ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

映画『スパイの妻』

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(写真1 映画館で配布されていたチラシから引用)

秀逸な映画美

 戦争への足音が近づいてきた1940年の神戸。貿易商の福原優作(高橋一生)と妻聡子(蒼井優)は、瀟洒な洋館に住み夫婦仲のよい生活を送っていた。
 満州出張から帰国した優作に聡子は何やら影を感じ始めていた。折から、聡子は、幼馴染みの憲兵隊長津森泰治(東出昌大)から、優作が満州から連れ帰ってきた女が水死体で見つかったが知っているかと問いただされた。聡子は何も知らなかったのだが、優作に対し疑念が生まれていた。
 心配になった聡子は、優作の会社の倉庫に忍び込んで金庫を開けると、そこには映画フィルムと不穏な資料がしまわれていた。詰問する総子に優作は、満州で偶然に知った国家機密だといい、正義のためにこの機密を公にする決意だと告げる。その国家機密は、関東軍が密かに行っていた生物兵器のためのペストの人体実験の詳細を記した資料と映画フィルムだった。
 その上で、優作は聡子に、私は恥ずべきことは何もしていない、私を信じるか信じないかと問われた聡子は、「信じます」とだけ答えたのだった。
 やがてスパイとして疑われた優作が、「私はコスモポリタンだ。どこの国を利するためのものではない」と決然とし、私はスパイかスパイではないのかと聡子に理解を求めると、聡子は「あなたがスパイなら、私はスパイの妻になる」と毅然とするのだった。
 優作と聡子は、この機密を持ってアメリカに渡り、アメリカの参戦を促すことによって戦争の終結を図ろうとする。
 ここからラストまでのシーンは、聡子自身が「お見事です」と語るように、それこそ実に見事なシーンの連続だった。
 全編がほぼモノクロームのような映像。灰色の社会が映し出されている。実に印象深い映画美だったと言えよう。しかし、映画は光と影で成り立っているもの。影については実に丁寧に表現されていたが、光については、聡子の笑顔で受け止めろというのか、それでは映画言語としては弱かったのではないかと思われた。
 これ以上ラストシーンを記すわけにもいかないが、冒頭に紹介された映画フィルムが、実は劇中劇として重要な意味を持っていたとだけは書いておこう。もっとも、私にはすぐにピンときたが。また、最後の場面で、優作が聡子を守るために取った奇抜な作戦はもう一度「お見事です」と叫びたくなる感動の結末となっていた。なお、聡子は精神異常者ということで精神病院に押し込められていたのだが、私は狂ってはいない、狂っているのは社会の方だと語っていたのはこの映画の主題の一つだったのであろう。
 とても面白い映画。見応えがある。聡子を演じた蒼井優の存在感が素晴らしかった。この映画が当初NHKの8Kテレビ映画として製作されたとは思われないほどの重厚さだった。もっとも、劇場公開も予定されてはいたのだろうが。ヴェネチア映画祭銀獅子賞(監督賞)受賞作品。監督は黒沢清。

市内電車とつながった富山港線

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(写真1 富山駅停留所の様子)

富山ライトレールの鮮やかな転進

 富山港線についてはいささか解説がいる。そもそもは、富山地方鉄道(通称富山地鉄あるいは単に地鉄)の前進富岩鉄道によって1924年に開業した路線で、その後、戦時買収によって国有化され、国鉄の富山港線となった。しかし、国鉄の分割民営化で継承したJR西日本は2006年に富山港線の廃止を行い、第三セクター富山ライトレールが承継しLRT路線として復活した。この際、新たに設けられた富山駅北-奥田中学校前間の線路を付け替えて軌道敷きとし、同時に、岩瀬浜までの全線に渡って路面電車化した。さらに、JR富山駅の高架化によって、それまで分断されていた南北を貫通させ、富山駅北停留所を廃止して富山駅停留所に乗り入れさせ、南側で走っていた市内電車と直通運転をさせた。また、富山ライトレールは富山地鉄に吸収合併され、今年2020年3月21日、実に79年ぶりに富山地方鉄道富山港線が復活した。
 富山地鉄が運行する富山の市内電車には、1から6まで6つの系統があるのだが、このうち4系統(岩瀬浜-南富山駅前)、5系統(岩瀬浜-富山大学前)、6系統(岩瀬浜-環状線)の3つが富山港線と相互に乗り入れていて直通運転を行っている。
 富山駅停留所で発着を見ていると、3面4線のホームに8番まで乗り場があって、8番ホームが岩瀬浜方面の乗車、5番ホームが岩瀬浜方面からの降車となっている。また、電車は、岩瀬浜乗り入れがトラム型車両で、乗り入れの行わない1から3までの系統の車両は旧来のもののようだった。

