ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

三岐鉄道丹生川駅の貨物鉄道博物館

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(写真1 貨物鉄道博物館のワフ21120緩急車)

シリーズ車掌車を訪ねて

 貨物鉄道博物館は、三岐鉄道三岐線丹生川駅(三重県いなべ市)に隣接してある。2003年の開館で、貨物専門としては日本で初めての鉄道博物館。運営はNPO法人で、運営資金は寄付によっており、活動はボランティアによっている。なお、開館は毎月第一日曜。
 丹生川駅は、三岐線で起点の近鉄富田から北上すること約40分、この先は東藤原から終点西藤原へと伸びる。三岐線は私鉄では今や日本で唯一セメントの貨物輸送を行っている鉄道路線。
 丹生川駅では小さな駅舎が出迎えてくれ、左手に線路沿いに進むとすぐに貨物鉄道博物館。本線に並んで博物館の展示線があり、さらに博物館の建屋が並んでいる。訪れたこの日は平日だったので博物館は閉まっていて、展示線に据えられている車両だけ見学できた。なお、この建屋はどうやらかつての貨物用の荷さばき場だったようで、ホームがそのまま残っていた。

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(写真2 屋外展示は蒸気機関車を先頭に貨物列車の編成。左は三岐線)

 展示車両は、蒸気機関車を先頭とする貨物列車の編成になっていて、先頭からB4形39号蒸気機関車。英国製で、東武で貨物列車牽引に使われてきた。1898年製造。
 続いてト1形15号10トン積無蓋車。1912年製造で、当初、瀬戸電気鉄道で使われた。
 次がト200形246号有蓋車。日本車輌製造1917年製造。常滑線で使われていたが、その後無蓋車に改造された。未来技術遺産(国立科学博物館重要科学技術史資料)に登録されている。
 続いて新潟県の蒲原鉄道のワ11形11号有蓋車。1929年製造で、側面が木張り。また、同じく新潟鐵工所で製造されたワ1形5490号有蓋車が続いている。

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(写真3 デッキ側から見たワフ21120緩急車)

 そして最後尾がワフ21000形21120号緩急車。1934年汽車製造。国鉄初の鋼製有蓋緩急車で、2人常務用の広い車掌室が特徴。貨物室は小口貨物用で、最終的には西濃鉄道で使われた。2010年未来技術遺産に登録されている。
 外観はしっかりしていたし、内部も車内に入ることはできなかったが、ドアからのぞき見たところでは、椅子が2脚にストーブや扇風機が配置されていた。なるほど広い室内で、2人業務用となっていた。
 ほかに、屋外展示には、シキ160形という非常に珍しい車両が展示されていた。130トン積み大物車で、特大貨物である大型変圧器の輸送に用いられた。1955年日本車輌製造の製造で、1両のみが製造されたようだ。富士電機向けで、その後日本AEパワーシステムズに移籍。未来技術遺産。
 とにかく巨大。全長23.756メートル、全幅2.720メートル、全高3.372メートルもあり、荷重が130トンで、自重は37.8トン。換算両数は積車で13.5、空車4.0。車体は2分割になっており、軸数が何と12軸もある。

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(写真4 全長が23メートルを超す巨大なシキ160形貨車)

愛環保見駅のヨ6745

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(写真1 愛環保見駅の高架脇にあるヨ6745車掌車)

シリーズ車掌車を訪ねて

 愛環(愛知環状鉄道)は、東海道本線岡崎駅と中央本線高蔵寺駅を結ぶ第三セクター鉄道路線で、名古屋東部の外環線となっている。
 保見駅(愛知県豊田市)は、愛環で豊田圏の駅の一つ。相対式2面2線のホームを持つ地味な高架駅で、周辺は住宅地。
 エレベータもエスカレータもなく、高架ホームから階段を下ってくると改札口の脇にでんと車掌車が鎮座している。

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(写真2 車両外観)

 形式は国鉄ヨ6000形で、車両番号はヨ6745。ヨ6000形は現存車両数が少ないから貴重な存在。しっかりした外観だが、経年劣化も進み始めているようで、見学用の階段も設けられているものの、車内はのぞき見ることもできなかった。
 車体には、鐵道車輌工業昭和43年と製造銘板がはめ込まれていた。
 車両の脇にあった解説板によると、1988年の愛環開業時に豊田市によって当駅に設置されたようで、当初は地域の集会所として活用されたという。こういう使われ方も珍しいのではないか。

