ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

奥津軽いまべつ駅と津軽二股駅

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(写真1 通路から見下ろしたJR北海道北海道新幹線とJR東日本津軽線=左端)
JR北海道駅と東日本駅が隣接
 北海道の木古内から津軽半島の龍飛崎へ海峡を越えて向かうにはどのようなルートがあるか。
 ここには函館-大間のようなフェリーはないから青函トンネルで抜けていくことになるが、実際に一つのルートに乗ってみた。
 まずは木古内駅を9時44分に出る北海道新幹線はやぶさ16号に乗車。新幹線が通るようになってからは青函トンネルを走る在来線はなくなってしまったので新幹線使用はやむをえない。

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(写真2 JR北海道北海道新幹線奥津軽いまべつ駅)
 青函トンネルを抜けて一つ目の津軽いまべつ駅10時22分到着。乗車30数分の半分ほどは青函トンネルである。すでにトンネルを抜けて青森県に入っているのだが、ここまではJR北海道の駅。
 この駅で降り立ったのは二度目。前回はさしたる用もなかったのに、どういう駅かという興味だけで降り立ったのだが、わずか二ヶ月あまりで再度訪れようとは思いもしなかった。
 ただ、前回は新青森駅から乗ってきて奥津軽いまべつ駅からはバスで津軽中里駅へ向かっていて、津軽線に乗り換えるという離れ業は行っていなかったから、何か片付かない気持ちはあった。
 奥津軽いまべつ駅の改札口は一つ。出ると駅前広場があり、駅舎を背に右手に屋根のかかった大きな駐車場があり、その脇に連絡通路があって、数十メートルほど進むとアスクルという商業施設があり、その裏手が津軽線の津軽二股駅である。ここはれっきとしたJR東日本の駅である。
 つまり、JR北海道の駅とJR東日本の駅が隣接しており乗換駅となっているのである。大変面白いことだが、こういうかたちは全国でもここだけであろう。なお、奥津軽いまべつ駅到着が近づいて車内アナウンスがあったが、津軽線津軽二股駅への乗換駅だという紹介はなかった。ただ、改札口の出口案内には津軽線乗換口とのサインが出ていた。
 さて、その津軽二股駅。商業施設の裏手にホームがあっていかにも地味な存在。片側1線のホームがあるだけで、駅舎がないのはまだしも時刻表もないしベンチすらない。
 それで、商業施設に入ってみたら、ドアを開けるとすぐのところにベンチが1脚あり、時刻表が掲示してあった。つまり、この部分が駅舎ということなのかも知れない。なお、この商業施設には観光案内所もあるし、土産物店もあるし、レストランもある。結構利用している人が多いようだったが、これは列車の利用者ということではなくて、道の駅として車で訪れる人が大半のようだった。
 もっとも、この駅に停車する列車は、下り方面なら7時31分の次が12時09分と4時間半も間があるし、日の運転本数も5本しかない。
 はなはだ不便な運行状況だが、12時09分発三厩行きの下り列車に乗ったのは、何でこんなところから乗ったのか判然としないような男の私のほかにはおばあちゃんが一人だった。そのおばあちゃんは二つ先の今別まで買い物に行くということだった。調べてわかったが、今別着は12時16分で、帰りは12時57分があるから、なるほどまずまず便利はいいわけである。

 私自身はそのまま終点三厩まで乗り、龍飛崎を目指した。

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(写真3 JR東日本津軽線津軽二股駅) 