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(写真2 奥田中学校前停留所付近ですれ違う電車)

 さて、富山駅を発車すると、奥田中学校前までの1.2キロの区間は軌道線で、その先の岩瀬浜までの6.5キロが鉄道線となる。奥田中学校前はその手前で大きく左折した。もっとも、乗っていると軌道線も鉄道線も変わりはないのだが、法律上の区分はそういうことになっている。
 鉄道線に入ると専用区間だから走行もスムーズ。途中、城川原は、富山ライトレール時代に本社のあったところで、ここで乗務員の交代があった。

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(写真3 岩瀬浜の手前で運河を渡る電車)

 やがて競輪場前を過ぎると運河を渡った。右窓遠くには純白の立山連峰が見えた。
 そうこうして終点岩瀬浜。富山駅から27分の乗車。路線距離7.7キロ、駅数は13。駅舎というよりは屋根付きの停留所というところ。ホーム反対側には、フィーダーバスの停留所となっている。岩瀬浜周辺のバス路線で、運行時刻は電車と連動しているようだ。

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(写真4 終点岩瀬浜)

 駅に掲示してあった時刻表によると、日中は、毎時01分と31分が環状線直通で、16分発は南富山駅方面、46分発が富山大学方面行きとなっていた。朝夕はともかく、日中は定刻運行だからとてもわかりやすいダイヤだ。JR時代に比べれば、運行本数は3倍以上にもなった。なお、この発車時刻表によると、富山駅止まりという列車は設定がないようだ。

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(写真5 岩瀬浜停留所に掲示してあった運行時刻表)

 岩瀬浜で降り立ったのは実は今回が4度目。JR時代に1度、富山ライトレールになって2度来ていた。JRが音をあげた路線を第三セクター富山ライトレールが引き取り、しかもLRT化した。その様子が気になっていた。しかし、来るたびに富山市民の支持が高まっていて、安定した運行となっていた。
 LRT化したことによって、車両の低床化が進み、駅のバリアも消えたし、お年寄りにもやさしい鉄道となっていた。運行本数の増加も利用者本位のものとなるなど利便性が著しく向上した。
 そしてこのたび、いっきょに市内電車と直通運転をすることによって市街中心へと乗り入れることができた。日本の鉄道の未来図を見ているようだった。(2020年11月12日取材)

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(参考 JR時代の岩瀬浜駅=1990年9月23日撮影)

金沢の大野灯台

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(写真1 大野川にかかる大野大橋上から見た大野灯台)

四角い姿のいい灯台

 先週は富山から金沢へと旅行した。晩秋の北陸は久しぶり。特に金沢などは大変なにぎわいぶりだった。
 金沢では大野灯台を訪ねた。大野灯台は、金沢市街の北、金沢港に建つ灯台。金沢港は日本海に面し大野川の河口に開けた港湾で、北前船の時代、日本海航路の重要な港として栄えてきた。現在は、大野港と金石港とを統合した港として大型貨物船が寄港する岸壁などがあり、このうち大野川に入り込むように設けられた大野岸壁は漁船が横付けされている。
 大野灯台には金沢駅付近から北鉄バスが出ている。停留所は中橋バス停といい、金沢駅から徒歩5分ほど、JR線の西金沢寄りのガード下にある。バスの本数は少なく、十分に時刻表を吟味しておく必要がある。

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(写真2 漁港の奥に遠望する大野灯台)

 大野港または大野行きバスに乗車、約30分ほど。大野港も大野もバス停はほんの数分離れているだけでごく近い。バス停からは大野川に向かって歩き出すとすぐに橋があり、その手前を河口に向けて歩けばよい。橋の上からは灯台はもう見えている。バス停から灯台まで10分弱。川沿いには多数の漁船が係留されている。
 白くとても姿のよい灯台で、すらりとしている。高さが26メートルもある。灯台を築いた場所がさほど高くもなかったので、灯塔を高くしたのであろう。灯台を解説する看板によれば、8階建てのビルに相当する高さで、昭和28年当時は金沢港のシンボルタワー的存在だったという。
 四角い塔形というのは珍しい。円形が大半だから、四角は数少ない。三重県の安乗埼灯台が有名で、利尻島の沓形岬灯台がそうだった。沓形岬灯台は白地に赤の横帯1本だった。通りがかったおじさんが、私がパチパチと写真を撮っていたら、四角は珍しいだろうと自慢げだった。
 また、このおじさんによれば、この灯台は、そもそも地元の船主が魚油を焚いて灯台の灯りにしたのが始まりだったと話していた。その後、昭和9年3月1日に航路標識として公認されたが、この日をもって初点灯としている。また、現在の灯台は昭和28年に建て替えられたもの。
 灯台は、大野川の川岸近くに建っており、海側は築港工事であろうか、多数のダンプカーが出入りをしていた。海が遠くなって灯台の役目に影響はないものだろうかと心配になったものだった。
 灯台のすぐ隣は大きな醤油工場で、沿岸灯台というにはやや風情にかけるが、日本の灯台50選の一つである。この50選の中では、高さでは大野灯台が6番目である。おそらく高さと姿形の良さで選ばれたものであろうか。

