ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

泉北高速鉄道

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(写真1 泉北高速鉄道の終点和泉中央駅)

近畿地方の鉄道路線②

 泉北高速鉄道は、南海高野線の中百舌鳥(なかもず)駅(大阪府堺市)と和泉中央駅(大阪府和泉市)間を結び、南海の難波から直通して泉北高速鉄道線に乗り入れているほか、中百舌鳥駅は地下鉄御堂筋線の終点なかもず駅と接しており、大阪中心部から泉北ニュータウンへのアクセス路線となっている。全線14.3キロ、駅数は6。南海電鉄の傘下である。

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(写真2 中百舌鳥駅の階段口。この背中側が地下鉄御堂筋線なかもず駅である)

 中百舌鳥駅。大きな駅で、南海と泉北高速鉄道との共同使用駅。4本のホームがあり、いずれも高架で、1番線は南海高野線の下り高野山方面、2番線が泉北高速鉄道の和泉中央方面で、3番線4番線が南海高野線の難波方面となっている。
 駅前が広いロータリーになっていて、地下鉄御堂筋線のなかもず駅と接している。なお、御堂筋線なかもず駅は地下ホームである。
 列車は、普通は中百舌鳥と和泉中央との線内折り返しが大半で、準急などは南海の難波から直通して相互乗り入れしている。
 14時20分発和泉中央行き。やはり南海からの直通列車。丘陵を切り開いたものであろう、豊かな緑の中に住宅がびっしりと建て込んでいる。
 いかにもニュータウンといった様相で、石津川、和田川などと川を三つ渡ったらそうこうして終点和泉中央だった。14時37分着。
 駅前には商業ビルが建ち並び、バスが発着し、近郊のベッドタウンだ。
 折り返しの電車で気がついたが、終点の一つ手前光明池には車庫があった。
 なお、和泉中央-難波間は最速列車ならわずか29分ということである。しかも、朝夕には数分間隔で難波行きが発着している便利さ。この路線も二度目だが、20年くらい前になるか、初めて乗ったときにはこれほどの密度ではなかったと記憶しているから、大きく発展してきたものであろう。
 大阪は、北へは千里ニュータウンがあり、南には泉北ニュータウンが建設されたわけで、大阪圏の拡大が顕著となったものであろう。

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(写真3 丘陵にニュータウンが展開する車窓風景)

水間鉄道

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(写真1 水間鉄道終着駅水間観音駅)

近畿地方の鉄道路線①

 先週まで5月23日から27日まで4泊5日をかけて近畿地方の鉄道に乗ってきた。特に、これまで一度しか乗ったことがないような路線を選んでつぶすように乗った。結果的には、大阪から奈良、京都、滋賀、兵庫に加え三重まで2府4県に及び、JRや大手私鉄の幹線は数えずに中小線区だけで30を超えた。

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(写真2 貝塚駅の様子)

 まず水間(みずま)鉄道。南海本線の貝塚駅から水間観音駅を結ぶ路線。全線5.5キロ、駅数は10。全線大阪府貝塚市内を走る。
 5月23日。貝塚駅。南海線に隣接して1面2線のホーム。〝令和〟という新元号を祝う一日フリー乗車券の記念切符を購入した。600円。
 9時10分発。2両の電車。ワンマン運転。貝塚市役所前などとあり、家屋をかすめるように進む。枝葉に触れそうだ。近義の里を出てJR阪和線をくぐった。
 貝塚駅を含め南海線にはこの前後に岸和田駅や泉佐野駅が並んでいるが、阪和線には東佐野、東貝塚、東岸和田の各駅が連なっていて、駅名だけから判断するならどうやら南海沿線が市街中心のようで、阪和線はやや山寄り東側を走っているということのようだ。
 名越駅で列車交換した。単線なのである。なお、水間線では列車交換はこの駅でしかできないようだ。
 そうこうして終点水間観音到着。寺院風の立派な駅舎だ。1926年の全通以来のもので、現在は国の登録有形文化財に指定されている。
 そもそも水間鉄道は、水間寺(通称水間観音)への参詣路線として開設されたもので、駅から徒歩10分くらいのところ。この駅に降り立つのは二度目だが、今回は参拝しなかった。
 なお、水間鉄道は、苦い歴史を持っていて、不動産投資の失敗などで経営破綻したことがあり、現在はうどんチェーンで知られる杵屋の100%子会社になっている。南海は手をさしのべなかったものだろうか。
 ところで、水間観音駅で驚いたのは茶色い玉のようなものが多数ぶら下がっていること。聞けば、苔玉だという。また、駅舎の玄関には大きな苔玉が据え付けられてあった。何でも「苔のように贅を求めず、美しさを失わず、しっかりと路線を守っていくことをコンセプトにこめた」ということらしい。

