ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

東京メトロ千代田線北綾瀬支線

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(写真1 綾瀬駅0番線の北綾瀬支線ホーム)

都東部の小路線に乗る①

 東京都東部に存在する短い路線を選んで端っこまで訪ね歩いてみた。
  まずは、東京メトロ千代田線の通称北綾瀬支線。
 千代田線は、足立区の綾瀬駅と渋谷区の代々木上原駅を結び、都心を貫く全線21.9キロの路線。綾瀬で常磐線と、代々木上原で小田急線と接続し相互直通運転を行っている。
 この綾瀬駅から分岐して北へ一駅分まるで引き込み線のように伸びて北綾瀬駅に向かっているのが通称北綾瀬支線と地元で呼んでいる路線。現在は線内運行の折り返し運転だけ。
  千代田線は1969年の開業だが、実際にも、この支線は当初は車両基地と結ぶ引き込み線として開設されたもので、北綾瀬駅を開業して旅客営業を開始したのは10年後の1979年のこと。宅地化が進み人口増による地元の強い要望を受けて開設したものだった。
 綾瀬駅。2面3線のホームの、1番線2番線ホームの亀有寄りに切り込んで0番線ホームが設けられており、これが北綾瀬支線。東京メトロで0番線はここだけではないか。細いホームに3両の電車。車両は千代田線のものだ。
 10月30日11時09分の発車。すぐに本線から離れ左にカーブしていく。沿線はびっしりと住宅が建て込んでいる。平日の日中なのに乗客は多い。

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(写真2 目の前を環七が走る北綾瀬駅前)

 わずか4分で終点北綾瀬。ここも片側1線のホームがあるだけ。しかし、ホームの延伸を含め駅の拡張工事が行われていた。来年の3月には10両編成の代々木上原行き列車が直通運転するのだという。千代田線は大半は常磐線に直通する列車だが、綾瀬折り返し列車も含めるとすでに綾瀬駅は飽和状態で、北綾瀬で折り返し直通する列車の必要性が高まったということだろう。
 北綾瀬駅を出ると、目の前は環七通りで、都心を環状に走る大幹線だけに4車線の道路に車両がびっしりと連なっていた。北綾瀬駅の利便性のが高いことがわかる。
 高架線路は、北綾瀬駅からさらに伸びている。1キロほども離れているか、車両基地である。北綾瀬支線は本来この車両基地と結ぶために設けられたものだが、基地は10両編成の列車が26本も留置できる広大なもの。車両の検査場も兼ねており、千代田線のほか東京メトロ各線や、時にはJRの車両が入ってくることもあるようだ。

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(写真3 北綾瀬駅に延伸して設けられている車両基地)

山陽電鉄網干線

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(写真1 山陽電鉄飾磨駅ホームの様子。2番線が網干線である)

姫路の中心と網干市街を結ぶ

 網干線は、山陽姫路から本線三つ目の飾磨から分岐して山陽網干に至る全線8.5キロの路線。駅数は7。かつては山陽姫路から飾磨でスイッチバックして山陽網干に向かう直通列車もあったが、現在は中止されており、飾磨-山陽網干間の線内列車の運転のみである。
 起点の飾磨は、2面3線のホーム。本屋側の1番線が山陽姫路方面行きで、3番線が明石方面行き。1番線と3番線に挟まれて網干線の線路が行き止まりの形で設定されており、網干線の列車は到着すると両側の扉が開く。2番線は姫路方面行きの1番線と同じホームということになる。
 3両編成のワンマン運転。10月4日14時49分の発車。飾磨を出るとすぐに姫路方面行きの線路を高架で跨ぎ山陽網干へと向かう。
 一つ目の西飾磨で列車交換。単線なのである。この先行き違いのための上り下りの列車交換は山陽天満でも行われた。
 網干線は、大きくはJR山陽本線と並行しているが、より海岸寄りを走っている。

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(写真2 左窓つまり海側に見える新日鐵住金広畑製鉄所の煙突)

 左窓に大きな煙突が見えてきた。広畑である。ここは新日鐵住金広畑製鉄所の最寄り駅で、当駅から徒歩5分ほどだったか。かつては高炉が4基もある一貫製鉄所だったが、現在は高炉はすべて廃炉となっていて、薄板の圧延中心の操業となっているようだ。
 そうこうして山陽網干到着。盲腸線の行き止まりの終着駅である。1面2線のホームがあった。
 網干市街の中心に位置するはずだが、駅前にスーパーマーケットがあったほかは格別のにぎわいは見られなかった。
 ここの駅員に尋ねたら、山陽本線の網干駅まではここから歩いては1時間ほどもかかるということだった。

