ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

積丹半島神威岬

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特集 私の好きな岬と灯台10選

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(写真1 春の陽光がまぶしい神威岬。無骨な灯台と眼下に不気味な神威岩=1994年5月28日)

神が宿り女人禁制の岬

 実に神秘的な岬である。カムイとは、アイヌ語で神を意味するらしいが、アイヌの人たちは何ともイメージに合った言葉をあてたもののようだ。明治になるまでかつては女人禁制の岬と言われた。明治になって灯台が建てられたが、当初、灯台守は波打ち際を歩かざるをえなく、波にさらわれたこともあったという。風光明媚とは言いにくいかもしれないが、特徴的な風景であり、大変魅力的ではある。私はこの岬に魅せられて、これまでに6度も挑戦し、このうち4度はついに先端を踏破できなかった。あまりに自然が厳しかったのである。
 神威岬(かむいみさき)は、積丹半島(しゃこたんはんとう)の北西に位置する。日本海に面して神威岬灯台が立っている。半島の北端は神威岬から10キロ小樽寄りの積丹岬だが、ここに灯台はない。灯台はやや東側の積丹出岬にある。
 この周辺の海域は岩礁も多く船舶の航行にとって大変な難所だったようで、小樽をめざし日本海を北上してきた船舶にとって、神威岬灯台はやっと見えた安寧の灯りではなかったか。この先、半島を右に回り込めば、石狩湾に入るから、波も多少はやわらいだだろうから。
 神威岬には、小樽駅前から北海道中央バスの路線バスが出ている(冬季運休)。2019年8月8日、北海道一周最長片道切符の旅の途次訪ねた。出発を前に駅の観光案内所で〝女人禁制の門〟は開いているかどうかを尋ねた。つまり、岬の先端に至る遊歩道の入り口にくだんの門があって、雨や風の強い日などは門を閉ざしている。私はかつてこの門に遮られて何度涙をのんだことか。
 確認すると、雨は降っているが、門は開けてあるという。それで、5番乗り場から9時00分発神威岬行きのバスに乗り込んだ。バスはなんと驚いたことに中高年の観光客でほぼ満席である。
 バスは、小樽を出ると、余市を過ぎたあたりから石狩湾を右に見ながらひたすら北上していく。1時間20分ほど走り積丹半島の中心美国で10分ほどの休憩があった。入舸で日本海に出て左折。余別を経て神威岬へと至る。大きな駐車場があり、レストハウスもある。ここまで小樽から2時間20分ほど。

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(写真2 女人禁制の門。風や雨や雪の強い日は閉まっている。この門に阻まれて何度涙をのんだことか。この日も横殴りの雪だった=2012年2月9日)

 駐車場からよく整備された緩い登り坂の遊歩道が伸びている。10分ほどで女人禁制の門。往古、女人を見ると海は荒れたらしく、それで女人禁制となったようだ。がっしりと組まれた門には女人禁制の地と書かれた大きな扁額があった。明治になって女人禁制は解かれたが、そう言えば、数十年前に来た折には女性の姿は少なかったように記憶しているが、果たしてどうだったか。

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(写真3 女人禁制の門付近から見た神威岬。尾根伝いに遊歩道が延びている。まるで竜の背中を歩いているようだ=1994年5月28日)

 女人禁制の門まで来れば、岬先端の全容と灯台が見えている。岬は、竜が海に躍り出たようでもあり、くねっている。岬の先端はさしずめ竜の頭であろう。先端近く海上には神威岩が立っていて、いよいよ不気味さを強めている。
 女人禁制の門から岬の先端までには細い尾根伝いに遊歩道が伸びている。義経伝説から引かれたチャレンカの道と名付けられている。まるで竜の背を歩くようでもあり、道は人がすれ違うにも苦労するほどに狭く、がっしりした柵が取りつけてあるものの、なるほど、風の強い日や霧の深いときなどは危険と思われた。

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(写真4 神威岬。神威岬灯台と神威岩。何と詩的な風景か。=2015年9月3日)

 門から10数分で岬の先端に達する。80メートルほどの断崖になっていて、眼下には〝積丹ブルー〟と呼ばれている透き通るような青い海が広がっている。しかし、積丹ブルーと呼ぶロマンチックさを打ち消すように目の前に神威岩が不気味な姿を見せている。岬の高さから類推すると、40メートルほどもあるか、大きな岩がそそり立っている。まるで怪人がマントの下に腕を隠して屹立しているようでもある。この神威岩の存在によって神威岬の不気味さが強まっており、思わず身震いするほどだ。
 劈頭に立つと、まるで竜の頭に乗っかっているようでもあり、思わず両手を広げて海に身を投げたい誘惑に駆られる。岬先端の断崖に立つといつでも思うことだが、幸か不幸かこれまでは海に飛び込むことはなかった。そろそろいいかと考えると、実際にやってしまいかねないから夢想だにしないことにはしているが。

