ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

太田愛人『辺境の食卓』

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 昭和56年(1981)1月10日発行の中公文庫である。
 本書カバーの表側そでに次のような著者紹介がある。ちょっと長くなるが引用してみよう。
 太田愛人(おおたあいと) 昭和三年(1928)、盛岡市に生まれる。盛岡中学校(現盛岡一高)卒業後、盛岡農林専門学校(現岩手大学農学部)で林学を学ぶ。東京神学大学大学院修士課程修了。日本キリスト教団大町教会牧師、柏原信濃村伝道所牧師を経て、現在横浜上星川教会牧師。月刊通信誌『辺境通信』発行人。著書に『羊飼の食卓』(第二八回日本エッセイストクラブ賞)、『明治キリスト教の流域』『第二イザヤ書講解』などがある。
 本書は、著者紹介にもある通り『辺境通信』に掲載されたエッセイをまとめたもの。『辺境通信』は、月刊で信者たちへの折々の便り。8ページ建てとある。
 50年も前の執筆とはいえ、信濃大町が辺境とは思われないが、著者自身は、フロンティアという意味で積極的に受け止めて欲しいと述べている。それは、たくましい生活者、社会への批判者でもあったヘンリー・ソローを注視し、『森の生活』が念頭にあったもののようだ。
 1編が文庫3ページほどと短く、毎回分が日記のように綴られている。
 とにかく生活が豊か。豊穣な食に驚嘆する。もちろん、都会の豊かさではなく、自然がもたらしてくれる豊かさである。
 ルバーブが出てくる。ジャムにするのである。夏に刈り取ったものをジャムにするのは、パンにぬるほか香りが家一杯にこもることも白い冬の楽しみだという。すぐり(グーリベリー)に木苺(ラズベリー)やリンゴもジャムにしている。
 キノコ採りに林に入っていく。ムラサキシメジはキノコめし、キンタケは味噌汁、クリタケは朴葉味噌に仕込み、チョコタケはうでてダイコンおろしで食う。
 ソバは好き。長野の北で出来るカラ味の強い北山ダイコンに生醤油をかけたのをツユにして食うのが、最もソバにふさわしい野趣に富んだ食い方である。
 故郷盛岡の味のことが書かれている。中学一年の時、首相の座を降りた米内光政が母校盛岡中学で講演したことに触れながら、司馬遼太郎は南部人の特徴を、容貌が茫洋としていること、派閥をつくらぬこと、精神のダンディズムをあげて、他に新渡戸稲造、後藤新平、斉藤実、田中館愛橘にも共通していることを指摘していたと書いている。
 肝心の盛岡の食のこと。米内はイモ好きだったらしく、著者も、土のついたサトイモを洗ってうでて、ツルリと皮からイモをぬき出して醤油をかけて食う。またはダイコンかキノコを入れて味噌汁にして食う。同じサトイモでも盛岡のイモは旨いのだと書いている。
 とにかく食のことを書いてこれほど読ませるし、読書家であり、社会時評に対して透徹したものの見方に感心した。
 なお、本書は、堀江敏幸と角田光代が交互に書いた『私的読書食録』(新潮文庫)で堀江が本書を取りあげていたので40年ぶりに手にした。
 実は、本書については発行されたときにすぐに読んでいたのだが、40年も経って読み返してみても、面白さはまったく色あせない。それよりも太田の生き様がわかるようになっていたことに新鮮に驚いた。
 なお、本書のカバー画は深沢紅子の<あけび>で、深沢も盛岡の人、盛岡と軽井沢に個人美術館があるが、このカバー画は太田の希望だったのか、とても慈しみ深く感じたのだった。
(中公文庫)

ああ辺戸岬灯台!

