ABABA’s ノート

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映画『野いちご』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

ベルイマン生誕100年映画祭

 ベルイマン生誕100年映画祭というのが千葉県柏市のキネマ旬報シアターで開かれている。1ヶ月の期間中4本の作品が上映されるようで、そのトップが『野いちご』だった。
 イングマール・ベルイマンは、スウェーデンの世界的な映画監督で、主に1950年代から60年代にかけて、『第七の封印』や『処女の泉』『沈黙』『仮面/ペルソナ』などと次々と名作、問題作を発表して世界的に注目された。
 ベルイマンの映画は難解なことで知られるが、私自身、学生時代好んで観ていた。ただ、今にしてみれば、どこまでわかっていたものか、そのことを確認する上でもこのたびの鑑賞は楽しみだった。
 『野いちご』は、1957年の製作(日本公開は1962年)で、ベルイマンの代表作である。神の存在を問うた『第七の封印』などに比べてやや世俗的な印象が残っていたが果たしてどうだったか。
 永年にわたる医学の功績で名誉博士号を受けることになった老教授イーサク・ボルイ。表彰式の行われるルンドへは、長男の嫁が運転する車で向かった。
 実は、前夜に見た夢は、まるで死後の世界のような無人で音のない街路。通りの時計の針は落ちていて時は止まったままだった。
 出だしからして不気味である。このことは何を暗示しているのか。自身の死に対するおののきだったのか。
 道中、様々な人々と出会う。まるで己の来し方を振り返っているようだ。育った屋敷を訪ねては、弟に婚約者を奪われたことや。妻の不貞などを思い出し煩悶とするが、変わらないのは庭の野いちごだった。
 途中から乗ってきたヒッチハイカーの若い男女3人。イーサクに感謝の言葉を述べるガソリンスタンドの夫婦、老いた母などと出会っていく。運転している嫁からは、私たちに子供のできないのはあなたの息子である夫が家庭というものに絶望しているからだと告げられ空虚さが募っていく。
 映画はとても暗喩の多いものとなっていた。それも過去と現在が巧妙に往来するから注意深く観ていないとこの映画の面白さから離れていく。
 イーサクを演じた主演のヴィクトル・シェストレムが断然良かった。彼の存在なくしてこの映画の成功はなかったであろうと思わせられた。ただ、劇中でイーサクは78歳とあったが、現代の78歳に比べては随分と老けていた。
 結局、この映画は死とか家族とか人間の普遍的なことをテーマにしていて、それが老いの悲しみによって深刻になっていくのだが、ラストシーンで、二つの心温まるエピソードが挟まれていたことによって救われていた。
 ただ、私はこの映画を50数年ぶりに観たのだが、私にはもはや映画全般に難解さは薄くなっていて、このことがかえってベルイマンらしくもないように思えたし、私自身も歳をとったのだと思うと複雑な印象だった。 

 なお、『ベルイマン自伝』(1989年新潮社)では、配偶者を5度も取り替えるなど奔放な人生を赤裸々に振り返っていたが、改めて『野いちご』を観ると、ベルイマンの映画作品にはベルイマンのこうした人生観が内省的に込められているように思われた。ちなみに、『ベルイマン自伝』は自伝として希有なものとの印象が残っている。