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(写真5 神威岬灯台。何にも飾らない無骨な姿がかえって風景に合致している=2019年8月8日)

 岬先端には神威岬灯台がある。白と黒に塗り分けられた無骨な灯台で、ずんぐりしていてスマートさにはほど遠い。しかし、北の大地の灯台だから頑丈さが信頼できてこの無骨さはこれでいいのではないか。また、ここは恋する灯台プロジェクトの認定灯台の一つだが、とてもロマンチックにはなれそうにもないがどうだろうか。義経伝説にもなったように、恋が成就せず海に飛び込みたくなったということなら最適だろうが。
 ところで、神威岬にはこれまでに6度挑戦した。しかし、この岬は到達するのがなかなか容易ではないところだが、その6度について当時のノートをひもといてみた。
 初めて計画した1992年2月7日には、前夜宿泊した小樽であろうことか雪道に足をられ滑って骨折してしまったのだった。おいしい寿司を食べようと急いたのが良くなかった。道はアイスバーンになっていて、うっすらと雪がかかっていて気がつかなかったのだった。
 次は1994年5月28日だった。骨折してから2年ぶりのこと。このときに初めて神威岬に立つことができたのだが、この日は快晴で、レンタカーで小樽を朝9時に出発した。初め積丹岬に寄ったが、「岬からは神威岬の形の良い姿が遠望でき、余別岳には残雪が美しい。灯台は少し離れたところに積丹出岬灯台というあまり大きくはない赤白まだら模様の灯台があった」とある。
 神威岬では、「岬の突端に立つと、竜の頭に乗って海に躍り出たような感じだ。風はますます強く、龍神が怒っているかのようだ。写真を撮ろうにも体が揺れてままならないほどだ」とあり、「岬には黒白模様の灯台が立っており、その無骨なたたずまいが岬の雰囲気に合っている」と続いている。
 また、2011年の9月3日の折りには、小樽へ向かう函館本線があろうことか大雨の影響で不通になってしまい、小樽に着いたときにはすでに夕刻が近づいておりとても岬へ向かうことはためらわれ、このときも断念した。
 次に訪れたのは2012年2月9日。初めて挑戦した折の骨折の悪夢が頭をよぎらなかったわけではないが、厳冬期の神威岬にどうしても立ってみたかった。鉄道旅もそうだが、春夏秋冬様々な季節に訪れないとその良さが本当にはわからない。
 天気予報では発達した低気圧が襲来しており強風と大雨になるとあったがかまわず決行して朝8時30分小樽をレンタカーで出発した。
 岬への取り付け道路の入り口にはゲートがあったが、幸い管理人が開けてくれて、駐車場まで進んだ。

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(写真6 真冬の神威岬=2012年2月9日)

 それで、さて歩き出そうとしたところ、管理人が雪が深くて無理だと言う。ここまで来て引き返すのは悔しいとブツブツ言っていたら、管理人が除雪をしてくれるという。「ただし、2時間か3時間はかかるよ」と。
 「待つほどに1時間半ほどで除雪は終わった。管理人が急いでくれたものらしい」。「歩き出すと、初めに除雪した手前の方は早くも雪が積もりだしている。除雪した雪の深さは肩くらいまでになっている」。
 女人禁制の門までやっとの思いでたどり着いたのだが、門は堅い扉とかんぬきで頑丈に閉鎖されている。それでくだんの管理人に開けてくれないかと頼んだら、「それはできないし、やめた方がいい」とたしなめられた。
 この先の突端が神威岬らしさがあっていいのだが、「猛烈に風が強い。細かい雪が横殴りにたたきつけるように降ってくる。体がよろける。ほとんど視界がきかない」とあって、さすがに諦めたのだった。

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(写真7 激浪が押し寄せる真冬の神威岬先端と神威岩=2012年2月9日)

 5度目も岬の先端にはたどり着けなかった。2015年9月3日。この時はバスで向かった。9時ちょうどに小樽駅前を出て11時20分に岬に着いた。途中、美国に10時20分について休憩があった。
 勢い込んで岬への遊歩道を進むと、なんたることか、女人規制の門が閉まっているではないか。強風のためだが、またもかと思うと恨めしくなってくる。
 結局、神威岬の突端に立てたのは、6回挑戦してわずかに2回だけ。女人禁制の門はなかなか難関である。もちろん、女人禁制の門の外側から見ても、神威岬は十分に魅力的な景観ではある。しかし、岬はやはり劈頭に立ってこそ達成感があるもの。たとえ、飛び込もうとはしていなくとも。

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(写真8 神威岬眼下に見える〝積丹ブルー〟まるでエメラルドを敷き詰めたような透き通るような碧い海である=2019年8月8日)