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写真3 海側から見た灯台全景)

<大野灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)
航路標識番号[国際標識番号]/1091[M7232]
位置/北緯36度36分58秒 東経136度36分10秒
名称/大野灯台
所在地/金沢市大野町
塗色・構造/白色塔形、コンクリート造
レンズ/LB-H120型
灯質/単閃白光 毎秒10秒に1閃光
実効光度/97万カンデラ
光達距離/16.5海里(約31キロ)
塔高/26.40メートル
灯高/34.34メートル
初点灯/1934年(昭和9年)3月1日
管轄/海上保安庁第九管区海上保安本部金沢海上保安部
備考/日本の灯台50選

パブリックアート

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(写真1 シカゴのデイリー・シビック・センタービルの前庭にあるピカソの「アンタイトル」。コールテン鋼という材料が使われている)

世界各地に拾う

 街角や街路にたたずむアート。ストリートアートとも違って景観に溶け込んでいるのが素晴らしい。旅行などで訪れた街を歩いていてパブリックアートを見つけると、その町の豊かな情緒までも感じられてうれしい。内外で印象深かったものをいくつか拾ってみよう。
 シカゴはアーキテクチャの街としても知られるが、街を歩いていてよく見かけるのはプラザ・アートと呼ばれるパブリックアート。大きなビルの前庭に展示してあるのでこの名で呼ばれる。

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(写真2 カルダーの『フラミンゴ』)

 連邦政府センタープラザにあり、赤く色を塗られた鉄製の大きな作品で、高さは10数メートルもありそうだ。私にはフラミンゴというよりは、巨大な昆虫のようにも思われた。

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(写真3 ヘンリー・ムーアの作品)

 ボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)の外周道路に面してある。パブリックアートとは呼ばないのかもしれないが、道路からも見えるし自由に見学できる。MITにはほかにもムーアの作品がいくつかある。
 日本にもパブリックアートに熱心な都市がいくつかある。

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(写真4 舟越保武「花を持つ少女」=姫路市)

 姫路には、姫路駅から姫路城に向けてまっすぐ延びる道路沿いに彫刻がいくつか立っている。船越の作品はいつ、どこで見ても高い精神性が感じられて好きだ。

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(写真5 佐藤忠良「夏」=釧路市)

 釧路もパブリックアートの多い街。釧路駅からまっすぐに伸びたメインストリートを行くと弊舞橋(ぬさまいばし)の欄干に春夏秋冬と名づけられた彫刻が迎えてくれる。舟越保武、佐藤忠良らいずれも戦後日本を代表する彫刻家4人の競作。

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(写真6 舟越保武「春」=釧路市)

街路の彫刻

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(写真1 美しい紅葉と彫刻。作品は岩田健「二人と猫」)

芸術の秋演出

 紅葉が美しい季節になってきた。落ち葉を踏みしめながら歩くのも気持ちがいい。とてものんびりした気持ちになれる。
 いつも散策で訪れる近所の公園の外周道路には、数百メートルにわたって彫刻が展示してある。いわゆるパブリックアートである。彫刻作品を見ながら歩くと一層豊かな気分になれるようだ。数えたことはないが周辺も含めると10体ほどはありそうだ。それも一流の彫刻家ばかりだから素晴らしい。

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(写真2 中垣克久「充」)

 

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(写真3 伊佐周「緑の風Green Breeze」)

 

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(写真4 日高頼子「曙」)
 

東京の地下鉄全線に乗る③

全鉄道全路線全二周への旅

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(写真1 赤羽岩淵駅に掲示されてあった南北線案内図。停車駅が一目でわかる。乗り換え路線名も書いてあり、永田町など当線も含めれば実に5路線が乗り入れている)

ついに三日がかりで13路線完乗!

