ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

岩合光昭写真展

(写真1 会場の様子)

ねこといぬ

 NHKテレビ『岩合光昭の世界ネコ歩き』で知られる岩合光昭の写真展。千葉県の柏市民文化センターで開かれている。
 テレビでは、多くはネコを追いかけているが、この写真展では、ネコとイヌが一緒に写されている写真が多かった。
 世界中で取材したようで、それこそ世界どこにも足を運んでいる。穏やかな表情をした写真が多くて癒やされた。
 しかし、一瞬のシャターチャンスを得るためのにどれほどに時間を投入したものか。写真というのは基本的にそういうものだろうが、それにしても、気の遠くなるような時間が必要だったのだろう。
 ただ、ネコもイヌもある種風景化してしまったようで、餌を奪い合ったり縄張りを守り合ったりといった生存に関わるような厳しい場面がほとんど皆無だった。
 また、ネコとイヌの一緒の姿を追い求めていたが、好みでいえば、ネコだけの表情、姿、行動にもっと注力して欲しかったように思えた。

文=リウ・スーユエン、絵=リン・シャオペイ『きょうりゅうバスでとしょかんへ』

台湾の絵本

 ミミとココとフェイフェイは、おはなしがだいすき。
 水曜日の午後は、町の図書館のおはなしのじかん。でも、図書館はちょっと遠くて、学校が終わってからだと遅刻しちゃう!
 でも 大丈夫!きょうりゅうバスがたすけてくれる。三人はきょうりゅうバスに乗って図書館へ。ちょうど間に合いました。きょうりゅうくんも図書館へ入ろうとしますが身体が大きくて入れません。それに、図書館カードももっていなかったのです。
 館長さんは、きょうりゅうくんをきょうりゅうバスに任命しましました。きょうりゅうバスは図書館員さんといろんな本を載せて町や村を回ります。きょうりゅうくんはこの仕事がだいすきになります。
 クレヨンで描いたような絵がとてもやさしい。自然な色遣いがのびのびしている。きょうりゅうではないが、トトロのような優しさが伝わってきて好ましかった。こどもたちが目を輝かして読んでいる様子が微笑ましかった。
 台湾の絵本とは珍しいが、友人の石田稔が翻訳していて手に取った。彼は何冊も中国の本を翻訳しているが、どれも児童書ばかり。児童書の翻訳には一般の本にはない苦労があるはずで、いかにこどもたちの読む力を引き出せるかがポイントだろう。そういった意味で、石田の日本語訳は絶妙だった。
(世界文化社刊)

近藤健児/久保健『クラシック偽作・疑作大全』

名曲は名曲だが

 偽作とは、真の作曲者が別人と判明している作品のこと。疑作とは、真の作曲者が他人かもしれないと疑われている作品のこと。
 18世紀までは売らんがために勝手に有名作曲家の名前をつけて別人の楽譜を出版するなど、ずさんなことが平気でなされていたため、大作曲家の作品目録のなかには相当数の偽作や疑作が紛れ込むこととなったという。
 偽作・疑作とされた作品のその後はさまざまで、ハイドン作とされていた「セレナード」やモーツアルト作「子守歌」のように、他人作とわかった途端に演奏も録音も激減した曲がある一方で、バッハ(大バッハ)作とされていた「フルート・ソナタ」のように、これまでと変わらずよく演奏されている曲もあるという。
 本書は、偽作、疑作に関する論考で、わが国では数少ない偽作・疑作に関する探求者である。
 バロックの時代、とりわけバッハについては時代も遡るだけに随分と偽作・疑作も少なくないらしい。
 これがベートーヴェンにおいては、偽作の入り込む余地はなくなったとしている。ベートーヴェンは自らの作品に作品番号付与するようになっておりなおさらだ。
 それにしても驚かされる。
 「アヴェ・マリア」を作曲したカッチーニは、実は架空の人物らしい。叙情性もあって名曲だと思ってこれまで聞いてきたが。もっとも、こちらは研究者でもなし、いい曲だと思って聴いているだけのこと。それで、作品の価値は下がるわけでもなし、

