ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

村田靖子『エルサレムの悲哀』

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エルサレムを舞台にした物語

 これは珍しい、エルサレムを舞台に日本人によって書かれた物語である。著者は、イスラエルのキブツ(農業共同体)で暮らした経験を持ち、現代ヘブライ文学の研究や翻訳活動を行っている。
 書き下ろしの9本の短篇で構成されている。
 エルサレムの宿舎で知り合った3人の留学生たちを主人公とする「刻まれた十字架」。一人はヘブライ大学で学ぶ日本人だったが、5年の滞在中にイスラエルに対する考え方が変わってきていた。
 「ぼくはイスラエルの現実を知るようになってから、少しばかり幻滅を感じはじめていた。この国は取り返しのつかない一線を越えてしまった。エルサレムには、勝者の威丈高な空気と、どこかで道を踏み外してしまったのではないか疑念と悔恨の空気が、入りまじってたちこめている気がした。」
 「エルサレムは、イエス・キリストに命を与えられた者たちが生涯にいちどは訪れたいと願う所だが、それなのに、けっして人をやさしく抱擁してはくれない。まるで、与えられた命に棘を刺してくるような、気をゆるめられない雰囲気さえただよっている。」
 残る二人はいずれも黒人の神父だったのだが、フランスの海外県の島から来たピエールは、「問題は人間であることさ。それ自体が、すでに病なんだから……」と言い、留学生の地位を捨てて途中で出奔してしまっていた。
 コンゴ民主共和国から来たレオポールは、聖地にいられることを心から主に感謝する気持ちになるといいながら、〝主が泣かれた教会〟に行くと「イエスさまとおなじように涙が流れてくる。かなしいんですよ、とっても。この美しい聖地で争いがやまない。わたしの国でも殺し合いがつづいている。なぜ、わたしは今ここにいるんだろう。ここにいていいんだろうか。」と悩み、終いには、心を病みやせ細っていた。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、三つの宗教が聖地とするエルサレム。当然のように軋轢は治まらないが、このエルサレムの街路が描かれ、そこに暮らす人々の息遣いが伝わってきて本書は誠に貴重だった。
 「焼けつくような暑さの真夏でも、高地(約800メートル=筆者注)のエルサレムの夜はひんやりして心地いい、」「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、三つの一神教がそれぞれに醸し出す空気が、上空から見れば四角い方舟のような縦横九百メートルほどの城壁内に幾世紀にもわたって澱のように溜まり、飽和状態になっている。」「旧市街は、古代や中世の地中海文化が城壁の中で発酵を重ねたような息遣いを感じるアラブ人の町だ。」などとあって興味深いものだった。
 それにしても、長野県松本市という地方にあって、このような地味な出版を敢然とすすめる版元に敬意を表したいものだ。
(木犀社刊)

城ヶ島の東端安房埼灯台

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(写真1 太平洋に臨む安房埼灯台全景)

城ヶ島の灯台②

 安房埼灯台は城ヶ島の東端に位置する。
 三崎口駅からバスで城ヶ島に向かうと、城ヶ島大橋を渡ってすぐ白秋碑バス停があり、ここから丘の上に登ること約10分。登ったところが県立城ヶ島公園で、松林や芝生が美しくよく整備されている。
 公園を突っ切ると太平洋に臨んで眼下に白堊の灯台が目に入ってくる。岩礁が連なっていて、灯台はその先端にあった。
 丘を下りて、歩きにくい岩礁を伝いながら進む。海岸沿いには磯釣りを楽しんでいる人の姿が多い。
 灯台に到着すると、灯台はまさに波をかぶっている。高さわずか数メートルの岩場であり、まるで屹立しているように見える。

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(写真2 岩場の先端に建ち波をかぶっている安房埼灯台)

 灯台は真っ白な円塔形をしている。和ローソクなような形をしており、ローソクの上部灯心に当たる部分に灯器が載っている。LB型であろうか。まったくの当てずっぽうではあるが。
 灯台に近づくためには波をかぶっている岩場を伝っていかなければならない。5分ほどか、しばらく寄せ来る波の様子を観察していてパターンを確認し、波が引いた頃合いをみて一気に灯台に駆け込んだ。
 灯台は、白いタイル張りになっていて、初点銘板には安房埼灯台という灯台名が左から右に横書きされていた。ただ、初点日は不鮮明で読み取れなかった。
 灯台からは左手前方に剱埼灯台が見え、太平洋上対岸には房総半島が横たわって見え、その先端は洲崎灯台であろう。大島も見えるようだが、この日は確認できなかった。なお、安房埼とは、房総半島安房国が望めるところから付けられた名前のようだだ。

