ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

上砂川支線上砂川駅

シリーズ 駅 情景

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(写真1 かつての上砂川駅。映画で使われたものか、悲別駅の看板も下がっている)

廃線になった終着駅

 上砂川支線は、函館本線の支線。函館本線の砂川から上砂川の間を結んでいた。全線7.3キロ、駅数は5。

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(写真2 かつての砂川駅。跨線橋の先、左奥の列車が停車しているところが上砂川支線ホーム)

 砂川駅で、上砂川線のホームは、長い跨線橋を渡ったはずれにあった。そもそも砂川駅は、石炭輸送の中継基地として栄え、多数の側線を擁していた。上砂川線ホームに向かうにはそれらの側線を跨いでいかねばならず、当時(1993年8月22日)のノートには「上砂川行きは長い連絡橋を渡りまるで外に出てしまったのではないか勘違いするようなはずれのホームから出た」とある。なお、この跨線橋はその後解体されたらしい。
 14時22分、砂川を出ると1両のディーゼルカーは岩見沢方面に少しだけ動きすぐに左にカーブして東の空知炭田に向けて進路を取った。下鶉、鶉、東鶉と鶉(うずら)のつく駅名だけを間にわずか16分で上砂川。14時38分着。降り立った乗客の大半は鉄道ファンだったとある。

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(写真3 上砂川駅ホーム。降り立ったのは大半が鉄道ファンだった)

 上砂川駅はがっしりとした駅舎。片側1線のホームがあった。この駅はかつて倉本聰脚本演出の『昨日、悲別で』というテレビドラマの舞台になっており、悲別(かなしべつ)の駅名標がそのまま残っていた。
 また、高倉健主演の映画『駅 STATION』にもロケ地として使われていたようで、逃げる殺人犯が妹と密かに会う場面がこの駅だったらしい。あの映画では、多数の側線を持ち貨車が留置されていた駅構内が映し出されていた。映画の公開は1981年だったから、当時の上砂川駅はまだバリバリの現役だったのだ。

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(写真4 映画で使われたものか、かなしべつの駅名標が残っていた)

 結局、上砂川線は1994年5月廃止となった。私は廃止となる約9カ月前に乗ったことになる。かろうじて間に合ったわけだが、廃線時、1日あたりの乗降客数は10人だったという。
 ただ、同じ砂川駅から出ていた歌志内線は1988年に廃止となっており、上砂川支線より早かった。このため私は乗り損ねたわけだが、歌志内線は、同じ空知炭田に向かっていた路線だったし、上砂川線よりも乗降客数は多かったはずで、営業距離も長かったが、上砂川線は函館本線の支線という位置づけのため廃止はやや遅れることができた。

夕張支線夕張駅

シリーズ 駅 情景

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(写真1 石勝線夕張支線夕張駅=2013年7月16日)

廃線になった終着駅

 夕張支線は、石勝線(南千歳-新得、132.4キロ)の支線。石勝線の新夕張から別れて夕張間6駅16.1キロを結んでいたが、2019年4月1日をもって廃線となった。石炭産業の斜陽にともなって早くから廃線の俎上に上がっていた。
 北海道では、幌内線、万字線、歌志内線、上砂川支線などと、往事、石炭の積み出しのために数多くの路線が敷かれ、旅客輸送も行われていた。しかし、いずれも超のつくほどの赤字路線だったし、国鉄の分割民営化と炭鉱の閉山にともなって次々と廃止に追い込まれてきた。
 夕張支線は、そもそも北海道炭礦鉄道によって建設されたもので、その後国鉄に買収されて夕張線と称し夕張と追分間を結ぶ路線となっていたが、延伸された石勝線に編入されていた。
 石炭輸送によって築かれた路線には宿命的に盲腸線が多いが、そういう中で夕張支線は石炭輸送のみならず地域輸送としても重要な役割を果たしてきたこともあり、最後まで残った運炭路線ではなかったか。開業から126年の歴史を数えていたのだ。

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(写真2 夕張川。奥は石勝線の鉄橋)