道南いさりび鉄道

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(写真1 函館駅で発車を待つ木古内行き列車)
旧江差線を死守
 道南いさりび鉄道は、五稜郭駅と木古内駅を結ぶ第三セクター鉄道で、全線37.8キロ、駅数は12。ちなみに英文名はSouth Hokkaido Railwayである。
 かつてJR北海道江差線だったものが、2016年3月北海道新幹線の開業に伴う並行在来線の措置として経営分離され、北海道いさりび鉄道が発足した。また、これより前、江差線のうち木古内-江差間が2014年5月に廃止されている。
 江差線についてはこれまでも何度も乗ってきた。五稜郭-木古内間については特急電車や寝台列車でもたびたび利用していたし、木古内-江差間についても一再にとどまらない。
 しかし、道南いさりび鉄道となってからはこれまで乗っていなくて、同じ線路の上を走るのだし車窓も変わらないわけだが、やはり新しい鉄道会社が運営する路線として乗ってみたかったのである。
 函館駅。いさりび線は線区としては五稜郭-木古内間だが、すべての列車が函館発着である。函館から五稜郭一駅間はJR函館本線となる。
 9月4日、1番線から7時04分発木古内行き。2両のディーゼルカー。函館-木古内間は電化されているのにこれは解せないが、江差線が江差駅まで伸びていた時代は木古内から先の非電化区間も走るためディーゼルカーが使われていたので、この名残なのかもしれない。
 月曜の朝なのに車内は空いている。ボックス席に一人あるいは二人という具合。この様子は、途中で多少乗降が繰り返されたものの大きくは変わらなかった。
 発車してほどなく五稜郭。多くの側線留置線を引き連れ次第に収斂されて到着した。青森駅もそうだが連絡線時代の情緒が感じられて興趣が深い。ただ、現在の函館駅は連絡線時代の名残はまったくない。新しい駅に生まれ変わっているからで、それでも4面8線の頭端式ホームが始発駅であることを静かに主張している。
  五稜郭でいさりび線は左に分岐していく。実は、いさりび線には前日3日にも渡島当別まで乗っていて、その時には五稜郭から乗ったのだった。
 車窓には早くもナナカマドが赤く色づき始めているのが見て取れる。私の経験ではナナカマドは北海道でも函館で最も多く見られるのだった。
 しばらくは函館のベッドタウンという様子。実は、いさりび線のダイヤもそのように組まれていて、函館発の列車は日に19本あるのだが、木古内まで全線を通すのは9本しかなく、残る10本は途中の上磯までの区間運転である。つまり、この区間は函館都市圏ということであろう。

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(写真2 いさりび線の車窓風景。前方は知内方面。並行しているのは国道228号線)
 列車は左窓に函館湾を見ながら走っている。どこまで行っても函館山が見えていて、函館湾の懐の深さがわかった。
 上磯で乗降があった。次の茂辺地では列車の交換が行われた。この茂辺地を出ると次の渡島当別の間は海沿いから離れ岬を横切っている様子がわかった。
 この区間にあるのが葛登支岬で、この葛登支岬灯台を見たくて、前日、渡島当別駅から片道50分も歩いたようなことだった。なかなかきつい道のりだったが、やっと葛登支岬を踏破したという達成感があった。
 渡島当別でたくさん下車した。といっても10人程度だが、ここにはトラピスト修道院があるからその関係者かもしれない。渡島当別はとんがり屋根のなかなか洒落た駅舎で、駅舎には郵便局も同居していた。
 葛登支岬は函館湾の入口に当たるから、その先は津軽海峡ということになる。前方に岬の張り出しているのが見えるが、知内のあたりであろうか。その先は松前半島ということになるのだろう。
 そうこうして木古内8時04分の到着。函館からほぼ1時間。現在のいさりび線の終点である。ただ、その先に線路が伸びている。かつての江差線はここから松前半島を越えて日本海側の江差へ伸びていたのだったが、見えている線路は江差線の跡ではなくて海峡線であろう。旅客営業は行っていないが、貨物列車にとっては今に至るも幹線である。
 また、木古内は北海道新幹線との接続駅で、久しぶりに木古内の駅に下り立ってみたが、まったく新しくなっていた。駅前には道の駅なのか、大きな商業施設があった。いさりび線側にも駅舎はあるが、新幹線側には立派な駅舎があり広場があった。

 なお、細かなことだが、かつて連絡船時代には、五稜郭から木古内に向かう列車は下りだった。函館から道内に向かう列車はすべて下りだったからで、それが海峡トンネルの開通によって、木古内が本州からの道内側の玄関口となり、木古内から五稜郭へと向かう列車が下りとなった。上り下りが逆転したわけである。

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(写真3 新しくなった木古内駅。これはいさりび線側)
 