<神威岬灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号0590(国際番号M7004)
 名称/神威岬灯台
 所在地/北海道積丹郡積丹町(ニセコ積丹小樽海岸国定公園)
 位置/北緯43度20分0秒 東経140度20分9秒
 塗色・構造/白地に黒横帯1本塔形 鉄筋コンクリート造(現在は3代目、初代は鉄造)
 塔高/12メートル
 灯火標高/82メートル
 灯質/単閃白光毎15秒に1閃光
 光度/37万カンデラ
 光達距離/21海里
 明弧/8度~243度
 初点灯/1888年(明治21年)8月25日(北海道5番目)
 管理事務所/第一管区海上保安本部小樽海上保安部

 ところで、この神威岬灯台は、日本の灯台50選には入っていない。海上保安庁が募集し、一般投票によって選ばれたもののようだが、どのような選考基準があるものか。岬はいいが灯台そのものはどうもね、ということなのかどうか。私にははなはだ解しかねる。大変残念だ。

 

映画『マザーレス・ブルックリン』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

ああニューヨーク

 1950年代のニューヨークが舞台。ある種フィルムノワールのような色彩があってとても印象深い。
 チック症の青年ライオネルが主人公。私立探偵事務所で働いている。孤児院で育っていたところを所長のフランクに拾われ仕事を手伝っている。この探偵事務所で働いている所員たちは全員孤児院から引き取られてきた。
 あるとき、フランクが路上で襲撃されて殺害された。ライオネルら3人が動員されていたのだが、なすすべもなかった。仕事の中身は知らされていなかったのだが、ライオネルは真相を突き止めようと動き出す。
 ライオネルの住んでいるアパートの部屋からはブルックリン橋が見えている。そう言えば、ライオネルはフランクから日頃〝ブルックリン〟とあだ名で呼ばれていた。それも、時折マザーレスブルックリン(母なしブルックリン)と呼びつけられていた。
 あるいはフランクはライオネルの出自をアイルランド系と考えていたのかもしれない。なぜならブルックリンはアイルランドからの移民が多いところ。また、劇中、ライオネルが馴染みのバーに入ると、バーテンが「アイリッシュにするかい?」と尋ねる場面があった。何やらアイルランド系を想像させる。ちょっと読みすぎかもしれないが。
 シガレットをくわえ、ライターはあくまでもジッポー。紫煙が漂う。中折れ帽にコートというライオネルの出で立ち。どこまでもハードボイルド調だ。
 音楽が良かった。当然だがジャズ。トランペットはチャット・ベイカーだったろうか。マイルス・デイヴィスを彷彿とさせた。
 往年のペンシルバニア駅が出てきたのには感動した。現在では地下駅になってしまって往時を偲ぶよすがはなくなってしまったが、やはりグランドセントラルのような駅舎だったのだとしれた。現在でも、〝ペン・ステーション〟あるいは単にペンと呼ばれ親しまれている。
 それにしてもこの映画はどうやって往事のペンシルバニア駅を再現したのだろうか。1962年に現在の駅舎に建て替わっているから、映画の設定当時は確かに伝統の旧駅舎だったのである。
 古き良きニューヨークにばかり思いをはせていると、ストーリーを追うことをうっかりおろそかになってしまうが、しかし、この映画は、映画の持つ時代背景にどっぷりつかることこそが楽しみだと思われた。
 出演は、ライオネルにエドワード・ノートン。監督も。チック病の主人公を演じて秀逸だった。所長のフランクを演じたブルース・ウイリスが初めの数分間登場しただけで引っ込んだから、大物俳優の使い方にびっくりした。それにしても、ブルース・ウイリスはこういうフィルム・ノワール調の役どころでは際だった存在感があった。
 ブルックリンは、イースト・リヴァーを挟んでマンハッタンの対岸。ブルックリン橋が両岸を結んでいるが、独特のアイデンティティがあって印象深いし、物語になる街だ。

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 (参考=イースト・リヴァーを渡るボートの船上から見たブルックリン。左がブルックリン橋=2018年3月馬場撮影)

ああ鶴見線!

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私の好きな鉄道車窓風景10選

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(写真1 工場地帯の“秘境駅”大川駅)

首都圏の秘境駅

 鶴見線が好きだなどというと鉄道ファンならいざ知らず、一般の人には訝しげに思われるかしれない。鶴見線を知っている人ならなおさらあの工場地帯を走る列車のどこがいいのよと言うに違いない。そもそも鶴見線とはどこなのか。
 鶴見線とは、京浜東北線の鶴見駅から横浜市と川崎市にまたがって伸びる路線。京浜工業地帯の海岸沿いに工場群を縫うように走っている。住宅はほとんどなく、乗客は工場に通う従業員が大半。
 車窓に絶景があるわけでもなく、沿線に珍しいものがあるわけでもなく、ダイヤも通勤する乗客相手に組まれて土休日など極端に不便になる、そのような路線にどのような魅力があるのか。その魅力とはどのようなものか、探りに鶴見線に乗りに出かけてみた。
 乗ったのは12月27日金曜日、この年の仕事納めの日。
 鶴見線は、鶴見駅から扇町駅を結ぶ本線(7.0キロ)のほか、本線上の浅野駅から分岐して海芝浦駅に至る海芝浦支線(1.7キロ)、同じく本線上の武蔵白石駅から大川駅に至る大川支線(1.0キロ)があり、全線9.7キロの誠に小さな路線。

