ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

フリン・ベリー『レイチェルが死んでから』

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入り組んだ心理劇

 ノーラは、週末を利用してロンドンから姉のレイチェルが住むコーンウォールを訪ねた。
  家が近づくと何かがおかしい。家に入ると最初に目にはいったのは犬で、階段の一番上からリードで吊り下げられていた。階段を登ると、腰板に血痕があり、血溜まりにレイチェルが倒れていた。いったん外に出て携帯電話で救急車を呼んだ。
 おどろおどろした書き出しで物語は始まる。アビントン警察殺人課の警部補モレッティが事情聴取を行う。姉と最後に話したのはいつか、姉の様子はどうだったか、姉に危害を加えたいと思っていたような人はいなかったか。
 実は、レイチェルは、15年も前のことだが、17歳の時に暴行を受けたことがあった。その時、警察はレイチェルの話をろくに信じなかったし、事件は未解決のままだった。
 物語は、ノーラが語り手となって進む。ノーラが聞いたこと、見たこと、考えたこと、思い出したこと、レイチェルとのことなどが細大漏らさず克明に綴られていく。余りに膨大で、事件の伏線となっているかどうかすら察せられない。
 やがて、ノーラは事件の真相を探り出そうと静かに動き出す。自分が得た情報をモレッティに話し、モレッティからも捜査の進捗を聞き出す。
 様々な人物が浮かび上がってくる。事件の日の朝にもレイチェルと会ったという配管工のデントン。また、モレッティは15年前の事件との関連性についても調べていく。
 文中の言葉を借りれば「時間が這うように過ぎていく」が、事件捜査に進捗が見られない。驚いたことに、ローラ自身が疑いの対象になっているようだ。しかも、とんでもない事実が明るみに出てきている。
 結局、クライマックスがないままに物語は終焉を迎える。ノーラがふらふらしているから核心には容易には近づけない。文章はやさしいのに読みにくい小説だ。しかし、物語に魅力があって最後まで読み通すこととなるし、ミステリーというよりも心理劇として読んだ方が本書を途中で投げださずに済む。
 エドガー賞(アメリカ探偵作家クラブ賞)最優秀新人賞受賞作。田口俊樹訳。
(ハヤカワ文庫)

村松拓『海の見える駅』

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旅情がかき立てられる

 全国各地の海の見える駅が北から南まで70カ所取り上げられている。
 海の見える駅はつまり海が映える駅でもあるわけで、美しいカラー写真で構成されている。それも、一つの駅に1枚や2枚の写真ではなくて数枚は載せられているからとても旅情が深まる。
 汽車旅で、わざわざ駅だけを見るために途中下車するというようなことは、よほどの好事家でもない限りないものであろうが、本書を読んでいると叙情が広がって、次の旅の機会にはこの駅で降りてみようと思いたくなる、そう思わせられる魅力的な駅が並んでいる。
 私は、これまでに全国の全ての鉄道全線を一度は乗ったことがあるが、その経験と本書の記事写真から特筆したいものを幾つか選んでみた。
 JR常磐線日立駅(茨城県日立市)。この駅には私も降り立ったことがあるが、妹島和世さん設計のモダンな駅舎と海の風景が印象的に取り上げられている。ちなみに、妹島さんはここ日立市の出身である。
 JR牟岐線田井ノ浜駅(徳島県海部郡美浜町)。まるで砂浜に建つ駅のようで、著者は海水浴場まで徒歩0分と書いている。
 JR山陰本線餘部駅(兵庫県美方郡香美町)。私も今年訪れたばかりだが、二代目の余部橋梁と含め、鉄道の駅が観光地になっている数少ない駅の一つだ。
 JR大村線千綿駅(長崎県東彼杵郡東彼杵町)。まるでタイムスリップしたかのような駅舎があり、妙に旅情のかき立てられる駅だ。
 ほかにも、釧網本線北浜駅や五能線驫木駅、島原鉄道大三東駅などと人気の高い著名な駅も取り上げられていて興趣が深い。
(雷鳥社刊)

薩摩長崎鼻灯台

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(写真1 長崎鼻の突端に建つ薩摩長崎鼻灯台)

