ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

名鉄豊川線で豊川稲荷へ

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(写真1 1面2線ホームの豊川稲荷駅)
豊橋直前はJR飯田線と名鉄線が線路共用
 ブログへの掲載順序が時間前後してしまったが、東海地方への年末ぶらり旅の続き。
 旧臘12月26日に渥美半島を下って伊良湖岬を訪ねた後は伊勢湾を渡って名古屋に泊まった。
 翌27日は東へと向かい、まずは名鉄電車で豊川稲荷を目指した。名古屋本線名鉄名古屋を出て国府(こう)へ。特急電車で約45分。ここで豊川線に乗り換え。4番線から8時39分の発車。4両で到着し2両で折り返した。通勤時間帯は4両なのであろう。平日の下りだし、学校も休暇中だから列車は空いている。乗っているのは部活の高校生くらい。
 いわゆる豊橋平野だが、豊橋あるいは名古屋への通勤圏なのであろう、沿線には住宅が広がっている。窓外は小雨模様で、寒々としている。
  国府から四つ目、わずか14分で終点豊川稲荷。8時53分着到着。行き止まりの終着駅である。1面2線のホームがあった。
 調べてわかったが、そもそもこの豊川線は全線が軌道線なそうである。建設時の適用する法律上の分類ではあるが、鉄道線ではないということ。こういう例は全国にままある。ただし、走っている列車は鉄道線の一般車両だった。もっとも、開業当初は路面電車タイプの車両が走っていたということである。

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(写真2 堂々たる豊川稲荷の門)
 もとより豊川稲荷の門前町として開けたところで、駅から徒歩5分ほどのところに豊川稲荷があった。
  大変立派な寺社で、多くの伽藍があった。初詣人数では、愛知県下では名古屋の熱田神宮に次ぐ賑わいで知られるが、さもありなんと思われた。年間の参拝客は500万人を数えるというからすごい。もっとも、この日は暮れの早朝だから参拝者の姿はほんの数人しか見当たらなかった。
 なお、訪れてわかったが、ここは稲荷とはいうものの曹洞宗の寺院なそうで、妙厳寺というのが正式の寺号なそうである。ただ、境内には鳥居も立っているからよくわからない。
 豊川稲荷駅の駅前広場に面し、JR飯田線の豊川駅が隣り合っている。この先豊橋へ向かう予定だが、JRなら一直線で時間短縮のところ、わざわざ国府まで戻り再び名古屋本線で豊橋に向かった。
 国府から豊橋まではわずか三つ目だが、一つ手前の伊奈を過ぎると左から飯田線が寄り添ってきて、そのまま並走して豊橋に到着した。
 面白いのは、飯田線が名鉄線に合流した地点に平井信号場というのがあるのだが、ここから豊橋までの区間は、名鉄とJRがそれぞれ単線所有で、二つ合わせて両社が複線として共用しているのである。名鉄側から見れば、本来の名鉄の線路は豊橋方面、JRの線路を名古屋方面へと運用している。
 それで、豊橋に到着してみるとわかることは、1階の片側1線は1番線、島式の2線は2番線3番線ホームとなっていて、1番線2番線がJR飯田線、3番線は名鉄線となっている。
 国鉄から別れた第三セクター相手ならともかく、JRと純然たる私鉄との間でこれは大変仲の良いことだが、そもそも飯田線の前身が豊川鉄道、名鉄の前身は愛知電気鉄道で、この時代からそれぞれの単線を共用して複線として運行した経緯があるようだ。

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(写真3 豊橋駅1階ホームの様子。左の3番線が名鉄線ホーム、右へ2番線1番線はJR飯田線のホームである)