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(写真3 車両後部)

車掌車に魅せられて

特集 車掌車小全

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(写真1 ヨ8000形車掌車の車内。執務用テーブルと椅子、右奥に長椅子とテーブル、中央にストーブ、右手前にトイレが配置されている。真岡鐵道真岡駅構内で)

究極の移動書斎として

 私は車掌車に対して格別の憧れがある。ただし、車掌が乗務する車掌車本来の目的とは違って、移動する書斎としてはどうかと熱望しているのである。
 車掌車とは、貨物列車の最後尾に連結されている業務用車両のことで、事業用貨車の一種。ただし、1985年までに原則廃止となっており、この頃では業務中のものを見かけることはなく、公園などに展示されたりして保存されているのが散見されるだけ。その保存車両も120両に満たないようだ。現在では稀に特殊大型貨物の輸送や新製車の編成輸送に連結されて使用されることがあるようだ。なお、車掌車に貨物も積めるようにしたものは緩急車と呼ばれ、車掌車とは区別されており、頭に付く記号はワフである。
 保存車両の中には、これは北海道に多いのだが、駅舎として利用されていたり、店舗として活用されたりしている例が少なくない。公園に設置されているものも多くて、車掌車はSLに次いで子どもたちにも人気が高いようだ。
 私は、車掌車を書斎代わりにしてはどうかと考えている。車掌車には、テーブルや椅子、長椅子にストーブやトイレも備えられているものもあって、十分に書斎の機能を有している。私はこのアイデアを関川夏央『家はあれど帰るを得ず』から得た。
 そもそも通勤電車はとても集中できる読書環境だし、読書のためだけに長距離電車に乗っている人もいるということだし、かつては、読書のために寝台列車で往復しているような人もいたようだ。つまり、鉄道は読書環境として古今重宝されているのである。
 私はもう一つ踏み込んで、専用の車掌車を購入し、JR貨物に頼んで貨物列車の最後尾に連結してもらい、全国ふらふらと読書三昧にふけりたいのである。行き先はもちろん貨物列車任せでいい。朝起きてみたら見知らぬ駅に停まっていたなどというのはロマンティックではないか。
 もっとも、これはなかなか叶わぬ夢だが、それでもあきらめきれず、全国の保存車両を探しては訪ね歩いている。このことは旅の動機付けにもなるし、そもそも何の役にも立たない旅ではあり、百閒先生のいう究極の旅ではないだろうか。
 車掌車にも幾つか種類があり、私は車両そのものにはあまり詳しくないのだが、現存するもの中から代表的なものを選び出してみた。旧国鉄が大半だが、私鉄にも幾つかある。なお、車掌車は、形式の頭にヨを振ることとなっている。また、車掌車はデッキとブレーキが付いているものが常態である。

国鉄ヨ3500形
 窓が4つある。1345両が製造され、全国各地で使用された。特に北海道と四国で最後まで残った。

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(写真2  ヨ3961=碓氷峠鉄道文化むら)
 
国鉄ヨ5000形
 国鉄の主力車掌車。居住性が良好で乗務員には好評。ヨ3500形を二段リンク化してヨ5000形に編入したものものも大量にあった。この場合、車両番号には3500形由来のもに10000番を付している。コンテナ特急用として登場した。

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(写真3 ヨ5008=京都鉄道博物館)

 

国鉄ヨ6000形
 ヨ5000形に比べやや小さく窓数も3つとなっている。国鉄の新型主力車掌車として使用された。現存車両が少ない。

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(写真4 ヨ6798=青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸船内。青森駅隣接)

 

国鉄ヨ8000形
 外観が従来の車掌車と比べ大きく変化していて一目でわかる。トイレも設備され最新設備車両として大量に製造された。

 

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(写真5 ヨ8627=若桜鉄道若桜駅)

 

国鉄ヨ9000形
 100キロ走行を可能とした高速貨物輸送対応車掌車。しかし、走行試験の結果がよくなく、試作段階でとどまっている。外観はヨ6000形に近い。

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(写真6 ヨ9001=平成筑豊鉄道源じいの森)

 

