ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

8年ぶり悲願の復旧宮古-釜石間

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(写真1 第34閉伊川鉄橋にさしかかった列車。崩落した鉄橋が復活した)

三陸鉄道リアス線全線乗り通す②
 宮古では15分の停車。10時00分の発車。1番線。かつてはJRが使用していた改札口に面したホーム。三陸鉄道(三鉄)の使用に移行したもののようで、大勢の人たちでごった返している。
 1両で到着したのだが、宮古からはさらにたくさん乗り込んできて、立っている人もいて満員の状態。なぜ増結しなかったのかと思われた。通常営業2日目のこと、人気は想定を越えていたのだろうか。
 宮古を出るとすぐに第34閉伊川鉄橋を渡った。震災で橋桁が流出する被害があったもので、その様子を震災から8年間毎年観察してきたから、無事渡れたことにある種の感慨があって涙がこみ上げてきて構えたカメラのレンズがぼやけたほどだった。
 なお、閉伊川は、このあたりはすでに河口に近く最後の鉄道橋だが、区界峠に源流を発していて、北上山地を西から東へほぼ山田線と国道106号線に沿って流れている。それで鉄道橋が多いのだろうと思われ、90キロに満たない河川距離だが、橋梁名称から察するに、ここに至るまでに33もの鉄道橋があったということなのだろう。
 次の磯鶏(そけい)では手を振っているおばあちゃんがいた。こっちも手を振ったが、心温まるシーンで、地元の人たちの復旧への喜びが伝わってくるようだった。
 続いて矢木沢・宮古短大という駅。このたびの復旧に合わせて開業した新駅である。周囲はやっと住宅地が広がってきたという様子だったが、高台に駅名に採り入れられた短大の校舎が見えた。なお、次の次の払川駅も新駅。二つも新駅を設けるなどとは、三鉄の積極的な経営姿勢がここでも見えた。また、両駅とも宮古市所在だが、宮古市の三鉄にかける期待も並々ならぬものと思われた。

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(写真2 車窓には復興工事の様子が至るところで見られた)

 陸中山田は沿線中大きな町だが、次の織笠とともに駅設備は壊滅的に損傷、駅舎は移転して新築された。
 岩手船越は海から離れていたため震災の被害は少なかった。ちなみにこの駅は、本州最東端である。なお、日本最東端駅は根室駅ではなくその一つ手前の東根室駅。駅では子どもたちが列車を出迎えてくれた。

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(写真3 車窓には美しい景観のリアス式海岸が続く)

 車窓に目をやれば、山田湾にしろ船越湾にしろリアス式の典型的な景観。まことに美しいが、この深い独特の湾が津波被害を大きなものにした。
  井上ひさしの同名小説の舞台にもなった吉里吉里(きりきり)という愉快な名前の駅があり、大槌、鵜住居と壊滅的な被害となった町が続く。鵜住居ではワールドカップのために建てられたラグビー場が左窓に見えた。
 そうこうして釜石到着。13時53分。ここでもホームは乗降客でにぎわっていた。
 かつての山田線としてはここまで。宮古-釜石間55.4キロ、駅数は15である。

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(写真4 釜石に到着した列車。ホームは大勢の乗客でにぎわっていた。右に見える車両はJR釜石線)

三陸鉄道リアス線全線乗り通す①

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(写真1 ホームで列車を歓迎する子どもたち。岩手船越駅で)

盛から久慈へ8年ぶりの全通

 震災の影響で不通となっていた山田線沿岸部が復旧し、盛駅から久慈駅まで8年ぶりに鉄路でつながった。3月23日復活の記念運転が行われた後、翌24日から通常の運行が開始された。
 なお、山田線そのものは、盛岡駅から宮古駅を経て釜石駅を結ぶ路線で、このうち沿岸部を走る宮古駅-釜石駅間が被災した。内陸部を走る盛岡駅-宮古駅間はそのままJR路線として運行が続けられている。
 形式的には、まずJR東日本が山田線の宮古駅-釜石駅間を復旧させた上で三陸鉄道(三鉄)に移管し、三鉄は南リアス線盛駅-釜石駅間、北リアス線宮古駅-久慈駅間と統合し全線を新たにリアス線として開通した。統合されたリアス線は、営業距離が163.0キロとなり、第三セクター鉄道として最長となった。駅数は40。
 東日本大震災で大打撃を受けた岩手県の三陸沿岸部では、鉄路での復旧を強く待ち望んでいて、リアス線の開業は復興への大きな弾みとなるものと期待されており、沿線では列車に向かって手を振る人々の姿があちこちで見られた。
 また、三鉄は、旧国鉄の解体による特定地方交通線を転換して開業した初めての第三セクター鉄道として1984年4月1日に発足したものであり、リアス線の開業は、悲願の三陸縦貫鉄道中心区間を三鉄単独で実現する画期的なものとなった。

