ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

SL大樹と車掌車

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(写真1 下今市駅4番線に到着したSL大樹2号)

東武鉄道のC11325とヨ8709

 SL大樹とは、東武鉄道が鬼怒川線で運転している蒸気機関車の牽引による観光列車。大樹には必ず車掌車が連結されおり、この車掌車にはATSなど運行安全システムが搭載されており、SL機関士のサポートを行っている。
 大樹が運転されているのは下今市と鬼怒川温泉間3駅12.4キロ。2017年の運行開始で、通常は金土日月、夏休み期間中などは毎日運行され、家族連れでにぎわっている。
 編成は、先頭からSL+車掌車+客車3両に加え、鬼怒川方面に向かう下り列車には途中の勾配を考慮して最後尾にDLが補機として付いている。
 現在、東武では大樹を2編成保有して交互に運転している。1機目は、SLC11207号機と車掌車ヨ8634で、やや遅れて投入された2機目は、SLC11325号機と車掌車ヨ8709の組み合わせ。
 4月9日金曜日、下今市駅で大樹の運転状況を見学した。下今市駅は日光線も分岐する重要な駅で、SL大樹運転のために下今市機関区が設けられ、転車台や機関庫が配置されている。

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(写真2 転車台を使って入庫運転されているSLと車掌車)

 11時45分、鬼怒川温泉発のSL大樹2号が到着した。乗客を降ろすと、客車を切り離しいったんそのまま直進してすぐに渡り線を使って戻って転車台に載り、反転して機関庫に入った。
 転車台周辺は転車台広場になっていて、大勢の観光客が転車台で向きを変えて入庫する様子を興味深そうに見ていた。時折あがるSL特有の汽笛が叙情を高めていた。
 SL大樹2号は、C11型蒸気機関車C11325号機とヨ8000型車掌車ヨ8709の組み合わせ。325号機は真岡鐵道、ヨ8709はJR西日本から譲受されたもの。
 車掌車を外部からだがちょっとのぞいてみると、大きな鉄製の箱が置かれており、係員1名が乗っていた。鬼怒川線は電化区間だが、SLの運転においても安全運行の徹底を図っているものなのであろう。

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(写真3 SLに連結されている車掌車ヨ8709)

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』

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現代アメリカ文学の傑作

 ブルックリンが舞台。そのブルックリンが豊穣な物語を編んでくれた。
 マンハッタンの保険会社で働いていたネイサン・グラスは、停年を前に生まれ故郷のブルックリンに終の棲家とすべく戻ってきた。3歳のときに一家がブルックリンを離れてから56年ぶりだった。
 初めは何をしたらいいのかも思い浮かばない日々の中で、足繁く通ったのはブライトマン・アティックスという古本屋。経営者は派手な振る舞いの同性愛者ハリー・ブライトマン。
 この店でネイサンは、甥のトム・ウッドと出会う。7年ぶりだったが、トムは大学院をやめてブライトマンの店で店員をしていた。
 こうして、ネイサン、トム、ハリーの3人を軸に物語が進む。登場する人物造型が魅力的だし挿入される逸話がじつに秀逸。
 小説の面白さが詰まっている。離婚あり詐欺あり、同性愛ありと物語が転ぶが、伸びやかでいやらしさはなく心温まる。しゃれた会話があり、ボキャブラリーが豊富で、読んでいて思わず傍線を引きたくなる。
 娘レイチェルへの許しを乞う手紙。簡単に書けるものと踏んでいたがといいながら「人から許しを乞うのは厄介な仕事である。それは強情なプライドと涙ながらの悔恨との、微妙なバランスの上に成立する行為であり、相手に向かってすっかり心を開くのでないかぎり、どんな謝罪もうつろな嘘に響く」とある。
 とくに気がかりはトムの姪ルーシーの登場。つまりネイサンは大伯父さんということになる。わずか9歳半の女の子が一人でニューヨークまで訪ねてきたのだが、この出現によってトムやネイサンばかりかハリーまでもが家族を考えることとなる。
 いかにもオースターの小説という感じ。時折出てくる社会時評は辛辣なのだが、全般に心温まる物語の運び。
 ちなみに、タイトルのフォリーズとは、愚行の意。ネイサンが人生を振り返りつつ執筆している文章自体が数々の愚行が中身というわけである。
 とにかく柴田元幸の訳がいい。
(新潮文庫)