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(写真3 苔玉が下げられている水間観音駅)

柚月裕子『慈雨』

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慟哭のミステリー

 警察官を定年退職した神場智則は、妻の香代子を伴って四国巡礼の旅に出た。神場は群馬県警捜査一課の元刑事で、夫婦ふたりの旅は新婚旅行以来だった。八十八か所すべての寺を歩いて回る計画で、一番札所の霊山寺から順に約二ヶ月をかけて遍路旅をする予定。留守宅には娘の幸知と愛犬のマーサを置いてきた。
 七番札所の十楽寺を打ち終え、最寄りの遍路宿で休んでいたところ、テレビニュースで、六日前から行方不明になっていた群馬県尾原市の小学一年生岡田愛里菜ちゃんが遺体で見つかったと報じていた。現場は自宅から二キロほど東にある遠壬山の山中だった。
 「神場には、忘れたいと思っても忘れられない事件があった。」十六年前の1998(平成十)年六月一二日、当時、六歳だった純子ちゃんが行方不明となり、四日後、遠壬山で死体となって発見された事件で、当時、神場は所轄の刑事として捜査に加わっていた。
 その後の捜査で、現場付近で目撃された白い軽ワゴン車と類似した車を所有している八重樫一雄当時三十六歳が被疑者として浮上した。八重樫には事件当日のアリバイがなく、純子ちゃんの体内に残されていた体液と八重樫のDNAが一致したことにより、八重樫は起訴され懲役二十年の判決が下された。
 「神馬は、胸のなかがざわざわした。」愛里菜ちゃん事件と純子ちゃん事件があまりにも酷似しているからだが、実は、当時、純子ちゃん事件の捜査に当たっていた所轄の刑事課長鷲尾と神馬は八重樫犯行説に懐疑的だったのだ。新たな目撃情報が出てきたからだが、しかし、DNAの一致などもあり当時の県警捜査一課長国分は強引に八重樫の逮捕に持っていったのだった。もっとも、DNA鑑定に対する当時の信頼性は現在のようには高くはなかったのだった。
 それにしても、八重樫の刑は満期になっており、現在も服役中のはずだった。そうなると、二つの事件はまったく別の犯人によることとなる。一方で、八重樫が無実となると……。
 神場は、捜査本部で捜査に当たっているはずのかつての部下緒方に電話して事件の状況を尋ねた。緒方も、捜査一課長として捜査本部で指揮を執っている鷲尾の了解を取り、今や民間人ながら神場から事件解決のヒントを得ようとしていた。鷲尾は神場へ捜査内容を話すことを快く承諾したらしい。
 捜査は難航した。当初目撃情報が寄せられていた白い軽ワゴン車の行方がつかめなかったし、追加される目撃情報が絶対的に少なかった。
 神場は、純子ちゃん事件と愛里菜ちゃん事件二つの事件の類似性にこだわっていた。しかし、もし同一人物による犯行となれば八重樫は冤罪となる。鷲尾は緒方に対し、現在捜査中の愛里菜ちゃん事件とは別に、純子ちゃん事件の捜査を進めるよう命じる。しかし、もしこのことが明るみにでれば、緒方ばかりか鷲尾の立場が揺らぐことは必死だった。
 物語は、神場と妻香代子の遍路旅に沿って進んでいく。遍路の様子がわかって興味深いし、寄り添ってきた夫婦の生き様が重なってしみじみとする。このあたりのたっぷりな情感は作者柚月の真骨頂で、終盤ではたびたび泣かせられる。人物造型がしっかりしていて、たたき上げの刑事らしく無駄口をたたかない神場に対し、明るくふるまう香代子によって読者は救われる。
 二つの事件が時空を越えて絡み合い、重層的な物語として進んでいく。また、そこには冤罪をおこしてしまったかもしれないと悔恨する神場と鷲尾の心情が重なって物語を重くしている。
 結局、事件は神場がもたらしたヒントによって一挙に解決に向かうのだが、それは想像を絶する事柄で、いかにも優れたミステリらしいラストシーンとなっていた。
(集英社文庫)