本州最北端下北半島大間崎

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(写真1 大間崎の沖合600メートルの小島弁天島に建つ大間埼灯台)
本州-北海道最短距離
 田名部にあるむつバスターミナルから下北交通バスで下北半島を北上していくと約1時間30分で目指す大間崎に到着した。9月3日。
 バスを降りると、土産物屋などが並びなかなかにぎやかな観光地となっていた。観光客も多くてとても最果ての地とは思われない。
 地図で見ると、岬は鋭く津軽海峡に突き出ているようだが、実際に訪れてみると、国道が波打ち際を岬に沿ってぐるり回り込んでいて、突端という印象は薄い。ましてや断崖絶壁でもないから岬としての情緒がいささか弱い。さらにこの岬には灯台がないからその印象をさらに強くしている。
 しかし、眼前に広がる津軽海峡は絶景である。右に恵山が見える。亀田半島の東端である。鉄兜を伏せたような形をしているからわかりやすい。大好きな恵山岬がこれほどくっきりと見えることはうれしいこと。
 左に目を移していけば、正面が汐首岬のはず。この岬は岬のそばを回り込んでいる国道を走っていても気がつかないほどのところで、対岸からはとうていきちんとは目視できなかった。
 しかし、ここ下北半島大間崎と亀田半島汐首岬との間が、本州と北海道を結ぶ最短距離の場所。その距離18.7キロで、海峡トンネルが走る津軽半島龍飛崎-松前半島白神岬間の19.5キロよりもわずかだが短い。
 さらにその左が函館山で、これも特徴ある山容だから紛れもない。

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(写真2 きれいに整備された大間崎。マグロ漁のモニュメントがあり、沖合には灯台が見える)
 岬には、「ここ 本州最北端の地」と刻まれた背の高い大きな石碑が建っている。また、その隣には「まぐろ一本釣りの町 おおま」と題する大きなマグロと釣り上げる力強い太い腕のモニュメントがあった。
 灯台は陸地にはなくて、目の前の海上約600メートルほど沖合の弁天島にある。大間埼灯台である。上陸してみたいと思ったが、船を仕立てれば出来るのだろうが、定期便のようなものはなくてあきらめた。岬との間は潮流の速い水道として知られる。
 弁天島は小島で、灯台があるだけの島のようだった。塔形は円筒形で、白地に黒の横縞が入った塗色となっている。離れたところから見ているのでわかりにくかったが、灯高は25.4メートルもあるのだそうで、灯火標高も36メートルということである。ひょろっと見えたのはそういうことなのだろう。
 面白かったのは明弧が全度となっていたことで、小島上の灯台だけに、灯火がぐるっと回るということなのだろう。第4等フレネル式レンズで、灯質が群閃白光毎30秒に3閃光、実効光度12万カンデラ、光達距離17海里(約31キロ)となっている。ということは、対岸からも視認できるのだろうか。初点は1921年11月1日。座標は北緯41度33分07秒、東経140度54分54秒である。
 後背地に目をやると、なだらかな丘になっていて、なるほど灯台を陸地に造らなかったことは、そういうことで適地が見当たらなかったのだろうと思われた。
 この岬を訪れるのは数十年ぶり二度目だが、あの頃はしもた屋風の土産物屋が1軒あるだけのさびしいところで、大間行きのバスの乗客も一人だけ、当然降り立ったのも自分だけだった。
 それが再訪してみると、まるで祭りの縁日のようなにぎやかさで少々面食らったのだった。マグロ人気が大きいらしい。

 同じ下北半島でも、尻屋埼とはまったく違った情緒である。

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(写真3 大間崎に建つ「ここ 本州最北端の地」と刻まれた背の高い大きな石碑)