 出がけに家内から「まだ残っているの?大変だわね」と揶揄とも激励ともわかりかねるような言葉をかけられて東京の地下鉄全線に乗りに出かけた。何しろ三日連続だから言いたいことがわからないでもない。
 一日目が千代田線、副都心線、有楽町線、都営大江戸線、都営浅草線と5路線に乗り、二日目には半蔵門線、銀座線、都営新宿線、丸ノ内線、東西線とやはり5路線を片付けており、三日目の本日は残る3路線に乗る。
⑪南北線(目黒-赤羽岩淵、21.3キロ、19駅、ラインカラーエメラルド、路線記号N) 東京の地下鉄では数少ない東京を南北に貫く路線。

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(写真2 環八に面した赤羽岩淵駅出口外観)

 南北線には赤羽岩淵から乗った。さらに北部にある浦和美園が起点の埼玉高速鉄道(通称埼玉スタジアム線)からの直通列車が多い。また、目黒で東急目黒線と直通運転されており、乗った列車も目黒線日吉行きだった。
 赤羽岩淵は、東京都内。駅前は環八で、JR赤羽駅まで430メートルとの案内があった。ホームドアは車両の高さまであり、大方の胸の高さのものとは違う。これなら乗り出すことも乗り越えることもできない徹底した安全柵ということになる。
 赤羽岩淵を出ると、志茂、王子神谷と続き赤羽。JR京浜東北線との接続駅である。同じ南北に走る路線であり、競合が心配になるが、そもそも東京は東西への放射状に伸びる路線は多いが、南北路線は少ないから鉄道未達区間の解消には大きな意味がある。
 王子を出ると西ヶ原、駒込、本駒込、東大前、後楽園を経て飯田橋から市ヶ谷、四ッ谷と皇居を左回りに迂回して永田町、溜池山王と回り込み、やがて南下して六本木一丁目、麻布十番、白金高輪、白金台、終点目黒へと至る。

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(写真3 目黒通りに面した目黒駅地上外観)

 目黒は、都営三田線、東急目黒線との共同使用駅であり、地下駅。1面2線の島式ホームがあり、列車は目黒線に直通する1番線に到着した。目黒駅は高層ビルになっていて、駅前は目黒通り。ちなみに、目黒駅は目黒区ではなく品川区にある。もっとも、品川駅は品川区ではなく港区だが。
⑫都営三田線(目黒-西高島平、26.5キロ、27駅、ラインカラーブルー、路線記号I)

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(写真4 目黒駅ホーム。左2番線が南北線赤羽岩淵、都営三田線西高島平方面で、右1番線は目黒線への直通)

 南北線で目黒に着いて同じ駅同じホームから都営三田線への乗り換えだからこれはスムーズ。
 目黒駅は、東京メトロ南北線、都営三田線に東急目黒線3社の共同使用駅だが、ホームは1面2線の1本だけ。南北線も三田線も原則目黒線と直通運転を行っており、すべて2番線に入ってくる。
 目黒を出ると白金台、白金高輪と続くが、ここまでは線路および駅ともに南北線と共用区間。白金高輪を過ぎると南北線が左に離れていった。
 三田線も、南北線同様東京を南北に貫く路線。南北線は平成になっての1991年の開業だが、三田線は断然古く1968年の開通。また、当初、三田線は三田駅が起点だったのでこの路線名称となっており、三田から目黒へと延伸されたのは10年前だった。
 さて、白金高輪の次が都営浅草線と接する三田で、芝公園、御成門、内幸町、日比谷、大手町、神保町、水道橋、春日、白山、千石、巣鴨、西巣鴨と続く。このあたりは白山通りの地下である。
 続いて新板橋、板橋区役所前、板橋本町、本蓮沼、志村坂上と進み、志村三丁目から地上に出て蓮根、西台、高島平、新高島平を経て西高島平へと至った。高島平と名のつく駅が3駅続くが、いかにも安易な駅の命名で、高島平そのものは巨大団地があるものの、あるいは付近に適当な地名が見あたらなかったのかもしれない。

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(写真5 西高島平駅ホーム)

