ABABA’s ノート

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ベートーヴェンのピアノコンチェルト

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(写真1 内田光子ピアノによるベートーヴェンのピアノコンチェルト全集のCD外装)

内田光子による全集

 自宅に籠もった生活が続いているから音楽はよく聴いている。これまでも音楽は好きで、朝のコーヒーを飲みながらCDをかけていた。ただ、それもこれまではクラシックでも、ジャズでも何でもありだったが、このごろでは多少は系統だって聴くようにしていて、先ごろまではベートーヴェンのピアノソナタを楽しんでいた。それで、ヴィルヘルム・ケンプのCD全集を購入して全32曲を繰り返し聴いていた。
 このごろでは、ピアノ協奏曲に手を伸ばしている。これもCD全集を購入していて、内田光子のピアノに、オーケストラはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、指揮クルト・ザンデルリングである。
 ベートーヴェンにピアノコンチェルトは5曲しかなく、全集もCDは3枚。
 第1番。提示部が長い。3分もある。ピアノの演奏がなかなか出てこない。第1楽章は流麗で、第3楽章になって軽やかになった。
 第2番も提示部は長い。この時代のコンチェルトの流儀だったのかもしれない。第1番も第2番も1795年ごろの作曲で、シンフォニーの第1番よりもやや早い年代。オーケストラの演奏はシンフォニーかと思うほどに力強い。ちょっとおかしな比喩だが。
 第3番はさらに提示部は長くて3分30秒もあった。このあたりは演奏者のやり方にもよるのだろうが。それも、オーケストラの演奏がいったん途切れてからピアノの演奏が始まった。これにはちょっと驚いた。このあたりは、ピアノコンチェルトを代表する名曲として人気が高いラフマニノフのピアノコンチェルト第2番が、いきなりピアノの演奏で始まりすぐさまオーケストラが追いかけてくるところとでは大きな違いだ。これは1900年の作曲だから、100年経ってピアノコンチェルトも随分と流儀が変わったものであろう。
 第4番は曲全体にドラマ性があったが、その分、ピアノが弱くなったように感じられた。

 第5番にいたってコンチェルトとしての完成度が高まった。提示部ばかり気にするようだが、第5番ではオーケストラのタクトが振り下ろされるやすぐさまピアノの力強い演奏が始まった。<皇帝>の愛称がついているほどに人気の高いコンチェルトだが、なるほどと思わせられた。1809年の完成で、この年代は、シンフォニーなら第5番<運命>や第6番<田園>と同じ時代。ソナタなら第23番<熱情>も同年代だ。重厚であり雄大。
 音楽好きではあるが、音楽ファンというほどのものでもなく、いわんや格別の造詣があるわけでもない。ただ、漫然と聴いているだけ。しかし、美術もそうだろうが、数多く見ていく、数多く聴いていくと、それなりに鑑賞力がついていくのではないか。まあ、評論家になるわけでもないから、必死になることではないが。
 ベートーヴェンにピアノソナタが32曲はともかく、シンフォニーの9曲に比べてもコンチェルトの5曲は少ない。自分で作曲した曲を自ら演奏したというピアニストでもあるベートーヴェンにしてこれはどうしたことか。
 しかも、第1番や第2番ではオーケストラの編成も小さいようだ。これは、ソナタに限らずコンチェルトにおいても、貴族の館などで演奏することを想定して作曲したからではないかと言われている。
 そう言えば、ハンガリーの首都ブダペストに音楽史博物館というのがあって、そこには古い時代からのピアノが展示されていた。初期のころのピアノは鍵盤の数も少なく、小さなものだった。リストもハンガリーの出身だが、ピアニストあるいは作曲家がピアノの発展を促していったものであろう。とくに、ベートーヴェンにおいてその姿勢は顕著だった。
 ピアノを独奏した内田光子。私には演奏家の違いや、演奏のスタイルなどわかろうはずもないが、内田さんの演奏はとてもきちんとしたもので、丁寧なものと感じた。世界的ピアニストに対してずぶの素人が生意気なことだが。