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(写真2 三陸鉄道久慈駅)

 リアス線には、久慈駅から乗車した。前日のうちに現地入りしていて、3月25日、久慈8時05分発盛行き。全線を走り通す列車で、行き先表示には「盛」の文字が見え、久慈からついに盛まで一本で直通できることに感激した。列車番号は5108D。

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(写真3 真新しくも誇らしげな「祝三陸鉄道リアス線開通」のヘッドマーク)

 車両は新製車のようで、日頃は車両にさほどの関心を示さない私だが、この時ばかりは、「平成30年三陸鉄道」「新潟トランシス2018」といった銘板をメモした。また、車両先頭には「祝三陸鉄道リアス線開通」の真新しいヘッドマークが輝いていた。
 久慈駅は、八戸線が発着するJRとの接続駅だが、乗車する列車は三鉄ホームからの発車。1両のディーゼル列車ワンマン運転。
 久慈を出ると、陸中野田で海に面した。野田玉川を出て堀内の手前で渡ったのが安家川橋梁。我が国におけるPCトラス橋の代表例で、高さは33メートル。列車はこの橋の上で徐行運転をしてくれた。車窓内陸側には、並行する国道45号線のものか、道路橋の橋脚工事の様子が見られた。

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(写真4 島越駅に接近する列車)

 島越(しまのこし)。トンネルとトンネルの間に設けられた谷間の駅で、駅舎も線路も集落も全て流出した。震災後何度も訪れたが、立派な駅が再建された。旧駅舎時代にもあった吉村昭文庫も復活した。ただ、駅周辺の住居は高台移転していて、車窓から見る限りひっそりとしていた。
 摂待(せったい)を出て6532メートルという長いトンネルをくぐると田老。摂待-田老間は駅間距離も8.8キロと長く、この間には今年10月には新駅(仮称新田老)が設けられる計画のようだ。三鉄の積極的な経営がうかがわれる。
 田老は、津波で町が壊滅した。度重なる津波に備えて〝万里の長城〟とまで呼ばれて町の自慢だった防潮堤が二重三重に町を防御していたものだったが、その防潮堤もこのたびの津波では破壊された。

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(写真5 宮古駅に接近する列車。北リアス線時代は左端にある行き止まりの小さな三鉄ホームだったが、リアス線となって右に渡り1番線ホームへと入線した)

 そうこうして宮古9時45分の到着。ここまでは北リアス線71.0キロの区間だった。駅数で17。宮古駅はJRとの接続駅だが、三鉄の駅舎は閉鎖され、JRの駅舎が三鉄との共用になっていた。駅の管理も三鉄が行うことになったらしい。到着したホームも1番線で、まるで宮古駅の主人のような様子だった。