映画『三度目の殺人』封切り日に観る

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)
一級のサスペンス
 弁護士の重盛は、殺人及び死体損壊事件の被告三隅の弁護を依頼される。三隅は勤めていた食品加工会社の社長を多摩川河川敷に呼び出しスパナで殴打し殺した上、ガソリンをかけて焼いた罪に問われていた。しかも、三隅は30年前にも殺人で無期懲役を宣告され服役していて、死刑判決は免れないものとみられていた。
 拘置所で接見した重盛に対し三隅は犯行そのものは認めていて、重盛としては犯人性は捨てて量刑を争点とする減刑に戦略を即座に立てる。つまり、死刑をせめて無期懲役までもっていこうというわけである。
 しかも、当初は金銭目的の強殺として起訴されていたが、面談の中で三隅は死体を焼く段になって財布を抜き取ったのだと話していて、強盗殺人ではなく、怨恨による殺人との見方が出来ると重盛は判断したのだった。
 この重盛との初めての面談における三隅は、終始穏やかな態度で、表情も柔和なものだった。この冒頭のシーンに私はなぜか違和感があって、犯行は素直に認めているものの、被害者への詫びの言葉もないし、犯した罪への反省の言葉もみられてなくて、ひょっとするとこの映画の骨格を示唆するものではないかと想像された。
 弁護士としての重盛のやり方は、いかに依頼人の利益を引き出すか、そのためには事件は見るものの、人間は見ないというもので、法廷戦術を大事にする。
 こうした重盛にやり方に三隅も賛同し、重盛が法廷での作戦に使用しようと三隅にいろいろと材料を問いただしていくのだが、三隅の答えは次第に二転三転していく。
 この重盛と三隅の対決がこの映画の見どころで、あれほど人間は見ないといっていた重盛が三隅に翻弄されていき、終いには重盛は三隅に対し「真実を話してくれ」と拘置所の仕切り窓ガラスを叩いて叫ぶ。
 転がる三隅の証言によってドラマは意外な方向に展開していくのだが、ここで重要な役割を担っているのが殺された被害者の娘咲江だ。
 ここに至って裁判の行方はまったく不透明になっていくのだが、ここまで映画は手に汗を握らせるサスペンスであり、映画の冒頭に感じた違和感が実は重要な伏線になっていたことに気づかされたのだった。
 同時に観客は、実はこの映画はもう一つ大事なことを訴えようとしているのではないかと思わせられる。
 自明なこと、常識的なこと、自分自身では問いただすこともなかったようなことに、疑問が提示される。
 真実と向き合うというが、真実とは何か。生まれてこなかった方がいい人間など一人としてないというが、ほんとうにそうなのか、等々。
 特に咲江がつぶやいた「誰が裁くのか」「誰が決めるのか」という問いかけは重要で、ラストシーンで、裁判官、検事、弁護士が話し合う場面には唖然ともするし、衝撃的だ。
 ここで、ここまでどうしてもわからなかった三度目の殺人の意味がわかったように思われた。
 もう一つ面白かったのは映像だ、中でも、重盛と三隅が拘置所のガラスを挟んで対置する場面は秀逸で、刻々とカメラワークに変化が出てくるのだが、ドラマが進むにつれて重盛と三隅の顔が重なってきたことは暗示的だった。
 この映画は、封切り日の9月9日土曜日の10時30分からの第1回目の上映で観たのだが、館内は7割も客席が埋まる人気ぶりだった。面白い映画なら客を呼ぶということだろう。
 是枝裕和監督作品。

大畑線をなぞる

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(写真1 駅名標も清々しく大畑駅ホーム。前方は大間線へと至る未成線跡)

下北半島横断の路線

 大畑線は、かつての国鉄路線で、国鉄合理化で第一次特定地方交通線に指定されたことを受けて1985年に民間の交通事業者である下北交通に転換されたものの結局持ちこたえられず2001年廃線となった。
 かつての大畑線は、大湊線と接続する下北駅から大畑駅を結ぶ路線で、全線18.0キロ、駅数は8だった。国鉄時代には大湊-下北-大畑という運転系統もあった。
 このたびの津軽海峡旅行では下北交通のバスで大間を目指したのだが、それはおおむねかつての大畑線をなぞるようだった。
 下北駅。大畑線の起点である。ただ、現在の下北駅は駅舎もホームも駅前もきれいに新しく整備されていて、かつての遺構は見当たらなかった。駅前には大型ホテルもあって下北観光の拠点になっている様子だった。
 下北駅を出発するとバスはまずはむつの中心を目指す。ところどころでかつての鉄橋があったり廃線跡が見られた。この様子はこの先にも見られた。
 むつの中心でバスは下北交通のむつバスターミナルに停車した。下北地方の交通を独占している下北交通のバスの大半はここで発着している。
 ここは旧町名でいうと田名部で、むつ市の中心だが、大畑線の田名部駅はここから100メートルほど離れている。私はこのバスターミナルでいったん乗っていたバスを降りて、旧田名部駅を見学しに歩いて行った。