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(写真2 鶴見駅の鶴見線との中間改札口)

 まず、鶴見駅。地表を走る京浜東北線とは別に高架上にホームがあり中間改札口があった。この必要性は乗ってみてわかった。それはともかく、相対する2面2線のホーム。しかし、通常は改札側に近い3番線が発着ホームのようだ。
 11時20分発浜川崎行き。4両。日中だし乗客は少ない。しかし、平日朝の通勤時間帯に乗るとこの路線の特徴がよくわかる。かつて乗ったことがあるのだが、通勤のサラリーマンで満員の乗客は黙々と乗っていた。このあたりは神戸の和田岬線に似ている。
 発車すると、右に曹洞宗大本山総持寺が見え、やがて左にカーブしながら京浜東北線や東海道線の線路をまたいでいく。

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(写真3 国道は高架下にある独特の風情の駅。構内にはその名も国道下という居酒屋があった

  国道(こくどう)というちょっと変わった名前の駅を過ぎると鶴見川を渡った。鶴見小野を過ぎて弁天橋が近づいて工場地帯に入った。弁天橋では左右にJFEの工場が見えた。右奥はかつては造船所だったが今はどうなっているか。

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(写真4 浜川崎駅。道を挟んで左が鶴見線ホームで、右が南武線改札口)

 浅野、安善、武蔵白石と続くがまずはそのまま進み浜川崎。11時32分着。この電車はここ止まり。この駅はちょっと変わっていて、鶴見線として1面2線のホームがあり、右にカーブして扇町へと向かうのだが、改札を左に出ると、道路を挟んで南武線の駅がある。離れているし路線も違うのだが、同じ浜川崎駅となっている。線路は鶴見線と南武線とは直角の位置関係にある。浜川崎駅は鶴見線、南武線ともに無人駅なのだが、鶴見線の簡易Suica改札機には、南武線に乗り継ぐ乗客は、Suicaをタッチするなと注意書きがある。一方、改札を右に出ると、JFEの敷地になっており、許可なく立ち入ることはできないと警告してある。
 ところで、次の扇町行きには40分ほど間があり、ここで昼食にしようとしたが、駅周辺は工場ばかりで食堂や商店が見当たらない。しばらく歩いて駐車場の係員に尋ねたところ、もっと先にコンビニがあるとのこと。ここで腹の足しになるものを確保した。

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(写真5 本線終点の扇町駅ホーム)

 さて、鶴見から来た扇町行きに乗車。12時13分発。浜川崎を出ると右に大きくカーブしながら昭和を経てすぐに扇町12時17分到着。行き止まりの終着駅である。なお、鶴見から直接乗ってきても所要時間はわずかに17分である。降り立ったのは5人だけだった。片側1線のホームがあるだけの粗末な駅だが、周辺は大企業の大工場がびっしり並んでいる。
 ところで鶴見線の駅名のこと。鶴見線の開業は1926年(大正15年)。元々が埋め立て地であり土地に格別の由来もないわけで、それで、開発者の名前などから引用した。浅野は、浅野財閥社長の浅野総一郎であり、安善は安田財閥創業者安田善次郎に因んで付けられたといった具合である。

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(写真6 浅野駅ホーム。右奥が本線で、手前左が海芝浦支線)

 扇町からは折り返し電車で浅野に戻り、海芝浦支線に乗った。浅野は、本線と支線がY字形のホームになっており、海芝浦支線は浅野を出ると右に急カーブを切り、左に運河と並行しながら一直線に進む。右は終始東芝の工場である。新芝浦を経てわずか4分で東芝の工場に突っ込むようにして終点海芝浦到着。

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(写真7 東芝に直結した海芝浦駅改札口)

 ある意味鶴見線を象徴するような駅である。改札口は東芝の工場に直結しており、東芝の職員が詰めていて来客をチェックしている。もちろん、不用のものは入場できない。
 関係者以外下車できないということになるが、幸い、東芝口の脇に小さな公園があってそこは自由に休憩できるようになっている。小さなスペースだが、東芝のはからいで設けられたもので、その名も海芝公園と名付けられている。

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(写真8 海芝公園からの眺望。対岸は右から鶴見つばさ橋、東京ガス扇島工場、JFEスチール東日本製鉄所)

 この公園からの眺めが秀逸である。運河に面していて、対岸には右から順に鶴見つばさ橋、東京ガス扇島工場、JFEスチール東日本製鉄所が間近に見えるし、横浜ベイブリッジも遠望できる。夕日もいいだろうし、夜間なら工場の夜景も美しいのではないか。

