ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』

 

芥川賞受賞作

 埼玉の奥にある、食品や飲料のラベルパッケージ製作会社の支店。全国に13ある支店の一つ。ここを舞台にこの頃のサラリーマンの生態が描かれている。
 登場人物は、支店長、二谷、藤、芦川さん、押尾さん、パートの原田さん。ホールケーキを八等分したら人数分に足りなかったからほかにもいそうだが名前が出てきたのはこれだけ。主役は、二谷、芦川さん、押尾さんの三人。
 二谷は6年間いた東北の支店から三ヶ月前に転勤してきた。芦川さんより一年先輩。芦川さんは入社6年目。新卒入社5年目の押尾さんより1年先輩。つまり、三人とも二十代後半。
 それにしてもこの職場は清潔感に欠ける。芦川さんの机の上のペットボトルのお茶を喉が渇いたからといって藤が口をつける。常識では考えられない。このような会社が現代にもあるものか。
 細かい人間関係に気を遣いすぎる職場だ。支店長が、みんなにお昼はそばを食べに行くぞと大きな声をかけると、弁当を持ってきている人だっているなどと支店長の態度を心の中でなじる。
 そんなこと気にかけずに、行ける人が行けばいいし、そばが嫌いな人もいるだろうし、断ったからといって人間関係にひびが入るわけでもないだろうし。いわんや賞与の査定が悪くなるわけでもないだろうに。
 逆に、こういうエピソードの連続が煩わしい。ちょっと変わった職場だ。違和感がある。
 二谷は、独身。三回目のデートで芦川さんを一人住まいのアパートに誘った。当然のように寝た。芦川さんは時々二谷のアパートに夕食を作りに来るようになった。
 しかし、前後して、居酒屋の帰り押尾さんをアパートに誘い、一緒に布団に入った。
 小さな職場の三角関係だが、転勤してきてわずか三ヶ月目で二人の同僚に同時に手を出すものだろうか。現在の若者はそういう倫理観なのだろうか。それよりも、10人程度の狭い職場で人間関係が煩わしくならないものだろうか。
 そう言えば、この小説は職場の人間関係ばかり描いている。残業したりして仕事もしているようではあるが。
 二谷は変わった男だ。年中カップ麺を食べているといいながら、部屋にはやかんもない。鍋はあるが。カップ麺ならやかんの方が使い勝手がいいだろうに。
 パソコンに向かって、右手でカップ麺を食べながら、左手でマウスを操作している。よほど器用な男だ二谷は。箸を使っている方が利き腕だろう。やってみるとわかるが、左手でマウスを操作するのはなかなかやっかいで、うまくいかない。
 後段になって、二谷が「右手をマウスに移動させて画面をスクロールし」という場面が出てきたが、どっちが本当なのか。両手を使えるということなのか。あるいは、まさかとは思うが、作者のちょっとした瑕疵でもないだろうに。マウスは、左利き用も売っている。また、パソコン本体の設定で、右利き用を左利き用に変更はできる。ただし、ワンクリックで変更できるというものではない。
 二谷は経済学部卒。文学部に入りたかったが、文学部卒では就職できないと言われ、経済学部に入ったという経緯があり、文学部卒にはひけめがあり、「おれは好きなことより、うまくやれそうな人生を選んだな」と振り返る。そんなことでいつまでも愚図愚図としているものなのだろうか。
 芦川さんは、ケーキなど手作りのお菓子を持参して職場に持ってくる。大半の社員は喜んでいる。しかし、お菓子が嫌いなものもいるだろうし、それなら軽く断ればそれで済む話ではないか。
 ある日、藤が全社員を集め、芦川さんが作ったお菓子をぐちゃぐちゃにつぶし芦川さんの机の上にのせているものがいると告発する。名指しはしなかったものの、押尾さんがやり玉に挙げられた。
 この事件があって押尾さんは退職に追い込まれた。また、年度末の異動では二谷は千葉の支店に飛ばされることになった。二谷は押尾さんにつぶしたケーキを芦川さんの机の上にのせておいたのは自分だと告白する。それなのに、転勤したら(芦川さんと)結婚するだろうななどとうそぶく。
 藤が社員の前で告発した際には黙っていたのにである。卑怯な男だし、陰湿だ。。
 その告発の場で、芦川さんは、「お菓子をゴミ袋に入れ机の上に放置するのは止めてほしい。世界にはごはんを食べたくても食べられない人たちがいる。食べものを粗末にするのは止めてほしい」と訴える。
 まるでとってつけたような演説だが、まさかこれがこの小説のテーマでもあるまい。それではあまりにも陳腐だ。
 それに、作者はサラリーマンの職場というものが、わかっていないのではないかと思われた。人物造形が中途半端だし、まったく面白くない。いちいち、他人の言動に反応したり、詮索したりするものでもあるまい。そもそもそんな暇など職場にはないのではないか。
 わずかに新鮮さがあるとすれば、物語の流れが、二谷と押尾さんの視点によるものが交互に出てくることで、読み始めて初めは慣れなくてまごついた。
(文藝春秋9月号所収)