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(写真1 生い茂った樹木のなかにひっそりとたたずむ辺戸岬灯台)

岬と離れた場所にひっそりと

 辺戸岬に辺戸岬灯台はない。もちろん、大きくは辺戸岬のうちなのだが、岬の突端付近には見当たらなく、後ろを振り向いて後背地を探しても見当たらないのである。沖縄本島最北端を目指してきた者ならば、誰しも突端にある大きな石碑〝祖国復帰闘争碑〟周辺から海上遠く鹿児島県の与論島を望むであろうが、辺戸岬灯台についてはその存在にすら気にかけることはない。
 灯台は、帰途、国道58号線を那覇に向かっていくと2キロほど離れたところ右側、つまり、那覇から直接灯台を目指せば、辺戸岬の手前にひっそりとある。ただし、国道からは数百メートル入り込んでいるし、生い茂った樹木に覆われていて灯台には気がつかない。
 というよりも、探してもなかなか見当たらない。私はこれまでに3度辺戸岬を訪れそのつど辺戸岬灯台を探したが、初めて訪れた2007年にこそ灯台に行き着けたものの、その後は2度も探しきれなかった。国道から海岸に向かう道は数本あって、雑草に轍の跡がかろうじてあるだけで、なかなか灯台に行き着く道を探しきれない。冬枯れの季節ならばと2016年にはわざわざ11月に豪雨の中を目指したがたどり着けなかった。
 こうなると、もとより辺戸岬そのものは魅力的な岬なのだが、何としてでも灯台にたどり着きたいと願うようになり、辺戸岬灯台踏破こそが目的となったほどだった。
 辺戸岬を目指した4度目のこのたび。カーナビが役に立たないことはこれまでの経験でわかっていた。それで、緯度経度をあらかじめ調べ、GPSを用意した。このことに関してはこのごろのスマートフォンは優秀だ。
 それに、辺戸岬にあった観光案内所で中年の男性職員に灯台の場所を尋ねたところ、「辺戸岬灯台は藪の中にあり、なかなか危険だし、おすすめできません」とのこと。しかし、灯台が目的なのだと強く粘ったところ、砂利を敷いた道があるからそこを入っていくと良いとのこと。

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(写真2 車が駐車できる程度にわずかに開けた場所から灯台が上部をのぞかせていた)

 教えられた通り、なるほど砂利道がある。これまではなかったはず。GPSも機能している。そのまま進んでいくと、背の高い藪と生い茂った樹木に覆われてはいたが、かまわず突き進んでいくと藪がわずかに開け、車が2台駐車されているし、何やら観測施設のような建物が2棟もある。これも以前はなかったもの。
 ここに車を停め、周囲を見渡すと、何と、ここからは灯台の先っぽが見えるではないか。
 思わず藪の中を漕ぐように突き進んでくとほどなく灯台が藪の中にたたずんでいる。おすすめできませんとは言われたものの、この程度の藪漕ぎは灯台ファンたる者覚悟のこと。

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(写真3 簡単な塔屋の上に乗った灯塔)

 14年ぶりの辺戸岬灯台である。ひょろ長い灯塔。台の上にのっており地上から10メートルほどか。はしごが付いている。灯室は小さく、灯器はLEDであろう。

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(写真4 灯塔上部)

 近寄って見たくとも、鉄製の屏が敷地を囲み門扉は施錠されている。門扉の脇に辺戸岬灯台の表示。

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(写真5 門扉のそばには紛れもなく確かに辺戸岬灯台の表示)

 また、屏を伝っていくと、塔屋に初点銘版らしきものを目撃できた。デジタル画像を拡大したところ、やはり初点銘版で、辺戸岬灯台 初点昭和36年7月とあった。

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(写真6 塔屋の壁面に簡単な初点銘版=写真はデジタル画像をトリミングしてある)

 灯台の周囲は生い茂った樹木に覆われていてまったく視界は開けない。だから、この灯台が東シナ海を照らしていることは地図でわかってはいても、実際に海を見ることはできなかったし、どの程度の高みにあるものか見当もつかない。
 ちなみに、辺戸岬は東シナ海と太平洋を分かつような位置にあるのだが、この辺戸岬灯台は、東シナ海に面しており、沖縄から奄美諸島に向かう航路上の必要性からこの位置に設置されたものであろう。ただ、この灯台が辺戸岬に建てられたものであれば、岬と灯台がセットになって、辺戸岬の魅力がもう少し増したのではないかと勝手な思いを持ったのだった。
 何はともあれ辺戸岬灯台は確認できた。その姿は初めて訪れたときとまったく変わっていなかった。車を駐車した場所に観測施設のようなものがあったが、この施設に出入りするために国道から砂利道を整備したものであろう。これによって辺戸岬灯台踏破は随分と容易になった。(2021年8月4日訪問)

