ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

『感情類語辞典』

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豊かな表現の手引き

 感情表現のバリエーションを広げるための手引き。見出し語として130の感情語が用意されている。
 それぞれについて、外的なシグナル、内的な感覚、精神的な反応、一般的に強くまたは長期的に表れる反応、隠れた感情を表すサインなどカテゴリーごとに類例が示されている。創作者のための辞典だと惹句している。
 一つ引いてみよう。懸念(Apprehension=悪いことが起きるのではないかと不安を感じている状態)について。
 まず、外的なシグナルについては、時計やドアを気にする、頬の内側を噛む、思い詰めて表情を動かさない、両手を組んで握りしめる―など30ほどの用例が示されている。次に、内的な感覚については、胸が締め付けられうずく、しきりと唾を飲み込むせいで口が渇く、などとある。精神的反応には、心配の種が頭から離れない、悪い方向に向かうのではと、そればかり考えてしまう、などとあり、一般的に強くまたは長期的に表れる反応については、自分の判断や行動をくよくよと後悔する、危険を避け、石橋を叩いて渡る、などとあり、隠れた感情を表すサインには、心配または恐れていることに関してまどろっこしい質問をするなどとある。
 さらに、この感情を想起させる動詞ということで、動揺する、握りしめる、隠す、告白する、装う、いじくる、騒ぎ立てるなどとある。
 ここで、日本の辞典で「懸念」はどのように解説されているものか調べてみよう。
 まず、『類語例解辞典』(小学館)には、恐れ/憂慮/取り越し苦労/危惧/杞憂―とあり、関連語として悲観を挙げ、共通する意味には、気にかかって、心が落ち着かないこと。とあり、使い方の例として、登山者の安否が懸念されている―などと例示している。また、それぞれの意味と使い分けとして<1>「懸念」は、起こるかもしれない悪いことの実態がはっきりしない場合にも用いるが、「憂慮」は、現実に悪い事態が生じてきて、対象が明らかになり、さらに重大な問題や事件が生じる危険性があるときに用いる。[英]concern―と書いてある。
 また、『日本語語感の辞典』(岩波)には、好ましくない方向に進むのが心配で今後のことが気にかかる気持ちをさし、いくぶん改まった会話や文章に用いられる漢語。<――材料><関係が悪化する――がある>などと用例が示されている。
 次に、国語辞典である『大辞林』(三省堂)には、①気になって心から離れないこと。気がかり。心配。②ある対象に思念を集中させること。③心がとらわれること。執着。執念。―とある。
 一方、『ライトハウス和英辞典』(研究社)には、(不安・恐れ)fear、(将来に対する強い不安・心配)anxietyなどとあり、Apprehensionを『リーダーズ英和辞典』(研究社)で引いてみると、憂慮、懸念、危惧、不安―などとあった。
 辞典は引くものだが、読むのも楽しい。ただし、本書はアメリカ原書の翻訳だし、日本では国語辞典のカテゴリーに含まれるいわゆる類語辞典ではないので念のため。
(フィルムアート社刊)

