ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

R・D・ウィングフィールド『フロスト始末』

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愛すべきフロストはどこへ?
 ロンドンから70マイル、イギリス北西部の地方都市デントン署のフロスト警部を主人公とする人気シリーズ。相変わらず次から次へと難事件が持ち上がりフロストが右往左往する抱腹絶倒の物語である。
 常連のデントン署の面々が個性豊か。署長のマレット警視。自己保身に長けた官僚タイプ。ここにスキナー主任警部が転勤してくる。出世欲が強く、手柄は横取り、責任は押しつける。二人は共同戦線を張って気にくわないフロストをデントン署から追い出すことを画策する。
 ほかに署員の〝芋にいちゃん〟モーガン刑事、受付に陣取る内勤のウエルズ巡査部長らの面々。新たに婦人警官のケイト・ホールビー刑事が加わっている。
 デントン・ウッドの森で切断された足が発見された。立体駐車場で15歳の少女が強姦された。2歳の男の子が行方不明になる。<スーパーセイヴズ>から商品に毒を仕込んだという脅迫の手紙が届いたとの通報が入った。
 フロストは、土砂降りの深夜デントン・ウッドの森に行き、デントン総合病院で少女の事情聴取を行い、男の子の母親からいきさつを聴き、スーパに出向く。同時進行的に発生するこうした事件にフロストはいちいち対応する。何しろデントン署は慢性的な人手不足で何もかもがフロストにかぶってくるのだった。
 否応なくではあるが一人で抱え込んでしまって一つの事件に集中できないから、折角ひらめいたことも忘れてしまうし、大ポカも多くなる。
 よれよれのコートに黄ばんだマフラーと身なりはむさ苦しいし、事務的なことは後回しにして言いつけを守らないからマレットやスキナーの受けは決定的に悪い。しかし、仕事熱心だし、部下思いで責任を押しつけないから部下の受けはいい。
 デントンのことを熟知している。犯罪を憎み犯人を憎むが、被害者には寄り添う。警察の権力を笠には着ないから、娼婦たちにすら親しまれ信頼されている。新米の女性刑事ケイトに対しスキナーはことごとく辛く当たるが、いつでも救うのはフロストだ。
 また、フロストはジョージ十字勲章の受勲者という一面も持つ。ジョージ十字勲章とは人命救助など勇敢な働きをした民間人に与えられるもので、英国において軍人に与えられるヴィクトリア十字勲章に次ぐ最上位の勲章で、受勲者は国民の尊敬を集める。なお、この叙勲によってフロストは警部に昇格したが、フロスト自身は必ずしも望んでいなかったことが本作で明らかになっている。
 私がフロストシリーズを読んだのは本作で長短編合わせ7作目(おそらく日本で翻訳されたのはこれで全部だと思う)だが、本作の特徴はフロストの真情が吐露されていたところだろうか。
 例えば、妻のことについて。多少長くなるが引いてみよう。「(若かった)あのころは互いに相手に夢中だった。なのに、どこかで道を違えてしまったのだ。しまいにはただ刺々しいだけの関係になって、あいつは夫になった男に憎しみを募らせながら死んでいった。どこでつまずいたのか、どうしてそんなことになってしまったのか、考えたところでわかるわけがなかった。詰まるところ、このおれのせいだろう、とフロストは思った。何をさせても、まともにやりこなすことのできない男だから」と自責の念に駆られている。このあたりは作者の心情がフロストにのせてあるのかもしれない。
 ミステリーとして読んだ場合、多くの事件が同時多発するのはフロストならずとも要注意である。事件のつながりを追い切れなくなるからで、フロストもそうだが読んでいる我々も折角張られた伏線を見失ってしまったりしてしまう恐れがある。
 本作はフロストシリーズの最終作だということである。作者のウィングフィールドが死亡したからで、しかも死後の刊行となっており遺作となった。ただ、本作を読んで、今までと勢いが違っていて、どこかセンチメンタルになっていて、がんで亡くなったというからあるいは覚悟があったのかも知れない。
 初めてフロストシリーズが本邦で紹介されてもう20年以上にもなるか。第1作は『クリスマスのフロスト』だった。以後、長編としては『フロスト日和』『夜のフロスト』『フロスト気質』『冬のフロスト』と好んで読んできた。
 上梓されるたびにミステリ投票の上位にランクされるのに、ウィングフィールドは寡作だったようだ。好きなシリーズが作者の死によって途絶えるというのはさびしいものだ。
 ところで、下品で駄洒落連発のフロストだが、うっかり見逃してならないのは、その駄洒落がシェークスピアや歴史上の逸話から引用されていることで、実は教養の深いフロストの側面を豊かにしていることだ。このあたりはいかにもイギリスの小説という様子でとても好ましいものだった。最後だがこのことは指摘しておこう。
芹沢恵訳。
(創元推理文庫上・下)