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(写真2 旧田名部駅のホーム跡)
 跡地には駅舎はすでになかったものの、ホームが一部残っていて往時を偲ばせていた。ホームは片側1線と島式1面2線だったようだ。また、かつての駅前広場には「JRバス田名部駅」と表示のある待合室や交番があった。
 さらに、付近にはむつ市の観光施設があって、今日でもむつの中心としての田名部の存在感を示しているようだった。なお、現在の路線では大畑に向かうバスはここ田名部駅には寄らない。
 大畑線は、陸奥湾から太平洋側に抜けてほぼ真北に横断している路線なのだが、田名部を出ると次が樺山で、ここには戦時中は軍の飛行場があったようだ。
 陸奥関根と続き川代で太平洋に出た。この先は海沿いに走り正津川を経て大畑に至った。大畑はイカ漁で知られた漁港である。
 私は実はかつて大畑線には一度だけだが乗ったことがあって、その時の記憶によれば駅舎は当時のままだった。現在は下北交通の営業所となっていた。
 素晴らしかったのは大畑駅の構内がほぼ往時の姿で保存されていたこと。これは、大畑線キハ85動態保存会というNPO法人が、下北交通の協力でかつての大畑駅全体を保存していることによる。
 構内には、片側1線のホームがあり、駅名標もあった。下北交通保守基地などという建屋まであった。線路は本線のほかに留置線や側線を含め3線あり構内ぎりぎり直線で数百メートルはありそうだった。
 この日は動いていなかったが、保存会の活動日にはキハ85(旧国鉄時代のキハ22)を動かしたりもしているようだ。なお、ここには車掌車ヨ8873もあるはずで楽しみにしていたが、日曜日ではあったが活動日でなかったせいか格納されていて見ることはできなかった。
 これほどの規模で、しかもほぼ良好な状態で鉄道施設が車両とともに動態で保存されていることは驚異的なことで、これはもう〝世界遺産〟ものではないかと感心もしたのだった。
 ホームに立って線路を見ていたら、大畑駅の一つ手前正津川駅方面のほか、反対側にも線路が伸びているではないか。大畑駅は大畑線の行き止まりの終着駅のはずで不思議だが、これは大間へと向かう未成線の跡だったのだ。
 戦時中、下北半島は国防上重要な位置にあって、国鉄は大畑線につなげて大間線の建設に着手していたようだ。大間線は大畑駅から大間を経由し奥戸に至る計画で、全線25キロ。しかし、戦況の悪化に伴い工事は中断されたままとなっていた。
 つまり、この大畑駅ホームは、廃線跡と未成線跡を連続してみられるという貴重な位置なのだった。

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(写真3 現在の下北駅。新しくなって往時の面影はまったくなかった)

大湊線は本州最北鉄道路線

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(写真1 大湊線は陸奥湾に沿ってあくまでも直線に平坦に伸びる絶景路線)
駅間距離が非常に長い
 このたびの津軽海峡旅行では、下北半島をひたすら北上したのだが初めはJR大湊線を利用した。
 大湊線は、青い森鉄道と接続する野辺地駅から大湊駅を結ぶ路線で、終始陸奥湾を左窓に見ながら、つまり、半島を鉞になぞらえればその柄の部分を海沿いに進む。全線58.4キロ、駅数は11である。
 もとより大湊線はJRだが面白い路線で、実はまったく他のJR線と接続していないのである。JR線だけの路線図を描いたら、この大湊線だけが浮き上がっているのではないか。これは東北本線が青い森鉄道に転換されたからなのだが、このような孤立路線はJRでは日本中で唯一この大湊線だけなのである。