<辺戸岬灯台メモ>(灯台表、海保HP等から引用)
航路標識番号/6983
位置/北緯26度52分0秒 東経128度14分8秒
名称/辺戸岬灯台
所在地/沖縄県国頭郡国頭村
塗色・構造/白塔形
光源/LED
灯質/単閃白光 毎6秒に1閃光
光達距離/12海里
塔高/11メートル
灯高/71メートル
初点灯/1961年(昭和36年)7月
管轄/第十一管区中城海上保安部

沖縄本島最北端 辺戸岬

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(写真1 祖国復帰闘争碑の建つ辺戸岬突端)

祖国復帰の願い強く

 辺戸岬(へどみさき)は、沖縄本島最北端。この日は晴れていたから沖合にうっすらと平べったい島影が見える。鹿児島県奄美諸島最南端与論島であろう。彼我の距離は23キロといわれる。この間は海峡ではないが、津軽海峡の龍飛崎-白神岬間の19.5キロと大差ない。

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(写真2 辺戸岬から遠望すると与論島がかすかに見えた。平べったい島で、最高標高が98メートルとある)

 しかし、かつてアメリカ占領時代、この間には、北緯27度線上の海上で国境線が敷かれていた。当時、本土から沖縄に渡るにはパスポートが必要だった。また、国境線を挟んで海上では与論島の人々と沖縄の人たちが船を出して交流していたということである。
 1972年の沖縄返還まで、沖縄の人々はこの辺戸岬から遠く与論島に向けて本土復帰を訴え続けた。岬の突端に建つ〝祖国復帰闘争碑〟は、沖縄返還実現後に建立されたものだが、碑文には「全国のそして全世界の友人へ贈る」と題し、吹き渡る風の音に耳を傾けよ 権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる波濤の響きを聞け 戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ……といった長文の檄文が綴られている。
 沖縄に来ると戦争が近い。多くの米軍の基地があるからだ。基地の数28、その総面積は本島の実に20%にも達する。また、いたるところに戦争の爪痕があり史蹟が残っている。本島南部の摩文仁の丘に行って平和の礎を前に鎮魂を新たにしない人はいないであろう。
 しかし、本土復帰ということに関しては、辺戸岬が象徴的存在だ。ここに戦禍はなかったようだが、沖縄の人々の塗炭の苦しみはこの辺戸岬の劈頭に建つと今に至っても強く感じる。
 沖縄本島は南北に細長い島。その距離約100キロ。南に位置する那覇から辺戸岬を目指すと、西海岸沿いに国道58号線が背骨のように貫いている。また、那覇から名護市の許田インターまでは国道58号に並行するように沖縄自動車道が走っている。
 那覇市街を出て沖縄道を使って許田インターまでが約1時間。許田からは名護市内を抜けて海岸沿いにどこまでも58号線を北上する。左は東シナ海だ。右手は国頭山地である。
 1時間ほどで辺戸岬。この日は平日の早朝だったので道は比較的空いていた。

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(写真3 辺戸岬の劈頭に建つ祖国復帰闘争碑〟)

 岬に着くと、ちょっと小高くなった劈頭に〝祖国復帰闘争碑〟が建っている。観光客が記念撮影をしている。

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(写真4 与論島+国頭村友好の絆の像)

 岬尖端周辺には様々なモニュメントが建立されているが、その一つに白い鳥のようなオブジェがある。与論島と国頭村との友好の絆として与論島から送られたものだということ。この白い像は与論島のシンボルかりゆし像らしい。

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(写真5 観光案内所)

 また、観光案内所があった。頑丈な建物で、展望台やカフェを兼ねていた。数年前に来たときにはなかったから、近年建てられたものであろう。職員が一人常駐していた。

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(写真6 荒々し景観の岬の周辺)

 岬周辺は石灰岩からなる大地となっている。明らかにカルスト地形である。台地は高さ10メートルほどの絶壁となっており荒々しい景観が見られる。
 なお、辺戸岬灯台というのがあるのだが、突端付近にはなくて、帰途探して見つけた。