 夕張支線の起点は新夕張。1892年の開業時には紅葉山駅と称していたらしい。石勝線が延伸された1981年に改称された。それで、起点駅なのに新がつく。出発するとすぐに左にカーブし、夕張川を渡って北上していく。右手に並行するように石勝線の鉄橋が見えた。

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(写真3 夕張駅ホーム)

 そうこうして終点夕張。全線わずか26分ほど。片側1線の行き止まりの終着駅である。ホームの端に駅舎がある。とんがり屋根の時計塔がありしゃれている。駅には観光案内センターとカフェがあった。駅前にはマウント・レイシイという名のホテルがあった。あまりに大きく立派で、どのように使われているものか、不思議なほどだった。

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(写真4 夕張市街の中心=1997年9月30日)

 駅から市街中心に向けぶらぶら歩いてみた。10分ほどか、市役所や商工会議所などのある交差点にしばらくたたずんでいたが、通った車は10台に満たなくて、まるで街自体が眠っているようだった。
 駅舎は2キロほど移動しており、初代の駅舎はこの奥にあるはずだが、見つけられなかった。

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(写真5 夕張市立夕張第一中学校碑=1997年9月30日)

 また、市中には夕張市立夕張第一中学校碑という石碑があって、それによると、昭和22年5月開校、昭和58年3月閉校とあった。随分と早くに閉校となっていたのだ。校碑には、かすれてちょっと読みにくいが、「黎明日本の国力に培う任務果たすべき」とあって石炭産業に携わる誇りと使命感が伝わってきて感慨が重くのしかかってくる。

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(写真6 起点の新夕張駅)

第17回灯台フォーラム

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(写真1 ウエブ会議システムで行われた灯台フォーラムの模様)

今年はウエブ会議システムで開催

 例年、横浜で開催されてきた灯台フォーラムが、今年は昨日5月30日インターネットで参加者間を結びオンラインで開催された。
 灯台フォーラムとは、灯台ファンの集いであり、灯台に関する今日的課題についてディスカッションする場ともなっている。『灯台どうだい?』編集長不動まゆうさんらがボランティアで事務局を引き受けてくださっている。昨年は約100名が参加した。
 今回の参加者も100人を超したらしい。しかも、ウエブ開催のいいところで、これまで参加しにくかった仙台や名古屋などと地方の方々も参加されていた。
 フォーラムでは、初めに灯台初心者もいるだろうということで、不動まゆうさんが「初めてでも楽しめる!灯台入門講座」をレクチャーした。不動さんの講演は灯台の魅力をやさしく解説してくれて、かねてからの灯台ファンとしてもとても参考になった。
 続いて、基調講演があり、海保職員の星野宏和さんが「灯台技手山本哉三郎の建てた灯台たち」と題し、ブラントンら御雇外国人技師たちが帰った後の灯台建設を担った技術者像を語って興味深いものだった。
 当時の灯台は逓信省の管轄で、技師と呼ばれた高等官の下に技手(技師と紛らわしいところからぎてとも)という判任官の技術者集団がいたといい、実際の灯台建設に当たったという。
 山本は、初代の塩屋埼灯台や水ノ子島灯台などを手がけた。山本はイギリスに渡って灯台を学んだほどで、技手の最高の地位にあり、技師になる直前に韓国の灯台建設で赴いていた韓国で病を得てなく亡くなったという。
 講演はやや専門的だったが、それだけに普段知り得る内容ではなくて貴重なものだった。
 なお、講演の後は、これもオンラインによる懇親会が行われ、これはこれで参加者同士が身近にディスカッションができてとても楽しいものだった。開始時間が遅れたせいでもあるが、話が弾んで終了したら夜の8時になっていた。

佐田岬半島佐田岬

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特集 私の好きな岬と灯台10選

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(写真1 岬の先端に立つ佐田岬灯台。海上対岸に見えるのは高島。佐賀関はその右である=2016年2月25日)