ピアノソナタ

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(写真1 ピアノ曲が収録されているCD集)

音楽の好みにも変化

 このごろは家にいる時間が長いから、音楽もよく聴いている。
 ただ、私は不器用で、音楽を聴きながら本を読んだり、音楽を聴きながら原稿を書いたりするということができない。BGMのつもりで音楽をかけるとそれは邪魔になるし、BGMにかけた音楽が気になって本来のことが散漫になる。
 だから、音楽はあくまでも音楽として聴いている。だからといって、かしこまって音楽と向き合っているわけではないが。
 もっとも、私は音楽好きではあるが、格別の音楽ファンというほどのものではない。その音楽にしてからが、クラシック、ジャズなどと何でもありで、我ながらいい加減。まあ、CDだけは数百枚は持っているし、図書館からも借りてきて繰り返し聴いている。どのような曲を聴くかは、その日そのときの気分次第なのだが、このごろでは圧倒的にクラシックが多い。それも、かつては交響曲や協奏曲、とくに弦楽四重奏曲が好きだった。
 それが、このごろではピアノ曲が多くなった。それもピアノソナタが。このことを音楽に造詣の深い友人に話したら、「それは歳のせいでしょう」という。つまり、歳を取るとシンフォニーなどのような長い曲は疲れるので、短い曲を好むようになるのだそうである。なるほどという気もするが、そのことはともかく、ピアノソナタ。ショパンの小品もいいが、複数の楽章を持つソナタが私にはちょうどいいサイズに思える。それならなぜコンチェルトではないのかと指摘もされそうだが。
 ピアノソナタならベートーベンか。生誕250年を迎えた昨年はベートーベン・イヤーということで繰り返しベートーベン特集がテレビなどで組まれ、ベートーベンのピアノソナタも紹介された。
 それで聴く機会が増えたのだが、全32曲といわれるベートーベンのピアノソナタ全曲を聴くことができた。
 それでわかったこと。ベートーベンは<運命>や<合唱付き>などがあまりにも有名で、交響曲にこそ真骨頂があるように思えてきたが、ピノソナタこそがベートーベンが心血を注いできたのではなかったかということ。
 とにかく美しい作品が多い。いずれも甲乙つけがたいが、好き嫌いだけで選ぶなら、<悲愴><月光><テンペスト><熱情>あたりか。音楽にさほどの造詣もないずぶの素人が僭越なことだが。
 ピアノ曲は多くの作曲家が書いているが、自身がピアニストだったリストやラフマニノフにも難解だがすぐれた作品がある。
 ソナタということではないが、ラフマニノフの<パガニーニの主題による狂詩曲>や<ヴォカリーズ>も、この作曲家の代表曲であろう<ピアノコンチェルト第2番>からは想像もできない繊細さが感じられて興味深い。

映画『ミナリ』

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(写真1 映画館に掲示されていたポスターから引用)