青森県立美術館

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(写真1 三内丸山遺跡に隣接してある青森県立美術館外観)
「あおもり犬」がいい
 このたびの津軽海峡旅行では旅の最後に青森県立美術館に立ち寄った。時間に余裕があるようであれば、街をぶらぶら散策するのも楽しみだが、正味1時間程度しか時間がないようであれば、美術館を訪れることも少なくない。幸い、日本の県立美術館はコレクションが充実しているところが多く、美術館ではここでしか見られないものがある。
 美術館へは青森駅前からバスが出ている。6番乗り場市営バス三内丸山遺跡行きで約20分。実は青森県立美術館は三内丸山遺跡と隣接しているのである。また、新青森駅と結ぶバス便もある。
 美術館は堂々たる建物。この頃ではどこの県美も立派な建物が多くて、さすがは美術館、すでに建物も作品の一つという位置づけなのだということが認識できるし、建築物として美術館を見るのも楽しみの一つではある。

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(写真2 屋根のない空間に佇む「あおもり犬」。美術館のシンボル的存在だ)
 ここの美術館の特徴の一つは地元出身者の作品を多く扱っていること。棟方志功については当然だが、充実しているのは奈良美智の作品。弘前出身のこの美術家の人気は高くて、多彩な活動が様々な作品で紹介されているが、最大の人気は「あおもり犬」だろう。高さが8.5メートルもある巨大なオブジェで、半屋外という空間に鎮座している。どのように受け止めるかは見る人によって違うだろうが、癒しや包容力を感じる向きもあるだろうし、思索的と受け止める人もあるだろうが、いずれにしてもこの美術館のシンボル的存在だ。
 もう一つこの美術館の目玉はシャガールの巨大な絵画だ。壁画にも思われるが、そもそもは舞台の背景画だということ。4幕あるが、綿布にテンペラで描いたもので、1幕が約9メートル☓15メートルほどもある。これが一つの展示室に収まっているから壮観だ。
 一目でシャガールだとわかるが、バレー「アレコ」の背景画なそうで、プーシキンの詩を原作とし、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲を原曲としているものだという。4幕の内、3幕をここ青森県美が収蔵しており、残る1幕はフィラデルフィア美術館から長期借用しているとのことで、4幕を揃って見ることができるのは絶好の機会なようだ。
 実は、この美術館を訪ねるのは3度目で、常設展だから展示替えがあるのでやむをえないが、今回は寺山修司や村上善男の作品がないのが残念だった。

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(写真3 バレー「アレコ」の背景画第1幕マルク・シャガール「月光のアレコとゼンフィラ」=美術館で販売されていた絵はがきから引用)
 

