ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

的矢湾の入口安乗埼灯台

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(写真1 断崖絶壁に建つ安乗埼灯台の景観)

志摩半島の灯台①安乗埼灯台

 本州最南端串本からは紀勢本線を乗り継ぎいったん松阪へ。翌7月23日は鳥羽を起点に志摩半島の二つの灯台を巡った。
 志摩半島は、紀伊半島東側に付属する半島で、リアス式海岸などもあり風光明媚なところ。名古屋や大阪、京都などからの一大観光地である。
 当然、魅力的な岬や灯台が点在するが、まずは安乗埼(あのりさき)灯台へ。鳥羽から近鉄志摩線で約30分、終点賢島の二つ手前鵜方下車。駅前から安乗行きバス約20分、終点から徒歩約20分。岬の麓には安乗漁港があった。もし車で来たなら駐車場もある。

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(写真2 四角形の灯塔が美しい安乗埼灯台)

 手前に園地があり、前方に方形の真っ白な灯台がすっくと建っている。四角形の塔形というのも珍しくはないか。実に美しい姿だ。伊勢志摩国立公園にあり、日本の灯台50選にも選ばれている灯台だ。
 初代はブラントンの設計で、木造八角形の灯台だったという。明治6年(1873年)4月1日初点。その後2度改築され、昭和23年(1848年)現在の鉄筋コンクリート造となった。
 登楼のできる参観灯台で、回廊に出ると、美しい海が広がっている。的矢湾の入口にあたっていて、左から湾奥へとひろがり、左前方に鎧埼、右はるか遠くに横たわって見えるのは大王埼であろうか。灯台から大海原を望んでいるのも楽しいが、こうして点在する島影を眺めているのも魅力的だ。
 鎧埼から安乗埼、大王埼へと伸びる海岸は暗礁が多く、海の難所として恐れられたという。実際、眼下には岩礁がいくつも顔を出している。

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(写真3 後背地を見ると灯台は鋭い岬に建っていることがわかる。奥の灯台のような建物は灯台資料館)

 灯台は安乗埼の突端に建っていて、岬の先端は断崖絶壁となっており、後背に目を向けると、この灯台は鋭く突き出た岬に建っていることがわかる。小さな岬だが、右にも左にも海が見えて、目を沖合に戻すと、劈頭に立っている気分になる。岬と灯台を訪れて最も醍醐味の感じられる場面で、いい風が吹いているし両手を広げて思わず飛び込みたくなる。日本人で初めて空を飛んだ二宮忠八の気分になれるのではないか。
 回廊からは灯台上部を観察することができる。先代は第4等フレネルレンズだったらしいが、現在はLU-M型灯器になっている。間近に見ることは少ないからなかなか興味深い。
 なお、当地には灯台資料館があって、かつて使用されていた第4等フレネルレンズも展示されていた。回転式フレネルレンズとしては我が国最初のものだったらしい。

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(写真4 安乗埼灯台のLU-M型灯器)

<安乗埼灯台メモ>(海上保安庁/燈光会/日本財団が設置した看板から引用)
 位置/北緯34度21分54秒、東経136度54分30秒
 光り方/単閃白光毎15秒に1閃光
 光りの強さ/55.0万カンデラ
 光りの届く距離/16.5海里(約30.6キロメートル)
 高さ/地上から灯台頂部約13メートル、水面から灯火約33メートル
 管理/鳥羽海上保安部

紀伊大島に建つ樫野埼灯台

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(写真1 太くずんぐりした樫野埼灯台。回廊に登る外階段が付いている)