  実は、この日は、初め目黒で昼食にしようとしていたのだが、大変混み合っていたので敬遠し、西高島平に変更していたのだった。ところが、ここは駅前に食堂はおろか売店も見当たらないようなところで、工場とトラックターミナルが目立つようなところだった。つまり、駅名にするような由来のものが見当たらなかったということを実感したのだった。初めて降り立ったわけでもないのにこれはうかつだった。
 ともあれ、これで三田線も終了。残るは日比谷線のみとなった。しかし、三田線が日比谷線とクロスするのは日比谷まで戻らなくてはならない。これはいかにも単調で、それで三田線は新板橋で降り、徒歩で埼京線の板橋で乗り換えることにした。新板橋、板橋間は徒歩で10分ほど。随分と久しぶりに板橋駅を利用することになったが、思い起こせば、ここは赤羽線と呼ばれていた時代だからだいぶ古い。もっとも、所属する線路名称は現在でも赤羽線なのだが。
 板橋からはそれこそ埼京線で一直線に恵比寿に行き、一駅戻った。

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(写真6 山手通りに面した中目黒駅改札口。3番線日比谷線銀座、北千住方面のほか4番線に東横線、副都心線、1番線東横線などの行き先表示が見える)

⑬日比谷線(北千住-中目黒、20.3キロ、22駅、ラインカラーはシルバー、路線記号H) 日比谷線は終点側の中目黒からスタート。中目黒は東急東横線との共同使用駅で、地上駅。山手通りに面している。島式2面4線のホームがあり、内側2・3番線を日比谷線が使用している。かつては、日比谷線から東横線に乗り入れていたが、現在は東急側への直通はなくなって、すべての日比谷線列車はここ中目黒止まりとなった。
 中目黒を出るとすぐに地下に入り、恵比寿。山手線との接続駅。広尾、六本木、神谷町と続き虎ノ門ヒルズ。今年2020年6月に開業したばかり。
 霞ヶ関、日比谷、銀座、東銀座、築地、八丁堀、茅場町、人形町、小伝馬町、秋葉原、仲御徒町、上野、入谷、三ノ輪と進み、南千住で地上に出て北千住に至る。北千住からは東武線へ直通する列車が多数発車している。

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(写真7 北千住駅東武線各線、日比谷線改札口)

 つまり、北千住は、常磐線と小田急線に直通する千代田線、東武線と東急田園都市線に乗り入れている半蔵門線、そして東武線に延びるこの日比谷線がクロスしており、東京の地下鉄にとっては重要な拠点駅と言える。ほかに、JRやつくばエクスプレスも北千住で接続しており、大ターミナルだ。(2020年10月30日取材)
    ◆  ◆  ◆
  これで、三日かかったが東京の地下鉄全線を乗り終えた。

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(写真8 東京の地下鉄の車内風景)

 東京メトロ(東京地下鉄=旧営団地下鉄)は9路線195.1キロであり、都営地下鉄が4路線109.0キロで、合計13路線304.1キロである。近年、上海、北京、広州と中国で地下鉄路線が急激に拡大されて世界的事情は変わったが、かつてはロンドン、ニューヨークと並んで東京が世界三大地下鉄網だった。ロンドンの交通博物館には、東京の地下鉄路線図が大きく掲示されている。
 東京の地下鉄の特徴はいくつかあるが、最大の特徴は、近郊に伸びる他社線との相互乗り入れによる直通運転を行っていることだろう。営業距離数は上海や北京、広州より少ないが、この直通区間を1本の運転と考えれば、東京の営業距離数は断然増える。相互に乗り入れで直通運転を行っている路線は、全13路線中実に10路線に及ぶ。銀座線、丸ノ内線、都営大江戸線だけが相互乗り入れを行っていないが、この3路線は軌間(ゲージ)や給電方式などが独特で、他社線と直通かできないという事情があるのである。
 また、もう一つの特徴は、路線が網の目のように都心に集中していることだろう。大手町や永田町などは実に5つもの路線が重なり合うように駅を構えている。これには大深度開発など技術的進歩も大きく寄与したものであろう。また、渋滞のひどい東京の地下にトンネルを掘るということでは、シールドマシンなどの技術的発達もあったに違いない。駅数そのものが多いということもあるが、皇居を迂回して路線が築かれたという事情も大きい。皇居の地下を鉄道が走ることをはばかったものかもしれない。もっとも、皇居の中に利用者はいないわけで、駅を設ける意味がないという判断も下されたのであろう。
 その分、皇居の周辺は官庁街や大ビジネス街が広がっており、皇居の周りをぐるぐると取り囲むように路線は発達した。何しろ、千代田区内を走らない地下鉄路線は13路線の中で副都心線のわずかに1線のみなのである。
 都心部を走るからでもあるが、東京の地下鉄は駅数が多く、駅間距離も短い。大方の駅で乗り換えができるから利便性も高い。乗り換えを容易にするということでは、エスカレータやエレエータの普及も効果があった。
 実際に乗っていて気がつくことは、駅がきれいだ、もちろんエスカレータやエレベータの設置も進んでいるし、トイレもきちんとしている。
 東京の地下鉄は乗りにくいという評判を聞くことがあるが、このごろではずいぶんと改善されたのではないか。ホームドアの設置が進んでいるし、路線別のカラーリングや駅のナンバリングなども徹底されてきた。
 それにしても地下鉄に乗って何が楽しいのかと問われるが、実際、車窓に風景はないわけだから一番の楽しみはないが、次々と停車する駅の名前が楽しい。特に都心部においては江戸時代以来の地名が駅名に採用されているから実に興味深い。これは駅数が少ないJR路線では味わえないことで、昔の都電ほどではないにしても、捕物帖の世界が彷彿とされたりして面白い。
 三日間にわたったこのたびの記事では、全路線で全駅名を記した。駅名を羅列して何が面白いものかと思われたが、駅名をなぞっていくだけで地上の風景が広がってくるようだった。