三度目の十和田市現代美術館

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(写真1 十和田市現代美術館外観)
スタンディング・ウーマンに会いに行く
 津軽海峡に向かう途中、東北新幹線を七戸十和田駅で下車し、十和田市現代美術館を訪ねた。
 この駅で降り立ったのがこれが初めてで、新幹線らしくまだ新しい立派な駅舎だった。駅前も再開発が進められているようで、あまりに変貌してしまって記憶も定かではないが、ひょっとするとこのあたりは今は廃線となってしまったがかつての南部縦貫鉄道七戸駅の跡地周辺ではないかと思われた。南部縦貫は野辺地駅と七戸駅を結ぶまことに小さなローカル私鉄だった。
 七戸十和田駅からはバスで十和田市を目指した。新幹線ダイヤに連動しているらしく乗り継ぎも良く十和田観光電鉄のバスが発車した。
 バスは、広大な三本木原台地を走っている。つまり、南下しているわけだが、三本木原は開拓農地で、大規模な農場が点在することで知られている。新渡戸稲造の指導があったのではなかったか。
 約30分で十和田市の中心に入り、運転士の案内通り官庁街という停留所で下車した。松の並木が続く実に美しい街路で、その名の通り市役所などが並んでいるのだが、これほど美しい通りは全国でも滅多に見られないのではないかと思われた。
 十和田市現代美術館はこの街路の中心あたりに位置していて、白を基調にした独特の外観を持つ建物はあくまでもモダンなのだが、美しい街路にマッチして佇んでいて、街路を含めてすでにモダンアートという雰囲気だった。
 十和田市現代美術館は2008年4月の開館。ちょっと乱暴な説明になるが、あらかじめ恒久的な展示品があって、その展示品を入れる展示室を一つごとにつくっていったという様子で、いくつもの箱がガラスの通路で結ばれていると言える。一見バラバラに見えるこの構成が妙で、大きな建物を一つどかんとつくるということではないので、街路に余計な押しつけがましさがない。それよりも一つひとつの展示室が街路に開け放たれているようだ。西沢立衛の設計で、妹島和世と組んで設計した金沢21世紀美術館にコンセプトが似ているようだった。

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(写真2 ロン・ミュエク「スタンディング・ウーマン」=美術館で販売されていた絵はがきから引用)
 展示品は魅力的なものが多いのだが、私の目当てはいつでも「スタンディング・ウーマン」。オーストラリアの彫刻家ロン・ミュエクの作品で、高さ4メートルもの巨大な女性像である。これが入館して最初の展示室で迎えてくれるものだから、圧倒されてぎょっとする。そしてやがて体の芯がふるえるような感動が襲っている。とにかく肌や血管、髪の毛に至るまでリアルで、自然な佇まいにほほえましくなる。面白いのは、この女性像は観客を上から見下ろしているわけだが、周囲をぐるり回っても、どこまでも目が追いかけてくることで不思議だ。
 私がこの美術館を初めて訪れたのは開館した年の真冬だった。その時には三沢駅から今は廃線になってしまった十和田観光電鉄で十和田市駅に降り立っていた。乗ったタクシーの運転手が言うには、「こんな田舎に現代美術館なんて誰が見るのだと批判もあった」としながら、その開館するや大変な人気ぶりで市民が一番驚いていると語っていたものだった。
 その後再訪していてこのたびが三度目。開館から9年が経って、美術館はすっかり街になくてはならない存在となっているようだった。
 それよりも、驚いたしうれしかったことは、この日は土曜日だったのだが、美術館を訪れた人たちが、街路を行ったり来たりしながら楽しんでいることだった。美術館の通りを挟んだ反対側には草間弥生の作品など屋外展示もあって、何か街路全体がアートシーンとなっているようだった。これぞまさしく美術館開設のコンセプトそのものと感じられもしたのだった。
 なお、蛇足かもしれないが、「スタンディング・ウーマン」が着ていたワンピースが、やや色褪せてきていて9年の歳月を感じさせた。
横尾忠則十和田ロマン展
 一方、この日は美術館では企画展として「横尾忠則十和田ロマン展」が開催されていた。今回はこの企画展が見たくて十和田を訪れたようなことでもあるが、とにかく、横尾のほとばしるような才能が多彩な作品で展開されていて楽しめた。
 横尾忠則と十和田市現代美術館とのコラボレーションで成立したような企画展で、特にミステリアスな絵画が多かった。
 一つには、横尾の最新シリーズとなっている女性の顔の上にトイレットペーパー(「トイレットペーパーと女」)やキャベツ(「キャベツの女」)をのせた作品群があり、とても深遠なものだった。
 また、私は横尾の作品群の中ではY字路をモチーフにしたものが好きなのだが、この系譜に入る「青〇の魔人」や「TOWADA ROMAN」が面白かった。