紀伊半島岬と灯台巡り③樫野埼灯台

 潮岬灯台からは樫野埼灯台に回った。潮岬(しおのみさき)は串本から地続きなっているが、樫野埼(かしのさき)は対岸の紀伊大島にあり、かつては、♪ここは串本向かいは大島仲をとりもつ巡航船…と串本節でも唄われたが、現在はくしもと大橋が完成し、潮岬からぐっと近くなった。
 樫野埼は、大島の東端にあり、串本駅からのバスは途中寄り道が多いから所要40分ほど。終点は、南国のリゾート地の様相を見せる園地になっていて、灯台までは徒歩10分ほど。
 灯台は、白堊の塔形なのだが、太くずんぐりしている。塔高は約15メートルとさほど高くはない。4層になっていて面白い形だ。潮岬灯台同様にやはりブラントンの設計で、石造としては日本初。石材は対岸の古座川周辺からの産出のもの。1870年(明治3年)6月10日の初点。現在に至るもそのまま現役という希少価値がある。また、ここも江戸条約によって建設を約束したいわゆる条約灯台8つのうちの一つ。
 灯台内部を参観することはできないが、外階段が付設されていて回廊に登ることができるようになっている。この構造は独特で面白いしありがたい。
 灯台は、40メートルほどの海蝕崖による断崖に建っていて、眼前は、熊野灘と太平洋を分かつ大海原で、岩礁が散っている。沖合は海の難所で、遭難海岸と呼ばれ恐れられたようで、早くから灯台の必要性が高かったものであろう。ただし、右手に目を向けても潮岬は見えない。
 また、回廊からは灯台上部の灯室を間近に見ることができるのが楽しい。第2等フレネルレンズだという。回転式閃光レンズとしても日本初のものらしい。

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(写真2 手前が旧官舎。船舶からも見えるように当時から外壁は白く塗られていたという)

 敷地内には、旧官舎も整備され見学できるようになっていた。この官舎も石造りで、しかもブラントンの設計のまま残る登録有形文化財となっていた。案内の方がいらして、その説明によると、ブラントンが設計の図面を引いたという部屋があったし、いかにも洋風の石造建造物らしく、とても天井の高いものだった。
 一方、ここの沖合では1890年にトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難事件があって、島民の献身的な救助活動によって69名の乗り組み人の命を救ったという。救助された乗組員は一時的に灯台官舎に保護されたという。
 こういういきさつがあって、日本とトルコとの友好関係が深まる始まりとなっていて、灯台周辺には、、トルコ建国の父であるアタテュルクの騎馬像やトルコ軍艦遭難慰霊碑などが建っている。
 それにしても、潮岬灯台といい、樫野埼灯台といい、これほど近い位置において明治初期になぜに二つもの洋式灯台を建てたものか。それも江戸条約で建設を約した8つのうちの二つが串本にあるというのも興味深い。
 地図で見ると、樫野埼灯台は東に向いており、潮岬灯台は西に向いている。東京から海路直線距離で300キロほどか、二つの大型灯台が続くほどに周辺は岩礁が多く、遭難の危険がたびたびあったものであろうか。
 ところで、帰途、紀勢本線から車窓を見ていると、串本を出てほどなく奇岩が列柱のように並んでいるのが見えた。橋杭岩と呼ばれるもので、陸地から大島まで続いているということである。

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(写真3 岬の付け根にあたる海金剛と呼ばれる景勝地から遠望した樫野埼灯台)

<樫野埼灯台メモ>(海上保安庁/燈光会が設置した看板等から引用)
 所在地/和歌山県和歌山県東牟婁郡串本町樫野
 位置/北緯33度28分18秒、東経135度51分43秒
 塗色及び構造/白色、塔形、石造
 レンズ/第2等フレネル式
 灯質/群閃白光 毎20秒に2閃光
 光度/44万カンデラ
 光達距離/18.5海里(約34キロメートル)
 高さ/地上から灯台頂部 約15メートル、水面から灯火 約47メートル
 管轄/海上保安庁第五管区海上保安本部田辺海上保安部

本州最南端潮岬と潮岬灯台

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(写真1 潮岬観光タワーから見た潮岬と潮岬灯台)

