ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

柚月裕子『慈雨』

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慟哭のミステリー

 警察官を定年退職した神場智則は、妻の香代子を伴って四国巡礼の旅に出た。神場は群馬県警捜査一課の元刑事で、夫婦ふたりの旅は新婚旅行以来だった。八十八か所すべての寺を歩いて回る計画で、一番札所の霊山寺から順に約二ヶ月をかけて遍路旅をする予定。留守宅には娘の幸知と愛犬のマーサを置いてきた。
 七番札所の十楽寺を打ち終え、最寄りの遍路宿で休んでいたところ、テレビニュースで、六日前から行方不明になっていた群馬県尾原市の小学一年生岡田愛里菜ちゃんが遺体で見つかったと報じていた。現場は自宅から二キロほど東にある遠壬山の山中だった。
 「神場には、忘れたいと思っても忘れられない事件があった。」十六年前の1998(平成十)年六月一二日、当時、六歳だった純子ちゃんが行方不明となり、四日後、遠壬山で死体となって発見された事件で、当時、神場は所轄の刑事として捜査に加わっていた。
 その後の捜査で、現場付近で目撃された白い軽ワゴン車と類似した車を所有している八重樫一雄当時三十六歳が被疑者として浮上した。八重樫には事件当日のアリバイがなく、純子ちゃんの体内に残されていた体液と八重樫のDNAが一致したことにより、八重樫は起訴され懲役二十年の判決が下された。
 「神馬は、胸のなかがざわざわした。」愛里菜ちゃん事件と純子ちゃん事件があまりにも酷似しているからだが、実は、当時、純子ちゃん事件の捜査に当たっていた所轄の刑事課長鷲尾と神馬は八重樫犯行説に懐疑的だったのだ。新たな目撃情報が出てきたからだが、しかし、DNAの一致などもあり当時の県警捜査一課長国分は強引に八重樫の逮捕に持っていったのだった。もっとも、DNA鑑定に対する当時の信頼性は現在のようには高くはなかったのだった。
 それにしても、八重樫の刑は満期になっており、現在も服役中のはずだった。そうなると、二つの事件はまったく別の犯人によることとなる。一方で、八重樫が無実となると……。
 神場は、捜査本部で捜査に当たっているはずのかつての部下緒方に電話して事件の状況を尋ねた。緒方も、捜査一課長として捜査本部で指揮を執っている鷲尾の了解を取り、今や民間人ながら神場から事件解決のヒントを得ようとしていた。鷲尾は神場へ捜査内容を話すことを快く承諾したらしい。
 捜査は難航した。当初目撃情報が寄せられていた白い軽ワゴン車の行方がつかめなかったし、追加される目撃情報が絶対的に少なかった。
 神場は、純子ちゃん事件と愛里菜ちゃん事件二つの事件の類似性にこだわっていた。しかし、もし同一人物による犯行となれば八重樫は冤罪となる。鷲尾は緒方に対し、現在捜査中の愛里菜ちゃん事件とは別に、純子ちゃん事件の捜査を進めるよう命じる。しかし、もしこのことが明るみにでれば、緒方ばかりか鷲尾の立場が揺らぐことは必死だった。
 物語は、神場と妻香代子の遍路旅に沿って進んでいく。遍路の様子がわかって興味深いし、寄り添ってきた夫婦の生き様が重なってしみじみとする。このあたりのたっぷりな情感は作者柚月の真骨頂で、終盤ではたびたび泣かせられる。人物造型がしっかりしていて、たたき上げの刑事らしく無駄口をたたかない神場に対し、明るくふるまう香代子によって読者は救われる。
 二つの事件が時空を越えて絡み合い、重層的な物語として進んでいく。また、そこには冤罪をおこしてしまったかもしれないと悔恨する神場と鷲尾の心情が重なって物語を重くしている。
 結局、事件は神場がもたらしたヒントによって一挙に解決に向かうのだが、それは想像を絶する事柄で、いかにも優れたミステリらしいラストシーンとなっていた。
(集英社文庫)