日本で最も細長い半島

 佐田岬半島は、四国全体をイノシシにも例えれば、尻尾に当たるであろうか。ちなみに、前足が室戸岬であり、後ろ足は足摺岬であろう。
 日本で最も細長い半島であり、長さは約50キロ、最大幅は6.2キロだが、最小幅はなんと800メートルに過ぎない。その先端が佐田岬であり、佐田岬灯台がある。四国で最も西に位置しており、豊予海峡を挟んで対岸は九州の佐賀関である。
 佐田岬へは半島の付け根にある八幡浜から出発する。ただ、バス便はなく、レンタカーを使用することになり、手配の都合上松山を起点とすることが容易である。私の岬への旅は基本的には行けるところまでは鉄道とし、バスへ乗り継ぐのが一般的だから、このように初めからレンタカーを駆るというのはやむを得ない場合を除いて少ない。

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(写真2 岬への中継点となる八幡浜駅前

 そのことはともかく、松山から八幡浜まで約1.5時間。鉄道なら特急で約50分のところだ。いずれにしても八幡浜駅が岬への中継点となる。
 八幡浜駅前を出発し、伊方原発の標識を右に見ながらやがて佐田岬メロディーラインに乗る。国道197号線のバイパスで、この道路の開通で佐田岬はぐんと近くなった。それまではリアス式海岸をくねくねと走り5時間もかかっていた。とにかくカーブが連続する道路で、国道197号線と語呂合わせで「イクナ(行くな)酷道」とまで呼ばれて揶揄されていたほどだった。
 佐田岬半島は日本列島最大の断層である中央構造線上にあるのだが、メロディーラインはその半島の尾根を一直線に貫いており、気持ちのいいドライブ路線だ。高台を走っているから見晴らしが良く、右に瀬戸内海、左に宇和海が一望できる。

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(写真3 細長く伸びている半島。宇和海側からの展望

 半島を渡る風が強いようで、尾根伝いにおびただしいほどの風力発電の風車が林立しているのが見て取れる。原発と言い、風力発電と言い、電力に随分と熱心な半島ではある。もっとも、岬は総じて風が強いものだから、あちこちの岬で風力発電の風車を見かける。

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(写真4 尾根伝いに林立する風力発電の風車)

 途中、堀切大橋のたもとにレストランのある公園があり、ここが半島で最も狭いところらしい。なるほど、公園の小高いところに立って見ると、確かに二つの海に足をまたいでいるようだった。細長い岬ということでは宮古島の東平安名岬があるが、細さということではともかく、半島のダイナミックな変化ということではこの佐田岬半島が勝るであろう。

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(写真5 三崎港。岬アジ、岬サバの水揚げで知られる)

 メロディラインを40分ほど走り終点で降りると三崎港。美しい漁港で、ここからはいよいよ道は狭まり、九十九折りに進まなければならない。

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(写真6 これは瀬戸内海側から見た半島の突端)

 港からさらに約30分ほどか、佐田岬の駐車場に到着する。ここから先、岬の突端までは車は入れない。駐車場にはライトバンの出店があり、イカ焼きや飲み物を売っていた。

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(写真7 駐車場からの遊歩道。椿のトンネルが続く)

 駐車場から椿のトンネルを歩くこと約20分。多少のアップダウンはあるが、遊歩道がきちんと整備されているしさほどきつくはない。途中に椿山展望台があり、ここからが佐田岬灯台を眼下に納める絶好の撮影ポイントとなっている。

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(写真8 くびれた場所は道幅がわずか数メートルしかない。左宇和海、右瀬戸内海と標識がある=1991年9月29日)

 灯台に到着する直前に簡単な標識が立っていて、左に宇和海、右に瀬戸内海とあって、なるほどここは道幅わずか数メートルしかなく、ここの水はどっちに流れるものかと考えたものだった。なお、ここからは灯台下にあるキャンプ場に行く道が分かれてる。

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(写真9 佐田岬灯台。八角形の灯塔=1998年8月20日)