紀伊半島岬と灯台巡り②潮岬と潮岬灯台

 紀伊日の御埼灯台を訪ねた後は、紀州鉄道を乗りつぶしたりして、その日はそのまま御坊に泊まった。
 翌7月22日、紀勢本線の1番列車で南下し串本へ。途中、紀伊田辺で乗り継ぎの必要があったりして、御坊から串本まで普通列車でちょうど2時間。
 串本では、潮岬灯台と樫野崎灯台と二つの灯台を巡りたい。この二つとも、歴史的にも、景観的にも日本を代表する灯台。
 ただ、この二つの灯台を公共交通を使って一気に回ろうとするとなかなか厄介。町内には串本町コミュニティーバスが運行されていて、潮岬も樫野崎も通るルートは設定されているのだが、本数が少ないしそもそもこのバスは住民のためのもので、観光客の利用は念頭に置かれてはいない。このため乗り継ぎや折り返しの時間などに融通がない。しかし、これはやむをえないことで、タクシーを上手に挟み込んでルートを設定する必要があった。
 そのことはともかく、まずは潮岬へ。串本駅から約15分、岬が近づくと坂の途中に格好の展望地があった。西側からの眺めである。どうやら大きな岬ではないし、鋭く突き出ているというほどでもなさそうだ。ただし、岩礁が多い。

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(写真2 潮岬灯台門柱)

 潮岬灯台前というバス停から徒歩10分弱。門柱には「潮岬灯台」と書かれた門札があり、墨跡が風雨でかすれかかっているが、それがかえって味わいを深くしている。敷地内にはハマユウの花が咲いていた。
 灯台は白堊の円筒形で、太く背が高い。20メートルを超す高さだが、太さはどれほどか。灯台を見るといつも知りたいと思うのがこの太さだが、塔高の表示はあっても、太さについて書かれたものは見たことがない。次の機会には長いロープでも持参し計ってみよう。もっとも、緩いが円錐形になっているから、計る位置によって太さは変わるわけだが。
 灯台は登楼のできるいわゆる参観灯台で、全国に16カ所しかない貴重な存在。石のらせん階段を登っていくと、途中の明かり取り窓の付いた切り込みの台に、濃い赤紫色の花が生けてあった。灯台のような無機質な場所で思わず心が洗われるような気持ちだった。また、この切り込み台から判断すると、灯台は石造で、壁面の厚さは100センチほどにもなるようだ。
 回廊に登ってみると、実に素晴らしい眺め。私流に両腕を伸ばして計ってみると、両腕に余るほどだからこれはもう240度を超す眺望ではないか。岩礁が岬をぐるっと取り囲むように散らばっている。特に灯台直下の岩礁は鋭く沖へと伸びている。この岩礁が灯台の重要性を増したものであろう。
 眼下では、波浪が岩礁に砕けて美しい色彩を見せている。この日は快晴でもあるし、やはり南紀なのか、海の色が明るく美しい。漁船が9隻操業しているし、沖合には航行する大型船がひっきりなしに見える。自然としても、産業的にも豊かな海域なのだ。海水も澄んでいて、岩場では、素潜りを楽しんでいる若者たちもいる。
 ここ潮岬灯台は、いわゆる条約灯台の一つで、幕末に欧米4カ国と結んだ江戸条約によって建設された灯台8基のうちの一つである。
 設計は日本の「灯台の父」ブラントン。1869年(明治2年)樫野埼灯台と共に着工、翌1870年に完成した。当初のものは日本初の洋式木造灯台だったが、その後、1878年4月15日に現在の石造りに改築された。
 なお、現在の灯塔の外面にはアラミド繊維による被覆が施され、耐震補強が行われている。このせいか、灯台は石造とは思われないほど外壁が白く輝いて見えた。
 ところで、灯台には資料展示室が併設されていて、これがとても参考になる。
 それによると、当初の灯台は第2等不動レンズを使用していたとのこと。実物が展示されていて大人の背の高さよりも大きなものだが、現在は120センチの回転式灯器が設置されているとのこと。また、電球も展示されていたが、これがせいぜい20センチほどの大きさで、こんな小さな電球であんな大きな光を放つのかと思うと驚くほどだった。Aランクという最重要に位置づけされる保存灯台だし、日本の灯台50選にも選ばれている灯台で、私はこの灯台を訪れたのは30数年ぶりだが魅力はまったく変わっていなかった。
 また、「ロイズ・レジスター」と呼ばれるロイドの船名録が展示されていた。大部なもので、世界を航行する主な船舶の名称などが記載されていて、1930年版という貴重なもので、潮岬灯台では海上を航行する船舶の名称などを確認していたという。
  一方、灯台は岬の突端には建っていなくて、灯台から歩いて10数分のところに潮岬の突端すなわち本州最南端の地碑があった。穏やかな芝生の園地になっていて、潮岬観光タワーというビルが建っていて、ここの7階最上階からは、岬全体が展望できた。 調べてみたら、本州最南端は潮岬のうちの、細かくはクレ崎というところで、位置は北緯33度25分59秒、東経135度45分45秒となっており、細かくは緯度で16秒低くなっている。