韓国系アメリカ映画

 韓国人の移民家族が、カリフォルニアから新天地を求めて南部のアーカンソー州に越してくる。家族は、夫のジェイコブ、妻のモ二カ、娘アン、息子デビッドの4人。時代は、テレビニュースにレーガン大統領と出ていたから80年代か。
 ジェイコブは、大農場を夢見て50エーカーもの広大な土地を購入した。アーカンソーに着くと、土地は荒地であり、住む家もトレーラーハウスとあって、モ二カは将来に不安になり、話が違うといってジェイコブと言い合いになる。
 そんな折、一家はモ二カの母親スンジャを呼び寄せる。一家は英語を話せるのだが、お祖母ちゃんはまったく話せない。
 一家の仕事は農業用の井戸を掘るところから始まる。飲料や生活用水だけは水道が引かれているが。ジェイコブは韓国野菜を作って韓国人マーケットに売り込もうと構想していた。カリフォルニアよりも近いのだから新鮮な野菜は売れるはずだというわけである。
 面白いのはお祖母ちゃんの存在。子どもたちに花札などを教えている。デビットと出かけて沢を見つけ、そのほとりにミナリを植える。祖国から苗を持参していた。ミナリとは韓国語でセリのこと。セリは年2回収穫できるので、おいしいし経済的助けにもなるはずだということである。このミナリがなぜ映画のタイトルになったのか、その理由は最後の場面で納得できる。
 移民の苦難が描かれ、家族の絆が訴えられる。アメリカ人の好む開拓物語である。ストーリーに新鮮さはないが、アメリカで生きていくすべてが描かれている。
 映画は、英語と韓国語がちゃんぽんになっている。それもどちらかと言えば韓国語の方が多かったか。それで強いていえば、これは韓国系アメリカ映画と言えるものなのであろうか。
 監督は韓国系アメリカ人のリー・アイザック・チョン。

宮古から田老そして島越へ

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(写真1 防潮堤の上から見た田老の街)

大震災から10年目の被災地へ③

 宮古では1泊し、翌日さらに三陸鉄道(三鉄)を北上し、田老から島越へと向かった。前日の雨はやまず、かえって風雨は強まっている。しかも寒い。

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(参考1 被災した工場には〝全員無事です〟と消息が書かれていた=2011年)

 宮古には震災直後から毎年訪れていて、印象に残っていることもある。被災状況を調べていたところ、初めて訪れたときのこと、魚市場にほど近い岸壁沿いの鉄工場には、トタン張りの工場建屋の壁面に〝全員無事です〟とカラースプレーで消息が書かれていた。これは大変心強いこと。このときは会うことはできなかったが、翌年訪ねて社長に話を伺ったところ、地震の強さから津波の襲来をすぐさま予測し、従業員を向かいの高台に避難させたということだった。もっとも、社長自身は、逃げ遅れたものはいないかなどと点検しているうちに自分自身が逃げ遅れ、2階の天井にしがみついて九死に一生を得たということだった。津波は、とっさの判断が生死を分ける。

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(写真2 1年前に開業したばかりの「新田老駅」)

 宮古からはまず田老に向かった。田老の一つ先の駅新田老下車。2020年5月20日に開業したばかりの新駅。田老駅は町外れだったが、新田老駅は街の中心にあり、役場なども近い。3階建てで、建物自体は宮古市田老総合事務所となっており、田老保健センターや宮古商工会議所田老支所、宮古信用金庫田老支店が入っており、新田老駅は3階になっている。
 防潮堤に登った。そもそも田老の防潮堤は、度重なる津波から街を守ろうと築かれていたもので、高さ10メートル、延長2.4キロに及び、その偉容は〝万里の長城〟とよばれて町民の自慢だった。
 しかし、このたびの津波では、その防潮堤も乗り越え街を襲来し壊滅させた。復興にあたって田老は、防潮堤については破壊された部分の修復のほかは、1メートルほど高くした程度とし、住民は高台移転させた。従来の市街地は商業地とし、住宅の建設は制限している。

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(参考2  防潮堤から見た被災直後の田老=2011年)

 この防潮堤には毎年のように登ってきており、ほぼ同じ位置から写真を撮ってきているのだが、防潮堤内に住宅建設の制限があるせいか、10年経っても歴然とした変化は見られない。この部分の利用拡大が新しい田老の活性化には重要だと思われた。

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(写真3 高台に移転した住宅地の様子)