 佐田岬灯台は、八角形をした堂々たる白堊の灯台。地続きではあるが小島のような印象の先端に立っている。大正11年の初点とあり、灯高は18メートル。
 眼前は豊予海峡である。大きくは豊後水道。対岸が佐賀関半島の関崎。ここは海峡が最も狭まったところで、その距離わずかに14キロ。灯光の光達距離が約35キロというから十分に届く。ちなみに、関埼灯台の光達距離が約23キロだから、海上で二つの灯台の灯りが交わっているのだろう。初点は関埼灯台が明治34年というから断然古いが、狭い海峡で二つの灯台が必要なほど、このあたりの海域は波が荒く海難が絶えなかったものであろう。
 それでだろうが、灯台には照射灯が併設されており、佐田岬の沖合650メートル付近の岩礁黄金碆(おうごんばえ)を照射している。これもれっきとした航路標識の一つだが、不動白光で、照射灯の光度は実に1800万カンデラということである。写真で見ると、まるでビームのような強い光を照射していることがわかる。
 1991年9月28日に訪れた際のメモ帳に次のような記載がある。
 灯台に立って見ると、正面に高島という島があり、その右手に佐賀関が見えた。眼前の海は澄んでおり、ちょうど岬のところで左から右へ潮が流れている。灯台の直下では漁船が漁をしている。風は弱い。目を周囲に向けると、ほとんど真後ろをのぞき300度海ばかりで、鋭く海に突き出た様子がわかる。これほど突き出た岬はほかに例がないであろう。四国の岬は室戸岬、足摺岬などといずれも味わい深いものだが、豪快さで足摺、景観に変化があるということではこの佐田岬であろうか。
 私は3度佐田岬を訪れたが、この印象はいずれの場合も変わらなかった。
 なお、豊予海峡は好漁場として知られており、流れが速いところから身の引き締まった魚が揚がる。佐賀関側で水揚げされる関アジ関サバは特に人気が高く、高値で取引されているが、実は、佐田岬側でも同じ魚が水揚げされており、こちらは岬アジ(はなあじ)岬サバ(はなさば)と呼ばれている。

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(写真10 椿山展望台から見た佐田岬灯台。岬周辺は波の早いのが見て取れる。なお、灯塔の左隣の四角い箱のような建物が照射灯である)

 

<佐田岬灯台メモ>(灯台表、ウィキペディア等から引用)
 航路標識番号(国際番号)/4967(M5424)
 名称/佐田岬灯台
 位置/北緯33度20分6秒 東経132度00分9秒
 所在地/愛媛県西宇和郡伊方町
 塗色・構造/白色塔形(コンクリート造)
 レンズ/第3等大型フレネル式
 灯質/群閃白光 毎20秒に3閃光
 実効光度/25万カンデラ
 光達距離/19海里(約35キロ)
 灯高/18メートル
 灯火標高/49メートル
 明弧/265°~214°
 初点灯/19184月1日
 管轄/第六管区海上保安本部

神岡鉄道奥飛騨温泉口駅

シリーズ 駅 情景

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(写真1 神岡鉄道の終点奥飛騨温泉口駅)

廃線になった終着駅

 神岡鉄道は、高山本線の猪谷駅(いのたに=富山県富山市)から奥飛騨温泉口駅(岐阜県飛騨市)を結んでいた。全線19.9キロ、駅数は8。そもそも国鉄神岡線を転換した第三セクター鉄道である。神岡鉱山の硫酸輸送を行っていたが、収入の大きな柱だった貨物輸送がトラックに取って代わられると収益が悪化し2006年12月1日廃線に追い込まれた。なお、廃線時、定期券を所持していた人物は、富山市内の高校に通学する生徒一人だけだったという記録が残っている。これほどしぼんで廃線になった駅というのも珍しくはないか。

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(写真2 神岡鉄道の起点猪谷駅)

 私が神岡線に乗ったのは一度だけ。大概の路線は一再ならず乗っているから、これは珍しいくらい。もう一度乗ろうとしているうちに廃線になってしまったというところだろうか。

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(写真3 神岡鉄道おくひだ1号)

