ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

豪雪の大糸線

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(写真1 南小谷駅で発車を待つJR東日本列車(左)とJR西日本列車)
南小谷駅で運転系統変更
 前夜は長岡で旧友と一献傾けて、翌日は長岡から信越本線で直江津、さらにえちごトキめき鉄道に乗り継ぎ糸魚川へと向かった。北陸新幹線開通による並行在来線の措置で第三セクターに移管された路線だが、かつては新潟から金沢方面へ直通列車があったものが、ぶつ切れになってしまった。
 糸魚川では大糸線に乗り換えた。大火からの復興状況なども見たかったのだが、乗り継ぎ時間がわずか3分しかなくてとてもかなわなかった。
 それも、糸魚川で大糸線ホームは1番線で、これも100メートルも先に、2番線ホームの端に小さく切り込んで設けられていて、終いには小走りに駆け込んだ。
 10時29分の発車。2両編成のディーゼルカーでワンマン運転。乗客は2両合わせても数人だけだった。
 大糸線は、糸魚川から乗れば、新潟県の糸魚川駅と長野県の松本駅を結ぶ路線で、糸魚川-南小谷間はJR西日本、南小谷-松本間はJR東日本の管轄である。路線延長は105.4キロ、このうちJR東日本分が70.1キロである。
 長岡を出たときにはすでに本格的な雪になっていたが、糸魚川で大糸線に乗り換えたらさらに吹雪いて大雪となってきた。視界がまことに悪い。実は、この時期の大糸線は長野県側に入ると北アルプスの東側を走る絶景車窓の連続が楽しみなのだが、この空模様では果たしてどうなるか。
 糸魚川を出た列車は、姫川に沿って走っているが、25‰ほどの急登攀が続いており、ディーゼルを吹かすしっぱなしだ。山また山の連続で、これほど深い山間部を走っている路線としては、山田線や米坂線に匹敵するのではないか。川も結氷しており、寒さがわかる。
 深い山を越えたところが南小谷(みなみおたり)だった。糸魚川発のJR西日本の列車はここまで。11時34分着。2番線。同じホーム反対側の3番線にはすでにJR東日本の松本行き列車が入っていた。ここまではディーゼルカーによる運行だったが、ここからは電車となっており、運転系統がはっきりと変わった。弁当でも買おうとしたが、南小谷駅は山間の小さな駅で、売店は見当たらなかった。
 南小谷を出たら雪が止み、わずかだが陽も射してきた。果たしてアルプスが見えるか。南小谷から松本の区間は、右窓に北アルプスが望めて絶景車窓である。

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(写真2 沿線中の大きな駅は信濃大町)
 私は、この区間に乗車するのは4度目で、しかも、南小谷から松本へ全線を乗ったのは3度目だが、アルプスをきちんと見たのは、初めての折の1回だけだった。
 白馬、簗場などと続き、右窓に湖が時折現れる。青木湖、木崎湖などとある。アルプスを写しだしていてとても情感が深い。
 しかし、アルプスの全容は見えない。特に露払いのように前立ちしている山々、それとて2千数百メートル級だし、その奥には3千メートル級の純白の頂が見えるはずだが、それも時折チラッと望める程度である。信濃大町に到着したら高校生がごっそり下車した。長い停車時間で、ここでおにぎりを買った。
 次が穂高で、常念岳が見え、奥に槍が岳が望めるはずだが、確認できるほどはっきりとはしていなかった。
 そうこうして松本平。梓川を渡ると松本駅。14時20分着だった。

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(写真3 くっきりとは行かないがこれも車窓風景)

北越急行ほくほく線の今

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(写真1 シアター列車「ゆめぞら」ではトンネル内で美し映像が天井に映写されていた)

高いスペックを生かす

 長野からは、かつての信越本線であるしなの鉄道北しなの線とえちごトキめき鉄道妙高はねうまラインで直江津に出て、北越急行ほくほく線で越後湯沢に向かった。越後湯沢からはさらに上越新幹線で長岡へ乗り継いだから、単純に直江津から長岡へ向かうだけなら信越本線1本で乗り通した方が先着できるのだが、ここはほくほく線に乗ってみたかった。
 北越急行ほくほく線は、線区としては、上越線の六日町と信越本線の犀潟を結ぶ59.5キロの路線だが、大半の列車は越後湯沢と直江津発着の運行ダイヤとなっている。
 そもそもは、首都圏から北陸への短絡線として建設され、特急はくたかが越後湯沢と富山・金沢間を頻繁に往復していた。しかも、高いスペックで建設された路線であり、一時ははくたかの最高速度は160キロにも達していた。
 しかし、北陸新幹線の開業によって、首都圏と北陸を結ぶ路線としての使命は終えており、ほくほく線の現状はどうなのか非常なる関心があった。