しずくいし夏の音楽祭東京公演2022

ミューゼシード・イン・ムジカーザ

 コロナ下のこと、開催自粛が続いていて今年は4年ぶりの開催。
 そもそも「しずくいし夏の音楽祭」とは、岩手県雫石町で毎年8月に開催されている室内楽を中心とした音楽祭で、東京公演はその出演者たちによるもの。主催者によると、日本で最も小さな音楽祭だとのこと。なお、ミューゼシードとは、若手の音楽家集団のことで、また、ムジカーザとは会場の名前で、住宅街に佇みようにある音楽専用の小ホール。
 演目は、演奏順にモーツァルト<弦楽四重奏曲第17番変ロ長調「狩」>、ドビュッシー<ピアノ三重奏曲ト長調>、ブラームス<ピアノ四重奏曲第1番ト短調>の3曲。
 演奏は、第1バイオリン冨沢由美、第2バイオリン岡田紗弓、ヴィオラ臼木麻弥、チェロ西山健一、ピアノ森知英。
 森さんのピアノがよかった。森さんのファンだからというばかりではなく、円熟味が増していた。自身の演奏のことばかりではなく、三重奏曲でも四重奏曲でもアンサンブル全体の調和と進行をリードしていた。
 ドビュッシーの三重奏曲は叙情性の高い曲だったし、ブラームスの四重奏曲も出だしが勇壮な曲だったのだが、いずれの曲でもスコアをよく読み込んで完成度の高い曲に仕上げていた。
 

浦賀水道 海峡の町

日本海峡紀行

(写真1 燈明堂に近い浦賀港の港口)

浦賀水道を渡る④

 海峡は、海峡を渡ることがまずは魅力だが、海峡の町も楽しみ。
 三浦半島側は横須賀であり、房総半島側は金谷である。
 このたびの浦賀水道二日がかりとなった海峡の旅では、途中、横須賀に泊まった。すべての行程を日帰りとすることもできたのだが、強行軍を嫌って2日とした。
 横須賀は、首都圏に住むものとして何度か訪れたことはあるのだが、泊まるほどのこともなくていつも日帰りだった。
 しかし、いつもあわただしく日帰りするのと違って、泊まってみると新しい魅力があるのだった。
 浦賀。浦賀駅に降り立つと、正面に旧・浦賀ドックの屏があって、「1853年浦賀に黒船来航」と題する黒船来航時の大きな絵が掲げられている。
 ここからわが国開国の緒を開いたのである。幕末、咸臨丸がアメリカに向け出港したのもこの港だったし、浦賀ドックは駆逐艦等数多くの戦艦を建造してきた。なお、浦賀ドックはその後住友重機械工業浦賀造船所となり、現在は、造船事業から撤退し、造船所跡は住重から横須賀市に無償譲渡とされている。
 浦賀は、天然の良港で、東京湾の重要な港として栄えてきた。深い入り江が特徴で、港口からの奥行きは約1.5キロ。江戸期には、廻船問屋が軒を並べていたらしい。

(写真2 浦賀の渡し。こちらは西渡船場)

 深い港を横切るために〝浦賀の渡し〟として親しまれている渡船が現在も運航されている。幅は東西に233メートル。所要わずか3分で、対岸で合図を送れば船を回してくれる仕組み。料金は400円(市民200円)。利用する人が多くて、この日も船が行ったり来たりしていた。

(写真3 まるで御座船のような浦賀の渡しの船)

 渡し船といえば、尾道水道の渡船や江戸川の矢切の渡しなどが有名だが、現在も現役で活躍している渡しというのも風情があっていいものだ。

(写真4 復元された現在の燈明堂)

 浦賀港でもう一つ注目は〝燈明堂〟という江戸時代につくられた和式灯台のこと。慶安元年(1648年)の建築で、油を燃やして灯りにしたという。浦賀港の入口に位置し、日本初の洋式灯台観音埼灯台が明治2年(1869年)にできてその使命を終えた。現在の燈明堂は平成元年(1989年)に復元された。がっしりした木造建築で、往時は灯台守が常駐していたという。
 横須賀は、かつて鎮守府や海軍工廠があって帝国海軍の拠点だったし、現在でも海自があり防大もあり、アメリカ海軍の軍港もあって日本を代表する軍都である。
 京急の横須賀中央駅が横須賀の町の中心であろうか。大変にぎやかな町で、びっくりしたほどだった。夕食に寿司を食べたいと思ったが、いい店が見つからなかった。軍港ではあるものの、漁港ではないのだろう。

(写真5 横須賀のどぶ板通り)