伊東潤『幕末雄藩列伝』

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講談のごとき面白さ
 講談のごとき面白さである。かといって、著者は講釈師ではないし小説家であって、史実を調べ裏付けを取っているようで、読んでリアリティは十分だ。それも、藩に焦点をあてて書いているのが特徴で、藩としての動向に力点が置かれている。
  取り上げられているのは14藩。雄藩とタイトルが付けられているように、薩摩藩や水戸藩、会津藩などと大藩が多いが、1万石程度のあまり名も知られていない藩も出てくるし、歴史上脚光をこれまで浴びたこともなさそうな藩もある。
 その評価も功罪なかなか厳しくて、例えば彦根藩など「先祖の名誉を踏みにじった幕末最大の裏切り者」と辛辣だし、仙台藩については、東北を戦渦に巻き込んでしまった「眠れる獅子」、と断じているし、加賀藩にしても、一方の道を閉ざしてしまったことで墓穴を掘った大藩、とばっさり。
 請西藩が興味深い。請西藩(じょうざいはん)とは、現在の千葉県木更津市にあった1万石の小藩。当主林家は、家康から遡ること8代の松平家の頃からの家臣で、林家当主は正月には諸侯に先駆けて時の将軍から盃を受けるという習慣が定着していたという。
 言わば大変な栄誉であり、大恩ある徳川将軍家ということになるが、「徳川家と重代相思の間柄にある大名たちの多くが早々に白旗を掲げ、薩長の新政府に頭を垂れる中、わずか1万石ぎりぎりの大名が、徳川家への忠節を誓い、まさに一寸の虫にも五分の魂を実践した」という。
 特に最後の藩主である林忠崇は、一命をなげうち粉骨砕身徳川家のために各地で転戦している。藩論では、新政府軍への恭順を説くものが多いと見るや、何と藩主自らが脱藩してまで新政府軍と戦っている。
 その後、紆余曲折はあったが、「結局、三百余藩の中で、明治新政府によって取り潰しの「栄誉」に与ったのは、請西藩だけだった」とし、忠崇は94歳の天寿を全うし最後の大名となったのだった。
(角川新書)

大寒の公園

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(写真1 冬のあけぼの)
冬もあけぼの
 大寒。寒い。しかし、霜は降りているが、氷が張るほどのことでもない。
 この時期の早朝のウォーキングは辛いが、しかし、刻々と変化する朝の風景が魅力的だ。
 家を飛び出す6時ではまだ薄暗いのだが、10分もすると東の空が暁に染まる。この瞬間が好きで、さらに10分もするとあけぼのに変わり、うっすらと白白としてくる。清少納言はあけぼのは春がいいと書いたが、冬も味わい深い。この時間でも陽はまだ昇らない。
 花は少ない。水仙が咲いていた。ボケが赤い花を付けていた。毒々しいほどの濃い朱色が特徴だ。

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(写真2 この時期多いのは赤い木の実)
 花は少ないが、赤い実は多い。木の実はほとんどが赤色ではないか。ただ、種類が多くて見分けがつきにくい。
 どうしてこの時期の木の実は赤色が多いのであろうか。かつて野鳥の専門家に伺ったことがあるのだが、鳥の目につきやすいようにではないかというような話だった。つまり、食べてもらいたいからだが、鳥にも好みはあるようで、いつまでも食べられずに残っている実もある。この時期の木の実は水分が少ないから、このことも好まれない理由かも知れない。これは私の推測だが。
 近所の公園では、凧揚げに興じている子どもたちがいた。この頃では見ることの少なくなった冬の風景だが、子どもたちも慣れていないせいか、糸を立木に絡ませていた。凧の形も変わってきていて、まるでオオタカのような凧を揚げている子がいた。

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(写真3 まるでオオタカのような凧)

讃岐平野を走る「ことでん」

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(写真1 玉藻城のすぐ脇にあることでんの高松築港駅)
性格の異なる3路線
 松山からは高松へ移動した。松山-高松間は予讃線で194.4キロ、特急列車で約2時間30分の距離である。
 松山と高松は、愛媛県と香川県、旧国名なら伊予と讃岐ということになるが、ともに県庁所在地であり瀬戸内海に面するというほかに、いずれもローカル私鉄が発達している。
 そういうことで、高松では、ことでん(高松琴平電気鉄道)の琴平線、長尾線、志度線の全線に乗った。
 起点は高松築港駅で、高松城(別名玉藻城)のすぐ脇にある。簡単な塀を隔てただけでまるで城内という位置関係である。お城に近い駅として福山城などがあるが、これほど近い駅もないものだ。昔は大きな駅ビルがあったものだったが、取り壊されて玉藻城の石垣が美しく見えるようになった。
 琴平線と長尾線が高松築港駅発着で、志度線だけは、高松築港駅から二つ目の瓦町駅発着となっている。なお、線区上は長尾線も瓦町駅が起点である。