アーナルデュル・インドリダソン『湖の男』

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エーレンデュルシリーズ

 アイスランドの警察小説である。『湿地』『緑衣の女』『声』と続く傑作揃いのエーレンデュルシリーズの4作目。
 主人公は、首都レイキャビック警察の犯罪捜査官エーレンデュル。その年下の同僚であるエリンボルクとシグルデュル=オーリが加わる。
 湖で骸骨が発見された。湖の水が干上がって骸骨があらわになったものらしい。骸骨には強く殴られて空いたものと思われる穴があった。また、骸骨にはコードが巻き付けられ、重い金属製の黒い箱がくくりつけられていた。箱は通信機器のようで、かすかにキルリ文字が読み取れた。
 検死の結果、殺人と断定され、1960年から1975年の間に行方不明になった男性に捜査は絞られた。
 他方、「男」の述懐がパラレルに進んでいく。クレイヴァルヴァトゥン湖で骸骨発見というニュースをテレビで見て、「このニュースを長いこと待っていたような気がした」し、「思い出せるかぎり、自分はずっと社会主義者だったと彼は思った」。彼は高校を卒業すると、東ドイツのライプツィヒの大学に留学する機会を与えられた。東ドイツ社会主義統一党の招きによるもので、社会主義の国を内側から見るめったにないチャンスだし、彼は「社会主義が実践されているところを見たかった」のだった。
 捜査の該当者は8人に絞られた。エーレンデュルの何事もないがしろにしない地を這うような捜査が進められる。
 手探りのように進められている捜査が、実に精微に描かれている。捜査対象者の人生が掘り下げられ、同時にエーレンデュルやエリンボルクとシグルデュル=オーリの生活が詳細に挟まれていく。
 読み進むつれて、アーナルデュルの意図に気づく。この謎解きに単行本400ページを超すような長編がなぜ必要なのか。著者はミステリーを書くといいながら、アイスランドの歴史と現在の立ち位置、生活を描いていたのだ。
 アイスランドは、北極圏に近い人口わずかに30数万人の小さな国。北海道よりはちょっとだけ大きい程度の面積しかない火山島で、漁業と牧畜が主要な産業。単一民族で、日頃はファーストネームだけで呼び合い、姓は一般的には使わないそうである。首都のレイキャヴィクは人口20万人。長い冬と短い夏があり、早い秋が訪れると雨がしとしとと毎日降り続く。
 NATOの創立以来のメンバーだが、軍備は持たない。沿岸警備隊があるだけ。卓越した外交があり、1986年にはレーガン大統領とゴルバチョフ書記長との会談をセッティングし冷戦終結に向けたきっかけとなった。
 また、金融立国であり、教育レベルと文化程度は高く、コンピュータが普及している。国民のデータベース化が図られ、遺伝子データベースなどというものまである。
 アイスランドとその首都レイキャビックを緻密に描くというのはこれはアーナルデュルの作風で、全般に哀調を帯びているところもシリーズの特徴で、魅力ある舞台、魅力ある主人公、魅力あるストーリー、本作もこの三つが揃った傑作である。
(東京創元社刊)

一輪挿し

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(写真1 このバラはとても香りがいい。摘んだときにはまだつぼみ程度だったのに挿していたら1日で大きく花が開いた)

手軽な彩りに楽しさ

 せっかく満開になるまで育てたチューリップの花を全部摘み取ってしまったという悲しいニュースが報じられていたが、我が家の近所の公園でもバラ園が閉ざされている。垣根越しにのぞくとそろそろ見ごろになろうかという時期だから残念だ。

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(写真2 カーネーションは娘が家内に贈ってきた)

 ところで、我が家では、庭の花を摘み取って一輪挿しにしている。どこのお宅でもやっていることではあるのだろうが、気軽にあちこちに置いておけるところがいい。出窓やトイレなどちょっとしたところだけでも彩りがあるから楽しい。
 現在はバラが3種類のほか時節柄カーネーションや白菊なども挿している。
 一輪挿しの容器も凝ったものではなくて、旅先で見つけたものなど様々で、何しろ手軽さが一輪挿しのいいところだろう。

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(写真3 白菊は秋の季語だが、年中手に入る)

沖縄本島最北端辺戸岬

特集 私の好きな岬と灯台10選f:id:shashosha70:20200506141912j:plain

 (写真1 辺戸岬の先端=1990年8月9日

本土復帰を願って叫んだ岬

 辺戸岬(へどみさき)は、沖縄本島最北端の岬。この岬の西側が東シナ海であり、東側は太平洋である。沖合約20キロ先は鹿児島県の与論島である。米軍占領下、沖縄の人たちはこの岬から与論島に向けて本土復帰を願って叫んだそうである。岬には、「祖国復帰闘争碑」という大きな石碑が立っていて沖縄の苦難の歴史を物語っている。
 辺戸岬へは、那覇市街から130キロ、約3時間の道のり。まずは沖縄自動車道で終点の許田インターまで行く。約70キロ。高速を降りると名護市街で、ここからは国道58号線をひたすら北上する。この国道は那覇から続いていてまるで沖縄本島を背骨のように貫いている。名護からは東シナ海を左に見ながら海沿いに進む。
 この日(2016年11月27日)は日曜日だったし、土砂降りだし、朝も早かったから道は空いていて、前後に車影が見当たらず、すれ違う車も時折出くわすだけ。この道は片側一車線で、追い越し禁止区間が延々と続いているから、普段ならのろのろ運転になるところだが、この日ばかりはほとんどノンストップ。それで思いの外はかどって、辺戸岬には約2時間で到着した。計画よりも1時間も早まった。