 大きく変わったのは町外れの高台に建設された住宅地。見事な住宅地に生まれ変わっており、大都市圏の新興住宅地と見まごうばかりだ。保育所や診療所、駐在所などもあって新しい生活に不自由はないように思えた。

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(参考3 被災間もないのに復興支援列車が走っていた)

 初めて田老を訪れたときには、震災から間もないにもかかわらず、〝復興支援列車〟が運行されていた。三鉄の時速な対応は、どれほど復興を力づけてきたものか。

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(写真4 新田老駅に置かれているノート)

 新田老駅には、待合室にノートが置かれていて、訪問者が自由に書き込めるようになっている。2021年3月11日の日付には、関西から来たという人や遠く高知から来たという人もいた。また、この中には、「今日はお父さんの墓参りに来ました。そして息子の誕生日です」と書かれたものがあった。現在はどこに住んでいるものか、書かれてはいなかったが、鎮魂が伝わってくる。
 新田老から再び三鉄で北へ向かい島越へ。ここはもう岩手県の三陸海岸の中では北部にあたる。途中、いくつものトンネルを抜けてきたが、ここ島越は、トンネルとトンネルの間に開けた狭い空間だが、この狭いところを津波は駆け上がって駅も集落も壊滅させた。

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(写真5 島越駅外観)

 島越駅にはカルボナーラという愛称がついていて、駅舎もかつてのものはとんがり屋根のかわいらしいものだった。現在の駅舎は煉瓦壁の堂々たるもので、内部には、簡単な飲食もできる休憩室などもあり、待合室には吉村昭文庫もあって、吉村作品が常備されている。

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(写真6 クウェートからの支援に感謝するプレート)

 玄関にはプレートがはめ込まれていて、「クウェート国からのご支援に感謝します」とアラビア語、英語、日本語で書かれている。クウェートは東日本大震災にあたって多額の義援金を出していて、三鉄の復旧に多大な貢献を成してきた。プレートは三鉄の車両にもはめ込まれている。

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(写真7 島越駅周辺の復興工事はあまり進んでいるようには見えなかった)

 駅前の住宅は、高台に移転して何もないし、海側もいまだ工事中のようであまり進んでいるようには見受けられなかった。

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(参考4 被災直後の島越駅周辺)

 気仙沼から陸前高田、大船渡、釜石、宮古、田老と鉄道の距離にして169.3キロ、大船渡線から三陸鉄道へ、大震災から10年目の被災地を駆け巡ったが、現地は、道路が整備され、橋が架けられ、区画が整理されて復興は、工事としてはほぼできあがっていた。これからは建物がどれだけ築かれていくかどうかというところだが、ここまでの進捗は10年としては早かったのかどうか。
 そのことを評価するには、住民が戻ってきているのかどうか、そのことも見極めなければならない。しかし、人々が戻ってくるには被災地に魅力ある産業が立ち上がっているかどうかということが大きいわけで、結局、総合的には10年は遅すぎたと言えるのではないか。つまり、10年もかかったことによって、よそに避難していた人たちはその地で新しい生活を築いてしまっているわけで、よほどの魅力がないと、いかに生まれ故郷といえども戻るという動機にはならないのではないかと残念ながら思われる。

陸前高田から大船渡そして宮古へ

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(写真1 大船渡線BRTと三陸鉄道が接続する盛駅)

大震災から10年目の被災地へ②

 陸前高田からは再び大船渡線BRTで大船渡へ向かった。雨は強まるこそすれ弱まる気配はまったくない。車窓から写真を撮ろうにも曇ってうまくいかない。

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(写真2 風光明媚な海岸も曇ってよく見えない)

