台は40メートルほどの小高い丘の上にある。断崖絶壁というわけでは決してないが、とても見晴らしがいい。眼下は周防灘である。ややかすんではいるが対岸がはっきりと肉眼で目撃できる。山口県の小野田あたりであろうか。ひっきりなしに船が行き交う。瀬戸内海と日本海を結ぼうとするものであろう。船舶の交通量が多く、日に1,000隻も航行しているという。

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(写真3 海側から見た灯台全景)

 灯台そのものはさほど大きくはない。塔高が10メートルくらい。白色塔形で、花崗岩による石造である。両手を伸ばして測ってみたところ、半円で8尋分ある。私の身長から換算すると13.6メートルあり、円周は27.2メートルということになる。半円に渡って付属舎がついている。

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(写真4 灯台上部灯室の中にフレネルレンズ)

 日本における洋式灯台の父と言われるヘンリー・リチャード・ブラントンの設計によるもの。半円の付属舎がついたものはブラントンの設計によくみられたもの。レンズが小型だが、フレネル式だ。なお、初点銘版には明治五年正月二十二日とあった。

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(写真5 潮流信号所の電光板)

 灯台の後背部に部埼潮流信号所があって、電光で潮流の方向を示している。いかにも海峡に面した灯台である。なお、この建物はかつての官舎で、このたびの重文指定では灯台のほかこの旧官舎も含まれている。
 この部埼灯台は、幕府が英国と締結した大坂条約に基づき整備した5基の灯台のうちの一つで、九州現存最古の灯台として歴史的価値が高いものとして重文に指定された。灯台そのものは地味な外観だが、ロケーションといい、になってきた歴史的役割といい、とても印象深い灯台だ、
 なお、灯台下の海岸沿いには大きな彫刻がある。江戸末期、松明を掲げた僧清虚の像で、海峡を通る船舶に松明を焚いて安全を知らしめたという。それほどにこの海峡は船舶にとって難所だったのであろう。         (2021年7月19日取材)

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(写真6 松明を掲げた僧清虚の像)

<部埼灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号[国際標識番号]/5409[M5312]
位置/北緯33度57分6秒 東経131度01分4秒
名称/部埼灯台
所在地/福岡県北九州市門司区大字白野江字部埼
塗色・構造/白色塔形、石造(花崗岩)
レンズ/第3等小型フレネル式
灯質/連成不動単閃白光 毎秒15秒に1閃光(燈光会が設置した現地の看板には、連続でやや暗い不動光が点灯するなか15秒間に1回白い閃光を発する、と解説があった)
実効光度/閃光31万カンデラ、不動光2.2千カンデラ
光達距離/閃光17.5海里(約32キロ)、不動光10.5海里(約19キロ)
明弧/全度
塔高/9.7メートル
灯火標高/39.1メートル
初点灯/1871年(明治5年)1月22日
管轄/第七管区門司海上保安部