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(写真2 岬は珊瑚礁が隆起した断崖絶壁になっていて、はなはだダイナミックな景観となっている。=2016年11月27日)

 岬では篠突く雨が降り続いている。しかも、風が猛烈に強い。しかし、岬好きのこと、この程度のことは織り込み済み。ただ、傘はキノコになってしまうし、骨も折れ曲がってしまった。何よりも困るのはカメラのレンズも曇ってしまうし、足を踏ん張っていても強風にあおられて体が揺れるし、カメラを持つ手が震えること。
 岬は台上になっていて、周辺は四六時中風が強いのだろう。丈の低い這うような樹木しか見当たらない。まるで沖縄とは思われないような樹相だ。地面は多孔質の尖った石で覆われている。サンゴ質だろう。

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(写真3 岬の後背地に目を向けると岬全体は鋭く突き出て台状になっている=2010年9月29日)

 後背地に目を向けると、断崖絶壁が続いている。高さは数十メートルにもなるだろうか。おそらくサンゴ礁が隆起したものであろう。晴れていれば楽しみな景観だが、この日ばかりは絶壁に立つことをさすがにためらった。

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(写真4 岬の先端に建つ祖国復帰闘争碑=2010年9月29日)

 岬の突端は少しだけ小高くなっており、「祖国復帰闘争碑」という石碑が建っている。ここが岬の、沖縄本島の最北端にあたる。晴れていれば海上20キロほど先に鹿児島県の与論島が見えるはずで、沖縄の人たちは復帰を願って大きな声で叫んだということである。この碑は1972年5月15日の沖縄返還に際し建てられた。
 碑には、「全国のそして全世界の友人へ贈る」と題し、吹き渡る風の音に耳を傾けよ 権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる波濤の響きを聞け 戦争を拒み平和と人間解放と闘う大衆の雄叫びだ……」とあった。
 あの時代、沖縄はアメリカの占領下にあり、沖縄に渡るにはパスポートが必要だった。座標は岬の突端の位置で北緯26度52分18秒とあり、本土と沖縄の境界は27度線上に置かれていたからなるほど近い。なお、あまり知られていないが、沖縄県の最北端は久米島町の硫黄鳥島である。
 岬には大きな駐車場があるのだが、訪れる人は稀だった。公衆トイレがあり、売店が営業していた。焼きそばや飲料を売っていたが、客はさすがに一人もいなかった。
 しばらく雨が小降りになるのを待っていたが、強まりこそすれ弱まりそうにもなく、それで、帰途は灯台を探索することとした。

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(写真5 辺戸岬灯台の様子=2007年12月7日)

 辺戸岬灯台は、実は、岬先端の台上にはなくて、岬の西側、東シナ海に面してある。岬の先端からは那覇に戻るように走ると約5分、国道の右側にある。
 はなはだ見つけにくくて、私はこれまでに四回辺戸岬を訪ねているが、見つけたのは一度だけで、残る三回は空振りだった。
 特に標識があるわけでもなく、初めて見つけたときの記憶を頼りに畑の中を走り、藪の中をこいで行くのだが、国道から1キロか2キロほどか、鬱蒼とした樹木の奥まったところにある。
 灯台は頑丈に張り巡らされた塀に囲われているので近づくのも難儀。小ぶりで、高さは10メートルほどか。灯器はLEDのようだ。初点銘盤を見つけることはできなかったが、業務開始年月日は昭和47年5月15日とあり、これは沖縄返還の日である。これより以前から灯台はあったようだが、詳しいことはわからない。
 なお、辺戸岬灯台の位置は、北緯26度52分2秒であり、祖国復帰闘争碑のある辺戸岬先端よりは緯度で16秒違っており、その分、南寄りということになる。

