ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

黄金﨑不老ふ死温泉

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(写真1 不老ふ死温泉の名物海辺の露天風呂=2011年7月17日撮影=現在は撮影禁止になっている)

海辺の露天風呂が人気

 このたびの五能線の旅では、途中下車し黄金﨑不老ふ死温泉に泊まった。
 五能線を東能代から海沿いに北上していくと快速列車で約1時間10分ウェスパ椿山。徒歩なら15分ほどの艫作が最寄り駅だが、一つ手前の椿山から送迎バスが出ていた。青森県深浦町所在。
  艫作﨑の先端にあり、一軒宿。近年増築したらしく、新館も含め大きな構えになっていた。人気が高まっているのだろうと思われ、来るときに椿山で下車した10数人全員が送迎バスに乗ってきた。大半が中高年の夫婦あるいはグループだった。また、夕食時に気がついたが、宿泊客は6、70人にもなっているようでびっくりした。そのほとんどは自動車でやってきたようだった。
 風呂は、濃い茶色。なめてみると舌がビリッとした。泉質は含鉄-ナトリウム-塩化物強塩泉(高張性中性高温泉)で、pHは6.14、泉温は48.3度と表示にあった。源泉掛け流しだが、入浴に適した温度に保つために加水しているとのこと。注入温度45度、浴槽温度42度とあって、きちんとした説明は好感が持てた。熱いのが好きな私にはもう1度くらい高くてもいいように思われたが、とても温まっていい温泉だった。
 ところで、人気の露天風呂。利用時間は日の出から日が没するまで。この日は到着したのがすでに夕方だったし、寒くて露天風呂には入らなかった。
 建物から百メートルほど離れた海辺にあって野趣溢れた温泉である。8年前の夏に来たことがあって、湯船に浸かると目線が波と同じ高さになって滅多に得られない体験だった。晴れた夕方ならばさぞかし夕陽が美しいのだろうと思われた。
 なお、この露天風呂の写真撮影は禁止だとのこと。トラブルが相次いだためのようで、初めてきたときにはそういう制限もなかった。

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(写真2 不老ふ死温泉の玄関)

二つの車窓風景を持つ五能線の旅

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私の好きな鉄道車窓風景10選

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(写真1 車窓には荒々しい岩礁が連なっている。遠くに夕陽が没する様子。時刻は15時39分とカメラにある。晴れていればさぞかし美しかったものであろう)

荒々しい海岸線と豊かな田園地帯

  五能線は二つの車窓風景を持っている。一つは絶景が続く荒々しい海岸線だし、もう一つは岩木山の裾野をぐるっと回る穏やかな内陸部だ。また、海岸線だけなら五能線は冬がいいし、内陸部ならりんごの花が咲く春から初夏がいいし、りんごの実があかあかと色づく秋も捨てがたい。だから、五能線の車窓を堪能するなら様々な季節に出掛けるのがいい。
 五能線は、秋田県の東能代駅と青森県の川部駅を結ぶ路線。両駅とも奥羽本線上にある。全線147.2キロ。大きくは白神山地をぐるっと回り込むようになっていて、初め日本海を北上し、鰺ヶ沢から内陸部へと分け入る。

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(写真2 リゾートしらがみ5号、青池編成の列車である)

 11月29日五能線に乗りに出かけた。まずは上野9時14分発のこまち9号で秋田へ。13時04分着。ここで13時52分発リゾートしらかみ5号五能線経由青森行きに乗り継ぎ。1日3本運行されている全席指定の季節運転の観光列車で、窓が大きいし、車両の前後には展望座席もあった。列車番号によって愛称がついていて、私たちが乗ったのは青池編成だった。各編成によってボックス席があったりと少しずつ座席配置が異なるようだ。
 窓外は雪が舞っている。広大な八郎潟を左窓に見ながら進む。八郎潟はかつては琵琶湖に次ぐ湖だった。私は干拓前の八郎潟を見たことはないが、干拓されてどこまでも広がる田んぼはかえって八郎潟の広さを実感できるようだった。

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(写真3 五能線の起点東能代駅ホーム)