 大船渡線は、大船渡やがて盛が終点。ここでも途中下車した。大船渡が近づくと、大船渡湾沿いに走る。BRTとは言え、8つも駅があり、湾の深いことがわかる。鉄道時代でも4駅だった。天然の良港である。もっとも、このリアス式海岸が津波被害を大きくしたのだけれども。魚市場が操業している。三陸沿岸は漁場に恵まれていて水産業が盛んであり、どの町でも魚市場の復旧が最も早かった。
 やがて盛到着。大船渡線の終着である。BRTはここまで。ここから先は三陸鉄道となる。沿線自治体は、鉄道の復旧に際し、JRの提案するBRTにするか、あくまでも鉄路での復旧を目指すか、それぞれに判断が分かれた。
 BRTならば復旧が早いし、運行経費も少なくて済む。元来、利用者が少なく赤字路線となっていて、廃線も取り沙汰されていた。それで、大船渡線や気仙沼線沿線はBRTを選んだ。
 これに対し、山田線の沿岸部宮古-釜石間の沿線自治体はBRT化を主張するJRに対しあくまでも鉄路での復旧を粘り強く求め、この結果、JRは復旧させた上で三陸鉄道(三鉄)に譲渡し運行を委ねることで妥協した。
 三鉄は、旧山田線部分を間に挟んで南リアス線(盛-釜石間)と北リアス線(宮古-久慈間)を含め1本の路線リアス線として一体運行することとしたのだった。これによって三鉄リアス線は南は盛から北は久慈まで営業距離は全長163.0キロに達し、第三セキターとしてはわが国最長の路線を運行する鉄道会社となった。東日本大震災からの復興は鉄路によって成し遂げようという沿線自治体と三鉄の固い絆によって進められることとなったのである。

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(写真3 新しい街に生まれ変わってきた大船渡市街中心部)

 大船渡市街を巡ると、大船渡駅周辺は銀行やホテル、商店が建ち並び新しい町へと生まれ変わっていた。かさ上げもされたが、陸前高田ほどの大規模なものではない。街は高さ10メートルほどか、高い防潮堤によって守られていた。

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(写真4 大船渡の市街を守る防潮堤)

 街の中心にはビルが1棟残っていた。旧商工会議所の建物のようで、遺構として残してあるもののようだ。見ると、3階建てのうち2階までは完全に津波によって破壊されているのに、3階部分にはガラス窓が残っていた。わずか1メートルほどの差によって被害がくっきりと分かれるのは、津波の怖さであり残酷さである。

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(写真5 遺構なっていたいた旧商工会議所ビル)

 さて、盛駅は、駅自体は高台にあったから津波被害を免れたのだが、前後を含め周辺の各駅で津波に遭わなかったのはこの盛駅だけである。運命は微妙である。

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(参考1 津波によって破壊された線路=2011年)

 震災直後に訪れたときには、線路は破壊されて見るも無惨な状態だった。
 盛からは三鉄。BRTから乗り継ぐと、なぜかほっとする。やはり鉄道はいいと実感する。
 旧南リアス線だった区間は沿岸部が多いから津波被害も各所で遭遇した。それも新しい路線、駅に生まれ変わって真新しい。そうこうして釜石。ここも駅自体は津波被害を免れた。釜石線との接続駅である。

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(写真6 釜石駅で発車を待つ三鉄列車)

 釜石からは旧山田線だった区間。津波に徹頭徹尾やられた路線で、ラグビーワールドカップの会場となった鵜住居や大槌、陸中山田などと続く。残念ながら街の様子は雨で曇っていてつぶさには見えない。この間、岩手船越は本州最東端の駅である。ここは津波被害を免れた数少ない駅の一つである。
 やがて閉伊川を渡ると宮古。この閉伊川を渡る鉄橋も津波で破壊された。

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参考2 津波で落ちた山田線閉伊川鉄橋=2011年)

大震災から10年目の被災地へ①

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(写真1 復興で生まれ変わった陸前高田の新市街)

