ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

大阪湾と紀伊水道をつなぐ紀淡海峡

(写真1 淡路島の東端生石鼻から見た紀淡海峡)

日本海峡紀行

 紀淡海峡とは、読んで字のごとく、紀州と淡路島の間の海峡である。具体的には、和歌山県和歌山市の田倉崎と兵庫県洲本市の生石鼻(おいしはな)の間を指し、海峡幅は約11キロ。海峡は、大阪湾と紀伊水道をつないでいる。海峡内の海域にはやや和歌山寄りに友ヶ島があり、別名友ヶ島水道とも呼ばれている。

(写真2 海峡の港へと行く加太線電車)

 海峡を渡るには、かつては、和歌山市の加太港から洲本市の由良港の間に旅客船が運航されていたが、現在は廃止されている。ただし、加太港から友ヶ島までは現在でも渡船が出ている。

(写真3 加太駅。加太港へは徒歩10分ほどか)

 海峡は船で渡りたいもの。今や海峡全部を渡るという訳にはいかないが、途中まででも行ってみたい。南海加太線で和歌山市駅から加太駅に向かい、加太駅から加太港まで徒歩10分ほど歩くつもりだったが、加太駅の駅員によると、友ヶ島汽船は欠航になっているとのこと。さほど強い雨でもないし、午後には晴れ間も出るという予報だったが、1日4便ある船は全便欠航を早々と決めたものらしい。
 何たることか。悄然としていたが、泳いで渡るわけにいもいかない。これが鉄道ならば、不通区間があっても、バスやタクシーなど代替交通があるものだが、どうしようもない。これが海の旅かと早々と思い知ったことだった。
 ところで、友ヶ島は和歌山県和歌山市所在。地ノ島、神島、沖ノ島、虎島の総称で、いずれも無人島。最も大きいのが沖ノ島。淡路島-沖ノ島間が由良瀬戸、沖ノ島-地ノ島間は中ノ瀬戸、地ノ島-紀伊半島間を加太ノ瀬戸と呼んでおり、このうち、由良瀬戸が幅も約4キロと広く重要航路となっている。ちなみに、中ノ瀬戸は幅約500メートルと狭い上、暗礁が多く航路に適さず、加太ノ瀬戸も幅約800メートルで水深が浅く、大型船の航行は難しい。
 加太は、和歌山市から南海の本線を紀ノ川から分岐し加太線で約20分。さかな線の愛称があり、鯛を模して車体は赤く、つり革の握りは鯛の形をしてる。加太は、漁港であり海水浴場などのある観光地でもある。
 反対の淡路島側はどうか。友ヶ島への渡航は諦めて和歌山市まで引き返し、和歌山港から徳島港へ渡り、翌日、淡路島を訪ねた。
 淡路島は、瀬戸内海国立公園に位置し、瀬戸内海東側をふさぐようにあって、大阪湾、播磨灘、紀伊水道に囲まれている。西洋ナシのように下ぶくれの形をしており、面積は日本列島主要4島を除き、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬に次いで広い。地元のタクシー(神戸ナンバー)の運転手が、淡路島は琵琶湖とほぼ同じ面積だと話していた。もっとも、島と湖では比較するにもイメージがわきにくいが。人口は13万人。なお、淡路島というのは、阿波への路というのが語源らしい。

(写真4 由良港の様子。奥は成ヶ島)

 紀淡海峡の淡路島側は由良港が加太港に対置している。淡路島は兵庫県だが、このあたりは淡路島の南東に位置し洲本市所在である。洲本市街中心からバス便があり、洲本市由良支所付近に由良港がある。漁船が中心の港だが、付近に魚市場は見当たらなかった。
 すぐ目の前が成ヶ島という小さな島で、渡船が出ている。かつての加太港と結ぶ船もここから出ていたのかと思い、付近にいた年配の男性に尋ねたところ、「それは知らない。聞いたこともないし、随分昔のことではないか」とのことだった。

(写真5 生石公園にある砲塔の遺物)

 紀淡海峡を最短で結ぶのは、淡路島側は生石鼻。高台にある生石公園から望むと、成ヶ島の向こうに友ヶ島が大きく見える。淡路島の東端に位置するだけに大変見晴らしのいい場所で、眼下の由良瀬戸を頻繁に船舶が行き交っている。大阪湾と紀伊水道を結ぶだけに交通量は多いようだ。タンカー、貨物船、漁船などとみられた。
 また、この周辺は明治期砲台があったようで、大砲が展示されてあった。東京湾と大阪湾は最重要防衛拠点だった。
 この公園でしばし絶景に見とれていたら、地元の人らしい中年の夫婦が「洲本城からの展望もいいですよ」と教えてくれた。

(写真6 洲本城跡から見渡した紀淡海峡)

 それで、洲本城跡に回った。なるほど展望がいい。標高133メートルという三熊山の山頂部に築かれていて、天守閣は再建されたものだが、石垣は広大で、保存状態も良く往時を偲ばせている。洲本城の骨格を築いたのは、秀吉の家臣で賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる脇坂安治。3万石を与えられた。

(写真7 再建された洲本城天守)

 海峡には、海峡を挟んで両岸に町があり、歴史があるということがわかって興趣が尽きなかった。

(写真8 洲本城跡から見下ろした洲本市街)