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(写真9 一日乗車券)
 なお、このたびの旅では、「東京メトロ 都営地下鉄一日乗車券」(900円)を利用した。
<東京の地下鉄面白メモ>(日本地下鉄協会資料、ウキペディア等から引用)
・1日あたり路線別輸送人員(平成30年度)=①東西線1,467千人 ②丸ノ内線1,377千人 ③千代田線1,301千人 なお、都営では大江戸線977千人
・営業路線距離=①大江戸線40.7キロ ②東西線30.8キロ ③有楽町線28.3キロ
・駅別乗降人員(東京メトロ2019年度1日平均)=①池袋567,703 ②大手町365,972 ③北千住292,035
・駅間距離最短=丸ノ内線新宿-新宿三丁目0.3キロ
・駅間距離最長=千代田線町屋-北千住2.6キロ
・最深部駅=大江戸線六本木マイナス42.3メートル

半蔵門線・銀座線・新宿線・丸ノ内線・東西線

全鉄道全路線全二周への旅

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(写真1 これは珍しい円形の窓=丸ノ内線で

東京の地下鉄全線に乗る②

 興味のない人には馬鹿馬鹿しくてあきれてしまうだろうが、今日も東京の地下鉄全線に乗りに出かけた。一日目の昨日は、千代田線、副都心線、有楽町線、都営大江戸線、都営浅草線の5路線に乗った。まだ8路線も残っている。二日目はどれほど片付けられるものか。(○数字は乗車順=一日目からの連番)
⑥半蔵門線(渋谷-押上、路線距離16.8キロ、駅数14駅、ラインカラーはパープル、路線記号はZ) 一日目は都営浅草線の押上駅をもって切り上げており、二日目はその続きとして押上からの出発。

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(写真2 半蔵門線押上駅ホーム。行き先表示に準急中央林間の文字)

 押上駅のホームで発着する列車を見ていると、東武は日光線の南栗橋や伊勢崎線の久喜から来て、半蔵門線を経由して東急は田園都市線の中央林間や長津田に向かっている列車が大半で、3社が相互直通運転している。ちなみに計算してみたところ、南栗橋-中央林間を直通すると運行距離は実に98.5キロにも及ぶ。この全線を通しで乗る人は少ないだろうから、100キロも離れていると、南栗橋の人は中央林間が、逆に中央林間の人は南栗橋がどんなところか見当もつかないのではないか。原武史流に表現すれば異文化の直通ということになるのかもしれない。
 押上を出ると、錦糸町、住吉、清澄白河、水天宮前、三越前と続き、大手町から皇居を時計回りと反対に半周して神保町、九段下、半蔵門、永田町、青山一丁目、表参道を経て渋谷に至る。
 ここまで乗ってきて気がついたが、半蔵門線の各駅は必ずどこかの路線と接続している。東から西へ都心を貫いているからだが、接続のないのはそれこそ半蔵門駅だけ。

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(写真3 渋谷駅ホーム。右が半蔵門線、左は半蔵門線から直通する田園都市線)