岩手県沿岸部を北上

 2011年3月11日に発生した東日本大震災からちょうど10年目。昨年こそコロナの影響で来られなかったが、震災直後から私は毎年欠かさず被災地を訪れてきた。今年もコロナは収まってはいないが、10年目のことだし、復興はどのように進んでいるのか気になって、3月13日から15日まで無理をして出かけてきた。
 現地へは鉄道で入った。例年はレンタカーでつぶさに巡っていたが、今年はすべて鉄道を利用した。車窓から眺めただけのこと、何ほどのこともないのだが、できるだけ途中下車を繰り返して不足を補った。
 東北新幹線を一関で大船渡線に乗り換え。北上山地の南端を横断する路線で、初め、一関-気仙沼間62.0キロは山間部を走るので震災の影響は少なかったが、気仙沼から先、盛間43.7キロは沿岸部のため甚大な被害となった。
 気仙沼駅そのものは高台にあるため津波被害は免れた。このため、一関-気仙沼間は一般の鉄道が走っているが、気仙沼-盛間はBRT(バス高速輸送システム)による運行である。

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(写真2 気仙沼駅で発車を待つ盛行きBRTバス)

 気仙沼駅の構造は合理的で、列車からバスへ平面で乗り換えができる。気仙沼で降りてしまった客が多かったようで、2両のディーゼルカーで来たのにバスに乗り継いだ客は半分にも満たなかった。なお、この日は翌日も含めてあいにくの雨で、雨風が強く、晴れ男も勝てないほどの台風並みの低気圧だった。

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(参考1 鹿折唐桑駅前に打ち上げられた貨物船=2011年)

 気仙沼を出るとすぐに海岸沿いとなった。鹿折唐桑はきれいに整備されていた。震災直後には、この駅前に数百トンもの大型貨物船が打ち上げられていたものだった。駅前は海岸から500メートルも離れているというのに。
 鹿折唐桑を出るといったん山間部へと入りやがて陸前高田。大きな市街で、ほぼ壊滅する被害に見舞われたが、復興工事は随分と進んでいた。

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(参考2 かさ上げのための土を運ぶ壮大なコンベアが活躍した)

  ここの復興工事は極めて特徴的で、広大な旧市街地で軒並み土地のかさ上げを行った。このため、町外れの山を一つ切り崩し、かさ上げのための土を壮大に張り巡られたベルトコンベアで数キロにも渡って運んだ。
 新しい市街地の中心では、かさ上げは14メートルにも及んだということで、町の中心に立つと、ここがかさ上げされた場所だとは気がつかない。それほど広大なのである。

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(写真3 BRTの陸前高田駅)

 中心には、BRTの陸前高田駅や商店が次々と建ってきていた。また、周辺には文化会館なども建設され、次第に都市の骨格が姿を見せ始めていた。市役所も3月中には完成するということである。
 かさ上げされた土地の縁に立つと、かつての地面は谷底のようにも見えて、かさ上げされた土地の高さが実感できるようだった。

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(写真4 遺構となっているかつての商業ビルはかさ上げされた土地とちょうど同じ高さだった)

そこには鉄骨のビルが1棟だけ残っていて、その高さはちょうどかさあげの高さと並んで見えた。このビルは、個人の所有になる商店のようで、どうやら所有者は遺構として残すつもりなのだろう。

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(写真5 東日本大震災津波伝承館の展示の様子)

 また、海岸は津波復興祈念公園として整備されていて、〝奇跡の一本松〟がその象徴のようになっていたし、東日本大震災津波伝承館が完成していて、多くの参観者が訪れていた。

 陸前高田は、海に面して扇状地のように開けてところで、それだけに津波被害は広大なものとなった。市街地は壊滅した。この復興にあたって、街全体の土地をかさ上げしようとしたので随分と時間がかかった。津波被害に遭った沿岸の町々ではどこもかさ上げを行ったが、ここほど大規模になったところはない。
 しかし、土地のかさ上げが一定程度済むと、町の整備は一気に進んだ。道路やインフラの建設と区画整理がほぼ終了した様子で、駅や病院、学校などが建設され、新しい町が見えてきた。

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(参考3 奇跡の一本松=2011年)