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(写真2 金刀比羅宮への最寄り駅琴電琴平駅)
 まずは琴平線。ことでんの本線的存在で、全線32.9キロ。讃岐平野を西南へ向けてひた走る。沿線には、まるでおにぎりのような、ぼわっとした印象の優しい山がぽつりぽつりあり、ため池があって、いかにも讃岐平野という風景。
 乗って感じたことはとにかく列車のスピードが速いということ。軌間が1435ミリ(標準軌)と広いし、駅間距離も長くてスピードを出せるようだ。ただ、その分揺れがひどい。
 約1時間で終点琴電琴平到着。もとより金刀比羅宮への最寄り駅である。がっしりした瓦屋根の駅舎である。
 一方、長尾線は高松築港と長尾との間を約40分で結んでいる(線区上は瓦町-長尾間14.6キロ)。東南に向かっており、通勤通学路線だが、とにかく頻繁に停まる。駅数が多いからで平均駅間距離が1キロに満たない。
 また、志度線は東へ向かう路線で、瓦町と琴電志度間12.5キロを結んでいる。この路線も駅数が16と多く、駅間距離が短くて、平均すると0.83キロでまるで路面電車並みだ。それで、調べてわかったが、この路線はそもそも軌道線として建設されたとのこと。なお、長尾線も同様のようだ。
 瓦町駅は、ちょっとしたターミナルとなっており、3路線が合流分岐するが、志度線だけはホームが離れていて、琴平線などから乗り換えるなら5分ほどもかかるようだった。
 これも3線の生い立ちが異なるからだが、共通しているのはゲージが3線とも標準軌であること。ただ、折角の標準軌だが、長尾線と志度線は駅間距離が短くてスピードは出せていなかった。もっとも、駅数の多いことは、利用者である沿線住民にとっては便利なことと思われた。
 なお、標準軌は四国島内ではことでんだけである。

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(写真3 瓦町駅の志度線列車)

堂々たる伊予鉄

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(写真1 伊予鉄のターミナル松山市駅)
縦横に路線網
 前夜は結局ホテルにチェックインしたら午前1時を過ぎていて、就寝したのも2時を回っていた。
 それでも、早朝にはホテルを飛び出し、電車に乗りまくりに出かけた。当初予定では、道後温泉にゆっくり浸かり、松山城を見学するはずだったが、市内見物は何度も行っているし、久しぶりに伊予鉄に乗りたくなったのだった。
 伊予鉄道通称伊予鉄は、松山市を中心に四方に路線網を張る鉄道事業者。鉄道線としては高浜線、横河原線、郡中線の3路線、軌道線では5系統の路面電車を走らせているほか、バスやタクシー、航路の運行も行っており、大半の公共交通を営んでいる。ないのは空路ぐらいなものか。堂々たるものである。
 拠点は、松山の中心に位置する松山市駅。鉄道線、軌道線のターミナルであり、ターミナルビルには高島屋などの百貨店も入っている。
 まず鉄道線。伊予鉄では市内を走る路面電車と区別するために郊外線と通称している。ターミナルビルの懐に抱かれるように2面3線のホームがある。
 横河原線は、東に延びる路線。全線13.2キロ。沿線は住宅地。途中、牛渕団地前はその名の通り団地のようで、駅前には大きなショッピング施設が見えた。終点の一つ手前に愛大医学部東口。路面電車やバスの停留所ならいざ知らず、鉄道の駅で東口なとというこういう細かな駅名も珍しいのではないか。よほど大きなキャンパスか、あるいは反対側にも鉄道の駅があるのかとも思われたが、どうもそうでもないようだった。続いて終点横河原。所要21分。
 駅前は、高校生らを送りに来た自家用車で溢れていたほかは格別に珍しいようなこともないようなのですぐに折り返したが、この列車が高浜行きとなっていた。松山市駅を経て高浜線への直通列車なのである。高浜線と横河原線にはこういう運用が多いようだった。
 高浜線に入って一つ目が大手町で続いて古町(こまち)。ここで4両で来た列車が2両切り離された。路面電車との乗換駅で、ここには鉄道線、軌道線を含めた車庫があった。ホームも並んでいる。
 高浜線は北西へと向かう路線で、西衣山(にしきぬやま)でJR予讃線とクロスした。下り列車なのに利用者が多かったが、山西で大半が下車した。港山で左窓に海が見え始めそうこうして終着高浜。松山市からなら全線9.4キロ、26分。横河原からなら約1時間というところだった。
 高浜駅ではすぐ目の前がフェリー乗り場になっていた。中島・ごごしま行きとあった。また、松山観光港にはここから連絡バスが出ているようだった。