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(写真3 網干線終着駅山陽網干)

若桜鉄道八東駅のワフ35597

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(写真1 若桜鉄道八東駅構内に留置されている緩急車ワフ35597)

シリーズ車掌車を訪ねて

 八東駅(はっとうえき=鳥取県八頭郡八頭町)は、若桜鉄道路線起終点のほぼ中間に位置する。
 若桜鉄道で終点若桜を目指していたら、途中の八東駅で構内に緩急車が留置されているのが車内から見えた。この存在はこのたびの若桜鉄道の旅で調べてあって知っていたのでカメラを構えていた。
 緩急車とは、荷物を積むスペースのある車掌車のことで、車掌車とは別に区分されており、ワフの形式略号がふられている。
 八東駅の緩急車はワフ35000形で、車番はワフ35597。だいぶ傷んでいて、一応車輪がありレールに載ってはいるが、動かせるかどうかは判然としなかった。
 なお、この若桜鉄道沿線には、竹林公園というところにやはり緩急車ワフ29041があるらしいが、最寄りの隼駅からも遠いようで、タクシーもないというので途中下車しなかった。

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(写真2 駅名標の後ろに緩急車)

若桜鉄道若桜駅のヨ8627

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(写真1 若桜駅の車庫に入庫してある車掌車ヨ8627)

シリーズ車掌車を訪ねて

 若桜駅(鳥取県八頭郡若桜町)は、若桜鉄道の終点。いかにも行き止まりの終着駅の旅情を色濃くし、駅前の街路と合わせ落ち着いて魅力的なたたずまいを見せている。

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(写真2 若桜駅構内の様子)

 小さな鉄道にしては立派な構内があり、ホームは1面1線だが、たくさんの側線留置線があって、待機してある車両のほか、企画運転に使用するものであろうか、客車が数両留置してあった。また、転車台もあって、蒸気機関車C12 167号車が運転できる状態になっていた。
 奥に車庫があって、ここに車掌車が格納されているというので、入構券(300円)を購入して見学させてもらった。ちょっと狭い車庫でしかも一番奥の車両だったので見づらかったが、車掌車はヨ8000形のヨ8627。ピカピカに磨かれていていつでも動くように動態保存されていた。イベントの時などにはSLに連結して運転されるのだろうと思われた。

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(写真3 転車台の向こうにSLの勇姿)

はじかみ池公園(兵庫県三田市)のヨ8682

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(写真1 はじかみ池公園の車掌車ヨ8682)

シリーズ車掌車を訪ねて

 はじかみ池公園は、兵庫県三田市あかしあ台所在。神戸電鉄公園都市線南ウッディタウン駅すぐ。
 車両は、公園の入口すぐそばに置かれていて、蒸気機関車+荷物車+車掌車が連結されて展示されている。

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(写真2 荷物車と車掌車を連結して展示してあるD51 25蒸気機関車)

 蒸気機関車は子どもたちに圧倒的人気のD51 25。1936年川崎車両製造で、よく磨かれて黒光りして保存されている。次の荷物車と車掌車はライトグリーンに塗装されている。
 このうちマニ50 2036は荷物車で、かつては青色で使用されていたはずだが、内部は現在子どもたちの遊び場になっていた。
 一方、最後尾に連結されている車掌車はヨ8682。現在は〝かんりにんしつ〟と書かれていた。後部の製造銘板には新潟鐵工所昭和57年とあった。前後に庇が大きく張り出している特徴がよく見て取れた。ヨ8000形は車掌車の中で最後に新製された形式で、それだけに比較的新しいものがあって、車掌車保存車両としては人気がある。設備としてはトイレなども付いて斬新だった。

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(写真3 車掌車を後部から見たところ。テールランプの下に製造銘板がはめ込んであった)

若桜鉄道(鳥取県)

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(写真1 いかにも終着駅らしい落ち着いた佇まいの若桜駅)

ゆったりと豊かな時間

 湯村温泉からは浜坂に出て、山陰本線で鳥取に向かった。若桜鉄道に乗るのが目的。
 若桜鉄道は、因美線の郡家(こおげ)から若桜を結ぶ第三セクター鉄道。旧国鉄の若桜線で、全線19.2キロ、駅数は9。ただし、列車の半数ほどは因美線を経由して鳥取に直接乗り入れている。
 私も鳥取9時45分発若桜行きに乗車した。鳥取駅4番線ホームから1両のディーゼルワンマン運転。
 郡家で発車を待っていると、反対ホームに鳥取方面に向かう特急はくと1号が入ってきた。京都から東海道本線、山陽本線、智頭急行、因美線を経由してきた陰陽連絡の列車である。