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(写真9 海に張り出した海芝浦駅ホーム。右奥がJFEの製鉄所)

 片側1線のホームが海に張り出すようにして設けられている。海に近い駅というのは全国各地にあるが、海の上のホームというのはここだけであろう。
 来るときの乗客はわずか数人だけだったが、帰りの電車は、仕事納めの日の午後とあって満員の乗客だった、二人連れの中年の女性が「1年のうちで今日のこの時間が一番好きだわ。ほっとする」と話していた。
 次は大川支線。この線区もちょっと説明が必要で、線区上は武蔵白石から分岐するように書かれているのだが、実際には電車は一つ手前の安善から分かれていく。
 それで、浅野からいったん安善まで戻り大川行きの電車を待つことにしたところ、大川行きはなんと8時台の次は17時台までないではないか。ここで5時間も待っているわけにもいかず、この日はここで諦めることにした。
 武蔵白石-大川はわずかに1.0キロの区間。歩いても15分とかからない距離。通勤者には歩いている人たちも少なくないに違いない。しかし、私は電車に乗りに来たのであってそうもいかない。テレビ番組の路線バスの旅ならバスがないところは歩いているようだが、線路はあるのだからそうもいかない。
 鶴見線に全線に渡って乗るのは初めてではなし、それも4度目なのだがうっかりして鶴見線の難しさを忘れていた。ふらりと行き当たりばったりの乗り方が間違いだった。
 しかし、首都圏にあってこのローカル性が鶴見線の魅力の一つでもある。思いつきだけでは簡単には来られないぞというのがいい。あるいは、安善の駅で呆然と5時間も待っていた方がよかったのかもしれない。それなら鶴見線の魅力をより痛感できたのかもしれない。ただ、そうなると寒さも増すし、午後5時を過ぎると暗くなって車窓が面白くないので諦めた。

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(写真10 安善駅に接する貨物線)

 しかし、この鶴見線は、貨物列車が元気だ。鶴見線に限らず周辺も含めて貨物線が発達しているし、旅客輸送を上回るのではないか。浜川崎-扇町間など複線のようにみていると、この区間は電車線と貨物線が並行しているのだった。こういうのを双単線(単線並列)と呼ぶらしい。
 この日も、安善駅で様子を見ていると、10数本もの入れ替え線があって、日本石油輸送のタンク車がしきりに構内を移動していた。また、構内を横切る踏切では、鉄道ファンが望遠レンズを構えて撮影していた。10人近くも陣取っていたが、貨物鉄道ファンなのであろう。
 さて、乗り損ねた大川支線には、年をまたいで1月3日に再挑戦に訪れた。まだ松の内なのに家族も放り出して鶴見線に乗りに行くと言ったら家内は唖然としていた。
 早朝家を出て鶴見7時55分発大川行き。この日は休日だから、大川支線の列車は7時台に2本、夕方17時台に1本の合計3本しかない。朝夕に10時間も間がある。まるで秘境線である。3両編成だが、さすがに乗客はまばらである。

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(写真11 武蔵白石駅のホーム=手前左=をかすめるように右に急カーブしていく大川支線)

 電車は安善を出て武蔵白石の直前で武蔵白石のホームの端をかすめるように右に大きくカーブした。昔は武蔵白石から出ていたらしいが、車両が大きくなって武蔵白石に入っていたのではカーブしきれなくなったらしい。ただ、大川支線の起点の扱いだけは武蔵白石駅に残ったもののようだ。

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(写真12 大川駅。昔で言う国電区間にある秘境駅)

 武蔵白石をかすめて右に大きくカーブすると単線になりそのまま直進してほどなく大川。駅前は三菱化工機の工場。この日は休日で工場は休みのはずだが、何用あってか下車する人はいる。私は乗ってきた電車ですぐに折り返した。ここでまごまごしていると次の電車まで10時間も間が空く。
 鶴見線は、全線わずか9.7キロの路線だが、二つの支線があって行き止まりの終着駅も三つ。線内すべての駅が無人駅であり、各駅にはSuica自動改札機が設置されているのだが、乗客の大半は鶴見駅での乗降者。途中の駅で乗って途中で降りるという人ははなはだまれなようだ。それで、鶴見駅に中間改札機を設けたものであろう。
 電車特定区間に入る路線の一つなのに、このローカル性、秘境性が魅力だし、貨物鉄道と共存しているというのもうれしいこと。貨物路線としては浜川崎から先は羽田を経て東京貨物ターミナルから都心に入っていくわけで、貨物としては大幹線である。好きな車掌車を目で探したが、さすがに見当たらなかった。

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(写真13 大川駅改札口に掲示してあった時刻表。休日は日に3本。8時17分の次は何と10時間後の18時01分である)

 

銀座線渋谷駅新駅開業

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(写真1 新しく生まれ変わった銀座線渋谷駅ホーム。白を基調に明るい)