 東能代到着。奥羽本線を走ってきたが、ここからが五能線。ホームの端に五能線起点駅の表示があった。7分停車して14時55分の発車。
 私たちの席は進行右側。五能線は海岸沿いの区間は断然左側の席がいい。しかし、切符を買いに行ったら左側の席はすでに満席だった。4両編成の快速列車だが人気なのであろう。
 能代を経てしばらく陸地を走っていたが、八森で海に出た。秋田音頭にある通りハタハタで知られる。大間越、十二湖。艫作﨑が遠望できてウェスパ椿山到着。リゾート地で、洋風の建物が点在していた。なお、椿山は全国各地にある地名だが、ここは、この周辺が椿の咲く北限から名づけられたものであろうか。この日はここまで。
 ウェスパ椿山からは翌30日に乗り継いだ。8時59分発弘前行きに乗車。東能代から川部まで五能線内をきっちり乗り通せるわずかに1日2本の普通列車である。途中での乗り継ぎも含めれば4本ある。車両のことはあまり詳しくはないがキハ40であろうか。3両編成だが、最後部の1両は深浦までは回送扱いとなっていた。
 少ししてその深浦。沿線の中心。乗っている車両はそのままだが、列車番号がここで変わった。

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(写真4 冬の日本海特有に鈍色の空と海)

 そしてこの前後からが五能線のハイライト区間。岩礁が荒々しい風景を際立たせ、鈍色の日本海が荒涼として広がる。追良瀬(おいらせ)、驫木(とどろき)、風合瀬(かそせ)と難読駅が続く。馬が三頭重なっていななくとはすごい。駅名を聞いただけで冬の厳しさがうかがい知れる。なお、驫木の駅前に真新しい住宅が1軒建っていた。以前はなかったように思うが。

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(写真5 海上の小島に見えた鳥居埼燈台。白地に赤帯2本が特徴)

 大戸瀬の手前あたりだったか、海上の小島に灯台が見えた。白地に赤横帯2本が特徴で、「灯台表」によれば鳥居埼燈台というらしい。なお、大戸瀬埼燈台はこの近く、高台にあるが、列車からは目撃できなかった。
 洗濯板のようにも見える千畳敷の海岸を経て鰺ヶ沢。かつて津軽藩海運の拠点だったところ。海岸線はここまで。この先は津軽平野となる。早くも岩木山が右窓に見えてきた。ここから先は進行右側の席が良い。列車は幸い空いていたので、左から右へと席を移動した。
 五所川原は沿線随一。ここから津軽鉄道が津軽中里まで北へ伸びている。途中に太宰治の生家がある金木駅がある。ストーブ列車で有名だが、今日は寄らない。

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(写真6 曇っていてすっきりとはしていないが岩木山が最も美しく見える区間)

 岩木山がますます近づいてきた。通称津軽富士。美しい山容だ。林崎のあたりだったか、隣のボックス席に座っていたおばあさんが、小学校3年生くらいか、連れの孫に「このあたりから見る岩木山が一番美しいんだよ」と教えていた。なるほど、実際、美しい。沿線にはりんごの木が目立つ。雪を被っている。

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(写真7 川部駅ホームには五能線終点の標識)

 そうこうして川部到着。奥羽本線との合流駅。11時39分。ホームには「五能線終点駅147KM137M」との看板があった。五能線はここまでだが、すべての列車はここで反転して弘前へと向かう。
 近年では観光列車まで走るようになった五能線だが、かつては鉄道ファンの間でわずかに知る人ぞ知るような地味な路線だった。
  初めて五能線に乗ったのは1989年6月18日だった。ちょうど30年前ということになる。この時は、龍飛崎を訪ねた後弘前に宿を取っていて、翌早朝五能線に乗ったのだった。当時の時刻表によると、川部から東能代まで行く列車は途中駅での乗り継ぎを含めても4本しかなかった。当時は観光列車など運転されていなかった。もっとも、季節運転の観光列車を除けば普通列車の運転状況は現在と変わらない。

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(写真8 1989年6月18日の乗車では、左窓に続くりんご畑ではりんごに袋をかぶせる作業が行われていた。けだし、津軽の春の風物詩だろう)