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(写真6 岬全体を見下ろすヤンバルクイナ展望台からの眺望=2016年11月27日)

 

<辺戸岬灯台メモ>(灯台表等から引用)
 航路標識番号(国際番号)/6983(なし)
 名称/辺戸岬灯台
 位置/北緯26度52分2秒 東経128度14分51秒
 所在地/沖縄県国頭郡国頭村
 塗色・構造/白色塔形
 灯質/単閃白光 毎6秒に1閃光
 光度/3700カンデラ(実効光度)
 光達距離/12.0海里
 灯高/11メートル
 灯火標高/71メートル
 業務開始年月日/1972年5月15日
 管理事務所/第十一管区海上保安本部

岩泉線岩泉駅

シリーズ 駅 情景

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(写真1 かつての岩泉駅。「乗って守ろうみんなの岩泉線」の標語が掲げられている=1992年8月14日)

廃線になった駅

 岩泉駅は、岩泉線の行き止まりの終着駅だった。
 岩泉線は、岩手県の北上山地の山中深く、やや沿岸寄りの路線で、山田線の茂市駅から岩泉駅を結んでいた。全長38.4キロ。駅数は9。
 路線は、とにかく勾配とトンネルの連続で、途中、押角駅の手前では30‰という急勾配もあった。狭い谷間を走っているという様子で、この地方出身の友人の話では、谷が深くて日は3時には沈むのだということだった。
 1972年の全線開業だが、当初、小本線と呼ばれていた。岩泉から延伸して沿岸部の小本駅(現在の三陸鉄道リアス線岩泉小本駅)につなげる計画もあった。
 早くから廃線の対象となっていたが、代替道路未整備のため廃止を免れていたものの、2010年の土砂崩れから運休が続き、2014年そのまま廃線となった。
 三重県の名松線と同じような歩みだが、名松線は廃線対象からも免れ、その後の災害の長期運休からも復旧し、今や完全に復活していることに比べると対照的だった。
 岩泉駅は、小さな路線の終着駅とは思われないほどの立派な駅舎だった。2階建てで、2階には観光案内所などが入っていたのではなかったか。日本三大鍾乳洞の一つ龍泉洞の最寄り駅である。

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(写真2 岩泉駅のホーム)

 片側1線のホームがあり、宮古からの直通列車もあった。私が乗ったのは30年近く前だが、この時の時刻表を見ると、この時代の岩泉線の列車は、日にわずか3本の運行だった。

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(写真3 岩泉線の起点茂市駅ホーム)

復興のシンボル石巻線女川駅

シリーズ 駅 情景

 

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(写真1 震災から生まれ変わった女川駅=2016年7月4日)

行き止まりの終着駅

 女川駅は、東北本線の小牛田駅を起点とする石巻線の終点であり、行き止まりの終着駅である。路線距離は44.7キロ。途中に石巻駅があるが、仙台-石巻間を結ぶ仙石線・仙石東北ラインの中にまれに女川まで直接乗り入れている列車がある。

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(写真2 震災前の女川駅=1991年7月7日)

 女川は、有数の漁港であり、駅前に港町が開けているが、東日本大震災の津波により壊滅的被害を被り、女川駅も駅舎が流出するなどの甚大な被害を受けた。

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(写真3 女川駅前の商店=1991年7月7日)

 震災前の女川駅に降り立つと、駅からまっすぐに港まで道が伸びていて、途中には魚を商う店が並び、大変活気のあるものだった。呼び声に釣られてシャコ、カレイ、ホヤを買ったが、シャコはバケツいっぱい入っていて、値段は全部で5,100円だった。この時のノートに「高いか安いかわからない」とあるが、およそ30年前のこと、なるほど、安くはないのかも知れない。ただし、新鮮ではあるが。帰宅してシャコを茹でてむしゃむしゃと食べた記憶がある。
 震災で不通となっていた石巻線は、震災から2年後2013年の時点では女川の一つ手前の浦宿から女川まで代行バスが出ていた。バスで丘を登り切り女川の町を眼下に一望できたところで思わず息をのんだ。町が壊滅していたのである。バスは町に入ってきた方とは反対側の小高い丘の上を終点にしていて、今はどこに駅があったのかさえ判然としなくて、運転手にかつての駅のあり場所を尋ねてやっと見当がつくようだった。