秩父鉄道ヨ10形
 L字型の車両で外観が特異。セメント輸送に活躍した。

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(写真7 ヨ15=秩父鉄道車両公園)

 

東武鉄道ヨ101形
 埼玉県北葛飾郡杉戸町長戸路児童公園。東武独自の形式ヨ101形で、現存する3両といわれる保存車両の1台。東武の貨物車両の伝統である薄緑の塗色。車室部分はさほど広くはなく、庇の付いたデッキがあるほか、前後のオープンデッキの広いのが特徴となっている。

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(写真8 ヨ126=長戸路児童公園)

 

国鉄レムフ10000形
 鮮魚専用高速貨物列車用冷蔵車で、同じく冷蔵車レサ10000形に車掌室が付いた形式。なお、形式記号のレムフはレ=冷蔵車、ム=積載重量14トン~16トン、フ=緩急車(車掌室、手ブレーキ付き)を表す。
 レムフ10000は、冷蔵室の白い車両の後尾に青い車掌室がくっついている。車内はしっかりした設備で、事務机と椅子と長椅子。石油ストーブにトイレも付いている。長時間業務にも対応できる。車掌車としてはヨ8000形に近い内容。私は、貨物列車の最後尾に車掌車を連結してもらい、究極の書斎として貨物列車の行くところそのままに全国をふらふらと旅をするのが念願だが、この車掌室ならうってつけだ。しかも、車掌室を設置するために空気バネ台車を採用しており、走行中の振動も低いようだから素晴らしい。この高速貨物列車は、下関-汐留間1000キロを17時間で結んだという。

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(写真9 レムフ10000形外観=鉄道博物館。奥の部分が車掌室)

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(写真10 同車掌室内部。素晴らしい設備内容である)

 なお、私自身はまだ一度も見たことがなかったのでここには採り上げなかったけれども、ヨ2000形というのが1両現存しているようだ。


 現存する車掌車の状態はまちまち。駅舎として再利用されていたり、駅構内に留置されていたり、公園に展示されているものも多い。また、民間に払い下げられて商業施設となっているものもある。その代表的な例を状態別に見てみよう。

動態保存
  明知鉄道明智駅(岐阜県恵那市)で、車掌車を牽引してSLが構内運行されている。SL(蒸気機関車)はC12244号機で、車掌車はヨ18080号車。休日のイベントで、車掌車には子どもたちが体験乗車している。動態保存されている車掌車は全国に幾つかあるが、駅構内に限られるとはいえ、現実に走行を体験乗車のできる車掌車は珍しい。(2016年3月20日撮影=この日が初走行だった。私も乗ってみたかったが、子どもたちが長い列を作っており、とても一緒に並ぶ勇気がなかった)

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(写真11 SLに牽引され子どもたちを乗せて構内走行する車掌車ヨ18080)

 

廃駅跡
 廃線廃駅メモリアルの一つ。熊本県水俣市の旧山野線の久木野駅跡にホームや信号機などとともに保存されている。山野線は、鹿児島本線水俣駅から肥薩線の栗野駅を結んでいた全線55.7キロの路線で、久木野駅は水俣から四つ目、この先にはループ線があり、熊本-鹿児島県境越えとなっていた。

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(写真12 旧久木野駅跡のヨ8955。状態のいい保存だった)

 

編成単位で
 山梨県韮崎市の韮崎中央公園。機関車+車掌車という形式の保存は少なくないが、貨物列車の編成単位そのものというのはっ珍しい。ここでは、EF15電気機関車を先頭にトラ70000形貨車が3両つづき、最後尾にヨ5000形車掌車が連結されており、貨物列車の編成がきれいに整っていて、こういう展示は東西の鉄道博物館にも見られない堂々たるもの。

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(写真13 EF15電気機関車を先頭に無蓋貨車3両に続いて最後尾にヨ5000形車掌車を連結し貨物列車の編成で展示されている)

 

鉄道博物館
 鉄道は人気なのであろう。全国には公設や民営の鉄道博物館は数多いが、展示車両に車掌車も含まれているところは少ない。ここは千葉県いすみ市の鉄道車両博物館ポッポの丘。車掌車については、気動車に牽引されて4両が展示されている。