開聞岳を望み風光明媚

 長崎鼻は薩摩半島の南端。九州最南端は錦江湾の対岸大隅半島の佐多岬である。また、鼻はとんがったところということから転じて岬を意味し、長崎鼻は長崎県にもあるし、ほかにも全国各地にもある。そういうことで、海上保安庁では、灯台表で薩摩半島長崎鼻にある灯台を薩摩長崎鼻灯台と命名している。
 11月30日。鹿児島中央6時21分発指宿枕崎線山川行き。錦江湾を左窓に見ながらどこまでも進む。桜島もきれいに見えていた。指宿を経て終点山川7時33分着。
 「日本最南端の有人駅」と標柱が立っている。ちなみに最南端駅は二つ先の西大山駅である。(いずれも沖縄都市モノレールを除く)。また、ここ山川港からは対岸の大隅半島根占港に航路があって、そこから最南端佐多岬にバス便があった。もう40年近くにもなるか、かつてこのルートで行ったことがあったが、現在はその船便もバス便も廃止されているらしい。
 さて、山川駅前8時22分発池田湖行き鹿児島交通バスに乗車。初め4人いた乗客も間もなく降りてしまい、その先は一人だけ。
 それで、運転手さんといろいろと話していたのだが、7年前このバスで西大山駅に向かったことがあったと話したら、「それじゃ、徳光の集落で降りたのでしょう」とのこと。その通りで、そのバス停から開聞岳を目標に畑地の中を30分ほども歩いたのだった。
 8時45分長崎鼻到着。バス停付近には大型の観光バスが数台駐車されていて、岬の突端に向けて土産物屋が軒を並べている。観光地なのである。大変にぎわっている。
 その理由がすぐにわかった。バス停から坂を下りながら5分も進むと、一気に眺望が開けた。正面に紺碧の海を背に真っ白い灯台が立ち、右手には開聞岳がくっきりと見える。実に風光明媚で、これほどの景色はなかなか得られるものではない。

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(写真2 海側から見上げた灯台)

 鼻の先っぽに進むと、白堊の灯台。デザイン灯台なのであろう、しゃれた灯台である。塔の高さは10メートル。スタイルがいい。
 灯台のある場所は10メートルほどの断崖にある展望台になっていて、大海原が広がっている。大きくは太平洋である。錦江湾に出入りする船舶の安全を担うもので、鹿児島を目指してくると、初め、右に佐多岬灯台を見つけ、続いて左前方に薩摩長崎鼻灯台を捉えるということだろう。
 遠くかすかに見える島は硫黄島か。活火山で、もう少し近い位置にある佐多岬からは噴煙を上げているところを目撃したことがある。
 灯台の眼下は荒々しい岩礁になっている。この岩礁側から灯台を見ると、灯台の姿はトーチのように見えなくもない。ここからは灯台と開聞岳が並べてみることができた。
 それにしても開聞岳はどうしたあんなにも均整の取れた山容をしているのだろうか。波打ち際から屹立していて、この日は快晴だったから雲のかかることもなく、全容をすっかり望むことができた。

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(写真3 灯台と開聞岳を一望に)

<薩摩長崎鼻灯台メモ>(灯台表及び燈光会等が設置した看板等から引用)
 所在地/鹿児島県指宿市
 位置/北緯31度09分4秒、東経130度35分2秒
 塗色・構造/白塔形
 灯質/群閃白光 毎8秒に2閃光(等明暗白光 明3秒暗3秒)
 光りの強さ/8500カンデラ
 光達距離/12海里
 塔高/10メートル
 灯火標高/21メートル
 初点灯/1957年(昭和32年)1月

島原灯台

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(写真1 まるで防波堤の上に建っているような島原灯台)

四角形鉄骨やぐらの灯台

 長崎県は実は日本で北海道に次ぐ長い海岸線を持つし、島原半島も半島だからそれなりに海岸線も長いが、島原半島に灯台は意外に少なくて、灯台表をくくってみても沿岸灯台としてはわずかに四つ。このたびの九州旅行ではそのうちの一つ島原灯台を訪ねた。11月28日。
 島原鉄道を島鉄本社前駅で下車。改札口から海岸をめがけて進むとすぐに右前方遠く灯台が見えた。ただ、防波堤の上に建っているようで、遠くからでは沿岸灯台には見えないから本当に島原灯台か不安を抱えながら歩いた。また、灯台は見えているのに、海岸沿いの道は私有地になっていたりしてストレートには歩けない。それで大きく迂回しながら灯台を目指した。この間約20分ほどか。
 近づいても灯台は防波堤の上に建っているようにしか見えない。付近に灯台を紹介する看板もないし、さらに近づくと、どうやらこの灯台は防波堤の向こう側、海の上に建っているもののようだ。
 防波堤に登りたいと思ったが、登り口が見当たらない。しかも、この時、雨が横殴りに降っていて思い切った行動がままならない。事前に調べて見当はつけてはいたが、灯台の足もとが見られないというのはいかにも残念。

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(写真2 灯台上部。沿岸灯台としては珍しい塔形だ)