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(写真3 西側から見た潮岬灯台)

<潮岬灯台メモ>(海上保安庁が設置した看板から引用)
 位置/所在地 和歌山県東牟婁郡串本町(潮岬) 北緯33度26分15秒、東経135度45分16秒
 塗色及び構造/白色、塔形(石造り)
 高さ/地上から構造物の頂部まで23メートル、平均水面上から灯火まで49メートル
 等級及び灯質/無等、単閃白光毎15秒に1閃光
 光度/97万カンデラ
 光達距離/19.0海里(約35キロメートル)
 明弧/278度から130度まで
 光源/1500ワットハロゲン電球
 灯器/直径120センチメートル回転灯器
 管理/第五管区海上保安本部田辺海上保安部

紀伊水道を照らす紀伊日ノ御埼灯台

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(写真1 姿の美しい紀伊日の御埼灯台)

紀伊半島岬と灯台巡り①紀伊日ノ御埼灯台

 先週は紀伊半島一周の旅を行った。紀伊半島は日本最大の半島。和歌山側から入り、南海本線やJR紀勢本線などと海沿いをひた走り、岬を巡り灯台を訪ねた。また、この間の小さな鉄道路線を一つずつつぶしていった。7月21日~23日2泊3日。猛暑の続く中、なぜにこのような時節に出かけるのかという、半ばあきれられた言葉を背にしての旅立ちだった。熱中症に気をつけて!の注意も聞こえて、道中は、550ミリリットルボトルを日に3本ずつの水分を補給して万全の対応を行った。
 まずは紀勢本線和歌山から南下し御坊へ。ここから紀伊日ノ御埼灯台を目指す。ここを訪れるのは2度目だが、かつては岬に向けてバス路線があったのだが、廃止になってしまっていた。日の岬パークという園地があったのだが廃れたものらしい。それでやむなくタクシーにした。
 御坊駅から20数分、岬の尾根へ急坂を登り切るといきなり眼前に灯台が飛び込んできた。八角形の塔形をした真っ白な実に美しい灯台だ。高さが約17メートルといい、とても姿がいい。八角形というのも珍しい。石造ではないようだしコンクリート造のようだが、触ってみるとつるつるしてつやがある。どうやらアラミド繊維や樹脂系塗料で被覆し耐食性などを補強したもののようだ。最近このような灯台が増えてきた。
 灯台は100メートルを超す急峻な崖上にあり、眼下に紀伊水道を望み、素晴らしい眺望だ。大阪港や神戸港に出入りする船ばかりか、瀬戸内海に回る船もあって、大型船がしきりに往来している。ただし、この海域は潮の流れが速く、操船が難しいのだとはタクシー運転手の話。灯台はどこでも風の強いものだが、この日は穏やかで、気温もさほど高くはなく、せいぜい32度程度ではないか。36度を超している東京から来た者としては涼しげに感じるほどだ。冬も温暖だとはこれもタクシー運転手の話。
 対岸には四国の横たわっているのが見える。なお、徳島県の蒲生田岬灯台と結んだ線が瀬戸内海との境界となるとのこと。
 実は、この灯台は昨年3月に新築されたばかり。かつての灯台の敷地が崩落の恐れが出てきたため建て替えられたもの。約120メートル西へ移動したとのことで、所在地も美浜町から日高町へと変わった。2017年3月23日に新灯台が初点灯した。
 灯塔には初点銘板がはめ込んであったほか、これまでの歴代の初点銘板2枚も記念物として台座にはめ込まれ保存されていた。それによると、初点は明治28年1月25日で、その後太平洋戦争の戦災によって消失したため、昭和26年7月20日に再建され、さらに昨年建て替えられたということ。初代が鉄造で、二代目がコンクリート造だったとのことである。

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(写真2 後背地から遠望した灯台風景)