 この時のノートによれば、弘前6時52分発鰺ヶ沢行きの列車に乗車、「沿線にりんご畑が続く。ちょうど選別の季節らしく、袋をかぶせている」とある。岩木山は残念ながら雲に隠れて見えなかったようだ。五所川原で30分も停車。
 やがて終点鰺ヶ沢到着。6月も中旬なのに服装にはまだ衣替えをしていないような人たちが多い。
 車窓は右が日本海。東能代に向かう列車だから気がついたが、前方遠く男鹿半島が見えている写真があった。
 東能代到着は11時45分で、川部から実に4時間40分ほどの乗車である。もっとも、現在でも直通列車ですら4時間20分ほど要しているから事情はさほど変わってはいない。
 五能線は好きな路線だから、これまでに全線を通しては4回乗ったし、一部区間の乗車も含めると6回も乗っている。
 春にも秋にも、夏にも冬にも乗っているが、どの季節にも魅力があるのだが、もっとも印象深いのはやはり厳冬期か。今からちょうど10年前の2009年には2月7日に乗った。この時は、前夜上野発21時45分発の寝台特急あけぼのに乗り翌7日に東能代に降り立ったのだった。秋田では早朝にもかかわらずホームで温かい弁当の販売があったし、東能代ではホーム反対側で五能線列車がすでにアイドリングして発車を待っていた。
 こういう瞬間が激しく旅情を感じるときで、思えばかつての岬への旅は、この時のように金曜夜の夜行寝台で九州へ、四国へ、山陰へと向かったものだった。早朝の青森駅に降り立ったときなど、あまりの大雪におののき寂しくなり、そのまま引き返したくなるような気分のこともあった。

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(写真9 寝台特急あけぼのの車内=2009年2月7日)

及川昭伍作『マグカップ』

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(写真1 及川昭伍作『マグカップ』)

端正で上品な作品

 及川昭伍作の染付である。鳥獣戯画が絵付けされている。
 及川さんは、経済企画庁総合計画局長から国民生活センター理事長などを歴任された。早くから陶芸にいそしんでいたようで、日本陶芸倶楽部正会員であり、今や玄人はだし。
 及川さんは、私の高校時代の尊敬する大先輩。及川さんの陶芸家ぶりは著名で、私もかねて作品を熱望していた。
 そうしたところ、このたび高校時代の同窓会が主催している白堊芸術祭に出品された作品を下さったというわけ。及川さんからはどんなものがいいのかとかつて尋ねられてはいたものの、まさか実現するとは思いもよらず大変感激した。
 作品は染付である。鳥獣戯画が絵付けされている。白い地に藍青色の模様が施されており、まことに端正なもので上品である。私は陶芸のことは何もわからないが、造形もすばらしく、完成度が高いのではないか。
 高さ直径ともに約8センチあり、手に持って馴染む。これでコーヒーを淹れたらさぞかしおいしいものだろうとは思うが、もったいなくて普段遣いにはできない。
  箱書きには、「染付鳥獣戯画 マグカップ 米寿及川昭伍」と墨書きされ、落款が押印されている。

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(写真2 作品の箱書き)

金子三勇士ピアノコンサート

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(写真1 開演前の会場の様子)

新しい時代をつくるクラシック

 12月2日新宿文化センター大ホールで開催された。
 金子三勇士(かねこみゆじ)は、人気の若手ピアニスト。群馬県高崎市生まれ30歳。父日本人、母ハンガリー人。バルトーク国際ピアノコンクール優勝ほか数々の国際コンクールで優勝の輝かしいキャリアを持つ。東京音大首席卒業。
 この日の演奏会は、住友生命のチャリティコンサートとして開催されたもので、私は初めてだったが、すでに33回、全国縦断1058回の公演を数えるらしい。
 新しい時代をつくるクラシックとタイトルがつけられており、とても親しみやすい曲が選ばれていた。また、演奏スタイルも斬新で、ピアニスト自身がユーモアたっぷりに進行役を兼ねながら曲の解説をしたりしてとても和やかなものだった。
 演目は、初めに革命のエチュード、夜想曲「遺作」、子犬のワルツとショパンの3曲、ドビュッシー「月の光」、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」と続いた。「月光」は新しい解釈によるものなそうで、なるほど、慣れ親しんだ曲想とは異なっていた。
 休憩の後、バルトークのピアノソナタ。バルトークはハンガリーのピアニストであり作曲家。難曲と解説していたが、ピアノが壊れるのではないかと心配になるほどの激しい曲を圧倒的迫力で演奏していた。
 次からリストが3曲。リストもハンガリーのピアニスト、作曲家。シューマン=リスト「献呈」、「愛の夢」と続き最後は「ラ・カンパネラ」。あまりにも有名な曲で、私でも口ずさむことができるほどの美しいメロディで始まり、金子の演奏は聞き惚れるほどのすばらしい演奏だった。
 ところで、前半の演奏では何か落ち着かなさを感じていたが、休憩時間中に調律が行われていたから、あるいは演奏家から注文があったのかもしれない。私自身はコンサートの経験も少ないから何とも言えないが、演奏の途中で調律を行うというのはピアノでは珍しいのではないか。ピアノはスタインウエイだった。

ブレディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

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現代英国社会を活写

 著者は、福岡県出身で英国在住。アイルランド人の配偶者と息子と三人で英国南端のブライトンという地方都市に住んでいる。
 息子は、小学校は、カトリックの名門校に通った。裕福な家庭の子が多く通っている学校だったが、中学校は、大半の子がそのままカトリックの中学校に進学するのに、この親子は近所の中学校を選んだ。
 学校見学会までして選んだこの学校は、「元底辺中学校」で、近年は、音楽や演劇に力を入れるなどして、市の学校ランキングで中位くらいまで上昇しているものの、白人労働者階級の子どもが多いところ。
 シティで銀行員をしていながら、リストラされると子どもの頃にやりたいと思っていた仕事だからと言って大型ダンプの運転手になった父親は、実は息子が元底辺中学校に行くのは反対で、どうしてかと訊く息子に「まず第一に、あの学校は白人だらけだからだ。お前はそうじゃない。ひょっとするとお前の頭の中ではお前は白人かもしれないが、見た目は違う。第二に、カトリック校は普通の学校より成績がいいから、わざわざ家族で改宗して子ども入学させる人たちもいるほどだ。うちはたまたまカトリックで、ラッキーだったんだ。それなのに、その俺らのような労働者階級では滅多にお目にかかれない特権をそんなに簡単に捨てるなんて、階級を上昇しようとするんじゃなくて、わざわざ自分から下っていくようで俺らは嫌だ」と語るのだった。
 本書は、こうした息子の成長と家族の生活が描かれており、現在の英国社会を活写したエッセイである。
 とにかく筆者である母親が明るく行動的。保育士の資格を取って保育所で働いたこともあり、視座に揺るぎがない。
 息子も小学校では生徒会長をやったというほどにいい子。親子がしっかりと目を見つめながら向き合う関係には感心した。
 それにしても、英国社会は複雑で大変だ。およそ日本では聞くことのないような言葉がぽんぽんと出てくる。
  幾つか列挙してみよう。レイシスト、レイヤー、レイシズム、フリー・ミール制度、国籍や民族性とは違う軸の多様性、イングリッシュ・ヴァリュー、ブリティッシュ・ヴァリュー、アイデンティティ・ポリティクス、階級の固定化、マルチカルチュラル、LGBTQ等々。
 また、短節を拾ってみても、僕はイングリッシュで、ブリティッシュで、ヨーロピアンです。複数のアイデンティティを持っています。親の所得格差が、そのまま子どものスポーツ能力格差になっている、英国の公立小学校は保護者のボランティア活動によって成り立っている、この国の緊縮財政は教育者をソーシャルワーカーにしてしまった、等々。
 とても面白い。ユーモアたっぷりだし、文章が生き生きとしている。ただ、言葉が若若しすぎて年寄りにはついて行けないこともしばしば。それで、著者は何歳くらいの人なのか奥付の著者紹介を見たら50数歳らしい。30台かと思っていたからこれには驚いた。しかし、それも苦笑いしながら読み進めればいいだけのこと。
(新潮社刊)

襟裳岬紀行

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特集 私の好きな岬と灯台10選

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(写真1 襟裳岬。襟裳岬灯台がわずかに頭をのぞかせている)

激しい旅情に涙する風の岬

 襟裳岬。何と激しい旅情を感じさせる岬か。強風に足を踏ん張って耐えながら岬の突端にたたずんで荒涼たる風景に身を置くと知らず瞼に涙がにじんでくる。
 岬はその地形上全国どこでも風は強いものだが、襟裳岬はことのほか年中強風に晒されていて、風速10メートル以上の風の吹く日が年間260日にも290日にもなるというから驚く。時には50メートル以上の暴風の吹く日もあるのだそうで、こうなると外を出歩くこともできないのだという。これはかつて泊まった旅館の女将が話してくれた。
 襟裳岬は、北海道の中央、背骨に当たる日高山脈が150キロも南に向かって伸び、太平洋に鋭く没したところ。現地に立っていてはその鋭さはさほど感じにくいのだが、航空写真で見ると、まるで石の矢じりのようにも見える。この様子は室戸岬にも似ている。
 襟裳岬はとても不便なところ。西側からなら、苫小牧から日高本線で約2時間20分、終点様似下車。更にバスで約32キロ50分のところ。東側からなら、帯広からかつての広尾線沿いをバスでひたすら南下して約2時間20分。更に広尾で乗り継ぎ約40キロ1時間の道のり。日高側からも十勝側からもほぼ等距離。私はこれまでに二度襟裳岬を訪れたが、いずれも様似から岬に向かい、広尾へ抜けた。