 それで、ふと思いついて、〝どぶ板通り〟へ行ってみた。横須賀中央からもほど近いのだった。アメリカ海軍の兵隊が遊んでいることで知られる通りだが、なるほど、横文字の店が多いし、店の佇まいもそのように思われた。バーやハンバーガーの店などが多いようだった。ただ、夜7時頃と宵の口で時間が早かったせいか、まだ、あまりにぎやかさはなかった。

(写真6 JR内房線浜金谷駅)

 一方、浦賀水道を渡った金谷。こちらは小さな集落がある程度で、にぎやかなところはなかった。
 金谷港から徒歩8分ほどでJR浜金谷駅。また、ここからさらに8分ほど歩いたところに鋸山(のこぎりやま)ロープウエー。標高330メートルの山を3分で登る。

(写真7 鋸山ロープウエーの展望台から見渡した浦賀水道。平たく見えるのは観音埼灯台付近)

 展望台からは、東京湾と浦賀水道が一望にできる。絶景であり人気の観光地である。ロープウエーを降りたところからはハイキングコースが開けている。この日も平日だったが、遠足らしい地元の小学校の生徒たちと、対岸から渡ってきた中高年のハイカーたちが元気よく歩いて行った。

浦賀水道四つの岬・灯台

日本海峡紀行

(写真1 洲埼灯台から見た三浦半島)

浦賀水道を渡る③

 浦賀水道を囲む四つの岬・灯台。1日目に三浦半島の剱埼灯台と観音埼灯台を訪ね、2日目には房総半島の洲埼灯台と富津岬を踏破した。
洲埼灯台
 三浦半島久里浜港から東京湾フェリーで房総半島金谷港へ浦賀水道を渡って、まずは洲埼灯台(すのさきとうだい)へ。
 金谷港からJR浜金谷駅までは徒歩8分ほど。内房線で館山へ。勝山や岩井、富浦などと海水浴や釣でにぎわう路線だ。24分。館山は温暖な地らしく鮮やかな明るい駅舎。洲埼灯台へはここからバスが出ている。館山湾を囲むように小さな半島といった趣き。32分で洲埼灯台前。

(写真2 バス停から見上げた洲埼灯台)

 丘の上に灯台の頭が出ている。帰りのバスの時間を確認して灯台へ。徒歩7、8分。よく整備された階段を登っていく。房総半島南西端(北緯34度58分31秒、東経139度45分27秒)である。

(写真3 灯台からは富津方面もしっかりと見えた。それほど、突き出ているということ)

 実に見晴らしがいい。浦賀水道が眼前に広がっている。両腕を広げると、180度の眺望だ。三浦半島が剱崎から観音崎まで見渡せる。房総半島側も富津岬の先までも広がっている。
 対岸の剱埼灯台とこの洲埼灯台を結ぶ線が湾口だが、ここ洲埼灯台の方がほんのわずかだが緯度が低い。つまり、南だということ。

(写真4 白堊の洲埼灯台。ややずんぐりしている)

 灯台は、白い円塔形。ややずんぐりしている。塔高は約15メートル。一般的には表示されていないが、太さは、例によって自分の両腕をいっぱいに広げて測ったところ約10ヒロ。身長の170センチから勘案すると約17メートルということ。太い方だ。海面から灯火までの灯火標高は約45メートルとある。つまり、30メートル近い断崖の上に建っているということになる。ここもそうだが剱埼も観音埼も高い断崖の上に建っていたから、さほど高い塔高は必要ではない。それに水道を照らしているから、光の届く光達距離も18.5海里(約34キロ)程度だ。
 初点銘板はなかったが、地元の教育委員会が設置した看板によると、大正8年(1919年)12月15日の初点灯とある。明治期灯台ではないが、100年を超す歴史があり、国登録有形文化財に指定されている。
 この灯台を訪れるのは三度目だが、前回から6年ほど経って、階段が新たに設けられたり、展望台が設置されるなどの整備が行われていたが、これも登録文化財への指定を機に行われたものかも知れない。そう言えば、バス停から灯台までの途中に新しい住宅が数軒も建っていて様変わりの様相だった。
 帰途、館山駅に戻って、名物の鯨弁当を買おうとしたのだが、電車の時間が迫っていて、用意が間に合わないとのことで諦めたが、大変残念だった。甘塩っぱく煮付けられた独特の味が思い起こされた。