第85回旺玄展

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(写真1 出品作品を前に戸田泰生さん)

伝統の公募展

 上野公園の東京都美術館で開かれていた。年1回開催され85回目という大変伝統のある公募展。規模も大変大きくて、今回は出品者数が405人、出品数が468点に達した。
 会場に入ると、展示室が28もある広大なもの。そこにびっしりと作品が並んでいる。中には入りきれなかったのか、2段に作品が展示されている展示室もあった。特に今年は85回目という節目にあって、過去の受賞作品なども一堂に展示されていて、公募展としての大変高いレベルを示していた。
 私は知人の戸田泰生さんが出品しているというので出掛けた。駆け出し時代から可愛がってもらってきているからもう50年近い昵懇の間柄だ。
 戸田さんは、70歳で会社を引いたあとから絵筆を握ったという。しかし、美大を狙う生徒が学ぶような教室で教わったというように基礎がしっかりしていて、10年を経た今ではまるで玄人はだしである。
 今回出品された作品は、工場のプラント描いたもので、ダイナミックなプラントと絡まるように広がるパイプ、背景には生命の不思議を感じさせるように枝葉が伸びている。S60号の大きな油彩である。
 私は戸田さんの絵はここ10年来毎年観ているが、この作品はこれまでと題材も違うし画風も変わっていた。
 戸田さんは、旺玄展への出品は今年が二度目で、これまでは秋の公募展純展に毎年出品し続け、ついには最高賞を受賞するまでになっていたが、春に開催される公募展ということで旺玄展に出品するようになったもののようで、この際、作品傾向も少し変えたもののようだ。
 いずれにしても、大作を次々と手がける創作意欲には感心するばかりで、82歳になったという今日においてまったく衰えはないようだった。

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(写真2 S60号という大きな出品作品)

三岐鉄道三岐線

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(写真1 三岐鉄道三岐線終着駅西藤原駅舎)

私鉄唯一のセメント輸送路線

 三岐鉄道は、三重県の北勢地域で三岐線と北勢線の二つの路線を運行するローカル私鉄。北勢線は西桑名から阿下喜を結び、一方、三岐線は、同じ近鉄沿線で桑名から10分弱南になる近鉄富田と西藤原の間を結んでいる路線。二つの路線は員弁川(いなべがわ)を挟んで大きくは並行している。
 北勢線を終点阿下喜で下車したあと三岐線に回るについては、いったん元に戻るのはいかにも芸がない。それで、阿下喜からタクシーを飛ばして三岐線の東藤原に移動した。これなら二つの路線を効率よく回れると読んだのだ。
 タクシーはあらかじめ予約しておいたのだが、乗ったタクシーの運転手は、阿下喜から西藤原へタクシーを利用する鉄道ファンはまれにあるが、東藤原に向かうのは何用か、と尋ねる。それで、セメントの積み出し駅である東藤原駅の状況を見たかったことと、新しい駅舎を見たかったのだと話したら、それはすごい、三岐鉄道をよく知っている本物の鉄道ファンだなどと感心していた。

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(写真2-3 写真上は東藤原駅の新駅舎。下は多数の貨車が留置されている構内)

