ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

浦賀水道の灯台と岬

日本海峡紀行

(写真1 浦賀水道を航行する船舶)

浦賀水道を渡る②

 三浦半島と房総半島に挟まれた浦賀水道には、取り囲むように四つの岬・灯台がある。
 三浦半島側には、剱埼灯台と観音埼灯台、房総半島側には洲埼灯台と富津岬である。なお、富津岬には灯台はない。剱埼と洲埼を結ぶ線が湾口に位置し、観音埼と富津岬を結ぶ線が東京湾と浦賀水道の境となる。なお、崎と埼を混誤用しているように思われるかも知れないが、崎は地名であり、埼は灯台名に用いられる海上保安庁の用語である。
 この四つの岬・灯台を二日がかりで訪ねた。1日目に剱埼(つるぎさき)と観音埼(かんのんさき)、2日目に洲埼と富津岬である。

(写真2 剱埼灯台全景)

 初めに剱埼灯台。三浦半島の南東端に位置し(北緯35度08分25秒、東経139度40分38秒)、京浜急行三浦海岸駅からバスが出ている。ちなみに、特急電車で品川から1時間20分である。初め海岸を走っていたが、ほどなく丘陵を登っていき、やがて終点剱崎。このあたりもまだ住宅地である。ここまで約20分。
  帰りのバスの時間を確認して歩き出した。バス通りからすぐに左に折れると、農地となり、ほどなくして畑の向こうに灯台の上部が見えだした。このあたりは三浦ダイコンで知られるが、通り沿いの畑にはスイカが実をつけていた。
 やがて灯台。バス停から徒歩約20分。白い八角形の塔形である。塔は高さの割に太い。高さは約17メートル。太さは、両腕をいっぱいに延ばして測ってみると、12ヒロあり、自分の身長から換算すると約20メートルか。なお、ここでヒロ(尋)とは、縄の長さの単位で、左右に延ばした両手先の距離。

(写真3 剱埼灯台初点銘板)

 灯台に掲示してある初点銘板によると、明治4年1月11日の初点灯で、いわゆる江戸条約8灯台の一つ、日本で7番目の洋式灯台。わが国灯台の父リチャード・ブラントンの設計で、現在の灯台は二代目でコンクリート造だが、当初は石造だったとのこと。
 ただ、ブラントンの設計にしては、付属舎が四角いし、半円の付属舎というブラントン設計の特徴がない。あるいは、関東大震災で倒壊した折に付属舎も失われたものかも知れない。

(写真4 灯台上部のフレネル式レンズ)

 見上げるとレンズがはっきりと見える。フレネル式レンズの第2等である。このときは日中だから光ってはいなかったが、夜になって光がともると、複合群閃白緑互光といって、30秒ごとに白光2回緑光1回を発する珍しい灯質。

(写真5 対岸の房総半島がうっすらと見える)

 灯台から浦賀水道に目を向けると、対岸の房総半島が近い。この日は晴れてはいるが見晴らしはあまりよくはなく、灯台の入口にあった海保(海上保安庁)と燈光会が建てた看板によると、晴れていれば、伊豆大島や伊豆半島までも見えるという。しきりに船舶が往来している。太平洋から入ってくる船、出て行く船である。
 次は観音埼灯台。京浜急行で堀ノ内まで戻り乗り換えて浦賀駅下車。一眼レフカメラや望遠レンズも含めると25キロもあるリュックサックを背負っていたので、駅のコインロッカーに預けようとしたところ、あろうことか、この駅にコインロッカーはないとのこと。観音崎などを控えた観光地だろうに何としたことか。やむを得ずリュックを背負ったままで行動した。
 浦賀駅からバスで観音崎へ。約20分。終点から海沿いに歩き、長い階段を登ってやっと灯台。この間徒歩20分。リュックが背に食い込む。

(写真6 美しい姿を見せる観音埼灯台全景)

 登り切ると真っ白な灯台。すらりとして姿が美しい。貴婦人のようだ。この日は蒸し暑かったが、風が頬に心地よい。三浦半島の東端に位置する(北緯35度15分22秒、東経139度44分43秒)。

(写真7 観音埼灯台を建設した仏人技師ヴェルニーの胸像)

 日本の灯台の歴史はここからはじまった。つまり、1869年2月1日が初点灯で、日本初の洋式灯台なのである。着工した1868年11月1日は灯台記念日。着工日が記念日というのも珍しい。どういういきさつがあるものか、完成日でも初点灯日でもない記念日というのも面白い。初代がレンガ造であり、二代はコンクリート造だったが、関東大震災で被災し現在のものは三代目。初代はフランス人技術者のレオンス・ヴェルニーが関わった。敷地内に灯台資料室があり、ヴェルニーの胸像が展示されている。
 この灯台は、バルコニーまで登ることができる。こういう灯台を参観灯台といい、全国に16基ある。

(写真8 浦賀水道を航行中のタンカー。船舶の長さがわかるだろうか。これで300メートルもある)

 高さ19メートル、70段ほどか、息を切らして登り切ると、眼前に浦賀水道が広がっている。船舶の交通量が非常に多い。重要航路ということがすぐわかる。自動車運搬船、タンカー、鉱石運搬船、貨物船、LNG船などと船種も色とりどり。何という名前だったか、大型客船も通っていった。管理人の女性によると、夕方には飛鳥Ⅱも太平洋に向けて出て行くはずだと話していた。横浜港が近いからこういう楽しみもある。

(写真8 上まで登るとレンズが間近に見えた。フレネル式レンズである)

 また、上まで登るとレンズが間近に見えた。
 目をこらして見ると、海堡がうっすらと見えた。海堡とは、洋上要塞のことで、海上に人工的に造成された。明治から大正にかけて、観音崎と富津岬の線上に建設された。第一と第二の二つの海堡が残っており、遠くから見ると、平べったい島のように見える。
 敷地内には、二つの歌碑があった。
 一つは、高浜虚子の「霧いかに深くとも嵐強くとも」で、今一つは初代海上保安庁長官だった大久保武雄の「汽笛吹けば霧笛答えふる別れかな」だった。
 美しい海に美しい灯台。風光明媚であり、歴史もある灯台で、観音埼灯台といえば日本でも人気の灯台であろう。

 1日目はここまで。(7月7日)