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(写真2 郡中港駅ホームの様子)
 次ぎに郡中線。松山市駅から南西に向かう路線で、全線11.3キロ。初め住宅地を走っていたが、途中、重信川を渡って田畑が多くなった。この前後に鎌田、岡田とまるで名字のような駅名が続き、松前(まさき)で大半が降りた。
 郡中を経て終点郡中港。松山市から24分。港が近いようだった。道を1本隔ててJR予讃線の伊予市駅である。
 ここまで、郊外線は、3線とも単線なのだが、定時ダイヤで運転本数も多く利用しやすいようだった。郡中線は3両、横河原線と高浜線は朝夕は4両だが、日中は2両の運用のようだった。いずれの車両も伊予鉄のカラーなのかオレンジ色の車体が大半で、ピカピカに磨かれて美しいものだった。これには感心した。
 一方、路面電車である軌道線は伊予鉄では市内線と呼んでおり、松山城を取り囲むように5つの系統がある。松山市駅が起点で、ターミナルビルの駅前に滞留所がある。なお、松山市停留所は堀に面した通りからはやや奥まったところにあり、堀に面した南堀端から一停留所分ある。
 1系統と2系統は松山市を発着する同じ路線の東回り、西回りで、1系統は松山市を出て南堀端で左折しJR松山駅前を経るルートで、2系統は同じく松山市を出て南堀端で右折し大街道を経るルート。なお、1系統2系統は環状線ではあるが、松山市で行き止まり反転するので、ぐるぐる回っているわけではない。
 ほかに、松山市から道後温泉を結ぶ3系統、JR松山駅前から道後温泉を結ぶ5系統、本町六丁目から道後温泉を結ぶ6系統とあり(第4系統は空き番)、電車は頻繁に往来しており、特にすべての系統が通る南堀端と上一万の間は運転密度が高い。また、この間は松山の目抜き通りを結んでいる。なお、本町線と呼ばれる6系統だけは、日中なら約30分間隔と運転本数は落ちる。
 2系統に乗ってみよう。松山市を出る。500メートルほどか、進んで南堀端で右折する。壕に沿って走っており、市役所前、県庁前と続き大街道はもっとも賑やかな繁華街。高級ホテルやデパートが並んでいる。上一万で道後温泉行きが分岐していき、本線は左折し専用軌道へと入っていく。赤十字病院前などとあり、愛媛大学や松山大学などが沿線にあって、高級住宅街のようだ。住宅の軒がすぐに迫っており、樹木の枝に触れそうでまことに狭く、まるで江ノ電のようだ。古町で高浜線と接続し、その高浜線を横切って宮田町となり、ここから再び併用軌道となりJR松山駅前となった。次の大手町が興味深いところで、ここで軌道線と鉄道線が一般道路上で直角に平面交差している。鉄道趣味世界でダイヤモンドクロスと呼ばれており、日本では唯一ここだけのこと。西堀端を経て松山市となる。
 城北線と呼ばれる上一万-古町間を除き複線であり、一般道路上を走っている割には、軌道敷に入り込んでくる自動車は少ないようで、スムースな運行が図られているようだった。
 なお、市内線では道後温泉を発着で〝坊ちゃん列車〟が運行されており、軽便鉄道時代の列車が観光客に人気である。
 松山はお城と路面電車が似合う町で、伊予鉄の存在は大きいようだった。

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(写真3 蒸気機関車を模した坊ちゃん列車。左奥は6系統本町線の電車)