約百メートル移動し新築移設

 東京メトロ銀座線の渋谷駅が新しく生まれ変わった。旧駅から約百メートル移動し新築移設したもので、正月3日に開業した。
 銀座線は、日本で最初の地下鉄路線で1927年(昭和2年)の開業。浅草から上野や日本橋、銀座、赤坂見附などと都心繁華街を貫いて渋谷に至る14.3キロの路線で、渋谷駅は開業から10年後に開設された。
 新しい渋谷駅には1月7日、浅草から向かった。渋谷は地下鉄にもかかわらずそもそも新旧とも地上駅なのだが、浅草から30数分、渋谷が近づきトンネルを抜けると新駅にはすぐに到着したから面食らった。つまり、旧来は、トンネルを抜けると明治通りをガタゴトと鉄橋で渡ってホームに入っていっていた。これが、ある種、銀座線の風物詩だったのだが。
 新駅舎はとても明るい。白を基調にしていて、ホームは1面2線の島式。1番線2番線とありホーム幅は12メートルと広い。柱と梁をアーチ型に一体に組んでおり、このため屋根がM型にウエーブしている。ホーム上には柱が1本もないからとても広々と感じる。行き先案内や出口・乗り換え案内などのサイン類もスマートでわかりやすい。電車は3分間隔とひっきりなしに発着している。
 面白いのは、車体上部の行き先表示で、「浅草」の下に“1番線到着“などと浅草の到着ホーム番線が明示されていること。浅草駅は相対するホームとなっており、到着するホームによっては、乗り換え出口やエスカレータ、エレベータのあるなしなどが変わる。電車は3分間隔だから少し待っても浅草駅を使い慣れていればこれは便利。それにしても、行き先表示に到着番線までも記されているというのも珍しい。
 銀座線は全列車6両編成。東京の地下鉄の中では短いが、このためホームの長さも102メートル。
 ホームはちょうど明治通りをまたぐようにあり、手前側つまり東側は明治通り口となっており、ホームから1本のエスカレータで一直線に地上に降りることができる。3層構造のようだが、2層目には将来隣接ビルとの連絡通路が設けられるという。細かいことだが、この2層目にトイレがあった。実は、これまで銀座線渋谷駅にはトイレが一つもなかったのである。もっとも、男子用トイレには用をたせる便器は大小合わせても一つしかなかったが。スペースの関係だろうが、これはちょっとひどくはないか。
 一方、銀座線とは直角の位置関係にあるJR線を挟んで反対側の西側はスクランブルスクエアになるが、まだ、工事中の部分が残っておりちょっとわかりずらい。そもそも、旧駅舎は東急百貨店のビルの3階にあったから、とても乗降が面倒だった。

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(写真2 旧ホームが残っており、線路が奥へと引き込まれている)

 西側のホーム端に立ってみると、古いホームがまだ残っており、線路も奥まで引き込まれている。ホームはいずれ取り壊されるのだろうが、線路はそのまま使用されるのだろう。なぜならこの奥に車庫があるからで、7本の編成が留置できていた。
 なお、ホームは100メートルほど手前に移動したわけだから、銀座線の営業キロもその分短くなるのではないか。

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(写真3 東側の明治通りに面してある銀座線専用改札口)

 東側、明治通り口に出ると、明治通りに面して新しい改札口ができていた。専用の改札口は、実は、銀座線渋谷駅としては初めてのものになる。
 一方、反対側、西側からホーム全体を観察すると、ホームは明治通りに架かっていることがよくわかるし、何やら外観は丸みを覚えている。M型ウエーブの所以である。なお、ホームの屋根は工事が完成すれば東西自由通路として利用できるようになるとのこと。M型のへこみの部分が歩行者用通路になるらしい。駅舎の構造物として大変面白い利用の仕方だ。
 銀座線は地下鉄として最も早くにできた路線だから、地下は浅いところにホームがあって、利用するにとても便利。しかし、老朽化も進んでおり、このたびは浅草から乗ってきたからなおさら痛感するのだが、浅草駅も是非使い勝手を工夫し利便性を高めて欲しいものだ。

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(写真4 ホームを外から見たところ.。わずかだが外壁に膨らみが感じられる。下は明治通り

新線開業の相鉄-JR直通線に乗る

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(写真1 相鉄-JR直通線の新駅羽沢横浜国大駅外観)