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(写真3 横尾忠則十和田ロマン展の模様。手前左の絵が「トイレットペーパーと女」)

福島県立美術館を訪ねて

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(写真1 福島県立美術館図書館全景。左が美術館)
ワイエスの傑作と出会う
 飯坂温泉への帰途福島県立美術館へ立ち寄った。美術館は、福島交通で福島駅から二つ目、美術館図書館前駅が最寄り駅で、駅からは徒歩数分のところ、住宅街の中にあった。
 二つの施設が大きな翼を広げたように並んでいる。独立した建物が中央通路で連結されているという様相だ。それにしても、美術館と博物館といった組み合わせはほかにもあるが、図書館というのは珍しいのではないか。

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(写真2 美術館の内部)
 美術館では常設展だけを見た。ここのコレクションは日本画、洋画、抽象絵画から西洋絵画などと幅広いのが特徴だ。
 順に見ていったが、注目したのは佐藤朝山(玄々)の彫刻。大正から昭和に活躍した地元出身の作家のようで、彩色された木彫に特徴があった。「春」という作品に独創性が感じられたが、「釈迦如来像」には慈しみも感じられた。現代の彫刻家による仏像ということで、単なる彫刻作品というものを越えて有り難みが伝わってくるようだった。
 日本画に大観があり深水があり、洋画にも安井曾太郎、岸田劉生、関根正二、小出楢重、須田国太郎などとあって、言わば日本の近代絵画の一覧性があって充実していた。ただ、楽しみにしていた松本竣介の作品は今回はなかった。
 中には現代美術を代表する李禹煥に「遺跡地にて」と題するリトグラフがあった。直島の李禹煥美術館では大型のオブジェが目立っていたから、李にリトグラフのような作品があることが新鮮だった。
 この美術館は二度目だが、今回も楽しみしていたのはアンドリュー・ワイエスの作品と出会えること。特に今年はワイエスの生誕100年だが、ここ福島県美には肖像画の傑作「ガニング・ロックス」があるのである。ワイエスといえばニューヨーク近代美術館にある「クリスティーナの世界」が有名だが、私にはこの「ガニング・ロックス」こそがワイエスの代表作のように思える。しかも、ワイエスの作品の大半がそうであるようにこれも水彩なのである。リアリズムを追求した画家だが、この肖像の厳しさは何だろうか。
 地方の美術館をわざわざ訪ねるのはこういう傑作と出会えるという楽しみがあるからでもあるだろう。

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(写真3 アンドリュー・ワイエス「ガニング・ロックス」=美術館で販売されていた絵はがきから引用)

福島交通と飯坂温泉

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(写真1 右が福島交通飯坂線ホームで、左は阿武隈急行のホーム)
奥座敷に向かう小さなローカル私鉄
 このたびの津軽海峡旅行では、途中、福島で下車し、福島交通で飯坂温泉を訪ねた。
 福島交通は、福島市にある小さなローカル私鉄で、飯坂電車とも呼ばれ、飯坂線は福島駅と飯坂温泉駅を結んでいる。全線9.2キロ、駅数は12である。
 福島交通の福島駅は、JR福島駅1番線の外側に設けられた行き止まり1面2線のホーム。ただし、第三セクターの阿武隈急行と共用で、改札口から見て右のホームを福島交通が使用している。なお、JRから乗り換えるなら1番線からそのまま直接連絡しているが、外から乗り込むなら駅ビルの脇に福島交通と阿武隈急行の改札がある。
 9月2日9時12分福島駅発車。2両の電車で、朝夕の通勤時間帯には3両の編成もあるらしい。車両は7000系で、これは東急から譲渡されたもののようだ。なお、近年、1000系の新型車両も投入されているらしいが、往復したものの乗る機会はなかった。若い男性の車掌が乗務していた。
 福島を出てすぐに新幹線の高架をくぐった。4つ目の泉駅で列車交換が行われた。単線なのである。駅間距離が短くて頻繁に停車する。
 地図で見ると、路線は福島市の北方へと伸びていて、福島交通はもともと飯坂温泉への足として利用されてきたのだろうが、車窓を見る限り近年沿線は福島都市圏の住宅地として開けてきている様子だ。土曜日の下りだから列車は空いている。沿線には桃やブドウの樹林が目立った。
 ちょうど路線の中間あたりか、桜水駅には車庫があり、車掌が交代した。再び若い男性だった。医王寺駅で列車交換が行われ、そうこうして9時35分、終点飯坂温泉駅に到着した。わずか23分の乗車時間である。