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(写真2 直江津駅で発車を待つほくほく線列車)
 1月28日、直江津15時05分発越後湯沢行き。2両の電車ワンマン運転。乗客は日曜の夕方でもあるからちょっと少なくて1両に10人程度。
 二つ目犀潟から信越本線と別れほくほく線に入った。おそらく一面の田んぼなのであろう、雪に覆われているからまるで雪原のようだ。
 大地いこいの森を出て長いトンネルに入ったら天井に美しい映像の映写が始まった。シアター列車「ゆめぞら」というイベント列車だったのである。このイベントは長いトンネルに入るつど行われ、花火や宇宙、星座、海中などの模様が映写された。とても美しい映像で、5本ほど映写されていたか、長いトンネルが多かったから楽しく車中を過ごすことができた。
 また、このほか、越後湯沢-直江津間84.2キロを何とわずか57分で結ぶ超快速スノーラビットが運転されている。おそらく在来線としては表定速度で日本最速であろう。途中の停車駅は十日町だけである。

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(写真3 雪原に鉄路が伸びるほくほく線)
 豪雪地帯だが、当初から想定されて建設されたせいか、膨大な積雪が見られたが、多少の雪ではびくともしないようだった。
 十日町になって乗客が一気に増えた。沿線中随一の都市だし、飯山線との接続駅であって、越後湯沢との間は多客区間となっているようだった。
 六日町から上越線に入り、そうこうして越後湯沢16時28分の到着だった。直江津からは1時間23分だった。
 特急はくたかが走っていた時代は、全国の第三セクターの中でも優等生だったが、特急列車が走らなくなっても、越後湯沢と直江津を結ぶという短絡線としての位置づけは残っており、列車運行上にも様々なアイディアが盛り込まれており、健全な発展を期待したいものだと思われた。

 

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<おまけ=しなの鉄道とえちごトキめき鉄道の分岐点妙高高原駅では駅名標がすっぽり雪に覆われていた>

 

長野電鉄と湯田中温泉

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(写真1 絶景が続く長野電鉄車窓)
北信越を周遊
 1月28日から29日と1泊2日で、北信越を周遊した。今回の旅は車窓を楽しむ徹底した乗り鉄の旅で、大きくは上野-長野-直江津-長岡-糸魚川-松本-上野と巡ったが、乗った路線数は往復するなどした重複も含めると17に及び、総延長キロ数は1077.3キロに達し、1千キロを超えた。
 まずは長野電鉄。北陸新幹線を長野で降り長野電鉄に乗り換えた。
 長野電鉄は長野駅と湯田中駅を結ぶ全線33.2キロの路線。かつては木島線や屋代線など複数の路線を有していたが、現在は長野線(本線)のみの運行となっている。
 起点の長野駅は、JR長野駅に直結した駅前地下街に改札口がある。この位置関係はJR金沢駅と北陸鉄道に似ている。2面3線のホームがある。
 路線は、須坂や中野などの近郊都市を結んでいるほか、湯田中温泉に向かう観光路線でもある。
 1月28日。9時04分発A特急スノウモンキー号。全車自由席だが、100円の特急券が必要。下り列車だが日曜日でもありまずまずの乗客率。特に外国人のスキー客の姿が目立つ。
 三つ目の善光寺下を過ぎて地上に出た。また、柳原を出て千曲川を渡った。この先、信濃川と名を変えて日本海に注ぐがこのあたりですでに大河である。
 列車は、この千曲川の東側、長野盆地通称善光寺平を北に向けて走っている。左窓に美しい山並が続く。
 初めに見えたのが飯縄山。そして黒姫山、妙高山と続いた。標高2千メートル前後の堂々たる山々である。妙高山はピークが尖っていて独特の形状をしている。
 この路線は、カーブが結構多いのだが、そのつど景色が動くからこれはこれで楽しい。快晴ではないがまずまずの天候だ。
 斑尾山があり、湯田中が近づいて大きく右にカーブをしていったら高社山が正面になった。雄大な裾野を持った山だ。
 30分ほども冠雪した山々を次々と見られてこれは絶景路線である。盆地を隔ているからなおさら見晴らしがいい。これなら黒姫や妙高の裾野を走るしなの鉄道北しなの線(旧信越本線)よりも全貌が見えて楽しいのではないか。
 実は、この列車では、途中の須坂から乗ってきた年輩の女性に山の名前を尋ねたら、この方がとても親切で、丁寧に解説してくれた。それで一層印象深く車窓を楽しむことが出来たのだった。なお、これらの山々は北信五岳と呼ぶのだという。