沖縄のシンボル首里城

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(写真1 城壁が連なる外観)

琉球の象徴

 那覇滞在中、首里城を訪ねた。火災がどの程度だったのか、修復はどう進んでいるのか気になった。早くに来たかったのだが、首里城は沖縄のシンボルみたいなもの、物見遊山では軽軽には訪れにくかった。
 首里城とは、琉球王国の王宮。朱色の建物が特徴で、数多くの建物や門が軒を連ね、戦前には国宝に指定されていたし、2000年には世界文化遺産に登録されている。

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(写真2 首里城への最寄り駅沖縄都市モノレール首里駅)

 首里城へは、沖縄都市モノレールの首里駅が最寄り駅。モノレールに乗って儀保から首里に向かってくると、右窓、丘の上に赤い城郭が遠望できる。

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(写真3 朱塗りが美しい守礼門)

 首里駅からは、徒歩約15分。近道を使わず、最も遠くなるが守礼門から入るのが順路。堂々として美しい朱塗りの門。首里城の中で最も有名な門であろう。琉球は礼節を重んずるという意味があるという。

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(写真4 歓会門。石造りのアーチが特徴。中国風か)

 よく整備された城内をしばし歩いて行くと歓会門。アーチが石造で、その上に櫓がのっている。沖縄の衣装を身につけた係員が迎えてくれた。この姿は城内あちこちで見られた。とても丁寧な対応だった。

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(写真5 右に見える赤い建物は内郭への入口に当たる瑞泉門)

 次に進むと瑞泉門。首里城は、外郭と内郭の二重の城壁になっていて、この門は内郭への入口に当たる。ここから入ると、広い広場になっている御庭(うなー)があり、正殿への入口があったはず。しかし、正殿は火災で焼失してしまった。また、この火災では、北殿や南殿など建物8棟が焼損した。

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(写真6 首里城の城壁)

 首里城の城壁は、緩やかな曲線を描いているのが特徴で、石垣は加工しやすい琉球石灰岩を用いているとのこと。

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(写真7 古城然とした久慶門)

 古城然とした久慶門。通用門だったとのこと。主に女性が使用したという。
 どうやら首里城は、小高い丘の上に築かれていて、細長い台地に城郭が点在しているようだった。
 城からは那覇の市街が眼下に見渡せた。

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(写真8 首里城から眼下に見渡した那覇の市街)
 なお、火災からの復旧については、遺構の調査などが先行しているようで、建物の修復などはもう少し先になる様子だった。

延伸の沖縄都市モノレールに乗る

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(写真1 延伸開業された終点のてだこ浦西駅外観)

沖縄唯一の鉄道

 沖縄都市モノレールとは、沖縄で唯一の鉄道路線。通称〝ゆいレール〟として親しまれており、那覇市の那覇空港駅から浦添市のてだこ浦西駅まで全長17.0キロ、19駅。
 当初の開業は2003年8月10日で、那覇空港駅から首里駅まで12.9キロ15駅だった。開業当初は、〝くるま社会〟が根付いている沖縄で鉄道が定着できるものか、不安の声も聴かれたものの、渋滞の緩和や定時運行性が評価されて順調に発展してきた。
 延伸されたのは、首里駅からてだこ浦西駅まで4.1キロ4駅で、2019年10月1日。当初の開業から16年のことだった。

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(写真2 那覇空港駅外観)

 起点は那覇空港駅。那覇の玄関那覇空港駅に直結しており利便性が高い。ちなみに、このモノレール那覇空港駅は鉄道駅としては日本最西端駅である。なお。普通鉄道では松浦鉄道たびら平戸口駅が最西端。

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(写真3 那覇空港駅改札口)

 改札は、自動改札で、乗車券のほか、スイカなど交通系ICカードにも対応している。なお、乗車券にもQRコードが印刷されている。ちなみに、1日乗車券は800円。

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 (写真4 QRコードで読み取る1日乗車券)