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(写真2 福島交通の終着駅飯坂温泉駅)
 飯坂温泉駅は、島式1面2線の行き止まりのホームがあるが、急な斜面につくられているせいか、1階のホームから2階に登ると出口で、そこが道路だった。
 駅前がすぐに温泉街となっている。まことに便利が良く、福島の奥座敷と呼ばれる所以である。
  駅の脇に摺上川という川が流れていて、十網橋という橋が架かっている。そのたもとに芭蕉の像があった。川の両岸沿いに温泉街は開けているようだ。東北でも有数の温泉地として栄えてきたが、現在でも60軒の旅館が営業しているというから立派なものだ。
 まだ朝のうちだったのだが、折角の温泉地でもあり、ひとっ風呂浴びに温泉街に足を踏み込んでみた。
 10軒の共同浴場があるようだが、駅からすぐのところに波来湯(はこゆ)という共同浴場があった。開湯1200年という歴史あるものだが、浴場そのものは近年新しく建て替えられたもののようでもなかなか風情ある建物だった。
 清潔な浴場で、源泉は48.8度とあり、さほどの高温でもないが、湯船は二つあり、熱湯が45度の源泉掛け流し、温湯は42度とあったから、熱い湯が好きな私としては迷うことなく熱湯に浸かった。私は温泉好きだから入ってみると湯温が何度かほぼ当たるのだが、この湯船は少々45度には届かなくて、せいぜい43度から44度程度と思われた。それでも気持ちよくてゆったり漬かった。なお、先客が4人いたのだが、誰も熱湯に入っている人はいなかった。泉質はアルカリ性単純温泉だった。

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(写真3 摺上川十網橋上から見た温泉街。正面が共同浴場波来湯)