 この時(1994年8月27日)のノートによれば、猪谷11時27分発の列車に乗ったとある。1両のディーゼル、ワンマン運転。車両先頭に「おくひだ1号」と表示されているが、普通列車である。

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(写真4 おくひだ1号の内部。囲炉裏が設けてある)

 面白い車両で、ボックスシートのほか、囲炉裏を囲んだコーナー席もあった。観光用に設けたものであろうが、そもそも観光路線ではなかったし、苦心の跡がうかがえる。

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(写真5 深い谷とトンネルが続く神岡鉄道沿線)

 沿線は、高原川と言ったか、川が並行する深い谷の連続で、トンネルが多かったと記憶している。
 そうこうして終点奥飛騨温泉口到着11時59分。起終点約30分の短い旅である。駅舎にはレストランが入っていた。折り返し列車には2時間も間があって、近所をぶらぶらしたが、当時のノートにも「駅前には何もない」とのみ記されている。
 国鉄神岡線の開業は1966年で、開業時には神岡駅と称していた。それが1984年の神岡鉄道への転換時に奥飛騨温泉口駅へと改称された。いささかでも奥飛騨温泉郷と関連付けたかったものであろうが、そもそも奥飛騨温泉郷への最寄り駅とはなっていなかった。

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(写真6 神岡が近づくと鉱山の工場が見えてきた)

バラ真っ盛り

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(写真1 まるでバラ園のよう。数えてみるとざっと色とりどりに20数種類ものバラがあるようだ)

まるでバラ園のような庭も

 近所の公園にあるにバラ園は閉ざされたまま。垣根越しに眺めている。
 しかし、近所を2時間も散策すると、数多くのバラを見つけることができる。ちょうどバラが真っ盛りなのだ。バラほど好事家が多いのだろう。中にはまるでバラ園のような見事なバラを誇っているお宅もあり、垣根越しに写真を撮らせてもらっている。

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(写真2 こちらのお宅もアーチを組んで立派な庭にしつらえてある)

 バラ園ほど種類は多くはないが、十分に楽しませてもらっている。垣根越しにご主人に声をかけると皆さん喜んでくださって、うんちくをご披露される方もいる。中にはまるでバラとは思われないような花もある。私はバラの香りが好きで、顔が届くなら必ず嗅ぐようにしているが、総じて赤いバラほど香りが強いようである。バラもいろいろ。散策で見つけたバラを以下に陳列してみよう。

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<参考>閉ざされたままのバラ園の様子。ちょうど満開だが、残念ながら垣根越しに楽しむしかない。

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テレビ電話とネット書店

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(写真1 我が家のテレビ電話の様子=相手がスマートフォンだから画面がやや小さい)

LINEとAmazon

 折から続く外出自粛。車でわずか30分ほどの距離に住んでいるのだが、孫の顔も見られないとぼやくのはおばあちゃん。そこで活躍しているのは我が家ではテレビ電話。
 様々な会社からサービスが提供されているようだが、我が家ではLINEというソフトを使っている。相互にLINEに加入していれば、パソコンやスマートフォンを使ってテレビ電話ができる仕組み。これなら孫の生き生きした顔を見ながら会話ができるからとても楽しい。家内もうれしいようだし、孫たちも元気な様子を伝えてくれている。全国どこと話しても無料というのが素晴らしい。
 一方、図書館も休みだし、書店も閉じたまま。子どもたちの読書機会が減るのが何よりも困る。そこで、5人いる孫たちにリクエストさせて、ネット書店から本を贈ってやったらとても喜ばれた。
 これにはAmazonを利用したのだが、この通販会社はすごい。注文した翌日には本が届いていた。私は以前からちょくちょく利用していたのだが、プレゼントの場合メッセージまで添えられるというのもうれしい。しかも会員なら送料無料。
 否応なくはじめたことではあるが、在宅勤務やテレビ会議などと、このたびのコロナ騒ぎを機会に少しずつ社会の仕組みが変わってきているのかもしれない。

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(写真2 リクエストした本を手にする孫たち)