川本三郎『あの映画に、この鉄道』

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日本映画鉄道紀行

 映画に登場した鉄道が丹念に取り上げられている。
 ざっと数えてみたところ、取り上げられた映画は合計241本。登場した路線や駅は実に404。著者は評論家。映画や鉄道に造詣の深いことはよく知られているところだが、それにしてもよく歩いたものだ。そして感心するところはきちんとメモが取られていること。しかも、本書は書き下ろしだというから驚く。
 きっかけは、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズだったという。「男はつらいよ」を見ては、そのロケ地を歩き、鉄道に乗るのがひそかな楽しみになったという。
 昭和20年代30年代の映画が多いようだ。当時はまだ日本に蒸気機関車が健在だった時代だし、今では廃線になってしまった鉄道が現役時代の姿で映画に出ていて、これは鉄道の記録としても重要なこと。著者自身も「そのことを記録に残しておきたいという気持ちも本書のモチーフになっている」と述べている。
 また、「本書を読んで、鉄道ファンが、あの映画にこの鉄道が出ていたのかと知り、また、映画ファンが、あの映画にはこういう鉄道が出ていたのかと知ってもらえればうれしい」とも書いている。
 本書は、まるで、日本映画鉄道紀行のごときものだが、実際、著者自身も、そのように銘打ちたいところだがといきさつを書き、本書では東京を割愛しているため断念したと述べている。つまり、東京を走る鉄道は電車ばかりで、ローカル鉄道を中心とした本書には合わないからだというわけである。
 倉本聰脚本、降旗康男監督「駅 STATION」。主演は高倉健。「冬。刑事の高倉健は正月休みに、増毛の先の漁師町、雄冬の実家に帰る。冬の増毛駅に降り立つ。雪が多く、駅舎も町も雪に埋もったかのよう」とあり、「六年ほど前、増毛駅に行ったが、駅員がいないかわりに、駅舎のなかにそば屋があるのに驚いた」と映画の舞台を訪ねた感想を書いている。
 実は、私も増毛駅には4度も降り立ったことがあり、とても思い出深い。何しろ、2003年7月17日に旧国鉄全線を踏破した記念すべき最後の駅がこの増毛駅だった。その折り、そのそば屋はすでに営業中だった。列車が発着するわずかの時間だけの営業のようだった。映画で刑事たちが張り込んだ駅前のホテルは、ロケでは日通の営業所を使ったものだったが、今はその建物もない。
 また、私も豪雪の増毛駅に降り立ったことがあるのだが、実際、駅舎も町も埋もれたようだった。その増毛駅も、2016年12月5日留萌本線の留萌-増毛間が廃線になってしまった。土産物店があったが、今ではどうなっているものか、知りたいとは思うものの、鉄道がなくなってしまってどうやって行けというのか。卒業した小学校が廃校でなくなってしまったような寂しさがある。これからは映画の中で再会することになるのだろうか。(キネマ旬報社刊)

映画『マイ・ブックショップ』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

本好きにとって至福の空間

 印象的な結末だった。衝撃の後に救いが現れた。本はいつまでも途絶えない、永遠に伝わっていくということが示されて大変心強いものだった。
 1950年代のイギリスが舞台。フローレンスが、それまで1軒もなかった田舎の海辺の村で書店を開く。16年前に戦争で亡くなった夫との約束の夢を叶えたのだった。フローレンスの基本は、良書を選別して品揃えをするというもの。
 店の名前はTHE OLD HOUSE BOOKSHOP。壁いっぱいの書棚。磨き込まれた木の床。座り心地の良さそうな椅子。テーブルには平積みの本。窓にはおすすめの本。通りには平積みのワゴン。フローレンスは、訪れる客と話しながら好みそうな本を薦める。空いた時間にはソファにくつろぎながら読書。
 開業当初から店は繁盛していた。フローレンスはクリスティーンという名の少女を助手に雇う。クリスティーンは本は読まないといいながら、てきぱきと店を手伝う。このクリスティーンが最後にこの映画を救ってくれた。ラストシーンをみて感動で涙を流さない人はいないのではないか。
 実は、書店を開くという話が伝わると、地元の有力者夫人から書店はやめて芸術センターにした方が良いと横やりが入る。
 一方、フローレンスは、読書三昧で屋敷にこもってばかりいるという年配の紳士ブランディッシュに知己を得る。
 ブランディッシュからはある日レイ・ブラッドベリ著『華氏451度』の注文が届く。トリュフォーの映画で私は知っていたが、451度とは紙の発火点をさしていた。本映画では、この書が重要な暗喩を示していた。
 フローレンスは『ロリータ』(ウラジミール・ナボコフ著)を読んで刺激的な部分もあるがすばらしい傑作と思い、ブランディッシュに相談する。すると彼はいい本だと太鼓判を押してくれたのだった。
 しかし、『ロリータ』が店頭に並ぶや、保守的な村人はこぞってフローレンスを廃業に追い込んでいくのだった。
 フローレンスを演じたエミリー・モーティマーがとても良かった。優しくて本好きの心が伝わってきた。表情が豊かで、それだけで演技しているようだった。ただ、クリスティーンに言わせれば、ちょっと他人に甘いということ。実際、そのことで終盤思い知らされる。
 本好きがいて、本屋が生まれる。人との出会いが本との出会いへとつながっていく。全編に漂う静寂にも知的な画像が広がっていく。加えて『華氏451度』や『ロリータ』といった傑作が題材として挿入される。本好きで映画好きには至福の時間だった。
 書店を営むというのは本好きにとってはとてもうらやましいこと。ましてや、自分の好みや考えに沿って品揃えをしていくというのは理想とするところ。
 イザベル・コイシェ監督作品。原作はブッカー賞作家ペネロピ・フィッツジェラルドの『ザ・ブックショップ』。