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(写真2 日高本線様似駅。初めて訪れた1988年には駅舎には商店も入っていた)

 初めて襟裳岬を踏破したのは1988年10月1日だった。この当時、岬巡りを意識して趣味とした初期の頃で、足繁く全国各地へ出掛けていた。地図を開いては次はどこへ行こうかと練っていたのだが、そういう中でも襟裳岬は熱望していたのだった。同じ月に室戸岬を訪ねているからよほど岬巡りに熱を上げていたのだろう。
 当時のノートをひもといてみると、苫小牧9時44分発普通637D列車様似行きに乗車したとある。3両編成で、右窓に大海原が広がり、様似13時25分到着だった。3時間41分の乗車ということになる。
 なお、北海道へは、この年の春に青函トンネルが開通し運行を開始した寝台特急北斗星1号でやってきたのだった。夕食は食堂車でフランス料理のフルコースを食べたことを今でも鮮明に思い出す。
 二度目は2010年2月11日だった。22年ぶりということになる。大好きな岬にしては間が空いているが、それだけ不便なところと言うこともできる。
 この時は、前夜空路札幌に入っていて、当日、苫小牧10時17分発2227D列車様似行きに乗車した。1両編成で、22年前は3両編成だったから、この間に乗客は激減したのであろう。様似13時35分の到着で、2時間18分の乗車。
 時代が進んで1時間以上も短縮されたのはいいが、ちなみに現在は、2015年の高波被害から断続的に発生した災害の影響で、鵡川-様似間が不通となっている。全線146.5キロのうち116.0キロもの区間が不通となっているわけで、JR北海道はこの間の廃止を表明している。襟裳岬はますます遠くなる。
 様似からはバスが出ている。路線名日勝線といい、実は、昔、様似から延伸して襟裳岬を経て広尾に至る鉄道路線としての日勝線の計画があった。現在はバスの路線名にその名が残っているわけだ。もし、鉄道路線が開通していれば、襟裳岬は一大観光地となっていたかも知れないし、わくわくするような路線だったのではないか。
 さて、二度目となった2010年2月11日。様似駅14時00分発JRバス日勝線広尾行き。乗客は発車時点でたった一人。途中から一人のお年寄りが乗ってきてすぐに降りたから道中の大半は貸し切りバスの様相だ。

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(写真3 襟裳岬のバス停留所)

 様似から約1時間で襟裳岬。坂道を登りながら目指す停留所が近づいたらバスの運転手が「風が強いので帽子を吹き飛ばされないよう注意してください」と丁寧にアナウンスしてくれた。帽子止めをしっかり締めて下車した。
 なるほどこの日も風が強い。真冬ということもあって、ほかに人っ子一人としていない岬は、耳がちぎれ頬が凍りついてしまうような寒さだ。岬周辺に樹木が一本も見当たらないからなおさら風が強いのだろう。

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(写真4 岬の先端からは沖合数十メートルにまで岩礁が転々と連なっている)

 岬は、日高山脈が鋭く海に突き出た形となっている。それも山脈の延長が段々と海に下ってきたという様相で、終わりは海岸段丘が絶壁となって海に落ちている。断崖は高さ約60メートル。さらにその先には岩礁が沖合数十メートルにまで点々と連なっている。

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(写真5 襟裳岬突端)

 劈頭に立つと、風が強くて足もとがふらつく。しかし見晴らしはいい。自分の立っている後背地を除いて遮るものはないから270度ほどの眺望だろうか。眼前に大きな太平洋が広がっている。両手を広げて崖から飛び降りたい、人間飛行機になれるのではないか、思わずそんな誘惑にかられる風情だし、風が強くとも、寒くとも、いつまでもたたずんでいたいと思わせる岬だ。