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(写真3 素晴らしいロケーションの安房埼灯台)

 いずれにしてもここ安房埼灯台はロケーションが素晴らしい。灯台の建っている位置がユニークだし、眺望も第一級だ。知名度と歴史では城ヶ島灯台が先行するが、灯台の魅力では安房埼灯台が断然上回るのではないか。
 公園には〝恋する灯台プロジェクト〟の認定記念モニュメントがあった。日本ロマンテイスト協会が認定しているものだが、なるほどロマンを感じさせる灯台である。
 ところで、帰途、バス停そばの食堂で昼食をとったところ、ここの親爺が大事な話をしてくれた。今日は波は穏やかな方だったのかも知れないが、灯台に渡ろうとして波をかぶる人が少なくないのだそうで、昨日も波にさらわれた人がいて大騒ぎだったとのこと。年寄りが無謀な行動をとったことになり、大いに反省した次第だった。
 なお、灯台周辺には、燈光会などが立てている灯台の概要を記した看板が見当たらなかった。あるいは見落としたのかも知れないが。

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(写真4 安房埼灯台初点銘板)

<安房埼灯台メモ>(燈光会や海上保安庁設置の看板が見当たらなく、ウエブサイトの記事などから引用した)
 所在地/神奈川県三浦市三崎町城ヶ島
 位置/北緯35度07分07秒、東経139度37分38秒
 塗色・構造/白色円塔形コンクリート造
 灯質/単閃白光 毎4秒に1閃光
 光度/2,000カンデラ
 光達距離/約10海里(約19キロメートル)
 塔高/11.5メートル
 灯火標高/13メートル
   初点灯/1962年(昭和37年)2月

島の西端に建つ城ヶ島灯台

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(写真1 城ヶ島灯台全景)

城ヶ島の灯台①

 ここのところ天候が安定していなくて泊まりがけの旅行はしにくい。それで気象情報を睨みながら晴れの日を狙って日帰りのできるところへ出掛けている。これなら、あらかじめおおよその計画は立てておくものの、当日の朝になって最終決定ができる。
 城ヶ島(じょうがしま)を訪ねた。9月18日。三浦半島には1年前にも訪れて剱埼灯台や観音埼灯台を見物していたが、その際には城ヶ島には寄っていなかった。それで今年は城ヶ島ということに。
 三浦半島は、神奈川県南東部の半島。太平洋に突き出て東京湾と相模湾を分けている。東京湾に面する東側は、横須賀や浦賀などと古くから造船や海軍で栄え、現在では半島の奥まで横浜や首都圏への住宅地が伸びている。また、西側は逗子や葉山から江ノ島などと人気の海岸が連なっている。
 城ヶ島は、半島の南端に連なってここも人気の観光地である。京浜急行で品川から終着駅三崎口まで約1時間30分。半島と島とは城ヶ島大橋で結ばれており、三崎口から城ヶ島までバスで30分弱。バスは途中、マグロで有名な三崎漁港を通る。
 城ヶ島は、半島南端の対岸に横たわるようにあり、東西に細長く菱形をしている。東西約1.8キロ、南北約0.6キロで、周囲はわずかに4キロほどの小さな島。最高標高が30メートルほどしかない。三浦市に属し、人口は600人ほどという。
 城ヶ島バス停は、島の西端にあり、バス停付近は、土産物屋や食堂が軒を並べ、船宿やホテルまである。

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(写真2 灯高は11.5メートルとやや小ぶり)

 ここから城ヶ島灯台までは歩いて10分ほど、標高30メートルほどの小高い丘の上にある。
 灯台は白堊の円塔形で、やや小ぶり。眼前に太平洋を望み、眼下には磯が広がっている。奥には房総半島が横たわっており、突端は洲崎か。景勝地であり、観光と磯遊びに人気がある。
 大変歴史のある灯台で、幕府が欧米列強と江戸条約で建設を約束した、いわゆる条約灯台8基の一つで、初点灯は1870年(明治3年)。煉瓦造だった。最初の観音埼灯台に遅れることわずかに1年半後だった。日本で5番目。設計は観音埼灯台と同じフランス人技師のヴェルニー。
 関東大震災や太平洋戦争の被災があって現在の灯台は2代目。
 この日は晴れてはいたが、連休明けの平日だったせいか、灯台には訪れる人も少なく閑散としていた。