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(写真2 新旧の湯田中駅舎。左が現駅舎で、右が趣もある旧駅舎)
 そうこうして9時54分終点湯田中到着。温泉地であり、志賀高原などスキー場としても知られる。
 湯田中では、湯田中駅の真裏にある共同浴場に立ち寄った。温泉街の入口にあたり、湯田中駅前温泉「楓の湯」とある。10時開店のところ一番に入ったからとても気持ちが良かった。源泉掛け流しとあり、源泉温度は93.2度と高温。ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉で、なめてみたら無色無味無臭だった。湯温は43度とあったが、私には42度に感じられ、熱い湯が好きな自分としてはあと1度ほど高くてもよかった。
 なお、この浴場の隣が旧湯田中駅舎で、きちんと保存されていた。新旧の駅舎が背中合わせになっている。私はこの湯田中駅に降り立ったのは二度目だが、初めての折には旧駅舎だった。

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(写真3 湯田中駅の真裏にあり湯田中温泉街の入口にある共同浴場「楓の湯」)

ピアノ発表会

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(写真1 発表会の様子)
レベルの高い生徒たち
 ピアノ発表会とは、ピアノ教室の生徒たちによる演奏会。
 27日土曜日、練馬区文化センターで行われた発表会には、私の孫も出演していて応援に駆けつけた。
 この日の発表会には、30人も出ていて大変賑やかだった。顔ぶれも、幼稚園の年長組から中学3年生まで見られて幅広いものだった。中心は小学生だった。中学生は、受験勉強などもあって途中でやめる子供たちも少なくないらしい。
 しかし、演奏を聴いていてそのレベルの高さにびっくりした。小2で「クシコスポスト」、小3で「モルダウの流れ」、小6ともなると「戦場のメリークリスマス」などとあって、それもしっかりした演奏ばかりで感心した。よほど指導がきちんとしているのだと思われた。
 私の孫は小1の女の子でで、しかも習いたてたばっかりだったが、バッハの「メヌエット」を一生懸命弾いて上手だった。この曲は、ピアノ発表会では必ず演奏される定番みたいな曲だが、それだけに聞いている方も耳慣れているから演奏はかえって難しいに違いない。
 発表会というと、生徒本人もさることながら親たちも一生懸命で、随分と尻をたたいて練習させたに違いない。
 わが家でも、母親ばかりか、祖母(つまり私の妻)も出張指導を行って発表会に備えていた。
 それにしても、全国には、何万何十万というピアノ教室があって、生徒数は数百万を超すのだろうが、随分昔だが、聞くところによると、一流のピアニストが行っている個人レッスンでさえ、将来、ピアニストになれる素材に出会うことは実に稀なことらしい。
 もっとも、ピアニストになろうとしてピアノ教室に通っているわけではなく、小学生時の豊かな情操を養うという面での習い事であろうから、それはそれでよいのだし、部外者がまったく無責任なことではあるが、音楽が好きになればそれで十分なような気もするが。