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(写真14 気動車の次がヨ8000形のヨ8818。続いて3両がいずれもヨ5000形車掌車。全両ヨ3500形からの改造車で、順に車両番号はヨ14157、ヨ14202,ヨ13959。ヨ8000形に比べ倍近い車内スペースで、ヨ14157号車の場合、事務用テーブルに椅子が2脚セットされているほか、長椅子や石油ストーブも装備されている。複数人の乗務を想定したのだろうが、トイレは付いていない。全両動態保存の状態)

 

駅舎として
 車掌車を駅の待合室に転用している例が全国に33あるらしい。北海道に特に多い。乗降客の少ない駅ばかりだろうが、北海道のような自然条件の厳しい駅では待合室は貴重であろう。

f:id:shashosha70:20190703155801j:plain(写真15 根室本線西和田駅。根室本線のうち愛称花咲線と呼ばれる区間にあり、外観はきれいに塗装され、待合室内には時刻表が掲示されているほか、長椅子のベンチがある。1日あたりの乗客数が1人という駅だが、ボランティアの活動だろうか、清掃も行き届いていた)

 

住宅街の車掌車
 東急池上線洗足池駅からバスで10分ほど。閑静な住宅街の中に佇むようにある。

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(写真16 型式ワフ29500の緩急車。個人所有だが、書斎にでも使用したものであろうか。大変羨ましいこと)

参考・引用文献 

 1.笹田昌宏『車掌車』(イカロス出版)

 2.ウィキペディア関連項目

本州最東端魹ヶ埼灯台紀行

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特集 私の好きな岬と灯台10選

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(写真1 本州最東端に立つ魹ヶ埼灯台)

日本で最も美しい灯台

 魹ヶ崎の突端に立って遮るもののない大海原を見ていると、しきりに船舶が往来している。どこから来てどこに向かうのか、何を積んでいるのか、船からは岬に建つ魹ヶ埼灯台はどのように見えているのだろうか。そんなとりとめもないようなことを思い描いていると時間の経つのも忘れてしまう。
 日本地図を広げて、東京あたりから海路北海道へ向かおうとすると、犬吠埼、塩屋埼、金華山から魹ヶ埼を経て尻屋埼を抜けるということになろうかと見て取れる。この場合、船舶は陸岸から等距離の間を置いて進むのであろうか。あるいは、出発地と到着地の最短に進路をとるのであろうか。もし、最短進路なら、この間、最も陸地に近づくのは魹ヶ埼ということになろう。何しろ、魹ヶ埼は本州最東端なのである。
 私は岬に立って1時間でも2時間でも飽かず海を眺めているのが好きなのだが、往来する船舶にはどうやら航路というものがあらかじめ定められているということがわかってきた。漁船などの小型船舶は陸岸沿いに走っているし、タンカーや貨物船などは水平線ぎりぎりになる遠いところを航行している。また、外洋を航海する大型フェリーはタンカーなどよりはずっと沿岸に近くて、船腹に大きく書かれているフェリー会社のマークが読み取れる程度の沖合だ。
 航路は、原則的には2地点を結ぶ最短距離をとるようだが、航海の安全性を第一に、潮流や水深、天候などに経済性も加味して決定しているようで、フェリーなどのような定期便には固定的な航路が設定されているようだ。
 昔、レーダーなどさほど発達していなかった時代、海図で同じ水深をなぞるように航路をとっていたこともあったようで、これを等深線航法と呼んでいた。水深200メートルなどと等深線を引くと、最も岬に近づくのは魹ヶ埼だったという。何かで読んだことがあるが、タンカーなどは15キロから30キロも沖合を航行しているという。
 現実に、例えば、茨城県の大洗港と北海道の苫小牧港を結ぶフェリーはどのように航路を決定しているのであろうか。もちろん、最短を走るようにはしているのだろうが、さんふらわあ号を運航する商船三井フェリーに問い合わせたところ、ほぼ陸岸から5キロ沖合に航路を設定しているとのこと。随分と近いということになる。この会社は親切で、普段問われることのない意表を突く質問だったのだろうが、きちんと調べて回答してくれた。
 なお、ここからは私見だが、フェリーは乗客と自動車を載せて走っている船。大洗-苫小牧間は754キロ、約19時間の航海。乗客へのサービスも含めて灯台も見えるできるだけ陸岸に近いところを走るようにしているのではないか。夜の航海で、港の灯りが見えるというのも情緒のあること。
 魹ヶ崎(とどがさき)。何と神秘的な響きか。この頃の岬はどこも開けてしまって、灯台は観光地となっているところが少なくないが、ここ魹ヶ崎は今でも秘境性が強く、そのことがまずは第一の魅力。また岬に建つ魹ヶ埼灯台の何と美しいことか。白堊の大型灯台である。なお、国土地理院が定める岬名は崎とし、灯台名は海上保安庁が定めるところから埼とする例は多い。
 魹ヶ崎は、南北300キロに及ぶ三陸海岸のほぼ中間に位置する。重茂(おもえ)半島の先端にあたるのだが、岩手県の地図を広げても、重茂の半島性に気づく人は少ないかもしれない。大まかな地図ならなだらかに陸地が連なっているように見えるのである。
 しかし、子細に見ると、北には宮古湾、南には山田湾が入り込んでいる。このことによって重茂は半島と呼ばれているのだが、それでも、鋭く突き出ているわけではなく、せいぜい大きな腹が出っ張っている風である。
 北上山地がここで太平洋に尽きたようにも見え、重茂半島の中心には海抜465メートルの魹山がある。岬は実に荒々しい岩礁で成り立っているのだが、面白いことに、ちょうどこのあたりで三陸海岸は地形が北と南に別れるようだ。つまり、北は海岸段丘による隆起海岸だし、南は溺れ谷が形作った沈降海岸なのである。ということは、リアス式海岸はこのあたりから南ということになる。煩く言えば、三陸海岸は全てリアス式というわけでもないのである。