 なお、灯台周辺には別荘らしいが住居があり、後背地の高台には国民宿舎があった。現在は廃業してしまったらしいが、この地から灯台と紀伊水道を見下ろす風景は素晴らし景観で、国民宿舎が営業中なら点灯した灯台も見られただろうからはなはだ残念だった。

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(写真3 南東側から見た灯台)

<紀伊日の御埼灯台メモ>(海上保安庁/燈光会が設置した看板等から引用)
 位置/北緯33度52分55秒、東経135度3分36秒
 所在地/和歌山県日高郡日高町
 塗色及び構造/白色、塔形、コンクリート造
 灯質/群閃白光 毎12秒に3閃光
 光度/220,000カンデラ
 光達距離/21.5海里(約40キロメートル)
 高さ/地上から灯台頂部 約17メートル、水面から灯火 約128メートル
 管轄/海上保安庁第五管区海上保安本部田辺海上保安部

レムフ10000の車掌室

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(写真1 レムフ10000全景)

シリーズ車掌車を訪ねて

 鉄道博物館に展示されている。車両ステーションの左側最も奥に展示されており、EF66に連結されてコキ50000とレムフ10000が並んでいる。
 レムフ10000形貨車とは、鮮魚専用高速貨物列車用冷蔵車で、同じく冷蔵車レサ10000形に車掌室が付いた形式のこと。なお、形式記号のレムフはレ=冷蔵車、ム=積載重量14トン~16トン、フ=緩急車(車掌室、手ブレーキ付き)を表す。
 トラック輸送との競争が激化してきた昭和41年に開発され、時速100キロ走行が可能となり東海道・山陽本線に投入された。下関発東京行きを「とびうお」、大阪行きを「ぎんりん」との愛称がつけられていた。また、高速化のために貨車で初めて空気バネ台車を採用したほか、応荷重式電磁自動空気ブレーキも採用されている。
 牽引したのはロクロクの愛称で親しまれているEF66直流電気機関車で、高速貨物輸送専用機。レサ10~20両程度の編成だったようで、最後尾にレムフが連結されていた。なお、運搬品は高級鮮魚類が主だったらしい。

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(写真2 冷蔵車に設置された車掌室部分)

 レムフ10000は、冷蔵室の白い車両の後尾に青い車掌室がくっついていて、とってつけた印象がある。しかし、社内はしっかりした設備。事務机と椅子と長椅子。石油ストーブにトイレも付いている。長時間業務にも対応できるというわけである。車掌車としてはヨ8000形に近い内容であろうか。
 私は、貨物列車の最後尾に車掌車を連結してもらい、究極の書斎として貨物列車の行くところそのままに全国をふらふらと旅をするのが念願だが、この車掌室ならうってつけだ。しかも、車掌室を設置するために空気バネ台車を採用しており、走行中の振動も低いようだから素晴らしい。
 この高速貨物列車は、下関-汐留間1000キロを17時間で結んだということだから途中下車するには難しいだろうが、移動書斎には最適だ。

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(写真3 車掌室内部。素晴らしい設備内容である)

東洋文庫のオリエント・カフェ

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(写真1 ミュージアムからカフェへと誘う通路)

シリーズ:ミュージアムカフェ

 オリエント・カフェは、文京区本駒込にある東洋文庫のカフェ。
 東洋文庫は、蔵書数約100万冊を誇る東洋学に関する専門図書館。研究機能も有し、アジア最大の東洋学センターであり、世界的にも東洋学に関する研究図書館として五指に入る。
  ここのカフェが実に魅力的。1階のちょっと奥まったところにあり、シーボルト・ガーデンと呼ばれる庭園に面して落ち着いたたたずまい。
 カフェは小岩井農場の運営で、三菱三代目岩崎久彌が小岩井農場の場主であり、東洋文庫の創設者であるところからの関係。
 庭園には小岩井農場から移植された〝一本桜〟が枝を伸ばしているほか、四季折々の装いを楽しませてくれている。

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(写真2 オリエント・カフェの店内)