富津岬

 館山駅から青堀駅まで戻り、バスで富津岬(ふっつみさき)へ。ただし、バスは富津岬公園の入口までしか行かず、公園口から岬の突端まで約2キロ。30分歩かねばならない。猛烈に蒸し暑くてこれは辛い。それにしても、このたびの4岬・灯台の訪問は歩くことが多くて、10分以内は先ほどの洲埼灯台だけ。残る剱埼も観音埼も20分の距離。日頃は1時間程度は登りでも頑張って歩いて行くが、この蒸し暑さでは20分でも辛い。それに、多少は体力も落ちてきているようだ。また、この公園内の道はほぼ一直線。嫌になるほど単調。

(写真5 五葉松の姿をした富津岬展望台)

 岬の先端には五葉松のような形をした展望台がある。明治百年記念とある。高さは5階建てくらいか。階段はあるのだが、ヘトヘトに疲れた身にこの階段は辛い。
 最後の気力を振り絞って登ると、まさしく絶景である。要するにこの富津岬は砂州なのである。だから、灯台を建てようとはしなかったものであろう。
 眼前には東京湾と浦賀水道が間近に一望できる。対岸の観音埼灯台が驚くほど近い。10キロほど。房総半島最西端(北緯35度18分4秒、東経139度47分8秒)である。三浦半島最東端の観音埼灯台と比べると、緯度で3分20秒ほど違う。経度も3分ほどの差。

(写真6 砂州が弧を描いて伸びている)

 砂州が弧を描いて伸びている。かつて訪れた際には、岬の先端からさらに砂州が一直線に伸びていて歩いて渡れたものだったが、潮の流れで変化したものらしい。

(写真7 浦賀水道に浮かぶ第一海堡)

 岬のすぐ前には平べったい島が見える。海堡である。二つあって右が第一海堡である。約1.5キロしか離れていない。面積は23,000平方メートルとある。上陸は不可とあった。
 なお、同じ浦賀水道ながら、房総半島側は船舶の交通量が、三浦半島側に比べてやや少ないように思われた。航路がずれているのかも知れない。

(写真8 岬の後背地は砂州が伸びた富津公園)

 背後に目を向けると、富津公園となっている富津岬の全容が望まれた。白砂青松、長い砂州であることがわかる。砂州全体の延長は5キロとのこと。2キロ程度で不満を言っていてはいけなかったのである。(2022年7月8日) 

浦賀水道の灯台と岬

日本海峡紀行

(写真1 浦賀水道を航行する船舶)

浦賀水道を渡る②

 三浦半島と房総半島に挟まれた浦賀水道には、取り囲むように四つの岬・灯台がある。
 三浦半島側には、剱埼灯台と観音埼灯台、房総半島側には洲埼灯台と富津岬である。なお、富津岬には灯台はない。剱埼と洲埼を結ぶ線が湾口に位置し、観音埼と富津岬を結ぶ線が東京湾と浦賀水道の境となる。なお、崎と埼を混誤用しているように思われるかも知れないが、崎は地名であり、埼は灯台名に用いられる海上保安庁の用語である。
 この四つの岬・灯台を二日がかりで訪ねた。1日目に剱埼(つるぎさき)と観音埼(かんのんさき)、2日目に洲埼と富津岬である。

(写真2 剱埼灯台全景)

 初めに剱埼灯台。三浦半島の南東端に位置し(北緯35度08分25秒、東経139度40分38秒)、京浜急行三浦海岸駅からバスが出ている。ちなみに、特急電車で品川から1時間20分である。初め海岸を走っていたが、ほどなく丘陵を登っていき、やがて終点剱崎。このあたりもまだ住宅地である。ここまで約20分。
  帰りのバスの時間を確認して歩き出した。バス通りからすぐに左に折れると、農地となり、ほどなくして畑の向こうに灯台の上部が見えだした。このあたりは三浦ダイコンで知られるが、通り沿いの畑にはスイカが実をつけていた。
 やがて灯台。バス停から徒歩約20分。白い八角形の塔形である。塔は高さの割に太い。高さは約17メートル。太さは、両腕をいっぱいに延ばして測ってみると、12ヒロあり、自分の身長から換算すると約20メートルか。なお、ここでヒロ(尋)とは、縄の長さの単位で、左右に延ばした両手先の距離。

(写真3 剱埼灯台初点銘板)