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(写真2 野辺地駅構内にある日本最古の鉄道防雪林)
 9月3日日曜日野辺地8時02分発大湊行き。2両のディーゼルワンマン運転。
 なお、この野辺地駅構内には「日本最古の鉄道防雪林」が残っていて、実に見事な美しい杉林である。また、かつては野辺地駅から七戸駅を結ぶ南部縦貫鉄道という小さな路線があって、ゲージは一般の鉄道と同じだが、まるでマッチ箱のような可愛らしいレールバスが走っていたものだった。駅舎側からは離れた鉄道防雪林のそばにホームがあったが、廃線になって20年ほどにもなるか。
 さて、大湊を出た列車は北野辺地を経て早くも陸奥湾に面する。地図で見るとほぼ直線的に北上していて、実際、まっすぐな線路がどこまでも伸びている。
 しかも、駅間距離が各駅間ともにとても長い。有戸-吹越間など13.4キロもある。海峡や瀬戸内海を渡ったりする路線や北海道内を除けば、本州では最大駅間距離ではないか。
 直線で、駅間距離も長く、しかも平坦となれば当然表定速度も高くなり、実に快速列車では70キロに近い。この日乗車していた普通列車でもほぼ60キロだった。
 この日は快晴だったからそうでもなかったが、陸奥湾を渡ってくるせいかこの路線は風が強いようで、あちこちに「風」標識が立っていて、運転士に注意を喚起している。
 列車は淡々と進む。左窓の陸奥湾の前方に恐山が見えている。有畑を過ぎたあたりからは左にゆるやかにカーブしていてなかなかの絶景路線である。正面に恐山が迫ってくれば大湊行き止まりの終着駅である。9時04分の到着。

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(写真3 恐山の麓終着大湊駅に接近する列車)

葛登支岬灯台をついに踏破

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(写真1 灯火を灯し始めたばかりの葛登支岬灯台)
函館湾の入口を照らす
 函館で大間からのフェリーを下りてちょっと強行軍だったがその足で葛登支岬へ向かった。函館のフェリーターミナルは幸い五稜郭駅が最寄り駅で、フェリーが遅れたこともあって函館駅まで行っている余裕がなくて一つ手前の五稜郭駅で道南いさりび鉄道木古内行きの列車に飛び乗った。きわどい移動だった。
 葛登支岬灯台(かっとしみさきとうだい)は津軽海峡に面し、この岬と函館山を結ぶ線が函館湾の入口となっている。鉄道でいうと五稜郭と木古内の中間あたりに位置する。
 葛登支岬そのものは大きいわけでも鋭く突き出ているわけでもないが、灯台は函館湾の入口を照らす重要な位置づけを担っている。何しろ、函館湾で唯一の灯台なのである。
 大間からフェリーで津軽海峡を渡ってくると、函館湾に近づくと正面にこの白い灯台がかすかに遠望できていて、この灯台がないと船舶の往来は随分と不便で危険なものとなるように思われた。
 しかし、地味な灯台で、この灯台を紹介する記事はまことに少ない。岬好きで灯台ファンである私にして、地図を広げてその存在はかねて知ってはいたものの、なかなか訪ねてみようとこれまでは思わなかった。