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(写真4 壊滅していた女川駅前=2013年6月7日

  町にはまったく建物はなくて、ただ砂地の原が広がっているだけ。土地のかさ上げ工事をしている重機だけが動いていた。魚市場だけは再開しているようだったが、それも往年の女川漁港を考えると数分の一にも満たないものであろうと思われた。
 石巻線が全線で復旧したのは2015年の3月21日。この時、浦宿を出た列車が女川に近づいたが、かつてのような急な下り坂がもうなかった。嵩上げされてならされたのである。女川駅は片側1線のホームに、真新しい駅舎が迎えてくれた。ウミネコが翼を広げたイメージだという大きな屋根の立派な駅舎だった。坂茂の設計。3階建てで、温泉まで入居していた。

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(写真5 開発中の女川駅前。駅から海岸がこんなに近いとは知らなかった=2015年7月1日)

  駅前は開発中のようで、観光案内所によると、駅舎は旧駅舎より200メートル山側に移動したとのこと。つまり、石巻線は0.2キロ営業距離が短くなったことになる。なお、駅付近は7メートルばかり嵩上げされたということだった。

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(写真6 女川駅に停車中の石巻線列車=2016年7月4日)

 次に女川駅に降り立った2016年の時には、駅前の商店街がきれいに整備されていた。海に向かって伸びており、まるで小洒落た商店街となっていた。
  駅舎は、女川町が復興のシンボルとして、総工費8億5000万円をかけて建設した。1階が改札口で、2階に町営の入浴施設女川温泉ゆぽっぽがあり、3階は展望フロアとなっている。駅舎に温泉があるというのも珍しくはないか。温泉地ならばともかく。

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(写真7 こじゃれた商店街に生まれ変わった女川駅前=2016年7月4日)

本州最涯地下北半島尻屋崎

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特集 私の好きな岬と灯台10選

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(写真1 寒立馬がのんびりと草を食む尻屋埼灯台=2015年7月4日)

底知れぬ寂しさを感じる岬

 尻屋崎は、いつ行っても底知れぬ寂しさを感じさせられる岬だ。岬には、「本州最涯地」と書かれた大きな石碑が立っているが、最果てとしなかったところが、詩的であり、寂しさを募らせる。石碑は地元の村が建てたものであろうが、自ら最涯地としたところにこの岬の厳しさがうかがい知れる。

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(写真2 灯台と右は「本州最涯地尻屋崎」の石碑=2015年7月4日

 深田久弥は、「北上山脈が伸びて下北半島を走り、それが一番北へ来て海へ落ちる所が尻屋崎である。山脈の端が尽きて、その突端は湿原の草地になっている。草地には牛や馬が放牧されていた。」と『尻屋崎』というエッセイに書いている。
 地図を見ると、誰しも尻屋崎に行ってみたいと思うのではないか。なるほど端っこなのである。しかも鋭い。このことは岬が人々に好まれる確かな要因である。
 よく例えられるように、下北半島は、全体がまさかりのような形をしており、刃の部分が陸奥湾に面し、柄の頂点に当たるところが尻屋崎である。地図で見ると鋭く太平洋に突き出ていることがわかる。

 

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(写真3 むつ市の中心田名部にあるむつバスターミナル=2015年7月4日)

 尻屋崎へは、むつ市の中心田名部のむつバスターミナルから下北交通の路線バスが出ている。この時(2015年7月4日)、乗客は自分を含めて二人。今一人は50代の奥様然とした女性である。最後までこの二人だけで、途中の乗降もなくまるで直行便。岬が近づいて日鐵鉱業所や三菱マテリアルといった停留所が続く。この周辺は、砂鉄や石灰岩の産出で知られる。今でもそうかはわからないが。尻屋の集落では灯台そっくりのドームを持った小学校が現れた。