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(写真3 眼下には磯が広がっている。奥にかすかに横たわるのは房総半島)
 
<城ヶ島灯台メモ>(海上保安庁/燈光会/日本財団が設置した看板等から引用)
 所在地/神奈川県三浦市三崎町城ヶ島
 位置/北緯35度08分06秒、東経139度36分40秒
 塗色・構造/白色円塔形コンクリート造
 レンズ/第4等フレネル式
 灯質/単閃白光 毎15秒に1閃光
 光りの強さ/31.0万カンデラ
 光達距離/15海里(約28キロメートル) 灯高/約11.5メートル
 灯火標高/約30.1メートル

灯台150周年

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(写真1 建設から150年となる観音埼灯台)

日本初は観音埼灯台

 今年は明治になって150年。日本に初めて洋式灯台ができて150周年でもある。
 日本最初の洋式灯台である観音埼灯台の起工日が1868年(明治元年)11月1日であることにちなんでいる。ただし、竣工して初点灯したのは翌1869年(明治2年)2月11日である。一般的に初点灯日ではなく起工日を記念日にするというのは馴染まないが、記念日は何が何でも明治元年にということにしたかったのであろうか。ちなみに、制定したのでは海上保安庁である。
 さて、その観音埼灯台を訪ねてみた。ちょうど1年前にも見学していたのだが、灯台150年の節目の年ということで、改めて現地を訪れた。
 観音埼灯台は神奈川県横須賀市所在。京浜急行浦賀駅前からバスで約20分。住宅地を抜けていくと終点観音埼。周辺は公園になっていて、海沿いの遊歩道を進むこと約10分。案内板に従って急な階段を150メートルほど登ると真っ白な灯台が向かえてくれる。
 幕府が欧米列強と灯台の建設を約束したいわゆる江戸条約に基づき建設した条約灯台8基の一つで、ここ観音埼灯台が最初に完成した。関東大震災等による被害があって現在の灯台は3代目。初代は煉瓦造だったらしい。ちなみに、この煉瓦は当時の横須賀製鉄所で作られたものだという。ちなみに、設計は、灯台の父といわれるブラントンではなく、浦賀で技師だったフランス人のレオンス・ヴェルニーらだったとのこと。
 1925年に建て替えられた現在の灯台は、白色八角形のコンクリート造で美しい姿をしている。灯高19メートル、灯火標高は56メートル。
 内部を見学できる参観灯台で、らせん階段を登って展望デッキに立つと東京湾が眼下に一望できた。東京湾に鋭く突き出ていて、眼前の浦賀水道はまことに狭い。この狭いところを東京湾に出入りするすべての船舶が通過していて、ひっきりなしに船舶が往来していていかにも東京湾の玄関というほどのことがある。
 狭いところでは10キロ先が対岸の房総半島で、左手には富津の製鉄所が見え、正面は東京湾観音であろう。

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(写真2 レンズは第4等フレネル式)

 また、階段を上り詰めるとレンズが間近に見ることができた。意外に小ぶりで、第4等フレネル式なそうである。
  最初にできた洋式灯台という歴史といい、東京湾を臨むという位置といい、美しい姿といい、観音埼灯台はまさしく日本を代表する灯台というにふさわしい内容だった。

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(写真3 灯台の管理棟壁面には灯台150周年の横断幕が掲示されていた)