運行再開の竜田-富岡間に乗る

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(写真1 富岡駅。運行再開に合わせて駅舎も駅前も新しくなっていた)
部分復旧重ねる常磐線
 昨2017年10月21日に運行を再開した常磐線竜田-富岡間に乗りに出かけた。
 常磐線は、2011年の東日本大震災による地震と津波ばかりか原発事故の影響もあって、あちこちに運行休止区間があったが、その後、細切れではあるが段階を踏んで復旧を重ねてきていて、私も運行再開のあるそのつど乗りに出かけてきていた。
 1月26日。上野を8時00分に出た特急ひたち3号を終点いわきで降り、すぐに反対側の3番線ホームに停車中の普通列車富岡行きに乗り継いだ。
 わずか3分の待ち合わせで10時27分の発車。4両編成で、使用車両は日頃は常磐線特急に使用されているそのもので、車両運用上こうなったものかどうかわからないが、いずれにしても何か得したような気分ではある。
 途中、広野では、鉄骨の組み立てが始まったばかりで具体的にはわからないが、海側に大きなショッピングモールのごとき建物の工事中だった。ただ、ちょうど1年前にもここを通っているが、その時に比べ再開発が格段に進んでいるようには見えなかった。
 そう言えば、原発事故後しばらくは、常磐線はいわきからの下り列車の運転はここ広野止まりで、2011年12月30日に私が訪れた際には、広野から先、仙台方の鉄路はさびついていた。
 この広野駅は、福島第一原発から24キロの位置にあるのだが、この時、鉄道はもとより、国道も20キロ圏で閉鎖されていた。タクシーで原発に近づけるところまで行ってもらったのだが、途中の家々は空き家ばかりでまるでゴーストタウンになっていた。その折のタクシー運転手が言った「津波の被災地は時間と金をかければ復旧するだろう。しかし、(原発被害の)ここに元の生活が戻ることはないのではないか」という言葉はいつまで経っても忘れることができないし、実際、その通りになっている。
 広野の次の木戸-竜田間は、強風の影響で徐行運転となり、竜田には8分遅れて到着した。
 復旧の足取りが、広野から先、ここ竜田まで届いたのは2014年で、私は2015年に乗りに来ていた。その折には、竜田から先、原ノ町までは代行バスによる運行となっていた。
 さて、竜田から次の富岡までが運行再開区間である。わずか一駅、6.9キロの復旧だが、竜田を出た列車は遅延を挽回すべくスピードを上げたようで富岡到着は4分遅れの11時13分だった。
 富岡駅はまったく新しくなっていた。10月21日の運行再開にあわせたもののようで、駅舎ばかりか駅前も、周辺の住宅も新しいものばかりで、事情を知らなければ、まるで大都市近郊の新興住宅地と見紛うばかりだ。

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(写真2 帰還困難区域を走る富岡-浪江間代行バス車上から)
 しかし、鉄道の復旧はここまで。ここから先は代行バスによる。11時30分の発車。10数人が乗っていたが、全員が列車からの乗り継ぎのようだった。
 発車すると、すぐに車掌から「帰還困難区域を走るので、窓は開けないように」との注意があった。バスには線量計が積まれ、パソコンに記録が取られているようだった。
 国道6号線を走っているのだが、道路脇には「帰還困難区域」と書かれた看板があちこちに立てられていた。
 沿道はまるでゴーストタウンである。空き家となった建物は、原発事故から7年目を迎えて荒れ果ててきている。国道から脇にそれる道路では、検問が行われていた。帰還困難区域に無断で入り込むのを警戒しているのだろう。
 代行バスが運行されているのは、富岡から途中は夜ノ森、大野、双葉の3駅を挟んで浪江まで20.8キロである。ただし、帰還困難区域の区間は、代行バスといえども途中停車することはできず、ノンストップで走り抜けた。
 代行バスは、かつては竜田-原ノ町間で、8駅46.0キロだったから、随分と短くなった。つまり、その分鉄道が復旧してきているということ。浪江には12時ちょうどに到着した。結局、私は代行バスには4度乗っているが、乗るつどバス運行区間が短くなっていることはうれしいこと。
 浪江で代行バスから鉄道に乗り継ぎ、仙台に向かった。途中、津波被害に遭っていた相馬-浜吉田間が復旧したのが2016年の12月10日で、私は12月24日に乗りに来ていたが、いずれにしても、浪江から仙台まで鉄道がつながったことは画期的なことで、復興に大きな弾みとなっているものと思われる。
 途中の新地、坂元、山下の3駅は高台移転して新たに付け替えられた駅で、新しい駅前では再開発が緒についた様子だった。
 なお、原発封鎖が解かれ、常磐線が全線で運行が再開されるのは2019年度末(2020年3月)と予定されている。

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(写真3 線路が封鎖されている浪江駅構内の様子。仙台から上ってきた列車はここまで)

遠州鉄道は天竜川の右岸

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(写真1 瀟洒な西鹿島駅)
素晴らしい経営
 遠州鉄道(略称遠鉄)は、新浜松駅と西鹿島駅間を結ぶ。路線延長は17.8キロ、駅数18で、全線浜松市所在。
 私は、12月26日、新所原から掛川まで天浜線に乗った後、いったん、掛川から西鹿島まで戻って遠鉄に乗り換えた。
 西鹿島駅。山小屋風の瀟洒な駅舎。2面3線のホームがあり、本屋側から1番線2番線と並び、3番線が天浜線。
 1番線に2両の電車。新浜松行き。ピカピカの赤い(スパニッシュレッドと呼ぶらしい)車体。すべての車両がピカピカに磨き上げられているようでとても気持ちがいい。しかも、この遠鉄の素晴らしいところは、全車両新製車だということで、ピカピカもうなずける。ローカル私鉄では、往々にして大手私鉄からの払い下げ車両を使用している例が多いから、遠鉄の経営は評価できる。