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(写真2 魹ヶ埼灯台への登り口)

 魹ヶ﨑への道のりは険しい。宮古駅から車で約1時間で姉吉の集落。昔はここまでバス便もあったが今は廃止されてしまった。さらにそこから30分ほどで岬への登り口。漁船が数隻の小さな水揚げ場があり、「魹ヶ埼灯台への自然歩道入口」との立て札があり、灯台まで3.8キロとあった。〝熊〟に注意との立て札もあり、また、この場所には清掃の行き届いた公衆トイレもあった。
 出発するといきなり急登坂が続く。荷物は車においてカメラだけ担いでいるのだがつらい。日頃の不摂生を呪う。5分10分とあえぎなら登る。もう無理だ、引き返そうかと何度も思う。しかし、この岬は初めてではなし、この登りは覚悟をしていたし、また、スタートしてすぐのこの登り坂を張り切りすぎるとこの先の長い道のりがさらにきつくなることも知っていたから、イーヴンペースでしっかりと登っていった。

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(写真3 林の切れ間からのぞかせる碧い海と緑の林)

 高低差110メートルを一気に登り、このきつい登り坂を過ぎると、後は緩やかなアップダウンとなる。山腹に取り付けられた道は幅1メートルほど。落ち葉が敷き詰められていて、まるで絨毯のようなふくよかさ。林に遮られているから必ずしも視界が開けることは少ない。足下から潮騒が遠く聞こえてくる。小鳥が鳴いている。カッコウの鳴き声もこだましている。静謐で気持ちのいい道のりだ。樹林にはクリなどブナ系が多いようだ。

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(写真4 魚つき保安林の看板)

 途中に、営林署が立てた魚つき保安林の看板があり、「この森林は魚にいこいの場と餌を補給する役目を果たしています」と記してあった。畠山重篤さんの好著『森は海の恋人』を思い出した。この本は森と海の関係を説いたものだった。

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(写真5 ところどころに立っている標柱。ここで魹ヶ埼灯台まで1.5キロとある)

 ところどころに標柱があって、魹ヶ埼灯台まで1.5キロなどとある。
 灯台が近づいた頃と思われたあたり、深い入り江があって、キスゲであろうか、黄色い花が咲き乱れていた。

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(写真6 キスゲであろうか、黄色い花が咲く深い入江の美しい風景)