 列車はすべて2両編成。全国の大方のモノレール同様跨座式。ちなみに、東京・羽田空港も大阪・伊丹空港も跨座式モノレールが都心とそれぞれ直結しており、利便性も高く航空が生活と産業に溶け込んでいる。

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(写真5 左窓眼下に見える車両基地)

 発車するとすぐに左窓眼下に車両基地。多数の列車が留置されている。白と紺の車体に赤帯が巻かれた開業当初からの車両のほかに、このごろではラッピングカーも投入されているようだ。

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(写真6 日本最南端駅赤嶺駅)

 続いて赤嶺駅。日本最南端の鉄道駅である。ちなみに普通鉄道ではJR九州指宿枕崎線の西大山駅である。

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(写真7 走行中のモノレール)

 沖縄都市モノレールはカーブが多い。モノレールの構造上の特徴を生かしている。那覇空港駅を出て赤嶺駅の手前で左にカーブしたし、奥武山公園駅を出て川を渡ってすぐに左に曲がったし、古島駅ではほぼ直角にカーブした。

 

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(写真8 車窓に見る那覇の市街)

 また、モノレールは全線高架を走っているから見晴らしがいい。那覇は起伏が多く、住宅も2階建て3階建てのコンクリート構造が多い。強風に対応したものであろう。

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(写真9 おもろまち駅、左はDFSの建物)

 旭橋駅、県庁前駅周辺は都心か。那覇随一の観光地国際通りにも近く、乗降が多かった。次のおもろまち駅も乗降が多く、ここには巨大な免税DFSが直結していて新都心と呼ばれているようだ。また、駅前はバスのロータリーとなっており、パークアンドライドの拠点となっているようだ。

 路線は、大きくは南から北東へと延びていてやがて首里駅。ここまでが当初の開業区間で、ここからが延伸区間。首里駅到着の直前から右手丘の上に首里城の城郭が見えていたが、ここは首里城の最寄り駅。首里城の正殿は火災に遭ったが、復旧はどうなっているか。

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(写真10 車窓に見える墓地)

  やがて経塚駅から浦添市に入ったが、左右に墓地が見えた。小さな石造の家のようにも見えて、沖縄独特の墓地だ。

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(写真11 てだこ浦西駅前。正面に見えるのは駐車場ビル)

 そうこうして終点てだこ浦西駅到着。那覇空港駅から約40分だった。ドームで覆った洒落た駅舎で、駅前広場は広く、バスが発着しているほか、1,000台も収容できるという大きな駐車場もあって、パーク&ライドの機能が整備されていた。ただ、駅前はまだ開けているようには見えなかった。

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(写真12 てだこ浦西駅のアート)

 沖縄都市モノレールでは、各駅にアートが設置されているのだが、このてだこ浦西駅は改札口を入った天井に美しいアートガラスがはめ込んであった。
 沖縄都市モノレールが、首里駅からてだこ浦西駅まで延伸されてすでに1年余も経っていたが、やっとこのたび乗車することができた。
 延伸区間はわずか4.1キロ4駅間のことなのだが、日本の全鉄道全路線を乗った記録を持つ者としてはやはり乗らないではいられない。
 それですぐにでも乗りに出かけたかったのだが、延伸開業した2019年10月1日と同じ月の10月31日にあろうことか首里城が火災に見舞われてしまった。首里城は沖縄のシンボルのようなもの。そんなときに鉄道三昧でもあるまいと自重していて、気分の落ち着くのを待っていたら、次には何とコロナが沖縄を襲ってしまった。
 それで、コロナが落ち着くのを待っていて、初め、2月に予定を立てていたが下火になる様子は見られず、4月に延期していたがここでもコロナは収まらず、5月、6月と再三再四延期を繰り返していて、8月ならばと最終計画を立てていて、この間、そのつど、航空券とホテルのキャンセル、変更を余儀なくされてきた。
 しかし、8月に入って落ち着くとみられたコロナはますます猛威を振るっている始末で、それで、やむなく緊急事態宣言は解除されてはいなかったのだが、感染予防のワクチンも接種を終えたことだし、家族は反対しているし、地元も歓迎しないだろうとは思ったものの、思い切って出かけてきたという次第。