映画『静かなる情熱』

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(写真1 映画館に掲示してあった看板から引用)
エミリ・ディキンスンの生涯
 アメリカの詩人エミリ・ディキンスンの生涯が描かれている。
 マサチューセッツ州のアマストが舞台。南北戦争のころだから19世紀なかば。ラヴィニアが膨大な詩篇を発見する。姉のエミリが生前書き綴っていたもので、きれいに清書はされていたものの発表されることはなかった。
 ディキンスンの家族は、父親、兄、エミリそれに妹のラヴィニア(エミリはヴィニーと呼んでいた)。一家は上流階級で伝統的なピューリタンである。
 快活な少女だったが、成長とともに自我が強くなり、特に厳格なピューリタニズムへの反発があって学校を退学し、教会にすら行かないようになっていく。
 大事なエピソードが一つ挿入されていた。牧師の説教の間起立したままだったから、父親からひざまずきなさいと注意されるのだが反発して従わなかった。父親のことは尊敬していたのだったが。
 その父親が亡くなって、エミリは白い服装で通すようになる。ヴィニーが喪に服するなら黒い服でしょうというが耳をかさなかった。次第に外出することがなくなり、終いには一歩も外に出ず家の中で過ごすようになっていった。
 楽しみは詩作である。初めのころは発表することもあったが、それも数編だけで、その後はただただ書き綴るだけである。エミリは「ただ、死ぬ前に評価して欲しい」とは言っていたが。
 映画はとても美しい。特に後半は家の中ばかりの場面が多いのだがそれでも美しさは損なわれない。
 それはなぜなのだろうかと不思議に思うと、ふとそれは劇中で朗じられる詩のせいだと気づく。エミリ自身が自作の詩を吟じているのだが、これがとても映画を豊かにしている。およそ20編ほども朗じられたのだろうか。詩は詩集で読んでもいいが、朗読されてもいいものだった。また、字幕もあったし。
 私には英語の詩をすらすらと理解する能力はないが、どうやら自然や愛、死といったモチーフが多いようだった。
 一つ、耳にというか目にというか残ったのは、私は誰でもない あなたは誰?というフレーズだった。
 何しろ、私には日本語字幕が、あたかも役者が話したように聞き取ることが出来る。つまり、目で読んでいるのではなく、耳で聞いているのである。これはたくさんの外国映画を観てきたせいかもしれない。
 出演者がよかった。特にエミリを演じたシンシア・ニクソンが素晴らしかった。あんなにも詩を美しく朗読できるということを初めて知った。感動だった。また、妹のヴィニーがエミリにとって最大の理解者なのだが、そのヴィニーを演じたジェニファー・イーリーなくしてこの映画は盛り上がらなかったのではないかとさえ思われた。監督はテレンス・デイヴィス。
 ところで、これより先、詩作好きの消防士を描いた『パターソン』という最近観た映画で、やはり詩作好きの少女がディキンスンを尊敬していると語る場面があって、そうか、ディキンスンというのはアメリカでは少女の尊敬すら集める存在なのだと気がつかされていたのだった。
 実は、私はかつてディキンスンの詩集をパラパラとめくったことがあって、『パターソン』を観て改めて書棚から岩波文庫の『ディキンソン詩集』を引っ張り出してきていた。奥付を見ると、1998年11月15日第1刷発行とあり、挟まれていたレシートによると、刊行されて間もなく12月14日に書泉ブックタワーで購入したもののようだ。わたしにはこういうふうにレシートを本に挟んでおく習慣がある。
 亀井俊介編訳で、50編が収録されている。英和対訳になっているから読みやすい。これで思い出したが、ディキンスンの詩は大半が短篇で、やたらダッシュというか音引きというかが多い。
 映画にも登場した詩を断片になるが幾つか引いてみよう。字幕の訳ではなく亀井訳で。なお、字幕の訳にはダッシュがなかったのではなかったかな。
 わたしは誰でもない人! あなたは誰? 
    あなたもーまたー誰でもない人?
 それならわたし達お似合いね?
 だまってて! ばれちゃうわーいいこと?(以下略)


 これは世界にあてたわたしの手紙です
 わたしに一度も手紙をくれたことのない世界へのー
 やさしい威厳をもって
 自然が語った簡素な便りですー(以下略)

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(<参考>岩波文庫『ディキンソン詩集』)

龍飛崎 鋭く津軽海峡に突き出る

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(写真1 龍飛崎の突端から津軽海峡を望む)
演歌の似合う岬と灯台
 このたびの津軽海峡旅行では、本州側では下北半島大間崎に続いて津軽半島龍飛崎を目指した。この間に、北海道側では函館湾をにらむ葛登支岬灯台を訪ねていたから、津軽海峡を挟んで本州、北海道の有力岬を一挙に踏破したことになる。
 しかも、龍飛崎には、本州を北上してきたのではなく、北海道から津軽海峡を越えて訪ねていて、なかなかユニークなルートを開拓したのだった。
 9月4日。JR北海道の北海道新幹線を奥津軽いまべつ駅で下車、隣接する津軽二股駅からJR東日本の津軽線に乗り換えた。接続駅ではあるが、この二つの駅を乗り継ぐ者は滅多にいないのではないかと思われる。離れ業みたいなもので、面白い旅程ではある。
 津軽二股12時09分の発車。2両のディーゼル。ワンマン運転。津軽二股を出てすぐに新幹線の高架をくぐった。津軽浜名で右窓に津軽海峡が現れ、三厩12時24分到着。津軽線の終着駅である。島式1面2線のホームがあり、10人ほどがばらばらっと降り立ったが、いかにも行き止まりの終着駅の風情がある。
 駅前では、龍飛埼灯台行きの外ヶ浜町営バスが発車を待っていて、降り立った乗客の半数ほどが乗り込んだ。料金はわずか100円。本来は町民のための足なのだろうが、観光客にも開放していて大変ありがたい。このバスがあって龍飛崎はぐっと近くなった。同じように地元自治体が運行しているのは男鹿半島の入道崎もそうだった。
 12時34分の発車で、バスは海沿いに走り、いったん岬の麓にある竜飛漁港まで行った後、少々戻って龍飛埼灯台へと岬を登っていく。約30分で目的地。
 停留所は灯台下というのが似つかわしいようなくびれた場所にあって、バス停から5分ほど階段を登ることになる。
 岬のてっぺんに立つと、津軽海峡が眼下に大きく広がっている。この日は晴れていてとても見晴らしがいい。
 龍飛崎は津軽半島の北端にあり、対岸は北海道の白神岬である。左に目を移すと、小島がおぼろげに見える。さらに目をこらすとそのやや右後方にもう一つ島影が見えるがこれは大島。大島が見えることは滅多にないことで、これは好条件が重なった。
 右に目を向けると、下北半島が大きく見える。いわゆる鉞の刃の部分である。また、右前方遠くには函館山が見えた。この山は形に特徴があるのでわかった。
 この日は風が弱い。風の強いのが龍飛崎の名物みたいなものだから、これはこれで張り合いがない。それこそ風の強い日など、這うようにして歩かなければ飛ばされそうなこともあった。
 龍飛崎は100メートルもの断崖になっているから、足下の潮騒が聞こえてこない。海上ではしきりに船舶が往来している。小さな漁船も多い。
 岬の突端には、レーダーの施設がある。どういう仕組みなっているかはわからないが、津軽海峡の往来を監視しているのだろう。防衛省の施設で、岬の突端といえば海上保安庁が設置する灯台が一般的だからこれは珍しい。津軽海峡の防衛上の位置がわかる。