京急大師線

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(写真1 京急川崎駅3番線ホームで発車を待つ京急大師線小島新田行き列車)

京浜間湾岸の小路線②

 京急大師線は、京急川崎駅と小島新田駅を結ぶ全線4.5キロの短い路線。駅数は7。多摩川沿いに東京湾に向けて西から東へ伸びる路線である。
 そもそもは、川崎大師への参詣者向けに開設した路線で、1899年(明治32)の開業は京浜急行としては最も古く、京急のルーツ路線だということである。また、大師線で採用された京急の軌間1435ミリは標準軌として日本で最初の鉄道であり、さらに、電車による営業運転は関東で初めてのものといい、小さな路線ながらなかなか歴史的にも由緒あるもの。
 京急川崎駅。本線は高架ホームからの発着だが、大師線は地上ホーム。1-3番線が大師線専用で、2番線は降車専用。乗ったのは12時44分3番線から発車の列車。4両編成。
 発車すると、港町、鈴木町と続き、三つ目が川崎大師。平日の日中だったのだが、川崎を出た段階ではほぼ満席。それが大師では大半が下車した。
 路線は国道409号(通称大師道)と並行しており、多摩川にも沿っているはずだが、川は車窓には見えなかった。

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(写真2 小島新田駅)

 東門前から地下に潜り、産業道路といういかにも川崎らしい名の駅は地下駅で、再び地上に出たら終点小島新田だった。
 近年地下化の工事が進められていて、産業道路駅前後が地下化されたことにより、5つの踏切が解消されたということである。産業道路は川崎の海岸沿いの工場地帯を貫く大幹線であり、踏切が解消されたことによって悪評高い渋滞も解消されたに違いない。まだ、環境への配慮も薄かった時代、産業道路を走っていると、排煙で息苦しかったものだった。

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(写真3 小島新田駅前に広がる貨物ターミナル.。手前が東海道線貨物線

 小島新田駅は1面2線のホームがあるだけの小さな駅舎。眼前が貨物ターミナルで、おびただしいほどの留置線側線が配線された大操車場となっていた。また、この中を東海道本線の貨物線が抜けている。
 このあたりは大工場が数多く立地されていて、こうしてみると、大師線は、当初は川崎大師への参詣路線だったのだろうが、その後、通勤需要が高まり、さらに大工場が移転する傾向になって、跡地には高層マンションが次々と建ち並んできていて、大師線の乗客層には大きな変化が出てきているようだ。
 なお、帰途は、川崎大師駅で下車しお参りをした。駅から参道を約5分、さらに仲見世を抜けると山門、本堂と続く。真言宗智山派の大本山で、平間寺(へいけんじ)というのが正式の名称。大変寺域が広く、立派な堂宇が並んでいる。正月三が日には全国有数の参詣客でにぎわう。また、仲見世の通りではたんきり飴をたたく独特の調子を取った音が風情を高めているものだが、この日は平日の日中だったせいか、その音は聞こえてこなかった。

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(写真4 川崎大師の本堂)

京急空港線

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(写真1 1番線ホームに到着した品川方面からの空港行き列車)

京浜間海沿いの小路線①

 風邪をこじらせてしまってここのところ泊まりがけの旅行は控えている。寝込むようなこともないので、遠出は避けて近いところの鉄道を求めて乗っている。初めてのところもないのだが、やはり乗れば新鮮な面白さがある。
 まずは京急空港線。京急蒲田駅と羽田空港国内線ターミナル駅を結ぶ全線6.5キロ、駅数7の路線。浜松町と羽田空港を結ぶ東京モノレールとは競合路線である。
 3月15日、京急蒲田駅。空港線の起点駅だが、ここで空港線の発着をみていると面白い。
 正月の箱根駅伝で開かずの踏切として悩ましてきた京浜国道との平面交差は高架化工事によって解消され、同時に、大幅な時間短縮となり空港線の強化となった。
 現在の京急蒲田駅は、1階が改札階で、2階が上りの4-6番線、3階は下りの1-3番線という3層構造になっている。

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(写真2 2階ホームの行き先案内には、青砥、品川、羽田空港、泉岳寺、印旛日本医大各方面行き列車が並んでいる)