 これで半蔵門線は終わり。銀座線に次いで短い。ただし、銀座線は線内で運転は完結しているが、半蔵門線は乗り入れている直通部分がやたら長い。なお、駅数は14で、これは東京の地下鉄中最小。
 渋谷では1番線に到着した。押上から所要約35分。朝の通勤時間帯だったのだが、満員だが超満員にではない。乗客の大半はスーツを着たビジネスマン。このごろのはやりか、スーツなのにリュックを背負っているものが少なくない。
⑦銀座線(浅草-渋谷、14.3キロ、駅数19、ラインカラーオレンジ、路線記号G、軌間は標準軌の1435ミリ、第三軌条方式の給電) 同じ渋谷駅構内の乗り継ぎだから便利かと思いきや、半蔵門線のホームから銀座線のホームまで何と12分もかかった。サインが不明朗で、途中で消えたりしたからでもあるが、渋谷駅は大改造したが、利便性はあまり向上していないようだ。
 もとより日本でもっとも古い地下鉄路線で、ここと丸ノ内線だけが東京メトロの中で標準軌であり、給電が第三軌条方式である。だから、他の路線と相互乗り入れができない。開業した1927年当時相互乗り入れなど考えられなかったのであろう。
 第三軌条方式でいえば、かつては駅が近づいてポイントを渡る瞬間照明灯が消えたものだった。このためドア付近に小さなランプがついていた。このごろではこういう風景も見ることがなくなったが、車両が改造されたのであろう。

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(写真4 渋谷駅銀座線ホーム。明るくなり、サインも視認性がよくしっかりしている)

 銀座線渋谷駅は、今年2020年1月に新築移設されたばかり。従来のホームより130メートル移動した。明治通りをまたぐ形になっており、1面2線の明るいホームとなった。車両も新型に置き換えられているようで、ピカピカしている。
 渋谷を出ると、表参道、外苑前、青山一丁目、赤坂見附、溜池山王、虎ノ門、新橋、銀座、京橋、日本橋、三越前、神田、末広町、上野広小路、上野、稲荷町、田原町と続き終点浅草。都心の名だたる繁華街を貫いている。
 赤坂見附では丸ノ内線と同じホームだし、表参道でも半蔵門線と同様で、乗り換えの利便性も高い。溜池山王は平成になって開設された駅。
 とにかく利用者の多い路線。ただ、1両の車両長も短く、車両全体が東京メトロの中では最も小さい。それでも、駅間距離も短いし、各駅に到着するたびに頻繁に乗客は乗降するため、車内の空気は入れ替わっているように思える。乗客も心得ていて、混乱することもないように見受けられる。このあたりが郊外から来た電車とは違うところだろう。
 また、日本で最初の地下鉄とあって地下深度は浅く、路上から改札に降りてすぐホームといった構造もあり、とにかく利便性は高い。

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(写真5 浅草駅ホーム。天井が低く、ホームが狭い)

 浅草は対面する2面2線のホーム。改札内の移動ができないこともあり、到着したホームからどの出口に出るかはよく知っておく必要がある。このため、車両に行き先である浅草の何番線到着か表示されているほどだ。到着駅の番線までもが表示されている列車というのもほかに例は見ないであろう。列車は数分間隔で運転されており、1本待ってでも自分の出たいホームの電車を選ぶ人もいるに違いない。

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(写真6 銀座線地上には東武浅草駅)

⑧都営新宿線(新宿-本八幡、23.5キロ、21駅、ラインカラーは黄緑、路線記号S、軌間は変則で1372ミリ) 都心を東西に結ぶ路線。同じように東西に走る路線では、北からJRの総武・中央線、新宿線、東西線ということになる。

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(写真7 都営新宿線本八幡駅ホーム。行き先表示に急行笹塚行きの文字)

 新宿線には本八幡から乗った。本八幡はこの駅だけが千葉県。JR総武線と接続しており、地下駅。
 本八幡を出ると江戸川をくぐり東京都に入る。篠崎、瑞江と続き船堀で地上に出て荒川を渡った。次の東大島からまた地下に入り、大島、西大島、住吉、菊川、森下、浜町、馬喰横山、岩本町、小川町、神保町、九段下、曙橋、新宿三丁目と進み新宿に至る。
 各駅停車と急行二つの列車種別がある。地下鉄線内で急行は珍しく、ほかに東西線がある。この日乗った列車は岩本町で待避していた各駅停車を追い抜いた。
 新宿はこの路線の起点だが、多くの列車が京王新線を経て京王線へ直通する。軌間が1372ミリと変則なのは京王線に直通するため。1372ミリは日本で唯一のゲージである。京王線に入ると、京王八王子や橋本まで足を伸ばしている列車もある。
⑨丸ノ内線(本線池袋-荻窪24.2キロ25駅、支線中野坂上-方南町3.2キロ3駅、ラインカラーはスカーレット、路線記号M) 都営新宿線を新宿で乗り終えて、その足で丸ノ内線の新宿駅へ移動した。しかし、これは広大な新宿駅の端から端まで歩くようなもの。
 何しろ新宿駅は、乗降者数が世界最大だし、乗り入れ路線も多数で、地下鉄が丸ノ内線、都営新宿線、都営大江戸線とあるし、JRから京王、小田急とある。なお、丸ノ内線と都営新宿線とは同じ駅なのにあまりにも離れているので乗り換えの接続駅の扱いはない。