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(写真6 襟裳岬灯台)

 突端の一段と高い所に襟裳岬灯台が立っている。白亜のややずんぐりした灯台だ。塔高は13.7メートル。そう言えば、龍飛崎も神威岬も風の強い岬の灯台は背がやや低かった。

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(写真7 襟裳岬にある二つの歌碑。歌謡曲の歌詞で、手前が森進一)

 岬には、歌碑が二つある。いずれも襟裳岬を歌った歌謡曲のもので、一つは島倉千代子、今一つが森進一のもの。森進一の『襟裳岬』はレコード大賞にもなって襟裳岬を一躍有名にした。歌詞の〝何もない春〟はなるほど襟裳岬を上手に表現しているし、なおさら叙情をかき立てられる。私も劈頭に立って大きな声で歌ったが、風に吹き飛ばされて声が散ってしまった。

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(写真8 岬の付け根にある襟裳の集落。昆布漁で知られる)

 この日の宿は、岬からほど近い集落にある旅館にとった。この宿も、22年前に初めて訪れた時にも泊まった旅館だったのだが、建て替えられて新しくなっていたし、女将も母から娘へと代が変わったようだった。
 その女将の話によると、積雪はいつの年でも多くはないのだという。ただ、いつまでも寒くて、夏でも20度を超す日は何日もないから、季節に夏がないようなもので、季節は春、秋、冬と巡るのだと自身苦笑いしながら言っていた。
 また、風は本当に強くて、風のない日のほうが珍しいのだといい、だから、木はまっすぐに伸びられないし、高い木も育たないのだという。
 日本の灯台50選。

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(写真9 31年前1988年の襟裳岬に佇む筆者)

<襟裳岬灯台メモ>(「灯台表」、ウキペディア等から引用)
 航路標識番号0120(国際番号M6802)
 名称/襟裳岬灯台
 所在地/北海道幌泉郡えりも町
 位置/北緯41度55分33秒 東経143度14分38秒
 塗色・構造/白色塔形コンクリート造
 塔高/13.7メートル
 灯火標高/73.3メートル
 レンズ/第3等大型フレネル式
 灯質/単閃白光毎15秒に1閃光
 実効光度/72万カンデラ
 光達距離/22海里(約41キロ)
 明弧/全度
 初点灯/1889年6月25日(なお、初点灯時は第1灯だったらしい。第2次世界大戦で破壊された)
 管理事務所/第一管区海上保安本部

髙村薫『我らが少女A』

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ダイヤグラム上で誰が交差するのか

 池袋で風俗の若い女が同棲相手の男に殴打され殺された。この事件そのものは男が自首しており何の謎めいたところもないのだが、男は取り調べで、女がいつだったか使い古しの絵の具のチューブを男に見せて、何年か前に武蔵野の野川公園で殺された人が持っていたものだ、その場所に落ちていたから拾ったと語っていたと供述した。
 実は、この事件は、スケッチ中の老女が野川公園で殺されたもので、未解決事件となっていた。男の供述は未解決事件を扱う特命捜査対策室にもたらされ、12年ぶりに事件は動き出す。当時、事件の捜査責任者だったのは合田雄一郎で、奇しくも合田は野川公園にほど近いとこにある警察大学校の教官になっていた。
 ここから髙村のいつもの淡々とした物語が始まる。ディテールが徹底していて、まるで無言の動画を見ているようでもあり、動画を細大漏らさず文章化したようでもある。
 ところで私は、本を読みながら傍線を引いたり、余白にメモをしたりする習慣がある。この本ではいつになく傍線箇所が多かったが、傍線箇所をそのまま書き起こしてみた。どういう意味があるのか、積極的なことはわからないが。なお、括弧内はメモの部分である。