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(写真2 津軽海峡の入口を照らす龍飛埼灯台。背景は日本海である)
 その灯台だが、龍飛埼灯台は防衛施設の位置からはやや斜め後方に下がったあたりにある。灯台のレンズが向けている方向を見ると、どうやらこの灯台はまっすぐ白神岬に向いているのではなく、津軽海峡の出入り口と日本海をぎりぎり両睨みしているように思われた。
 灯台はややずんぐりしている。これは風に負けないようにというよりも、平均海面から灯火までの距離である灯火標高が119メートルもあるからで、灯高は13.72メートルである。第三等フレネルレンズなそうで、実効光度が47万カンデラ、光達距離は23.5海里(約44キロ)というから大型だ。初点は1932年。なお、座標は北緯41度15分30秒、東経140度20分33秒である。
 龍飛崎は大きな岬で、岬の突端近くにいるとわかりにくいが、後方に下がって岬全体を眺めると、大きな岬が鋭く津軽海峡に突き出ていることがわかる。同じように津軽海峡に面しながらおとなしい下北半島大間崎とはまったく風景が違う。
 いかにも岬らしい情緒のあるところで、この劈頭に立つのはこれで6回目。初めが1989年6月17日で28年前だった。その後も季節の折々に訪ねていて、真冬に訪れたときなど、あまりに風が強くて吹き飛ばされそうだったし、ものすごく寒いのだが、これほど風が強いと雪も積もれないのだということを知った。この環境は襟裳岬に似ているか。
 前回訪れたのは2015年7月3日。わずか2年前のことだが、何度でも訪れたくなる魅力のある岬だ。唐突だが、何かしら演歌の似合う岬だなという印象があった。
  帰途は、階段国道339号線を使って岬の麓に下りた。階段国道は龍飛崎の言わば名所みたいなもので、その名の通り階段がれっきとした国道になっているのである。
 国道339号線そのものは弘前から五所川原、小泊を経て外ヶ浜町に至る一般国道だが、龍飛崎付近では階段とそれに続く歩道が国道になっているのである。もとより車両の通行のできない国道は全国でもここだけのことで、龍飛崎付近は断崖絶壁で回り込む道をつくることが出来なかったのだろう。太宰も『津軽』で竜飛は道が果て、ドボンと海に落ちるだけだと書いている。
 なぜ、階段が国道になったのか。役人が現地も見ずに地図だけで国道と指定したからとの説が有力なそうである。
 段数で362段、標高差約70メートルの急な階段を下り着くと、そこは竜飛漁港で、わずかだが集落があった。

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(写真3 国道339号線。階段だがれっきとした国道でいわゆる階段国道である)