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(写真8 丸ノ内線荻窪駅ホーム。島式1面2線)

 何はともあれ丸ノ内線には荻窪から乗った。荻窪はJRと改札が並んでいる。昔から大きい街だったが、久しぶりに降り立ってみたら駅前は意外にもこぢんまりとしていた。
 荻窪から南阿佐ヶ谷、新高円寺、東高円寺、新中野、中野坂上、西新宿と進み新宿へ。ここまでは放射状の部分で、新宿からはU字形を横にしたように楕円を描いて東京を経て池袋に至る。
 新宿を出ると新宿御苑前、四谷三丁目、四ッ谷、赤坂見附、国会議事堂前、霞ヶ関、銀座を経て東京、大手町、淡路町、御茶ノ水、本郷三丁目、後楽園、茗荷谷、新大塚から池袋へと至る。
 銀座線もだが、丸ノ内線も古い路線だけに都心でもいいところだけ通る。
 四ッ谷は地上駅で、赤坂見附では同じホームで銀座線と乗り換えができるし、東京は地下鉄で唯一の駅。もとよりJRに直結しているのだが、東京駅に接続する地下鉄路線がほかにないというのも不思議なくらい。淡路町を出て御茶ノ水の手前では神田川を渡るため地上に出た後、本郷三丁目で地下に入っているものの、後楽園の手前で再び地上に出る。茗荷谷のあたりで左窓に車両基地が見えた。荻窪-池袋間は所要約50分である。

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(写真9 方南町駅地上の交差点)

 なお、丸ノ内線には分岐線があり、通称方南町支線と呼ばれている。中野坂上と方南町の間を結んでおり、途中に中野新橋と中野富士見町。中野坂上には中線があり、列車は両側の扉が開き、荻窪方、新宿方いずれからも乗降できる。中野坂上と方南町間の支線内運転が中心だが、池袋からの列車も入ってくる。中野坂上-方南町間は所要約7分。方南町駅は、環七と方南通りの交差点付近の地下にホームがある。中野富士見町から別れて中野検車区がある。この検車区への引き込みとして支線はできたものと思われる。
⑩東西線(中野-西船橋30.8キロ、23駅、ラインカラーはスカイブルー、路線記号T) 東京を東西に横断する路線で、同じように東西を結ぶ路線としてある総武・中央線や都営新宿線に対して最も南側を走っている。東西線を介し、中野方では中央線で三鷹へ伸び、西船橋からはさらに総武線で津田沼、東葉高速線へと直通している。

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(写真10 中野駅東西線ホーム。左の列車は各停で、右には快速東葉勝田台の表示)

 東西線には中野から乗った。つまり、西から東へと進む。中野駅はJRとの共同使用駅で、地上駅。中野を出るとすぐに地下に入り、落合、高田馬場、早稲田、神楽坂、飯田橋、九段下、竹橋と皇居をすれすれに走り、大手町、日本橋、茅場町、門前仲町、木場、東陽町と進み、南砂町を出ると地上となる。荒川を渡り西葛西、葛西までが東京都で、次の浦安から千葉県となり、南行徳、妙典、原木中山を経て西船橋へと至る。地上区間の長い路線で、都心以外の区間は地上と言える。
 地上区間で車窓を見ていると、びっしりとアパート・マンションが建て込んでいる。つまり、郊外住宅地から都心への通勤路線となっており、このため、東京の地下鉄の中では最も輸送人員が多いし、ラッシュアワーの混雑率もひどい。
 終着西船橋はJRとの接続駅で、東西線とJR線とのあいだに中間改札がある。これは中野駅にはないものだった。

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(写真11 西船橋駅東西線・東葉高速線改札口)

 二日目はここまで。この日も朝8時03分に押上を出発し、15時09分に西船橋に到着したから約7時間も列車に揺られたことになり、まだ明るかったが少々疲れてしまって残りは翌日に持ち越した。(2020年10月29日取材)