 そろそろかなと思い、今か今かと期待していたところ、波の音が大きくなったと感じたら、唐突に視界が開け、眼前に白堊の灯台が現れた。どきっとして、茫然とする。涙が出てくる。そして感動する。登り口からちょうど1時間の道のりだった。
 そう言えば、一か月ほど前に横浜市で開かれた灯台フォーラムで元灯台守だったという鈴木照秋さんとお話しする機会があって、鈴木さんは魹ヶ埼に赴任していたことがあると言い、私が日本で一番好きな灯台は魹ヶ埼灯台だと話したら話が弾んで、魹ヶ埼に向かう道のりは始めの登りがとてもきつかったし、最後にはいきなり灯台が目の前に現れてびっくりしたものだと話されていたが、私もまったく同じ感動を経験していたからとてもうれしかった。
 また、鈴木さんのお話では、家族は宮古市街において、一週間交替で勤務していたのだということだった。厳しい灯台守の生活と業務がうかがい知れるが、使命感が支えていたものであろう。なお、鈴木さんは親子二代目だということだった。鈴木さんの最初の任地は襟裳岬灯台だったといい、これも私の大好きな灯台だったから話が尽きなかった。

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(写真7 荒々しい岩礁の上に建つ魹ヶ埼灯台)

 魹ヶ埼灯台の何と美しいことか。姿のいい真っ白な灯台がすっくと建っている。岩礁の上に建つロケーションといい、日本で最も美しい灯台ではないか。
 背の高さ(塔高=地上-塔頂)は34メートル。日本一高い出雲日御碕灯台の43.65メートルよりは低いが、白堊の灯台として高いことで知られる尻屋埼灯台や犬吠埼灯台よりは高い。43メートルの稚内灯台に次いで日本で3番目ではないかと思われる。

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(写真8 魹ヶ埼灯台から見た太平洋。沖合を航行している船は巡視船か)

 灯台のそばには四阿(あずまや)が設けてあった。眼前には太平洋が大きく広がっている。私が基準としている測り方で表現すると、両手を広げて余るほどだから、240度もの眺望であろう。なお、きちんとしたトイレも設置してあって、こういう施設はかつてはなかった。

 魹ヶ埼灯台の魅力とはなんだろうか。探訪が容易ではないという秘境性がまずある。約1時間の道のりで行き違う人が一人もいなかった。つまりそういうところだということ魹ヶ埼灯台は。灯台紀行などという本にも載っていないものがあるほどだ。
 そして灯台の純白の美しさ。まるで貴婦人のような姿だ。岩礁の上に一人たち海を照らし続ける孤高さ。
 この岬を訪れたのはこれまでに4度。初めは高校生時代の夏休みで、この時は宮古の白浜というところにテントを張って翌日の踏破に備えていた。全ルート徒歩旅行だったのだが、しかし、どこで道草を食ったものか、帰途山田に向かう途中で暗くなってしまった。岬への旅はいつも一人だった。
 そして再訪は1990年6月16日だった。この時のノートには「途中、まったく途絶えていた波の音がまた聞こえてきたらそこが灯台だった」とある。
 この当時は職員が常駐し灯台を見学させてくれていた時代で、バルコニーに登らせてくれた。ノートには〝階段136段〟とある。
 この時案内してくれたのが坂井宣之さんという方で、この年の春に海上保安大学校を卒業したばかりの若い灯台守さんだった。北海道出身23歳、顎髭の似合う凜々しくも頼もしい青年だった。坂井さんによれば、灯台の生活は一週間交替で、宮古の事務所と交互の勤務だとのこと。三人で宿直をしていて、食事も三人が交代で作るのだという。
 このことはこの時のノートをひもといて思い出したのだが、あれから29年、まだ現役で働いている年齢だが、どうしているものか。写真も1枚撮らせてもらったが、ここに載せていいものかどうか。
 そして、直近の4度目は2016年7月1日だったが、何度訪れても魹ヶ埼灯台の印象は少しも変わっていないことに新鮮に驚いた。つまり、魅力ある灯台がそのまま保たれているということで、これはうれしいこと。
 気がついてみれば、魹ヶ埼灯台は、私の岬好き灯台ファンの原点だったのである。

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(写真9 本州最東端の碑。「喜びも悲しみも幾年月」の原作者田中きよさんの筆。田中さんは灯台守の夫とここ魹ヶ埼灯台で7年間過ごしたという))