 灯台に掲示してある初点銘板によると、明治4年1月11日の初点灯で、いわゆる江戸条約8灯台の一つ、日本で7番目の洋式灯台。わが国灯台の父リチャード・ブラントンの設計で、現在の灯台は二代目でコンクリート造だが、当初は石造だったとのこと。
 ただ、ブラントンの設計にしては、付属舎が四角いし、半円の付属舎というブラントン設計の特徴がない。あるいは、関東大震災で倒壊した折に付属舎も失われたものかも知れない。

(写真4 灯台上部のフレネル式レンズ)

 見上げるとレンズがはっきりと見える。フレネル式レンズの第2等である。このときは日中だから光ってはいなかったが、夜になって光がともると、複合群閃白緑互光といって、30秒ごとに白光2回緑光1回を発する珍しい灯質。

(写真5 対岸の房総半島がうっすらと見える)

 灯台から浦賀水道に目を向けると、対岸の房総半島が近い。この日は晴れてはいるが見晴らしはあまりよくはなく、灯台の入口にあった海保(海上保安庁)と燈光会が建てた看板によると、晴れていれば、伊豆大島や伊豆半島までも見えるという。しきりに船舶が往来している。太平洋から入ってくる船、出て行く船である。
 次は観音埼灯台。京浜急行で堀ノ内まで戻り乗り換えて浦賀駅下車。一眼レフカメラや望遠レンズも含めると25キロもあるリュックサックを背負っていたので、駅のコインロッカーに預けようとしたところ、あろうことか、この駅にコインロッカーはないとのこと。観音崎などを控えた観光地だろうに何としたことか。やむを得ずリュックを背負ったままで行動した。
 浦賀駅からバスで観音崎へ。約20分。終点から海沿いに歩き、長い階段を登ってやっと灯台。この間徒歩20分。リュックが背に食い込む。

(写真6 美しい姿を見せる観音埼灯台全景)

 登り切ると真っ白な灯台。すらりとして姿が美しい。貴婦人のようだ。この日は蒸し暑かったが、風が頬に心地よい。三浦半島の東端に位置する(北緯35度15分22秒、東経139度44分43秒)。

(写真7 観音埼灯台を建設した仏人技師ヴェルニーの胸像)

 日本の灯台の歴史はここからはじまった。つまり、1869年2月1日が初点灯で、日本初の洋式灯台なのである。着工した1868年11月1日は灯台記念日。着工日が記念日というのも珍しい。どういういきさつがあるものか、完成日でも初点灯日でもない記念日というのも面白い。初代がレンガ造であり、二代はコンクリート造だったが、関東大震災で被災し現在のものは三代目。初代はフランス人技術者のレオンス・ヴェルニーが関わった。敷地内に灯台資料室があり、ヴェルニーの胸像が展示されている。
 この灯台は、バルコニーまで登ることができる。こういう灯台を参観灯台といい、全国に16基ある。

(写真8 浦賀水道を航行中のタンカー。船舶の長さがわかるだろうか。これで300メートルもある)

 高さ19メートル、70段ほどか、息を切らして登り切ると、眼前に浦賀水道が広がっている。船舶の交通量が非常に多い。重要航路ということがすぐわかる。自動車運搬船、タンカー、鉱石運搬船、貨物船、LNG船などと船種も色とりどり。何という名前だったか、大型客船も通っていった。管理人の女性によると、夕方には飛鳥Ⅱも太平洋に向けて出て行くはずだと話していた。横浜港が近いからこういう楽しみもある。

(写真8 上まで登るとレンズが間近に見えた。フレネル式レンズである)

 また、上まで登るとレンズが間近に見えた。
 目をこらして見ると、海堡がうっすらと見えた。海堡とは、洋上要塞のことで、海上に人工的に造成された。明治から大正にかけて、観音崎と富津岬の線上に建設された。第一と第二の二つの海堡が残っており、遠くから見ると、平べったい島のように見える。
 敷地内には、二つの歌碑があった。
 一つは、高浜虚子の「霧いかに深くとも嵐強くとも」で、今一つは初代海上保安庁長官だった大久保武雄の「汽笛吹けば霧笛答えふる別れかな」だった。
 美しい海に美しい灯台。風光明媚であり、歴史もある灯台で、観音埼灯台といえば日本でも人気の灯台であろう。

 1日目はここまで。(7月7日)