映画『野いちご』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

ベルイマン生誕100年映画祭

 ベルイマン生誕100年映画祭というのが千葉県柏市のキネマ旬報シアターで開かれている。1ヶ月の期間中4本の作品が上映されるようで、そのトップが『野いちご』だった。
 イングマール・ベルイマンは、スウェーデンの世界的な映画監督で、主に1950年代から60年代にかけて、『第七の封印』や『処女の泉』『沈黙』『仮面/ペルソナ』などと次々と名作、問題作を発表して世界的に注目された。
 ベルイマンの映画は難解なことで知られるが、私自身、学生時代好んで観ていた。ただ、今にしてみれば、どこまでわかっていたものか、そのことを確認する上でもこのたびの鑑賞は楽しみだった。
 『野いちご』は、1957年の製作(日本公開は1962年)で、ベルイマンの代表作である。神の存在を問うた『第七の封印』などに比べてやや世俗的な印象が残っていたが果たしてどうだったか。
 永年にわたる医学の功績で名誉博士号を受けることになった老教授イーサク・ボルイ。表彰式の行われるルンドへは、長男の嫁が運転する車で向かった。
 実は、前夜に見た夢は、まるで死後の世界のような無人で音のない街路。通りの時計の針は落ちていて時は止まったままだった。
 出だしからして不気味である。このことは何を暗示しているのか。自身の死に対するおののきだったのか。
 道中、様々な人々と出会う。まるで己の来し方を振り返っているようだ。育った屋敷を訪ねては、弟に婚約者を奪われたことや。妻の不貞などを思い出し煩悶とするが、変わらないのは庭の野いちごだった。
 途中から乗ってきたヒッチハイカーの若い男女3人。イーサクに感謝の言葉を述べるガソリンスタンドの夫婦、老いた母などと出会っていく。運転している嫁からは、私たちに子供のできないのはあなたの息子である夫が家庭というものに絶望しているからだと告げられ空虚さが募っていく。
 映画はとても暗喩の多いものとなっていた。それも過去と現在が巧妙に往来するから注意深く観ていないとこの映画の面白さから離れていく。
 イーサクを演じた主演のヴィクトル・シェストレムが断然良かった。彼の存在なくしてこの映画の成功はなかったであろうと思わせられた。ただ、劇中でイーサクは78歳とあったが、現代の78歳に比べては随分と老けていた。
 結局、この映画は死とか家族とか人間の普遍的なことをテーマにしていて、それが老いの悲しみによって深刻になっていくのだが、ラストシーンで、二つの心温まるエピソードが挟まれていたことによって救われていた。
 ただ、私はこの映画を50数年ぶりに観たのだが、私にはもはや映画全般に難解さは薄くなっていて、このことがかえってベルイマンらしくもないように思えたし、私自身も歳をとったのだと思うと複雑な印象だった。 

 なお、『ベルイマン自伝』(1989年新潮社)では、配偶者を5度も取り替えるなど奔放な人生を赤裸々に振り返っていたが、改めて『野いちご』を観ると、ベルイマンの映画作品にはベルイマンのこうした人生観が内省的に込められているように思われた。ちなみに、『ベルイマン自伝』は自伝として希有なものとの印象が残っている。

 