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(写真4 尻屋埼灯台のバス停留所=2015年7月4日)

  バスターミナルから約60分、バスは岬の突端、灯台近くまで行ってくれた。これは大変便利で、岬への入口ゲートで降ろされると40分ほど歩かされることとなる。夏の観光シーズンだからであろう。もっとも昔はゲートなどなかった。ただ、数年前に訪れた2度目の折にはやはり冬期のためゲートが閉まっていて雪道を歩かされたものだった。

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(写真5 美しい白堊の尻屋埼灯台=2010年3月19日)

 岬の突端には白堊の尻屋埼灯台がすっくと立っている。形といい高さといい実に美しい灯台だ。随分と全国の岬を訪ね灯台を見て歩いているが、これほど姿形のいい灯台は少ない。日本の灯台の父ブラントンの設計で、東北では最初の洋式灯台だったし、光量も大きくて56万カンデラは日本最大級だ。もっとも、かつては光量200万カンデラだったというからすごい。内部はレンガ造になっていて、2年前から灯台に登れる参観灯台の仲間入りを果たした。

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(写真6 津軽海峡側から見た尻屋埼灯台=2010年3月19日)

  その灯台が照らす海は、太平洋と津軽海峡がここで交わるところだ。だから、海は荒く、海上交通の難所として知られる。古くは難破する船が多く、難破船が出ると浜辺で村の女が乗組員を引き上げるのだが、救助された彼らはそのまま村に居着くので、このあたりの村は一妻多夫制だったという言い伝えが残っている。江戸時代、北前船が日本海に航路を取ったのは、廻船問屋がこの尻屋崎を通ることを嫌ったからだという説もあるというほどだ。
  灯台周辺は草原の台上になっている。海面からの高さはわずか数メートルしかない。断崖絶壁であるわけでもないのにこの寂寥感は何か。独特の情緒が感じられる。それこそが尻屋崎なのである。
 ここには寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる土着の馬が放牧されており、この日も数頭のんびりと草を食んでいた。足が太くお腹の大きい馬が多かった。また、ここより少し離れた場所では子馬も見られた。ちょうど出産の季節なのであろう。

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(写真7 津軽海峡の向こうに北海道の恵山岬がかすかに遠望できた=1989年11月18日)

 初めて訪れたこの日(1989年11月18日)は曇り空ながらはなはだ見通しが良かった。左には下北半島の最北端大間崎が見えたし、遠く正面には北海道の恵山岬までも眺望できた。
 そう言えば、あの頃、バス便は非常に悪くてむつと結ぶバスは日に数本しかなかった。帰りのバスまで数時間以上もあるようなことで呆然としていたところ、ちょうど1台のダンプカーが岬にやってきた。そこで、都合のいいところまででいいからと言って便乗させてもらったことがあった。なかなか気のいい運転手で、寒立馬を見せてあげると言って放牧場所まで遠回りをしてくれた。それで雪原に立つ、まさしく寒立馬を見ることができたのだった。
 ところで、尻屋崎を含めこの辺り一帯は東通村になるのだが、かつて、この東通村の村役場は村内ではなくむつ市内に置かれていた。つまり、村のどの位置に置いても不便で、いっそ近隣の中心都市であるむつを選んだものであろう。その後村内を通ったら道筋に東通村役場の所在を示す矢印が出ていたから、村内に村役場ができたのであろう。

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(写真8 太平洋側からの尻屋崎遠望=2010年3月19日)


<尻屋埼灯台メモ>(灯台表等から引用)
 航路標識番号(国際標識番号)/1601(M6630)
 名称/尻屋埼灯台
 位置/北緯41度25分49秒 東経141度27分44秒
 所在地/青森県下北郡東通村尻屋
 塗色・構造/白色塔形(レンガ造)
 レンズ/第二等フレネル式
 灯質/単閃白光 毎10秒に1閃光
 光度/53万カンデラ
 光達距離/18.5海里(約34キロ)
 明弧/52度から3度まで
 灯高/32.82メートル
 灯火標高/45.70メートル
 初点/1876年10月20日
 管理事務所/第二管区海上保安本部