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(写真2 葛登支岬灯台の全景)
 9月3日。かつての江差線である道南いさりび鉄道を渡島当別で下車。一緒に降り立った地元の方々に伺ったところ、夫婦ものは「遠いよ。登り口がわかるかなぁ」と言い、別の老人は「2キロくらいだな」とのこと。
 もとより覚悟のこと、頭に入っている大雑把な地図を頼りに歩き出した。函館湾沿いに国道228号線が走っていて、その丘の上の上段を鉄道が走っている。灯台はこの国道と鉄道の間にあるようだ。地図ではそうなっているが、実際に歩いてみたらこれは理解しにくい。つまり、国道と鉄道はほぼ並行していて、その間に灯台を築こうなど到底無理そうなのだ。
 20分くらい歩いた頃、途中にあった雑貨屋のような食料品店で親父に道順を確認したところ、方向を指さしながらあの岬を回りこんだあたりだという。見ればもう少しだ。
 実はこの時、6キロもあるリュックを背負い、2.5キロものカメラに3キロのカバンを担いでいて、すでにへばりかかっていたところだった。それで、親父に無理を言ってリュックを預かってくれるよう頼むと快い返事。遅くなるかいと尋ねるから燈台の写真をカシャッと一枚撮ってくるだけだと答えたらうなずいていた。この時、すでに夕暮れが近づいていたのである。
 最終的にこれによって救われた。指さしたあの岬がなかなか遠いのである。岬の先には白い建物があって、そのそばに灯台への登り口があるということだったが、なかなかたどり着かない。行き過ぎのたのかとそろそろ不安になってきた頃、ひょいと丘の上を見上げると灯台の頭が見えるではないか。
 結局、灯台への登り口までは渡島当別駅から35分を要した。登り口にはいわれたように白い建物があった。現在は使われていないようだったが、「灯台 列車ペンションききょう」との表示が出ていた。何ともロマンティックな名前だが営業は行っていないようだった。「灯台入口」との函館バスの停留所もあった。もっとも、この停留所を通るバスは日に3本しかなくて利用はしにくいようだった。
 登りはじめると、道筋はそれなりにはっきりしているのだが、草が10数センチも生えていて非常に歩きにくい。最近では人が踏み込んだような痕跡もない。さほど急ではないが、登り坂が途切れない。草むらの中を漕ぐようにして歩いた。
 登り口から歩くこと10数分ほどして灯台がやっと見えた。ついにたどり着いたと思った。随分とあちこちの灯台を訪ね歩いているが、ここ数年来ではもっとも難儀した。しかしそれだけにこれは久しぶりの到達感だった。感激だった。
 灯台は白い円形の灯塔で、背はさほど高くはないががっしりしている。塔高は16メートルとあり、灯火標高は45メートルとあった。なお、座標は灯台の位置で北緯41度44分32秒、東経140度35分58秒である。
 灯台は敷地をぐるっと塀が取り巻いていて近づくこともできない。だから、初点を示すプレートも確認できないし、どこの灯台にも設置してある燈光会の看板も見当たらない。ただ、入口に「葛登支岬灯台」のプレートがまさしく表示されてあった。

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(写真3 灯台から見た函館の町。右側の山裾は函館山)
 しかし、灯台のある崖っぷちからの見晴らしは格別だった。左に函館の町、右には知内であろうか、その先は白神岬のはずだ。前方には本州が横たわっている。
 眼前の函館湾には多数の船舶が往来している。コンテナ船ありタンカーあり、フェリーも見える。函館はやはり大きな港なのである。
 もう少し眺めていたいところだったが、くだんの親父との約束もある。せめて灯火が点灯するまでと欲張っていたが、ちょうど6時なのにその気配がない。もうあたりは薄暗くなっているのに。
 それで歩き始めてそれでも諦めきれずにひょっと振り向くと、何と灯台が灯っているではないか。2度目の感激だった。まだ暗いほどではないから光の筋がくっきりとわかるほどではないがこれはうれしかった。灯台はきっちり6時に灯るということでもないようだ。
 灯火がぐるぐるっと旋回している。調べてわかったが、この灯台はレンズ回転方式で明暗光を発する日本で唯一のものらしい。第三等ではある。灯質は白色である。光度49万カンデラ、光達距離17.5海里とあり、初点は明治18年12月15日とあった。
 そろそろ薄暗くなってきた。親父に迷惑をかけてもいけないと思い帰路を急いだ。国道沿いとはいえほぼ一軒家のような商店であり、店じまいも早いはずである。
 途中からすっかり暗くなってしまった。商店に到着したらすでに明かりが落ちている。それでガラス戸をどんどんとたたいたら、明かりが灯り親父が出てきた。あまりにも遅くて、どうなったのか心配で、もう少ししたら捜索願でも出そうと考えていたところだったと言う。
 それは迷惑をかけてしまった。しかし、お陰様で葛登支岬灯台を見ることができたと感謝の言葉を述べると、親父も喜んでいた。このままでは気持ちがすまないし、お礼の意味をこめてリンゴやらジュースやら買い込んだら、帰りの荷物がさらに重くなった。

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(写真4 帰途、国道から見上げた葛登支岬灯台の上部。灯火が点っている)