相鉄が悲願の都心乗り入れ

 昨年11月30日に新線開業した相鉄・JR直通線に乗った。
 相鉄(相模鉄道)は、横浜を起点に神奈川県の主に中心部に路線網を持つ大手私鉄の一角。横浜-海老名間の本線(24.6キロ)や本線上の二俣川から分岐して湘南台へと伸びるいずみ野線(21.6キロ)があり、さらにこのたび本線上の西谷からJRに直通する新線を開業させて、悲願の都心乗り入れを実現した。これまで、都心乗り入れのない唯一の大手私鉄だった。
 相鉄-JR直通線は、まず、相鉄が、相鉄新横浜線を建設し、西谷から新設の羽沢横浜国大間を結び、羽沢横浜国大からは、JRが隣接している東海道貨物線(線属は東海道線)の横浜羽沢駅を改修してつなげ、武蔵小杉で埼京線に直通し、相鉄、JRが相互直通運転を行っている。
 列車は、相鉄の海老名から本線上を走って西谷で相鉄-JR直通線に入り羽沢横浜国大を経てJR線に乗り入れて武蔵小杉につなげ、埼京線を使って大崎、目黒、渋谷などから新宿へ至る。なお、さらに進んで大宮、川越へと至る列車もある。
 これによって、相鉄沿線の二俣川などから大崎、五反田などを結ぶ利便性が向上した。また、相鉄としては横浜を経由しないで都心に直結する路線を実現したことになる。ただし、海老名は小田急との接続駅だが、ここから新宿へ向かうには、相鉄線を利用する人は少ないのではないか。時間、運賃ともに相鉄利用の方がかかるからだ。
 なお、相鉄-JR直通線は、特にJR側で所属線区が複雑で特例事項が多いのだが、運賃計算上の営業距離を単純に計算すれば、相鉄区間の西谷-羽沢横浜国大間が21キロとなり、JR線への連絡線も含めれば2.7キロとなる。また、JR区間である羽沢横浜国大-武蔵小杉間は16.6キロであり、ちなみに、路線区間としての新宿-海老名間は18駅、57.0キロとなっている。

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(写真2 西谷4番線ホームに入ってきた新宿行き列車)

 さて、12月27日西谷駅。4番線に海老名からの相鉄-JR直通線経由新宿行きの列車が入ってきた。濃い青色をした塗色で、ヨコハマネイビーブルーと呼ばれるらしい。10両編成で、相鉄の12000系新型車両である。16時22分の発車。すぐそばを新幹線が抜けていった。
 発車してまもなく羽沢横浜国大到着。全くの新駅である。谷を切り拓いた様子で、周辺にはまだ何もない。相鉄、JR共同使用駅で、管理は相鉄。対面する2面2線のホームが地下にある。ここで相鉄からJRに乗務員が交代した。ここで発車案内を聞いていたら「埼京線直通」となっていた。
 羽沢横浜国大から隣駅武蔵小杉まで何と14分を要した。駅間距離が16.6キロもあってまるで北海道の路線のように長いが、どうやら複雑なルートを通っているようで、鶴見駅のすぐそばを抜けて武蔵小杉に出ている。貨物線の応用だからこうなるのだろう。とにかく、JRは貨物線からの転用が得意だ。

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(写真3 武蔵小杉4番線ホームに到着した新宿行き電車)

 武蔵小杉では4番線埼京線ホームに到着した。湘南新宿ラインや横須賀線、南武線に東急線も接続する大きな駅。ここまで来れば西大井を経て大崎はすぐだ。
 なお、実は、相鉄-JR直通線には年をまたいで12月27日と1月3日に乗りに出かけていた。写真の取りこぼしをカバーするためだった。それで、海老名から乗った電車は、発車すると一つ目かしわ台で左窓に車両基地が見えた。相鉄車両とJR車両が並んで留置されていた。また、湘南台からも乗ってみたが、西谷からの乗り換えはスムーズだった。
 一方、相鉄では、将来的に、新横浜線を羽沢横浜国大から新横浜(仮称)に延伸させ、さらに相鉄-東急直通線を建設して東急に接続させたい計画だ。2022年度下期の開業を予定している。

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(写真3 相鉄海老名駅ホーム。左2番線が相鉄-JR直通線新宿行き電車。車両はJRのE233系7000番台=1月3日撮影)

夕暮れの鮫角灯台

 

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(写真1 夕暮れの鮫角灯台)

沖合にイカ漁の漁り火

 五能線をきっちり乗った後は青森を経て八戸へ。おいしい酒と肴が欲しくてここに宿を取った。11月30日。
 八戸駅に着いたらまだ午後4時前。どうしてもと当初から計画したものではなかったが、まだ陽もあるし足を伸ばして鮫角(さめかど)灯台を目指した。今日は艫作埼灯台で遭難しかかったばかり。それなのにまたまた灯台とは何事か。そう思わないではなかったがそこはやはり灯台好き。
 八戸からは八戸線で鮫へ、約20分。ところが、乗っているうちに陽がどんどん落ちていく。つるべ落としという言葉その通りだ。鮫に着いたらまだ4時半前なのにもう薄暗い。躊躇がないわけはなかったが、鮫角灯台は車で入れるところ。タクシーで約5分。灯台に着いたら暗くなっていたが、灯台は目の前。

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(写真2 鮫角灯台の上部)