土佐から伊予へ

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(写真1 江川崎に停車中の予土線列車。0系こだまのヘッドに似せている)
大混乱の移動
 足摺岬からは、予土線と予讃線を経由して松山を目指した。
 予土線列車の始発は窪川。ただし、窪川と一つ目の若井との間は、線区上は土佐くろしお鉄道である。
 発車まで1時間以上も間があるので夕食を取ろうとしたのだが、駅前に営業中の店が見当たらない。そこで、客待ちをしていたタクシーの運転手に尋ねてこのみ食堂というところを紹介してもらった。
 小さな店で、75歳になるというおばあさんが一人で切り盛りしていた。ビールを頼んだのだが、つまみになるようなものは漬け物以外にはないとのこと。雪が降っているし外は猛烈に寒いのだが、やはり一口目はビールがうまい。女将によれば、窪川は格別に寒いのだという。
 それでグビグビと飲んでいたら、サンノジの刺身があるが食べるかと問う。もらい物だが、獲れたてだからおいしいはずだというし、しかもサービスするという。
 出てきたのが、まるで鯛の刺身。朱色をしていて美しい。口にすると、身に弾力があるし、臭みも何もくせがなくてとてもうまい。酒が進んで焼酎のお湯わりを飲んだら温まった。
  サンノジは初めてだったし、帰宅後調べてみたら、本名ニザダイというらしく、やはり鯛の一種なのであろう。
 勘定を頼んだら驚くほど廉い。やはり刺身の分は含まれていなかったようで、そうもいかないのでチップということで上乗せさせてもらった。寒い晩に、見知らぬ土地で温かいおもてなしを受けて、身も心も温かくなって列車に乗った。

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(写真2 サービスで出てきたサンノジの刺身)
 窪川18時43分発宇和島行き。私の旅の流儀としては、夜間の列車には極力乗らないことにしている。車窓が面白くないからで、初めての路線ならなおさらだが、予土線はこれまでに3度も乗っているし、短い日数で四国4県を回ろうとすると強行軍にならざるを得なかった。
 列車は1両のディーゼルカー。この車体がユニーク。先頭が0系こだまにそっくりではないか。いわゆる団子っ鼻というやつで、鉄道ホビートレインという列車愛称らしく、車内にもたくさんのミニチュア車両が展示してあった。
 日中ならば右窓に四万十川が見えて絶景の路線だが、何も見えず暗闇の中を進んでいく。それでも、時折窓外に灯りがちらほらすると、激しい旅情を感じる。
 半家(はげ)などという珍妙な駅があって江川崎。行き違い列車の遅れがあって8分の停車。それでもその後遅れをやや取り戻し4分遅れの20時48分宇和島到着。
 ここで予讃線の特急21時16分発の宇和海32号に乗り継ぐ予定だったが、先行する20時18分発の宇和海30号が大幅に遅れて21時13分に発車した。大雪の影響だったのだが、何のことはない、当初予定とほぼ同じ進み具合となったのだった。
 やれやれと思っていたら、20分も走ったあたり、卯之町で列車はぴたり停まってしまった。大雪に加え人身事故まで発生してしまったのだ。ホームに下りると、積雪が足首よりも深くなっていた。
 結局、この駅で1時間半も停車していて、その後も八幡浜などと遅れは増していき、松山に着いたら、日付が変わっていて3時間を超す遅延となっていた。
  旅をしていればいろんな場面に遭遇する。途中から大雨で運転見合わせ、代行バスで終着駅へ運ばれたこともあるし、大雪のため途中から運転不能となり、タクシーで送ってもらったこともあった。客はたった一人、それも不要不急の旅だし、タクシーなどもったいないと言って遠慮したのだが、乗車券の記載通りに運んでくれたのだった。
 そう言えば、寝台車で四国に向かっていた折、朝になって窓外を見ると、どうも様子がおかしい。予定通りなら岡山を出て瀬戸大橋にかかっているところ、それが琵琶湖の手前あたりでうろうろしているではないか。結局、この時は京都から新幹線で岡山へ向かい、そこから瀬戸大橋線に乗り継いだのだった。
 ダイヤの乱れは旅の計画を台無しにするが、時が経てばこういうことも忘れがたい思い出となるのだった。

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写真3 大雪と人身事故の影響で卯之町駅で停まってしまった予讃線特急宇和海30号)