ローレンス・ブロック『殺し屋』

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アメリカらしい小説

 ケラーを主人公とする10話からなる連作短編集。
 ケラーは、殺しを稼業とするニューヨーカー。マンハッタンの一番街に面し、イーストリヴァーやクイーンズボロ・ブリッジが見えるアパートメントに住んでいる。戦前から建っているアール・デコ風のロビーと係員のいるエレヴェーターつきの高層建築で、部屋は19階にあり寝室は一つだが快適。独身、年齢不詳。スーツを着た押し出しのいい男とある。
 仕事は、ホワイト・プレーンズから連絡が入る。ホワイト・プレーンズはニューヨークの北にあり、ニューヨークきっての高級住宅地として知られる。ハーレムラインの電車で30分ほどであり、近年、日本からのビジネスマンも住むようになった。アパートメントからはタクシーでグランド・セントラル駅まで飛ばして電車に乗る。
 ホワイト・プレーンズでは、トーントンプレースのヴィクトリア朝風の館に住む〝親爺〟から指示が出る。取り次ぐのは秘書のドット。つまり、依頼は親爺が吟味し諾否を決める。それをケラーに回すわけだ。
 とにかく仕事のディテールがきちんと書き込まれているのが魅力。このような仕事が現実にあるのかどうか、殺し屋稼業の実態など我々には知るよしもないのだが、アメリカならと思わせられるリアリティで、読む者を惹きつける。
 彼の仕事に気まぐれは無用だった。会ったこともない男を殺すために千マイルも旅する仕事は、気まぐれで引き受けられるような類いのものではない。
 素人を相手にするときには、遵守すべき鉄則がふたつある。ひとつはプロに徹することだ。もうひとつは、そう、決して素人など相手にしないこと……
 仕事は、事故死と自然死、このふたつがどんな場合においても一番いい。
 しかし、ときにはこういう仕事もある。ポケットから輪にした針金を取り出し、イングルマンの首に巻きつけた。すばやく、静かで、完璧な手口だった。首の骨を折ったこともあった。
 仕事柄、ケラーは全米中を飛び回る。
 ポートランド、デンヴァー、ワイオミング州キャスパー経由マートイングゲイル、シェリダン、ソルトレイクシティ、ラスヴェガス、フィラデルフイラ、オマハ、セントルイス、タルサ、シンシナティ等々。
 旅先ではレンタカーを借り、ドライブインに泊まる。どちらも料金は日程に余裕を持たせて前払い。
 食事は無頓着。ピザハットだったりもする。
 空腹だったので全部たいらげた。味にかかわらず。そして、ここには住みたいとは思わないだろう?と自分につぶやいた。
 仕事の中身は様々だ。これがこの短編の面白味。一編ごとに意外な展開が多くなかなか読み筋通りにはいかない。
 ケラー自身の正体がばれてしまったこともあるし、人ちがいをしてしまったことも。指示されたターゲットのホテルの部屋番号が何と違っていたのだ。すでに一度地元の殺し屋が失敗した仕事というのもある。当然、ターゲットは警戒を強めるから仕事はむずかしくなる。

 それにしても、これはアメリカらしい小説と言えるものかどうか。映画ということでは、ジャン・レノ主演の『レオン』がニューヨークを舞台ににしていたし、パリを舞台にしたアラン・ドロン演じる『サムライ』も孤独な一匹狼の殺し屋を描いて面白かった。
 日本には組織のしがらみを受けないフリーランスの殺し屋を描いたいい映画はないものかと思い起こせば、もう50年以上前にもなるか『狙撃』があった。加山雄三主演という異色のキャストで、スナイパーのディテールが描かれていて印象深い。
 小説では印象深いものがなくてすぐには思い起こせない。中村文則や矢作俊彦あたりが書いてくれたら面白いものになるのではないか。勝手な思い込みだが。
(二見文庫、田口俊樹訳) 

映画『スーパーノヴァ』

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(写真1 映画館に掲示されていたチラシから引用)