 灯台は防波堤から数メートル離れた海に築いた岩場の上に建てられているのだ。灯台は鉄骨造。四角形のやぐらになっていて、鉄板が赤い帯のように2枚巻かれている。なかなかユニークな構造だ。沿岸灯台としてとても珍しいのではないか。
 初点は1877年(明治10年)と古く、島原灯台は有明海を照らす重要な位置づけを担ってきたようだ。ただ、内海だからであろうが、灯火標高が19メートルしかなく、光達距離も5海里(約9260メートル)で、10キロに満たない。まるで防波堤灯台のような規模だ。カメラの望遠レンズでのぞいてみると、光源はLEDのようだ。
 高い場所にあるわけではないが、晴れていれば、さぞかし見晴らしがいいのだろうと思われた。

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(写真3 島原灯台遠望)

<島原灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 所在地/長崎県島原市
 位置/北緯32度46分8秒、東経130度22分9秒
 塗色・構造/白地に赤横帯2本やぐら形
 灯質/単閃白光 毎4秒に1閃光
 光達距離/5海里(約9キロメートル)
 塔高/13メートル
 灯火標高/19メートル
 初点灯/1877年(明治10年)9月

肥薩おれんじ鉄道

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(写真1 出水駅に停車中の肥薩おれんじ鉄道列車)

熊本-鹿児島県境を越えて運転

 熊本からは、今回の旅の最後の目的地鹿児島を目指した。
 熊本から八代までは鹿児島本線、八代-川内間が肥薩おれんじ鉄道、川内からは再び鹿児島本線で鹿児島中央という順である。もとよりかつては熊本-鹿児島中央間は鹿児島本線で1本だったが、九州新幹線の開業に伴う並行在来線の措置により八代-川内間はJR九州から切り離され、新たに設立された肥薩おれんじ鉄道に継承された。また、新幹線開業に合わせて、西鹿児島駅は鹿児島中央駅と改名された。
 11月29日、熊本6時28分発八代行きに乗車。新八代を経て八代7時07分到着。同じホームの前方肥薩おれんじ鉄道線に移動。7時13分の発車。
 私は、水俣でいったん途中下車したが、そのまま乗り通せば川内9時44分着9時54分発と続き、鹿児島中央には10時44分の到着となる。
 八代を出ると、日奈久温泉に至って海に面した。このあたり八代海あるいは不知火海とも言い、霞んではいるが対岸は天草である。
 水俣を経て袋を出て熊本-鹿児島県境を越えた。並行在来線を継承した第三セクターで同じ鉄道会社が県境を越えてそのまま運転しているのは実はこれは珍しい。東北本線の盛岡以北は、岩手-青森県境で、IGR岩手銀河鉄道から青い森鉄道へと運営する鉄道会社がバトンタッチされているし、北陸新幹線でも、長野県内がしなの鉄道、新潟県内に入るとえちごトキめき鉄道へと変わり、富山県に入るとあいの風とやま鉄道となり、津幡で石川県に入ると、金沢までわずか4駅なのにIRいしかわ鉄道へと細かく鉄道会社が変わっていくのである。
 熊本-鹿児島県境を跨いで肥薩おれんじ鉄道がなぜ運行しているのかその理由はわからないが、県境を挟んで乗客がすっかり入れ替わるならばともかく、肥薩おれんじ鉄道のこのやり方は合理的ではないか。社名にも、両県の旧国名が一字ずつ入っているし。

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(写真2 肥薩おれんじ鉄道の車内。様々な工夫が見られて楽しい)

 そう言えば、八代、水俣、出水の各駅で乗り換えたり途中下車したりとそれぞれに駅を利用したが、駅員の応対、駅の整備などと素晴らしいもので感心していた。また、乗った車両も様々な工夫があって、全般に肥薩おれんじ鉄道には経営に対する積極性が感じられて好ましかった。
 さて、出水。私の乗った列車はこの駅で19分も停車していた。時刻表で調べてみると、大半の列車はこの駅で10分前後は停車している。同じ列車に乗っているわけだから、運転系統が変わったわけでもないらしいが、ここには車両基地があるから運転士の交代などの事情があるのかもしれない。
 阿久根で再び海に出た。東シナ海で、遠く見える島影はもはや天草ではなくて甑島(こしきしま)列島であろう。
 そうこうして川内到着。九州に住む人以外ではこれをせんだいと読むのは仙台があるから馴染まないのではないか。ここで肥薩おれんじ鉄道は終点。この先は再び鹿児島本線となり、運転系統も変わる。八代から川内間はディーゼル列車だったが、川内から先は電化区間なのである。

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(写真3 川内駅ホーム。奥が肥薩おれんじ鉄道、手前がJR線である)

熊本電鉄

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(写真1 熊本電鉄上熊本駅右はJR上熊本駅につながる商業施設)