 さて、その東藤原駅。言わばここが三岐鉄道発祥の地なのである。開業当初はこの東藤原駅が終点だった。そもそも三岐鉄道はセメント会社が創立したもので、現在も太平洋セメントが筆頭株主である。
 駅舎は、1年半前に完成したばかりのモダンなもの。赤煉瓦の外壁が美しい。旅客利用者が少ない駅だからもったいないほどだ。
 その分、貨物の利用が大半で、側線には多数の貨車が留置されていた。また、セメント工場への引き込み線も見られた。駅前にはセメント用ホッパー車であるホキ5700形貨車が展示保存されていた。なお、私鉄でセメント輸送を行っている路線はかつては多数存在したのだがいずれも撤退し、現在では三岐線が私鉄唯一のセメント輸送路線なのである。
 さて、東藤原から二駅戻り西藤原へ。三岐線の終点である。駅舎が面白い。蒸気機関車のような形をしている。真岡鐵道の真岡駅に似ているかも知れない。こういう駅舎を見ると鉄道旅行が楽しくなってくる。特に子どもたちにとってはそうではないか。また、ホームには1931年の三岐鉄道開業時のものらしい蒸気機関車が保存されていた。
 すぐに折り返したが、終点の近鉄富田が少々説明がいる。JRの富田駅と近鉄富田駅は数百メートル離れているだけ。開業当初は貨物輸送が念頭にあってJR富田駅での接続で運行されていた。それが、旅客の利便性向上のため近鉄線との間に連絡線を設けて1キロほど延伸し近鉄富田にくっつけて終点とした。
 西藤原から乗って来ると、終点の直前でJR線をいったん跨いで、貨物車両はそのまま直進しJRの富田駅に入るようだ。一方、旅客列車は戻るようにもう一度JR線を跨いで近鉄富田駅に入るという仕組み。JR線と近鉄線はクロスしているし、ゲージも違うのでこういう形になったものであろう。
 三岐鉄道は、そもそも三岐線だけの運行だったのだが、北勢線を近鉄が放棄するについて、地元沿線自治体は存続を模索し、第三セクターで存続会社を興そうとしたものの、鉄道に関するノウハウもないところから、近隣の三岐鉄道に運行を依頼したというのが経緯らしい。
 北勢線と三岐線と二つの路線がこれほど違うというのはそいう歴史があったのだった。もっとも、そういうことで、地元住民の足が確保されているばかりか、我々としてもナローゲージの鉄道が守られているのだからありがたい。

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(写真4 近鉄富田駅。右3番線が三岐線。左は近鉄線)

三岐鉄道北勢線

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(写真1 北勢線西桑名駅)

ナローゲージの鉄道路線

 三岐鉄道の北勢線は、これは何とも珍しくも楽しくなる鉄道。軌間がわずかに762ミリというナローゲージ(特殊狭軌)なのである。観光鉄道はともかく、一般に旅客営業を行っているものとしてはほかに四日市あすなろう鉄道に例があるだけの貴重な存在。
 桑名駅で養老線を下車し北勢線西桑名駅へ。二つの駅は駅名は違うが隣接している。この桑名駅西桑名駅は面白いことがあって、実は多種のゲージが揃っているのである。
 つまり、近鉄名古屋線が1435ミリの標準軌、JR関西本線が1067ミリの狭軌、そして三岐鉄道北勢線が特殊狭軌の762ミリと三種のゲージが並んでいる。これは日本ではここだけで、構内を横切る踏切では、この異なった軌間の線路を渡っていけるということである。

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(写真2 西桑名駅に停車中の阿下喜行き列車。左はJR線、その向こうが近鉄線である)

 北勢線は、西桑名駅と阿下喜駅の間を結ぶ全線20.4キロの路線。駅数は13。起点の西桑名は片側1線のホーム。4両編成。入線して来た列車を見たときには車両はさほど小さいようには思われなかったが、乗り込んでみるとやはり断然小さい。4両のうち先頭車両だけは前向きの座席で、しかも運転席は車両中央にあるではないか。残る3両はいずれもロングシートとなっており、座って足を伸ばすとお互いの足が触れあいそうだ。5月10日、12時05分の発車。

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(写真3 いかにもナローゲージらしい車内)

 東員には車両基地があった。ここでは上り下りの列車が一緒になり、留置されていた車両もあったから、3編成が揃って並んでいる様子が見られた。乗務員が交代した。
 楚原では列車行き違い交換のため9分の停車。
 沿線の田んぼは田植えも終わり、張られた水が鏡のように光っている。
 そうこうして終点阿下喜到着。13時05分。ぴったり1時間の乗車である。これでは表定速度が約20キロということになり、やはり遅い。
 なお、この駅に隣接してもっと小さな電車が止まっている。軽便鉄道博物館だという。ちゃんとした転車台もあってよく整備されているようだ。

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(写真4 北勢線終点阿下喜駅。しゃれた駅舎だ)

養老鉄道養老線

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(写真1 桑名方面と揖斐方面の列車が同時に到着しにぎやかな大垣駅ホーム) 