 店内は、ゆったりしたテーブル配置。庭園に面した席が人気だが、どの席からもくつろげる。
 ランチやディナーは予約が必要なほどの人気。ランチのマルコポーロセット(ふわふわオムライス)などいずれも素材にこだわった料理が評判いい。
 ランチタイムが終わったころからはくつろいだ時間が過ごせる。コーヒーはおかわりしたくなるほどの美味しさだし、小岩井のチーズケーキも捨てがたい。
 店内のバーカウンターには小岩井農場にあった樹齢100年のカラマツの一枚板が使用されており、小岩井農場の歴史に触れることができる。
 とにかく、全国のミュージアムでこれほど豊かな時間を過ごせるカフェも少ないのではないか。ミュージアムそのものも含めて私の大好きなカフェである。

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(写真3 中庭のシーボルトガーデン)

ラジオ体操発祥の地

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(写真1 佐久間公園にあるラジオ体操発祥の地碑)

都内に3カ所も

 学校が夏休みに入ってラジオ体操の季節。ラジオ体操は夏休みだけのことではなくて、もちろん年中なのだが、近所の公園などでラジオの音楽に合わせて体操する風景はやっぱり夏の風物詩だ。
 ラジオ体操発祥の地は千代田区神田佐久間町三丁目の佐久間公園。秋葉原駅の昭和通り口から総武線の高架下右側を浅草橋駅方向に歩いて行くと7分ほど。
 ここは佐久間小学校の跡地だが、ここにラジオ体操発祥の地碑がある。御影石でできた立派な碑で、体操の形を記した銅プレートもはめ込まれている。
 碑文には、「ラジオ体操は、昭和三年十一月、簡易保険局が国民の健康増進のために国民保険体操と名づけて制定したものである。これがひとたび放送されるやラジオ体操として親しまれ、全国各地にラジオ体操会の誕生をみるにいたった」とあり、「この地は、当時万世橋警察署の面高巡査が町内会の人達と共に全国に先駆けて「早起きラジオ体操会」を始めたゆかりの地である」としている。
 昭和53年8月1日にラジオ体操50年にあたり設置したもので、設置者には郵政省簡易保険局、日本放送協会、全国ラジオ体操連盟が名を連ねており由緒正しきもの。
 なお、公園内には夏期ラジオ体操会開催のポスターが掲示されていて、7月23日~8月24日6時30分とあり、どうやらこの公園としては夏休み期間中だけの行事のようだった。
 私は秋葉原に勤務し、ブログ『秋葉原日記』で秋葉原風景を綴っていたので、秋葉原はすみずみまで歩きまわっていて、この石碑についてもかねて取り上げていた。
 ところが、このたび調べてみたら、ラジオ体操発祥の地を標榜する地が都内にほかに2カ所もあることがわかりそこも訪ねてみた。

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(写真2 大塚公園のラジオ体操少年像)

  一つは、文京区の大塚公園。地下鉄丸ノ内線新大塚駅から徒歩数分ほど。公園に着くと早速「ラジオ体操発祥の地 大塚公園ラジオ体操会 年中無休・六時三十分 会員募集」の看板が迎えてくれる。
 公園内を散策してみると、やや奥まったところに少年が体操している様子の銅像があって、「文京区ラジオ体操発祥の地」の碑文があった。
 それによると、「文京区のラジオ体操は、昭和四年一月一三日、大塚仲町(現大塚四丁目四二番)の本伝寺境内に町内有志が集ったのを始まりとする。その後、隣接各町会の有志が合流し、三月二七日、会場を当地に移し、大塚公園ラジオ体操会と称した」とあった。
 つまり、この碑文によれば、文京区としてのラジオ体操発祥の地ということらしい。ただ、体操をする少年の堂々たる銅像があって素晴らしい顕彰ぶりだった。
 もう一つは、足立区の千住本氷川神社境内。北千住駅から徒歩5分ほど。立派な石碑があって、「氷川ラジオ体操会三十周年記念 足立区年中無休 ラジオ体操発祥之地」の碑文があった。社務所の方の話によると、ラジオ体操は毎日開催されており、参加者にはお年寄りが多いということだった。ただ、この石碑のほかには解説の掲示はなく、いつから始まったのかは定かではなかった。

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(写真3 千住本氷川神社境内の石碑)