<魹ヶ埼灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号1647(国際番号M6598)
 名称/魹ヶ埼灯台
 所在地/岩手県宮古市重茂
 位置/北緯39度32分8秒 東経142度04分3秒(世界測地系)
 灯質/単閃白光毎15秒に1閃光
 塔高/34メートル
 灯火標高/58メートル
 レンズ/第3等大型フレネル式
 実効光度/53万カンデラ
 光達距離/20.5海里(約38キロ)
 塗色・構造/白色円塔形コンクリート造
 初点灯/1902年3月1日(鉄骨造)。歴史/1945年太平洋戦争で破壊、1950年再建(コンクリート造)、1996年無人化
 管理事務所/第二管区海上保安本部釜石海上保安部
<お断り> ABABA'sノートは、これまで月曜から金曜まで毎日(土休日除く)記事を投稿してまいりましたが、本日7月1日からは土日月の週3回の投稿に変更します。なお、この際、これまでのような日記調主体の記事に加え、特集記事等も投稿してまいりたいと思っております。

中村文則『あなたが消えた夜に』

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二回読んでも難解

 4年前に単行本が刊行された折にすでに読んでいて、このたび文庫化されて再び手に取った。つまり再読と言うことだが、まったく色褪せていなかった。それほど面白いと言うことだが、まずはそのことに自身率直に驚いた。小説は文庫化されて再び読むことはたびたびだが、著者のものでは傑作『掏摸<スリ>』もそうだった。
 初めて単行本で読んだときにもブログに感想を書いていて、改めて書いても二番煎じになりかねないが、一つ二つ気がついたことを拾ってみよう。
 市高署の管内で殺人事件が発生する。通り魔の犯行とみられ、1件目と手口が同じで現場も近いところから同一犯と思われ、連続通り魔事件となった。犯人は目撃証人から「コートの男」と目された。所轄である市高署の若い刑事中島も捜査に投入され、警視庁捜査一課の女性刑事小橋と組むこととなった。
 膨大な捜査員が投入され、あらゆる角度から捜査が進められていくが、事件は3件目4件目5件目と拡大していく。同一犯なのか、あるいは模倣犯が出てきたのか。
 捜査が行き詰まる中、「捜査員は膨大にいます。いい知恵もない。ならいっそ数を撃つのはどうでしょう」、「つまり、今回の事件に関連した場所、全てを見張るんです。犯人は現場に戻るっていうし。あと今名前の挙がった人物、全員も見張る。米村のクリニックの患者たちも含めて、とにかくもう全部です」ということになる。
 これは所轄でまかなうこととし、それぞれの受け持ちごとに捜査員が散っていくと、ある場面で、尾行していた捜査員たちがまるで集合したみたいに同じ場所に出くわす。なぜか……。
 捜査員も行き詰まるが、読者もこんがらかってくる。メモが欲しくなってくるが、本書のいいところは、二部の始め、三部の始めなどと、各部の始めにそれまでの主な登場人物が整理されたメモ書きが張り出されている。外国のミステリーなどでは、冒頭に主な登場人物の一覧が挟まれているものだが、本書はそれとも違って物語の進行に合わせて書き込まれる登場人物が変わってきていてとても親切。作者にしても、それほどに複雑な物語だということを認識しているということでもあるのだろう。
 ネタバレになるしここで事件解決にあたるラストシーンを書いてしまうわけにはいかないが、三度目に読み返したときにはうまいまとめ方ができるのではないかと思われた。つまり、それほど難解で一筋縄ではいかないということ。
(毎日文庫)

<お断り> ABABA'sノートは、これまで月曜から金曜まで毎日(土休日除く)記事を投稿してまいりましたが、来月7月からは土日月の週3回の投稿に変更します。なお、この際、これまでのような日記調主体の記事に加え、特集記事等も投稿してまいりたいと思っております。

 

 

ダイヤモンドクロス遺構

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(写真1 西宮北口駅前の公園に保存されているダイヤモンドクロスの遺構)

阪急西宮北口駅

 ダイヤモンドクロスとは、鉄道趣味世界で二つの鉄道同士が直角に平面交差することを言う。大変珍しく、現在では路面電車同士ということでは高知市にあり、普通鉄道と路面電車の交差ということでは松山市にあるが、旅客電車が交わる普通鉄道同士の平面交差は阪急の西宮北口駅構内にあったものが日本で唯一で、その遺構が駅前の公園に保存されている。(ちなみに、普通鉄道同士ながら旅客線と貨物線ということでは名鉄の築港線にあるらしい)
 西宮北口駅とは、まるで路面電車の停留所か、あるいは〝北西宮〟の言い方違いかとも思うが、れっきとした阪急神戸本線と今津線が接続する駅。神戸本線では梅田と三宮のちょうど中間にあって、西宮市の中央駅のような存在の大きな駅。JR線や阪神線に西宮駅があるから混同を避けたものであろうし、北側に位置するからこの名にしたのであろうし、北西宮では読みにくかったのであろう。現在、地元では、ニシキタと通称しているようだ。また、駅が開設された当時は、周辺は開発途上だったらしい。