二つの路線を運行

 熊本電鉄は、菊池線(上熊本駅-御代志駅、10.8キロ)と藤崎線(藤崎宮前駅-北熊本駅、2.3キロ)の二つの路線を運行している私鉄。ただ、注意しなければならないことは、これらは線区上の呼び名で、実際の運行は、藤崎宮前-北熊本-御代志間と、上熊本-北熊本間で行われている。なお、熊本には市電(路面電車)もあり、熊本電鉄線は地元では日頃電鉄電車と呼ばれているようで、熊電では通じないそうである。
 11月28日上熊本駅。JR、熊本電鉄、市電の三つの上熊本駅停留所が揃ったちょっとしたターミナルである。ロータリーを前にしてJR駅を背にすると市電の停留所が右、電鉄電車駅は左に位置している。
  電鉄電車の上熊本駅は、片側1線の小さなホーム。まるで路面電車の停留所ようだ。2両のワンマン運転。北熊本行き。上熊本を出ると、駅間距離1キロ未満の駅を小さく停まって五つ目が北熊本。わずか10分弱。実質上はおそらく上熊本線と呼んでいいのだろうが、この間3.4キロ、列車は線内折り返しのみのようだ。

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(写真2 北熊本駅。右に停車中は上熊本行き列車。入線してきたのが御代志行き、左は藤崎宮前行き)

 北熊本駅は、2面3線のホーム。上熊本からの列車は3番線に到着し、反対側2番線からの御代志行きに乗り換えた。15時02分の発車。やはり列車は2両のワンマン。
 熊本の郊外といった沿線風景の中をしばらく北に向けて走っていたが、20分ほどで終点御代志到着。
 かつては、この先菊池まで線路は伸びていた。30年ほど前にもなるか、廃線になった。一度菊池まで乗ったことがあるが、その当時、すでにバスターミナルの方が中心の様相だった。また、菊池市には菊池神社があり、菊池性のルーツをたどる重要な神社と記憶している。
 現在の御代志駅は、ホームは島式と見られるが、線路が敷かれているのは片側1線のみ。残る反対側はバスの発着所に使われている。

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(写真3 終点御代志。かつての名残か、ホームの片側はバスの停留所として使われていた)

島原からは熊本へ海路で

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(写真1 島原港へ接岸したフェリー。熊本港へと折り返す)

有明海をフェリーで渡る

 福岡、佐賀、長崎と回ってきたこのたびの九州旅行では、島原からは熊本へフェリーで渡った。島原港のフェリーターミナルは島原鉄道の島原外港駅から歩いて数分のところだった。
 島原港から有明海を渡るフェリーは各方面へ様々な路線があるようだったが、熊本へは九商フェリーと熊本フェリーの二つのフェリー会社が運行していて、ダイヤの都合上私は九商フェリーに乗り込んだ。
 11月28日、11時10分発のフェリーで熊本港行きに乗船。所要時間は1時間とのこと。もし、島原外港駅から熊本駅まで鉄道でぐるっと有明海を回っていくと、途中新幹線を使ったとしても、2時間50分ほど要する。なるほどフェリーの便船が多いわけだ。
 地図に指をあててざっと計ってみたところ、島原-熊本間は海路25キロほどの距離か。鉄道なら230.5キロにもなるから、もし港に近い人や、自動車ならフェリーが有利だろう。

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(写真2 遠ざかる彼方に雲仙岳がかすかに望める)

 この日はあいにくの小雨。曇っていて遠ざかる雲仙岳も、向かい先の阿蘇の山脈も霞んでいる。内海だからだろうが波は静かだ。大型のフェリーだからでもあるのだろう。初め、徒歩で乗り込んだ乗客は4人しかいなかったが、出発近くになって乗客が一気に増えた。自動車で乗り込んできた人たちで、考えてみるまでもなくこの船はフェリーだったのである。
 船上で声をかけられた。振り向くと、現役時代、仕事の関係でお付き合いいただいていた大きな会社の社長さんで、気配りが素晴らしくとても良くしてもらっていた。
 数年ぶりのことだったが、それにしても奇遇というのはあるもので、お互いに退任後だったからなおさらで、それぞれに健康そうだったし、旧交を温め合ってしばし歓談した。
 カモメが船を追いかけて舞っている。デッキから船客が投げるお菓子が目当てで、どうやらえびせんのようだが、それにしても上手につかむもので感心する。
 そうこうして熊本港到着。出航から1時間弱だった。桟橋には、フェリー会社が用意してくれたマイクロバスが待っていてくれて、熊本駅まで送ってくれた。フェリー会社のサービスだが、港から駅まで20分ほどだった。熊本駅には何度も降り立っているが、港がこんなに近いところにあるとは考えてもいなかった。

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(写真3 船客が投げるえびせんを目当てにカモメが群がる)