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(写真2 新浜松に到着した遠鉄列車)
 14時00分発車。天竜川の右岸、いわゆる三方原を南下しているわけだが、この先も天竜川とは交わらなかった。沿線は浜松の近郊住宅地という印象だ。
 駅名には、遠州芝本、遠州小林などと頭に遠州と付けているところが多い。浜北は沿線で大きな駅。
 ここには、私が大変お世話になった会社の浜北工場があって、かつてはちょくちょくと訪れていた。創業者から二代三代と可愛がってもらったが、中小企業にありながらステンレス鋼溶接材料では日本のトップメーカーだった。進取の気性に富んだ創業者で、技術開発に積極的に投資を行っていた。
 乗っていてすぐに気がついたことは、電車の走行が実に軽快だということ。気持ちがいいくらいだ。車両が新しいということばかりではなく、メンテナンスがしっかり行われていて、しかも、保線も怠らないということだろうし、感心した。
 また、単線なのに、列車交換の可能な駅が多いから、列車ダイヤはほとんど複線のごときスムーズさだ。この点でも遠鉄の旅客サービスを第一に考慮した経営姿勢に感心した。
 途中から高架となったようで、そうこうして新浜松14時32分着。立派な駅ビルで、斜め前方にJRの浜松駅が見えた。

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(写真3 遠鉄新浜松駅)

天竜浜名湖鉄道

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(写真1 JR新所原駅連絡通路上から見た天竜浜名湖鉄道新所原駅)
浜名湖畔と天竜川
 豊橋からは、天竜浜名湖鉄道に乗ってさらに東へと進んだ。
 天竜浜名湖鉄道とは、豊橋から東海道本線で二つ目、新所原(しんじょはら)から浜名湖の北岸を走り、天竜川を渡り、再び東海道本線に合流し掛川へと至る路線。旧国鉄の特定地方交通線であった二俣線を引き継いだ第三セクター鉄道で、全線67.7キロ。なお、路線名としては天浜線と呼ばれている。
 新所原駅。JR駅の片隅に小さなホーム。鰻重の売店があったが、まだ時間が早かったせいか、営業していなかった。10時19分の発車。1両のディーゼルワンマン運転。1ボックスに1組の乗客。

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(写真2 右窓に見えた浜名湖)
 新所原から二つ目、知波田を過ぎて右窓に浜名湖が見えてきた。高原が尽きた丘陵地帯を列車は走っていて、浜名湖畔の狭い盆地を抜けて行く。三ヶ日で6分停車。蜜柑の産地として知られる。東都筑で東名高速道路をくぐった。寸座で対岸に舘山寺が見えた。有名な温泉地である。気賀に至って浜名湖から離れたようだ。
 金指で6分停車。この列車には、2時間を越す路線区間を走っているのにトイレが付いていない。だから、この長い停車時間を利用して用をたせということだろうか。もっとも、起終点を通しで乗っているような退屈な乗客はほかに見当たらないようではあるが。
 西鹿島。遠州鉄道との接続駅である。二俣本町、天竜二俣と続く。天竜二俣駅は車両基地になっているらしく、多数の車両が留置されていた。また、転車台もあるようだったが、定かではない。天竜川を渡った。初めてこの路線に乗った折には、この天竜二俣駅で途中下車し、駅前の鰻屋で昼食を取った記憶がある。もう20年にもなるか、あの頃でさえ、鰻の産地でさえ鰻は高かった。
 このあたり、天竜川による肥沃な大地のようで、耕作地が広がっている。天竜川の右岸を三方原、左岸は磐田原と呼ぶようだ。
 茶畑も出てきた。遠州森駅では、ホームに遠州の小京都の案内看板が出ていた。講談や浪花節では次郎長一家の侠客森の石松の出身地となっていたが。
 ここまで細かく乗降はある。列車本数も日中でも1時間に1本程度もある。まずまずの利用者である。
 そうこうして終点掛川12時29分着。新所原から2時間10分だったから、表定速度は34キロに満たないということになり、車窓を楽しむには十分な路線だった。

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(写真3 天竜川。大河である)