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(写真2 郡家で発車を待つ若桜行き列車)

 若桜行きは特急との接続を待って10時07分の発車。ここからが若桜線内である。
 次の八頭高校までの区間は運賃が100円である。これはおそらく日本で最も安い運賃区間ではないか。営業キロが0.9キロと1キロに満たない区間であるほか、通学する生徒への配慮もあったのかも知れない。もっとも、若桜鉄道は、八頭町や若桜町が出資する第三セクターだから、住民サービスの一環でもあるのだろう。
 なお、帰りのことだが、鳥取行きの列車ではこの八頭高校から生徒が多数乗ってきて列車はあっという間に満員になっていた。まるで全校生徒が乗ってきたのではないか思われたほどだった。聞けば、中間試験の最中だということである。
 列車は、鳥取平野を離れ中国山地へと分け入っていく。因幡船岡という駅があり、このあたりは因幡国であることを知らせてくれる。沿線は進むにつれて林業が盛んになってきたようで、丹比(たんぴ)では、駅前が木材の集荷場になっていた。
 そうこうして終点若桜到着10時37分。小さな鉄道にしては、まずまずの規模の構内を持っていて、いかにも行き止まりの終着駅の風情があった。
 また、カリヤ通りなどと駅前周辺は落ち着いた佇まいの街並みが残っていて、水路には清流が流れているし、のんびり散策したくなうような気分で、この駅に降り立つのは二度目だが、いつ来ても、折り返し列車の出発時間に間が少ないのが恨めしくなるようなことだった。ただ、次の列車にすれば3時間ほども間があるから、この先の旅程を考えると残念ながら折り返し列車にしたのだった。何しろ、私は全国すべての終着駅で下車したことがあるが、これほど情感豊かな駅もないものだった。

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(写真3 旅情が深くなる若桜の街路)

余部橋梁と餘部駅

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(写真1 余部の集落をまたいで架かる余部橋梁。右が餘部駅)

新旧の名物橋梁 

 余部埼灯台からの帰途は餘部(あまるべ)駅から乗った。余部橋梁は山陰本線の鎧駅と餘部駅の間に架かる橋。この橋はこれまで列車で何度も渡っているが、実は餘部駅で乗降するのは初めてだった。
 余部鉄橋と呼ばれ親しまれていた初代の橋は美しい鉄橋の景観で人気が高かったが、2010年に架け替えられて、現在のコンクリート橋になっている。旧橋の一部も保存されて「空の駅」として整備され、周辺には道の駅もあってちょっとした観光拠点となっていた。
 余部橋梁は、川や海を渡る橋ではなく、集落を跨ぐ橋なのだが、この区間は山が海に迫る地形で、海岸沿いに線路を通すことは不可能であったらしい。しかも、長いトンネルを掘らなくてすむよう、谷間の上部にトンネルを掘るように高い橋脚が必要だったもののようだ。
 新橋は、旧橋のすぐ南側に平行に架けられていて、長さは310.6メートル、高さは41.5メートルとなっていて、あたりまえのことだが、新橋も旧橋も長さ、高さはほぼ同じ。

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(写真2 見上げると新橋のコンクリート橋と、保存されている旧橋の鉄橋の橋脚が空に向かってそびえているようだった)

 餘部駅側に、旧橋の橋脚3基が保存されていて、下から見上げると、旧橋と新橋が並んでいる様子が見て取れる。なお、旧橋の橋脚は土木学会推奨土木遺産に指定されている。
 鎧駅から山陰本線を進んでくると、余部橋梁を渡ってすぐが餘部駅で、この駅の利用者の便も考慮してエレベータが設置されていて、旧橋の見学通路と連絡できるようになっていた。

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(写真3 鎧駅側から余部橋梁を渡り餘部駅に接近してきた城崎温泉発浜坂行き下り列車)

 餘部駅は片側1線のホーム。ホーム中程に待合室もあった。空の駅としての人気もあって、観光客がひっきりなしに訪れていた。
 私自身は、鎧駅から余部橋梁を渡ってきた城崎温泉発浜坂行き列車に飛び乗った。餘部駅ホームでは、たくさんの観光客がカメラを構えていたが、列車に乗ったのは私一人だけだった。

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(写真4 エレベータから撮影した余部橋梁。右手前の鉄骨は旧橋の橋脚の一部)