最愛にして大親友

 二人の男。年上の作家タスカーとピアニストのサム。20年来一緒に暮らしているパートナーである。
 二人は休暇を取ってキャンピングカーで湖水地方の旅に出る。
 晩秋であろうか、美しい風景が広がる。穏やかな起伏の山々と湖面が鏡のように輝く湖が広がるイギリスの景観である。
 道中、サムが買い物をしているあいだにタスカーがいなくなってしまった。自分がどこにいるのかもわからなくなっていたのだった。
 タスカーの認知症が進んでいることは、お互いが口にこそ出さないのもののわかっていた。
 サムは、いつまでも一緒にいたいと願っていたし、タスカーを施設に入れるなどということは考えもしなかった。
 タスカーは、私はお荷物になることを願わないし、元の私を覚えていて欲しいといい、サムは「最愛にして大親友」だと語っていた。
 あるとき、サムはタスカーのノートを見る。そこには原稿の下書きが書かれていたのだが、途中から何も書かれないページが続き、ひと言、soryとだけ書かれていた。また、タスカーの荷物には自死をするための薬が隠されていたことに気づく。
 タスカーは、「自分でコントロールできるうちに決断したい」「私は君を苦しめている]「私を愛しているなら許して欲しい。逝かせてくれ」と訴える。
 ラストシーン。二人は手を取り合って窓辺にたたずんでいる。画面はゆっくりとフェードアウトしていく。これで映画は終わったかと思ったら早とちりで、すると、サムがピアノを演奏している場面に移る。弾いているのはエルガーの<愛の挨拶>だった。とても余韻が長く続いた。
 美しい映像。静かに流れる。シナリオがいいのだろう、語り合う言葉がとてもいい。
 一緒にいつまでもいたいと思うことが愛なのだろう。そう思わせてくれる。同性愛に対する偏見が恥ずかしくなるような映画だった。
 スーパーノヴァとは、超新星のこと。私もいつの日か大宇宙からやって来たのだ。
 主演した二人がとにかく名演だった。この自然な演技があったからこそこの映画は美しくなった。タスカーを演じたスタンリー・トゥッチは『プラダを着た悪魔』で、サム役のコリン・ファーズも『英国王のスピーチで』で知っていた。ついでに、<愛の挨拶>は『レディ・マエストロ』のラストシーンでも演奏されていた。なお、どうでもいいようなことだが、エルガーはイギリスの人。<愛の挨拶>をピアノで演奏するのは珍しくはないか。元々はピアノ曲だったのだろうか。エルガーその人はヴァイオリニストだったのだが。
 これほどしみじみとした情感溢れる映画も少ない。
 ハリー・マックイーン脚本・監督。2020年イギリス映画。

映画『ライトハウス』

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(写真1 映画館に掲示されていたチラシから引用)

人間の極限を描く

 ライトハウスとは灯台のこと。
 舞台は、18世紀か、ニューイングランドの孤島の灯台。この孤島に二人の灯台守が渡ってくる。一人は初老の灯台守トーマス・ウェイクで、もう一人が灯台守の経験のない青年のイーフレイム・ウィンズロー。期限は4週間の契約で、報酬は千ドルと悪くない。
 ウェイクは灯台長のような役割で、ウィンズローをことごとくこき使う。水槽を洗い、壁を磨き、石炭を運ぶ。過酷な労働で、ウィンズローをいじめ抜く。ウェイクは灯りを守る役割に徹していて、灯室には鍵をかけておりウィンズローも入らせない。
 ある日、仕事の邪魔するカモメを追い払うが、ウェイクはカモメは不吉だからかまうなと警告するが、ウィンズローとカモメとの仲は悪くなる一方で、ついには殺してしまう。
 日が経つにつれウィンズローの気はすさんでいき、ウェイクとのあいだは険悪となっていく。
 ついには衝突もするが、明日には任期を終えて帰れるという前夜酒を飲んで迎えの視察船を見逃してしまう。
 嵐が続き、船が接岸できる様子にはない。ウェイクによれば、7カ月も帰れなかった事例もあるという。
 浜で人魚を見つける。人魚の誘いにつられて人魚を抱いてしまう。狂気が迫ってきている。
 ウィンズローの過去が露わになり、ウェイクの嘘も明らかとなっていき、やがて凄惨な争いとなる。
 孤島での生活。いつ来るとも知れない支援。二人の関係は険悪となり、人間の極限が描かれていて、終始息が詰まる。聖書の言葉が重要な意味を持っているのだが、私には残念ながらわからなかった。
 舞台となった灯台のこと。白色円塔形のレンガ造。どっしりとした存在感がある。デザインは欧米によくある伝統が感じられた。外壁を白く塗色している場面があったが、このような業務も灯台守自身が行ったものであろう。レンズは高さが2メートル以上もある大型のフレネル式だった。つまり、大型灯台ということになる。夜間、灯台の灯りが暗闇をさいて光っていた。
 画面は四角い。モノクロ。この映像がこの映画を第一級のものとしていた。鳴り止まない霧笛。人間を極限に追い詰めていく素晴らしい映画言語だった。
 また、ウェイクを演じたウィレム・デフォー、ウィンズローのロバート・パティンソン、出演者はこの二人だけなのだが、この二人の名優による鬼気迫る演技は特筆ものだったし、この演技がなければこの映画の緊張感は得られなかったであろう。
 ロバート・エガ~ス監督。2019年アメリカ映画。
 