平日も休日も、上り下りともに十二分間隔で、
西武多摩川線
路線は多摩川の砂利を運んでいた百年前のままの単線で、
多磨駅のホームでは若い駅員が一人、
駅員は名を小野雄太、
カンカン、カンカンという音は、
五十五秒ほど続く。三十五秒過ぎに電車の音が混じり始め、四十五秒過ぎに電車が踏切を通過して駅に入ってゆき、
小野が高校一年のとき、地元の小金井市立東中学の美術教師だった人が野川公園で殺される事件があり、小野たち教え子が参列した葬儀には捜査員も数名来ていた。そのときの一人で、小野たち卒業生が殺された先生について捜査員からあれこれ尋ねられたとき、後ろで黙って聞いていた人だが、向こうは成人して駅員となった小野には気づいていない。小野のほうも、その人の名前はもちろん、警察大学校の教官なのか、それとも警察学校のほうのそれなのかも知らない。
合田雄一郎、
東京高裁判事で、名前を加納祐介
ああ上田朱美だ、
(心の動きを細かく追う)
栂野真弓
その上田朱美は、数分前に心臓が止まった。朱美が使い古しの絵の具のチューブを一つ見せて、何年か前に武蔵野の野川公園で殺された人が持っていたものだ、その場所に落ちていたから拾った、
取調室の被疑者の話は、池袋署の刑事たちを驚かせる。
コールドケースを扱う特命捜査対策室
事件の発生は二〇〇五年
当時の事件係は誰だ? 合田? あいつは警大だったか——?
子どもでも大人でもない異形の生物が、
あのときの少女A
浅井隆夫
浅井忍 
物語は、いまから十一年と三ヶ月前の、二〇〇五年十二月二十五日日曜日へと遡る。
祖母が死んだと聞かされても、まずは雑誌のページを一枚めくるような感じでしかなく、
(霧が地を這うような、陰々とした表現)
あ、そうだ。捜査本部にいた合田っていう刑事さん、元気ですか? 何かさあ、かび臭い図書室に座っている司書って感じ。ぼくと違って、頭の中身が徹底的に整理整頓されていてさ。とにかくあのお祖母さんの機嫌が悪かった理由は、栂野真弓が知っていると思うよ。合田さんにもそう言ったはずだけど。
主な登場人物は、栂野節子、栂野雪子、栂野孝一、栂野真弓。浅井忍。上田朱美。浜田ミラ。井上リナ。それらの人物毎に、たとえば十二月二十四日の午前零時から翌二十五日の午前零時までの一時間毎の居場所を、ダイヤグラムのような表にする。これを、一日毎に作成する。列車のダイヤグラムの駅に相当するのは、栂野邸、各々の学校、各々の勤め先、吉祥寺の予備校、吉祥寺や武蔵小金井のゲームセンター、吉祥寺のカラオケ店、小金井東町の路上、白糸台ゴルフセンター、そして野川公園などだ。
すると、たとえば十二月二十四日、栂野家の四人の列車線は午前六時まではいずれも起点駅である栂野邸にある。午前六時に節子が家を出て野川公園に向かったのを皮切りに、午前八時に孝一、節子がそれぞれゴルフセンター、桜町病院へと出てゆく。
(徹頭徹尾ディテールの積み重ね)
もし、栂野真弓と上田朱美がふつうの仲良しではなかったとしたら---。
保存されているのは六百三十枚。すべて忍が撮ったものだ。
捜査責任者として事件現場周辺の不審者浅井忍の身辺を徹底的に洗わなかった失態が、十二年の月日を経てあらわになった格好だった。
(マルティン・ベック?)
そうして日々更新されてゆくSNSを適当にフォローしていると、
最近はSNSでつながってくる友人知人の全部に苛立ち、気分が重くなる。親しい者もそれほど親しくない者も、誰もが呼んでいないのに呼び鈴を押し、尋ねてもいないのに話しかけてくる。
被害者の近いところにいる人間による突発的な暴力を想像した
あの直感はいまも揺らいではいないし、
ところであの終業式の日、上田朱美さんが栂野先生から手紙で呼び出されていたのを思い出しました。上田さんは事件前、先生に会いに行ったのでしょうか。
とまれ浅井忍の写真が、こうして栂野節子が事件直前に上田朱美を手紙で呼び出していたという、事件の重大なピースの発見につながったのは合田にとってまさに衝撃であった。しかし、それ以上に、この少年少女たちの日常と非日常を分けることになった事件の無慈悲さにあらためて胸が締めつけられたのは、年齢のせいだけでもなかっただろう。
 それにしても、合田とのつき合いも随分と長くなった。初めは『マークスの山』だっただろうか。もう25年にもなろう。『照柿』『レディ・ジョーカー』などと続くその全部を好んで読んできた。本書は7年ぶりとなる6作目だが、著者も合田には思い入れもあるようだし、合田の定年にはまだ3年もあるようだし、もう1作は読めるだろうか。
(毎日新聞出版刊)