 夕闇に真っ白い灯台がすっくと立っている。とても姿がいい。灯台はすでに点灯している。ただ、光跡がくっきりとはわからない。まだ、さほど暗くはないのだ。灯器はLB型であろうか。
 沖合を見ると、水平線近くが燃えたように明るくなっている。その幅数キロ。対岸があるはずもなく、ふと気がついた。イカ漁の漁り火だったのである。幻想的である。そう言えば、八戸の漁港はイカの水揚げで有名だった。
 鮫角灯台は、4月から10月の間だけだが一般公開を行っている。参観灯台の仲間入りをしたわけで、八戸市が灯台を観光に積極的に活用しているのは好ましい。
 三陸海岸を北上してくると、魹ヶ埼灯台、陸中黒埼灯台の次が鮫角灯台。八戸港の入口を照らす。この先は下北半島の尻屋埼灯台ということになる。
 鮫角灯台は高台にあり、足下の海岸沿いに八戸線が走っている。高いところにあるから気がつく人は少ないかもしれないが、車窓から見える灯台ということでは全国でも屈指の美しさだ。
 ところで、鮫角灯台の位置は、北緯40度32分24秒。日本海側の艫作埼灯台は北緯40度36分8秒だから、ほお同じ緯度線上ということになる。同じ日に日本海側と太平洋側と同じ緯度線上の灯台に立つというのも珍しいこと。
 ちなみに、この二つの灯台より少しだけ南にある、日本海側の入道埼灯台と、太平洋側の陸中黒埼灯台はぴったり北緯40度線上である。
 日本の灯台50選に選ばれている。

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(写真3 八戸線車窓から見上げた鮫角灯台=2019年3月24日)

<鮫角灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号1625(国際番号M6620)
 名称/鮫角灯台
 所在地/青森県八戸市鮫町
 位置/北緯40度32分4秒 東経141度34分6秒
 塗色・構造/白塔形 コンクリート造
 塔高/23メートル
 灯火標高/58メートル
 灯質/単閃白光毎8秒に1閃光
 実効光度/10万カンデラ
 光達距離/20海里
 初点灯/1938年(昭和13年)2月16日

艫作埼灯台

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(写真1 麓から見上げた艫作埼灯台)

灯台はヤブの中

 男鹿半島の突端、入道崎を過ぎて日本海を北上していくと次ぎに見えてくるのは艫作埼(へなしさき)灯台だ。不老ふ死温泉はこの麓にある。ウェスパ椿山駅から送迎バスで不老不死温泉に降り立つと後背の丘の上に艫作埼燈台が見えた。ここを訪れるのは初めてではなかったのだが、あまりに近くてびっくりした。午後4時を過ぎたばかりだったが灯台はもう点灯していた。
 最寄り駅は艫作で、徒歩15分ほど。駅から線路を渡って海岸に向かって歩いてくると灯台入口の表札があり、その角に「五能線全通記念碑」という立派な石碑がある。昭和10年7月30日建立とあった。

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(写真2 ヤブの中から顔を出している灯台)

 実は、ホテルに聞くと夜明けは6時半頃というので、灯りが灯っているうちに灯台が見たくて、5時半頃にホテルを出て灯台への坂道を登っていった。すると、15分ほどでくだんの記念碑があり、左折して灯台を目指した。
 ここからは10分ほどだということだったが、どこでどう道を間違えたのか、行けども灯台は姿を現さない。人跡は1本しかなかったのだが。
 そのうち背の高さほどのヤブに取り囲まれて身動きが取れなくなった。しかもまずいことにつまずいて転んでしまったら、情けないことに起き上がることもできなくなってしまった。気温は零下4度とあって体温が急速に奪われていく。
 ここで遭難というわけにも行かず体力気力を振り絞って何とか起ち上がった。ところが、よせばいいのに、灯台を見つけたくて再度探し回っているうちにこんどは完全に道に迷ってしまった。灯台は見えているのにヤブが深くて近づけない。というよりも、道らしい道はそもそもなかったのである。
 そのうち、遅ればせながら危機的状況にやっと気がついてしばらくうろうろしたあげく何とか脱出した。ホテルに帰り着いたら8時半を回っていた。
 この間約3時間。コートからズボンから泥だらけになって家内の前に姿を見せたらひどく叱られた。返す言葉もなかったが、実際、これほどひどい灯台行は経験のないことで大いに反省した。
 結局、灯台はそばで見ることはできなかったが、すらりとしてなかなか姿がいい。大型灯台であろう。かつては3等フレネルレンズだったらしいが、遠かったのではっきりしないが、灯器はLB型であろうか。

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(写真3 8年前の2011年7月17日に見た灯台)

<艫作埼灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号1425(国際番号M7055)
 名称/艫作埼灯台
 所在地/青森県西津軽郡深浦町舮作
 位置/北緯40度36分8秒 東経139度51分8秒
 塗色・構造/白塔形
 塔高/24メートル
 灯火標高/68メートル
 灯質/単閃白光毎10秒に1閃光
 実効光度/77万カンデラ
 光達距離/21海里
 初点灯/昭和16年(1941)9月15日