ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

映画『ノマドランド』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

自由を求めて流浪

 ノマドとは、放浪者の意。アメリカでは、リーマンショックによる経済危機から生活破綻し住宅を失って車上生活を余儀なくされる高齢者が増えていた。彼らは自動車で寝起きし働き口を求めて全米各地を流浪する旅を行っていた。
 主人公のファーン。60代か。夫と死別し、代用教員の職も失って、住み慣れた家も捨てて一人旅に出ていた。生活の基盤は古いヴァン。改造してベッドや流しをしつらえていた。
 ある時期はアマゾンの巨大な流通センターで働き、契約が終わると次の働き口を求めて移動し、時には肉体労働もいとわない。職安に相談すると、年金受給を早期申請すれば最低限の生活はできるのではないかと助言されるが「私は働きたいのだ」と言う。
 旅の先々ではノマドたちと出会う。各地にオートキャンプ場などがあるのだ。結構な高齢者もいる。一緒に食事を作ったりして交流も行われ、連帯感も醸成されている。
 しかし、いつまでもくっついているというのでもなく、各人がそれぞれに次の場所へと移動していく。ノマドたちは自由が何よりも素晴らしいと気づいているのだ。誰かが言っていた。「我々には最後のさようならがない。我々はまた会える」と。
 雄大な自然がいい。州をまたいで様々な州へと移動しているが、西部が多いようだ。砂漠が少なくない。しかし、それすらも美しく見える映画だ。砂漠の真ん中を走っていて、ファーンは『グリーン・スリーブス』を口ずさんでいた。寒さに凍える夜があったり、食べるものに不足する日々があったりしているのだが、ファーンの表情はあくまでも穏やかだ。
 転機は二度あった。一度はヴァンが故障し、自動車屋に、修理するよりも新しい車を買ったほうがいいと勧められるが、ファーンにお金がない。それで妹に借りに行くのだが、妹は一緒に住もうと提案する。前々から妹からは誘われていたのだった。しかし、ファーンは早朝黙って去って行った。
 この場面の中だったか、子どもがファーンにおばさんはホームレスなのかと尋ねると、ファーンは「いや、私はハウスレスなのだ」と答えていて、ノマドのプライドを知ったようなことだった。
 もう一つの転機は、ノマド仲間で親しくなった男から、私は娘のところに帰るから、一緒に暮らさないかと誘われる。それで訪ねていくと、家族全員が歓待してくれたのだった。
 二度の転機でファーンは家族や家庭というものをよくよく考えさせられたのだが、ファーンは二度とも静かに誰にも知られないように黙って去って行ったのだった。突きつけられる厳しい自然と現実にファーンの心は揺れ動くが、ファーンはノマドの生活を選んだのだった。
 そこには、夫との思い出があったからだが、ファーンは「思い出は生き続ける」と言って大事にしていて、思い出の写真を片時も離すことがないほどだった。
 しかし、そのファーンも、夫と暮らした街に帰って一切を処分するや、「(夫の思い出を)引きずりすぎた」と言って、決然としていた。
 砂漠すら美しいと感じさせる映像、心象の深いところを揺さぶる音楽。とても静謐な映画だが、語りかける中身は強い。
 この映画を観ていて、この映画はドキュメンタリーなのだろうか、はたまたドラマなのだろうかといぶかしく感じられた。それほどに境界を感じさせない映画言語に感心した。傑作である。実際は、ジェシカ・ブルーダーの『ノマド 漂流する高齢労働者たち』が原作。
 主演したフランシス・マクドーマンドが断然良かった。自身が原作を読んで映画化を熱望し、自ら製作したものらしい。自身もノマドの生活に入り込んで撮影したものらしく、プロの俳優はほんの数人で、大半はノマドの人たちの協力によるものだったとのこと。
 クロエ・ジャオ監督。本作で、今年のアカデミー賞作品賞、監督賞、主演女優賞を獲得している。ちなみに、マクドーマンは三度目の主演女優賞受賞である。