韓国映画『タクシー運転手』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

光州事件を描く

 2017年の韓国映画である。監督チャン・フン。
 日本で光州事件として知られる、1980年のいわゆる韓国の「5.18民主化運動」が正面から取り上げられている。
 パク・チョンヒ(朴正熙)大統領が暗殺されるやチョン・ドゥファン(全斗煥)率いる軍部がクーデターによって政権を掌握、戒厳令を敷いた。
 映画は、戒厳令に反対し民主化を求める学生デモで渋滞するソウルの街路から始まる。
 このさなか、ドイツ人記者ピーターはタクシーで光州へ向かう。タクシーは高額の報酬につられた個人営業のキム・マンソブ。民主化運動が激化していると伝えられている光州の取材が目的だった。なお、光州は朝鮮半島の南西部、全羅南道に位置する中心都市。
 光州が近づくと幹線道路ばかりか田舎道をも封鎖されている。厳しい検問を機転でかいくぐりタクシーは光州に入る。
 そこで目にしたものは、次第にエスカレートするデモと弾圧を強める軍部との激しい衝突で、デモには学生のみならず市民も加わって市街中心の大通りを埋め尽くす規模に発展していた。また、軍部の弾圧も激しさを増し、市民に向けて発砲する無差別な殺戮へと展開していた。
 街頭でカメラを回す記者の取材は軍部の目の付けるところとなり、命さえ狙われるようになっていった。
 初め、報酬のことしか頭になかった運転手も、次第に軍部の非道な仕打ちに憤り、この実態を全世界に発信していくよう記者に協力する姿勢に転じていった。
 しかし、光州を脱出することは至難なこととなっていくが、タクシー仲間らの協力によってソウルへと戻ることとなった。
 初めユーモア混じりだった映画は光州に入って一挙に緊迫の度を高めていった。光州市内は市民らが掌握して秩序が保たれ、ある種のコミューンのような様相だったのだが、暴動の拡大を恐れた軍部の弾圧は次第に激しくなり、市街はまるで戦場のごとき有様だった。
 暴挙を世界に向けた発信しようとする記者でさえ、周りの市民が次々と凶弾に倒れていくと無力感に襲われていた。
 この映画は実話を元に構成されているようだが、まるでドキュメンタリー映画を観るような迫力で凄まじいものだった。市民を標的にする武力の行使には震撼とさせられた。
 暴動の拡大を恐れた軍部によって光州は完全に封鎖されていた。道路の封鎖ばかりか、新聞を検閲し、テレビを統制していた。新聞は小さな記事をのぞいてほぼ真っ白な紙面だったし、テレビから流れてくるニュースは実態とかけ離れたものだった。また、軍部が最も恐れたことは、光州の状況が光州市外へ拡散することだった。ソウルで行われていたデモは、学生たちが行っていた整然としたもので、これで光州の騒乱を想像することは不可能だった。
 この映画の副題は、「約束は海を越えて」というもの。光州の市民たちがこの実態を何とか世界に発信して欲しいと記者に託したことだったのだ。記者を乗せたタクシーが光州を脱出できるよう市民が命をかけてまで協力していくのだった。
 終わり近く、封鎖を突破したタクシーを軍部の車両が追いかける場面では、タクシー仲間が協力して追撃を阻止したのだった。
 脱出したドイツ人記者は東京に戻り、ニュース映像を発信して光州事件は世界の知られるところとなった。
 これほど緊迫感の高い映画は稀なこと。凄まじまでの演出だ。活劇ではないからかえってリアリティが迫ってくる。
 光州事件は韓国ではこれまでその全容が知られるところではなかったらしい。その韓国でこのような映画が作られたことの背景と意味は大きいのではないか。
 2017年夏の公開から韓国では実に1200万人の観客動員を記録したという。それは、この映画が史実に基づいた内容であったということと同時に、人の温かみを感じさせる面白い映画だったということに他ならない。
 韓国での公開と同時にドイツやアメリカでも公開され評判になったという。また、香港や台湾でもいち早く公開されたが、中国ではこの映画の公開は禁じられているという。それは天安門事件を彷彿とさせるからであろう。
 日本での公開は、今年2018年4月。韓国での公開から8ヶ月も経っている。これほど面白い映画を配給会社は見逃していたのだろうか。まさかそれ以外の意図はないだろうが。何かを忖度したということでなければ良いが。
 私はこのたび、この映画を、日頃から名画を選りすぐって上映している飯田橋ギンレイホールで観た。平日だったのだが、200席のホールが満員だった。
   

戸田泰生画「往来」

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(写真1 自身の作品「往来」と並んで戸田泰生さん)

遊び心も加わって

 上野の東京都美術館で開催された絵画の公募展第48回純展に出品されていた。100号の大作である。
 戸田さんとは仕事上の関わりがあってもう40数年来も昵懇にさせていただいている旧知の仲。駆け出しのころからで、今に至るも可愛がってもらっている。
 戸田さんは退職した70歳から絵筆を持ち始めたのだそうで、現在82歳。藝大受験生も通う教室で基礎から学んだという。そういうこともあってもう素人の域を完全に出ている。
 この純展への出品作品だけを振り返ってみても、一昨年第46回の「街の幻影」、昨年第47回の「街、実、虚」と続き、今回も「往来」へと同じ系譜に繋がるもののようだ。
 「街の幻影」では、ストーリーや時間の動きまでも感じられる作品となっていて、文部科学大臣賞や東京都知事賞よりも上位にランクされる純展の最高賞受賞となっていたし、「街、実、虚」では、さらに奥行きの感じられる作品となっていた。
 そして今年の「往来」では、同じ系譜にありながら、さらに大きな構想力の感じられる作品に仕上がっていた。様々な視点から見た大都会の街角が躍動的だったし、8人の若い女性が横断歩道を渡っている場面などは、右から渡る4人と、左から渡ってきた4人が何とある種のシンメトリーになっていて、凝った面白さや遊び心までもうかがわせるものとなっていた。
 完成度の高さから見てももはや一流の仲間入りをした作品と言えるのではないかと思われた。

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(写真2 戸田泰生「往来」)