岐阜から三重へ揖斐川右岸を縦断

 養老鉄道養老線は、岐阜県の揖斐駅と三重県の桑名駅間を結ぶ路線。全線57.5キロ。駅数は27。途中の大垣駅はスイッチバックとなっており、大垣で運転系統が変わり揖斐から桑名へ直通する列車はない。揖斐川の右岸を縦断しており、岐阜県から三重県に直通する唯一の鉄道路線でもある。1913年の開業と古いが、その後の経緯が複雑で、運営主体が8回も変わっている。しばらく近鉄養老線として運行されてきたが、2年前に現在の養老鉄道養老線となった。
 さて、大垣駅からスタート。5月10日。JR大垣駅の駅ビルを出ると右に並んで養老鉄道の大垣駅。改札を入ってわかったが、内部には乗り換え改札もあった。なお、養老線には自動改札はない。
 養老線大垣駅は1面2線のホーム。頭端式になっており、すべての列車はスイッチバックする。1番線が桑名方面、2番線が揖斐方面となっており、ここで運転系統が変わり揖斐から桑名へ直通する列車はないようだ。このようなこともあって、大垣-揖斐間を〝揖斐線〟、大垣-桑名間を〝養老線〟と通称する場合があるようだ。ただし、かつては名鉄にも揖斐線があったから、当時はどのように混用を避けていたものか。なお、養老線では大垣駅が断然乗降客数が多い。
 初めは揖斐へ。8時26分発揖斐行き。3両。どうやらすべての列車が3両編成のようだ。車両塗色は近鉄時代の名残か、やや赤みを帯びたマルーン。大垣を出るとまるで複線のように少しだけ両方向並んで走り、すぐに揖斐方面は右にカーブし一つ目の室。そして東海道線をくぐった。
 北神戸、広神戸と続く。神戸と書いてごうどと読むのは、ほかにわたらせ渓谷鉄道に神戸駅がある。列車は山塊に向かって走っており、沿線は田園地帯である。荒々しく削られた山が見える。採石場であろう。
 そうこうして終点の揖斐。8時51分着。片側1線のホームがある木造駅舎。貨物用に使用されていたものか、側線が残っていた。

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(写真2 終点揖斐駅外観)

 折り返して再び大垣。桑名行きにはしばらく間があり、ここでコーヒータイム。大垣城も近いがそこまでの余裕はない。
 9時46分の発車。桑名行き。やはり3両。ワンマン運転。発車してすぐに揖斐線とは左に別れた。とにかくよく揺れる。メモを取る字が乱れる。
 一つ目の西大垣では、右に車両基地があった。木造の改札があったりしてなかなか趣きが感じられる。車両基地には東急から移籍してきたような車両があった。波板のステンレス車両には特徴がある。
 続いて美濃青柳(みのやなぎ)。左にイビデンの工場が見えた。旧揖斐川電気工業で、当養老線の生みの親でもあった。
 乗っていてやっと気づいたが、この列車は日中のある時間帯はサイクルトレインになっているようだ。沿線にはサイクルロードも整備されているようだ。
 もう一つ遅ればせながら気づいたこと。車両の先頭とドア口に〝養老鉄道全通百周年〟の大きなステッカーが貼られていた。1919年(大正8年)4月27日は、養老鉄道が全通した日だったのである。
 さらにもう一つ。この養老線のゲージ(軌間)は1067ミリ。近鉄の大半の路線の1435ミリとは違う。1435ミリに改軌しようという動きもあったらしいが、大垣と桑名で接続するJRへの貨物輸送のウエートが小さくなくて、JRに合わせたまま1067ミリにしたままだったようだ。
 車窓に目をやると、ピンクに彩られた畑が延々と続く。草丈はせいぜい10センチほどか。シバザクラとも違う。それで、乗り合わせた80年配のお年寄りに伺ったら、レンゲだという。油にするのだとも。
 列車は養老山地を右に見ながら走っている。左の車窓では、住宅地がとても遠くに見える。揖斐川が間に流れているからだろう。それで地図を開いて確認したら、揖斐川と並んで途中から木曽川も流れているようで、広大な扇状域になっているようだ。この対岸は、名鉄の弥富に近いようだ。
 田植えはすでに終わったようで、遠くには送電線が林立しているのが見える。桑名が近づいて行き違い列車が増えた。
 そうこうして桑名到着。4番線。11時59分。桑名に入る直前、右から近鉄線が寄り添い、左にはJR線が迫ってきた。桑名はJRと近鉄、養老線が接続しているのである。改札は共通で、JR線のものだった。

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(写真3 全通100周年を迎えた記念のステッカー)