黒潮の表玄関 足摺岬

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(写真1 展望台から見た足摺岬とその灯台)
四国最南端の美しい灯台
 足摺岬。何と詩的な響きであろうか。
 1月12日、高知からは足摺岬を目指した。JR土讃線から土佐くろしお鉄道中村・宿毛線に直通する特急しまんと1号中村行き。高知8時20分発。
 窪川9時26分着。ここからは土佐くろしお鉄道の運転。乗務員が交代した。線区上は次の若井駅が境界だが、若井には特急列車は停車しない。ここに至って雪が舞っている。
 中村10時04分着。土佐くろしお鉄道はこの先宿毛まで延びているが、特急はここまで。
 駅前に足摺岬行きの高知西南交通バスがすでに発車を待っていた。10時14分の発車。乗客は8人。
 すぐに四万十川を左に見ながら川沿いに走っている。河口も近いしまさしく大河だ。あるいはすでに汽水域に入っているのかも知れない。川岸には数多くのボートが係留されている。
 国道321号線をひた走っていて、途中で乗車降車がまったくなく、ちょうど1時間走ったところで清水プラザパル停車。土佐清水市の中心のようで、大半の乗客が入れ替わった。
 このバスは路線バスだから、半島の東側の集落を縫うように走って行く。深い入り江となっているし、すれ違うのも難しいような狭い道だ。途中に、造船所という停留所があり、中村万次郎生誕地があった。
 足摺岬11時59分着。中村駅から1時間45分、定時の到着だった。観光地らしく、食堂や土産物屋が数軒並んでいる。なお、尾根伝いに走るスカイラインを利用すれば岬までは約1時間の道のりではないかと思われた。高知県土佐清水市足摺町所在。
 停留所から灯台を目指していくと、途中は鬱蒼と茂るヤブツバキのトンネルとなっていた。亜熱帯植物で、満開は2月頃らしい。
 ツバキの林の切れ目から突然灯台が眼に入った。また、灯台の手前に展望台があって、岬と灯台がちょうど眺望できた。どうやらこの展望台からの眺めが絶好のロケーションのようだった。不思議なことに何やら灯台が傾いて見える。
 岬は海岸段丘か。60メートルか70メートルほどの荒々しい断崖になっており、眼前には岩礁があちこちに顔を出している。海上は難所なのであろう。
 実に眺望がいい。南に面していて、太平洋の大海原が大きく広がっていて、両手を広げて随分と余るほどだから240度もの絶景で、水平線を眺めていると、地球が丸く見えるということが実感できる。
 海がとても美しい。まさしく紺碧で、この日は快晴だったから波も穏やかで、金波がきらきらと輝いている。

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(写真2 ロケット型をした灯塔。すらり背が高く美しい)
 岬の突端には足摺岬灯台があった。四国最南端の灯台である。白亜のすらりと背の高い灯台で、実に美しい。羽が3枚付いていてロケット型だ。これが、遠くから見たときに傾いて見えた所以だったのであろう。デザイン灯台といって、海上保安庁と地元が話し合ってデザインをしたということである。
 灯台には鉄製のプレートがはめ込んであって、それによると、初点が大正3年4月1日、改築が昭和35年7月27日とあったが、初代のものは六角形をしていたそうである。
 また、灯台のそばに建っていた看板によると、灯台の位置は北緯32度43分27秒、東経133度01分13秒とあり、実効光度が46.0カンデラとあって、大型灯台である。光達距離も20.5海里(約38キロメートル)となっていて、塔高が約18.1メートル、灯火標高は約60.6メートルとあった。初代のものは第4等フレネルレンズだったが、現在はLB-40型灯器で、灯器は強力なものとなったと記してあった。
 灯台は、いわゆる足摺半島の突端に立っているわけだが、ここは黒潮が日本列島で最初にぶつかる、言わば黒潮の玄関口みたいなところである。
 暖かい風を運んできてくれるわけだが、ただ、台風銀座でもあって、台風が好んで襲来する。この日は穏やかで風もなかったが、私がこの岬を初めて訪れた1989年8月27日は、ちょうど台風17号が直撃している真っ最中で、大人が風で転がされているという状況を初めて見たものだった。
 なお、灯台のそばには無線方位信号所跡があって、その標識には足摺埼とあった。かつては足摺埼灯台と称していた証拠で、田宮虎彦の小説『足摺岬』が有名になって改名したものであろうか。
 一方、岬の入口には中浜万次郎の大きな銅像が建ち、また、バス停のそばには三十八番札所金剛福寺があった。

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(写真3 中村駅前で発車を待つ足摺岬行きバス)