ベートーヴェンのピアノコンチェルト

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(写真1 内田光子ピアノによるベートーヴェンのピアノコンチェルト全集のCD外装)

内田光子による全集

 自宅に籠もった生活が続いているから音楽はよく聴いている。これまでも音楽は好きで、朝のコーヒーを飲みながらCDをかけていた。ただ、それもこれまではクラシックでも、ジャズでも何でもありだったが、このごろでは多少は系統だって聴くようにしていて、先ごろまではベートーヴェンのピアノソナタを楽しんでいた。それで、ヴィルヘルム・ケンプのCD全集を購入して全32曲を繰り返し聴いていた。
 このごろでは、ピアノ協奏曲に手を伸ばしている。これもCD全集を購入していて、内田光子のピアノに、オーケストラはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、指揮クルト・ザンデルリングである。
 ベートーヴェンにピアノコンチェルトは5曲しかなく、全集もCDは3枚。
 第1番。提示部が長い。3分もある。ピアノの演奏がなかなか出てこない。第1楽章は流麗で、第3楽章になって軽やかになった。
 第2番も提示部は長い。この時代のコンチェルトの流儀だったのかもしれない。第1番も第2番も1795年ごろの作曲で、シンフォニーの第1番よりもやや早い年代。オーケストラの演奏はシンフォニーかと思うほどに力強い。ちょっとおかしな比喩だが。
 第3番はさらに提示部は長くて3分30秒もあった。このあたりは演奏者のやり方にもよるのだろうが。それも、オーケストラの演奏がいったん途切れてからピアノの演奏が始まった。これにはちょっと驚いた。このあたりは、ピアノコンチェルトを代表する名曲として人気が高いラフマニノフのピアノコンチェルト第2番が、いきなりピアノの演奏で始まりすぐさまオーケストラが追いかけてくるところとでは大きな違いだ。これは1900年の作曲だから、100年経ってピアノコンチェルトも随分と流儀が変わったものであろう。
 第4番は曲全体にドラマ性があったが、その分、ピアノが弱くなったように感じられた。

 第5番にいたってコンチェルトとしての完成度が高まった。提示部ばかり気にするようだが、第5番ではオーケストラのタクトが振り下ろされるやすぐさまピアノの力強い演奏が始まった。<皇帝>の愛称がついているほどに人気の高いコンチェルトだが、なるほどと思わせられた。1809年の完成で、この年代は、シンフォニーなら第5番<運命>や第6番<田園>と同じ時代。ソナタなら第23番<熱情>も同年代だ。重厚であり雄大。
 音楽好きではあるが、音楽ファンというほどのものでもなく、いわんや格別の造詣があるわけでもない。ただ、漫然と聴いているだけ。しかし、美術もそうだろうが、数多く見ていく、数多く聴いていくと、それなりに鑑賞力がついていくのではないか。まあ、評論家になるわけでもないから、必死になることではないが。
 ベートーヴェンにピアノソナタが32曲はともかく、シンフォニーの9曲に比べてもコンチェルトの5曲は少ない。自分で作曲した曲を自ら演奏したというピアニストでもあるベートーヴェンにしてこれはどうしたことか。
 しかも、第1番や第2番ではオーケストラの編成も小さいようだ。これは、ソナタに限らずコンチェルトにおいても、貴族の館などで演奏することを想定して作曲したからではないかと言われている。
 そう言えば、ハンガリーの首都ブダペストに音楽史博物館というのがあって、そこには古い時代からのピアノが展示されていた。初期のころのピアノは鍵盤の数も少なく、小さなものだった。リストもハンガリーの出身だが、ピアニストあるいは作曲家がピアノの発展を促していったものであろう。とくに、ベートーヴェンにおいてその姿勢は顕著だった。
 ピアノを独奏した内田光子。私には演奏家の違いや、演奏のスタイルなどわかろうはずもないが、内田さんの演奏はとてもきちんとしたもので、丁寧なものと感じた。世界的ピアニストに対してずぶの素人が生意気なことだが。