 延伸区間はともかく、私はこの沖縄都市モノレールにはこれまでに4度ほど乗ったことがある。2003年の開業まもなくには乗っていた。あのころ、沖縄に鉄道は初めてとあって、小学生を対象に体験学習が行われていた。これは大人も同じことだったが、自動改札機に切符を投入しても、受け取らずにそのままスルーしてしまう人たちがいたりして悲喜こもごもだったが、開業当初のモノーレルは、景色はいいし、渋滞はなく速いし、繁華街は通るし、大変な話題だった。
 それがこのたび乗ってみると、モノレールが那覇の街に溶け込んでいるようだったし、市民の足として定着しているようだった。また、那覇空港にも直結しているから航空便利用者にとっても利便性は高く、観光客の誘致にも大きな力となっているようだった。(2021年8月3日取材)

 

高島野十郎展

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(写真1 代表作の<蝋燭>=福岡県立美術館蔵。会場で販売されていた絵はがきから引用)

生誕130年記念

 高島野十郎は福岡県久留米市出身。1890年生まれ。異色の経歴の持ち主で、東大農学部を卒業しながら画家の道を志した。しかも、絵は独学。
 出品物を見て驚いた。おおむね制作年代順になっているようだが、1点目<絡子をかけた自画像>(1920)がすごい。あまりに鋭い眼光におののくほどだ。30歳のときの作品だが、絡子とは禅宗の僧侶が用いる前掛けのようなものだろうが、どういう理由でこのような衣装を選んだものか判然としないが、そんなことよりも風貌の厳しさ、描写の緻密さが際立っている。私はいつでも自画像に関心が高いのだが、これほど見ている者を凝視した自画像も少ない。
 りんごや月、蝋燭が生涯にわたるモチーフだったようで、たくさんの連作が残されている。
 <蝋燭>は6点が出品されていたが、モチーフばかりか構図もほとんど似ている。ただ、子細に見ると、蝋燭の炎の長さなどが微妙に違うようだ。揺らぐ炎に何を託したものか。仏教に強い関心を持っていたというから、灯明の意味を持っていたものかも知れず、安寧を願っていたものかも知れない。
 これまでこの画家のことは知らなかった。没後130年記念ということで全国5会場を巡回しているようだ。私は、高島が最晩年に住んでいたという千葉県柏市の会場で見た。
 自画像の絵はがきが欲しいと思ったが、残念ながら会場では販売されていなかった。

しずくいし夏の音楽祭東京公演2021

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(写真1 演奏開始直前の様子)

大震災から10年目のコンサート

 しずくいし夏の音楽祭とは、岩手県雫石町で毎年8月に開催されている室内楽を中心とした音楽祭で、主宰者自身「おそらく日本で一番小さな音楽祭」といいながら17年の歴史を数え親しまれている。東京公演はその演奏者たちによるもの。ただ、昨年はコロナ下のこと中止となっていたが、今年は東日本大震災から10年という節目の年にあたっていて特別に意味深いコンサートになっていた。
 演奏は、ヴァイオリン冨沢由美、同岡田紗弓、ヴィオラ臼木麻耶、チェロ西山健一、ピアノ森知英。演奏者は全員前回2019年と同じメンバーだった。
 演目は、演奏順に、モーツァルト:ピアノ四重奏曲第2番変ホ長調K.493、モーツアルト:弦楽四重奏曲第16番変ホ長調K.428、ドヴォルザーク:ピアノ五重奏曲イ長調Op.81。
 演奏された3曲のなかでは、五重奏曲が断然印象深かった。叙情性があり、ダイナミックであり、様々な表情が見られた。一昨年のこのコンサートで演奏されたシューマンのピアノ五重奏曲のときにも感じたことだったが、森さんのピアノは五重奏曲全体をリードするような力強い印象を持った。また、第一ヴァイオリンとビオラ、チェロはいずれもベテランらしい素晴らしい演奏となっていた。ただ、第二ヴァイオリンは、楽章ごとに何度もチューニングを繰り返していて、その落ち着かなさが聞いている方にも伝わってきてどこか散漫になるところがあった。ずぶの素人ながら率直にはそう感じた。7月27日代々木上原のミューゼシードで。