 横浜方面から来た空港線乗り入れの列車は4番線に到着し、スイッチバックして羽田空港へと向かう。大半は新逗子発の4両編成の急行列車である。
 一方、品川方面からの列車は1番線に到着しそのまま分岐して羽田空港へと向かう。大半が6両編成の特急列車。
 つまり、品川、横浜両方向からの列車が羽田へ向かっており、非常に本数が多い。明らかにモノレールとの競合を意識した運行であろう。
 乗ったのは1番線からの羽田空港国内線ターミナル行き。14時21分の発車。京成の車両が運用されており、京成、都営地下鉄を経てきた特急列車。
 特急列車だから、出発すると糀谷、大鳥居、穴守稲荷、天空橋と途中すべて飛ばし、羽田空港国際線ターミナルを経て羽田空港国内線ターミナル。14時29分の到着。所要わずか8分。
 前方の改札を出るとそこは第二ターミナル。ANAのターミナルである。JALが発着する第一ターミナルとは約500メートル、10分ほど離れているといい、地下道を歩くかターミナル間連絡バスを利用してくれとのことだった。トランクを引きずっての移動などJALの利用者にとってははなはだ不便なようだった。
 帰途はモノレールを利用したが、空港第二ビル、空港第一ビル、国際線ビルとすべてのターミナルごとに駅があったから、京急線かモノレールか利用者にとってはよくよく選択に迫られるようだった。

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(写真3 にぎわいの羽田空港国内線ターミナル駅。発車案内には印旛日本医大、新逗子、高砂、新逗子と各方面行きが短い時間間隔で並んでいる)

東武宇都宮線

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(写真1 東武デパートが一緒になった駅ビルになっている東武宇都宮駅)

下野国を南北に走る

 東武宇都宮線は、東武日光線の新栃木駅から分岐して東武宇都宮駅に至る全線24.3キロの路線。ただし、ごく一部の列車を除き大半は隣の栃木駅発着。駅数は栃木駅を含めないで11。
 なお、JRは東北本線の東京-宇都宮間を近年宇都宮線と愛称しているが、歴史的にも沿線事情からも宇都宮線の呼称は東武にこそ正当性があるように思えるから、JRが使っている俗称は東武にとっては迷惑なのかも知れない。
 ただ、東京からみれば東武宇都宮線はいかにも地味。利用する機会が少なくて、私にしてもこれまで一度しか乗ったことがなかった。
 その東武宇都宮線にわざわ乗りに出かけた。わざわざというのもおこがましい言い方になるが、実際、そうでもないと乗る機会は少ない。

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(写真2 東武宇都宮駅の改札口)

 3月13日。快晴。東武宇都宮駅は、JR宇都宮駅から大通りをまっすぐ約20分進み、少し左に入ったところにあった。県庁や市役所にも近く、繁華街の中心はこの駅周辺のようだ。
 東武デパートと一緒になった駅ビルの2階が東武宇都宮駅。デパートが改札口に直結している。
 島式1面2線の頭端式ホーム。線路は3本あって、ホーム番線も3番まであるのだが、1番線は使われていないようだ。
 2番線から14時52分の発車。列車は4両編成。編成車両数から察するに利用者は多いようだ。ワンマン運転。
 発車するとすぐ左に宇都宮城址の櫓が見えた。しばらく宇都宮市の近郊住宅地という様子。南宇都宮を出てJR日光線を跨いだ。
 地図で見ると、路線は、関東平野の北辺、栃木県の中央を北から南西へと伸びている。遠く筑波山が見えている。この山は標高は千メートルに満たないものの、関東平野に屹立した独立峰であり、ピークを二つ持った山容がわかりやすい。
 このあたり、旧国名でいうと下野国である。しばらくしたら野州大塚、野州平川と続いた。野州(やしゅう)は下野の別名である。
 そうこうして右に日光線の線路が見えてきたら新栃木。線区上はここが起終点駅だが、列車はそのまま日光線を一駅進んで栃木到着。この列車の終点である。
 栃木駅は2面3線のホーム。乗っていた列車は片側1線の1番線に到着した。1番線は日光線の上り線ホームで、東武宇都宮から来た列車は回送となって2番線ホームに回ったようだ。なお、3番線は日光線の下り線ホームである。
 東武宇都宮線の運行は大半がこの栃木駅と東武宇都宮駅の線内折り返しの普通列車ばかり。稀に、東武宇都宮から浅草へ直通する列車があるようだ。

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(写真3 東武宇都宮駅2番線に停車中の東武宇都宮線の列車)