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(写真2 遺構の解説板に掲示してあった写真)

 平面交差は、神戸本線と今津線との間で行われていた。今津線は今津駅から宝塚駅を結ぶ路線。戦前からある線区で、当初は、運転本数も少なく平面交差も可能だった。当時の写真に平面交差の様子が写っているが、ハッとするような場面だ。
 それが、運転本数の増加に伴い平面交差はネックとなり、1984年に今津線を分断する形で平面交差を解消した。現在の今津線は、線区名は一つだが、今津駅-西宮北口駅間と、西宮北口駅-宝塚駅間の二つの路線となっている。
 西宮北口駅を南側に出るとペデストリアンデッキが張り巡され、阪急西宮ガーデンズというしゃれた街区となっている。西宮球場跡地を再開発したもので、阪急百貨店などもあり、今や関西住みたい駅ランキングの第1位らしい。
 その駅前に交番があり、隣接している高松ふれあい緑地という公園の中にダイヤモンドクロスの遺構があった。
 遺構というよりも、移設して保存したという様子で、直角に平面交差していることがはっきりとわかって興味深かった。

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(写真3 西宮北口駅改札内。明るく広いコンコースだ)

阪急伊丹線/甲陽線

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(写真1 塚口駅で左3号線が伊丹線ホーム。右は本線)

近畿地方の鉄道路線⑫

 伊丹線も甲陽線も阪急電鉄神戸本線の支線的存在。しかも、どちらも、路線距離がわずか2キロから3キロ程度の短い盲腸線。
 伊丹線
 神戸本線塚口駅から伊丹駅を結ぶ路線。JR福知山線とほぼ並行している。5月27日塚口3号線から13時37分発伊丹行き。4両。平日の日中だが、乗客はそこそこ多い。沿線は住宅地で、工場が多いJR線とは様相が違う。市街中心には近いようだ。途中、稲野、新伊丹とあって13時42分伊丹着。2号線。わずか5分の乗車。路線距離は3.1キロである。線内往復の列車ばかりで、本線との乗り入れはないようだ。
 JR伊丹駅とは同じ駅名ながら離れているし、伊丹空港の最寄り駅というわけでもない。

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(写真2 伊丹駅2号線の様子)

<線区メモ>
線区名/阪急伊丹線
区間/塚口駅(兵庫県尼崎市)-伊丹駅(兵庫県西宮市)
営業キロ/3.1キロ
軌間/1435ミリ
駅数/4駅(起終点駅含む)
全線複線・電化

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(写真3 夙川駅甲陽線ホーム)
 甲陽線
 神戸本線では梅田から来ると西宮北口の次の夙川(しゅくがわ)駅から甲陽園駅を結ぶ路線。営業距離はわずか2.2キロしかなく、阪急の中では単独の路線としては最も短い。駅数も途中に一駅あるだけ。
 5月27日夙川11時07分の発車。片側1線のホームで、ホームに番線(阪急で言う号線)表示がなかった。2両編成。阪急でこれは少ない。ワンマン運転で、これも阪急では珍しい。しかも走り出してわかったがこの路線は単線で、これも阪急としては珍しく、たしか、嵐山線に例があるだけではなかったか。
 夙川を出て苦楽園口を経てすぐに甲陽園到着。11時12分。苦楽園と言い甲陽園と言い、まるで老人ホームのような駅名だが、開業当初歓楽地だったことの名残なそうで、現在は夙川を初め沿線は高級住宅地となっている様子。

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(写真4 甲陽園駅のたたずまい)
<線区メモ>
線区名/阪急甲陽線
区間/夙川駅-甲陽園駅(全線兵庫県西宮市)
営業キロ/2.2キロ
軌間/1435ミリ
駅数/3駅(起終点駅含む)
全線単線・電化