ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

九州最東端鶴御崎

シリーズ 灯台慕情

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(写真1 高台から遠望した鶴御崎と鶴御埼灯台)

豊後水道の入り口

 太平洋から瀬戸内海を目指して九州東岸を北上してくると、鶴御崎(つるみさき)は豊後水道の入り口にあたる。豊予海峡は大きくは豊後水道に含まれるが、このあたりはすでに豊予海峡とは言わないのかもしれない。大分県佐伯市所在。
 逆に、瀬戸内海から太平洋に出ようとすると、関崎で豊予海峡を通り、臼杵湾、津久見湾を経て佐伯湾に至り豊後水道を抜ける。
 なお、日本の灯台の歴史で重要な位置づけにある水ノ子島灯台は鶴御崎の沖合、豊後水道上にある。
 鶴御崎への最寄り駅は日豊本線の佐伯駅となるが、公共交通機関はないし、自動車で約1時間もかかるところ、歩くにはよほどの探検精神が必要だ。
 鶴御崎は、鶴見半島の先端部分を指すとものの本にはあるが、リアス式海岸なのか、そうとうに入り組んでいる。実際、細くくねくねした道がどこまでも伸びていて、佐伯市街から1時間もの道のりだ。ただ、道路はよく整備されているし、突端には鶴御埼灯台があり、周辺は公園として整えられている。

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(写真2 鶴御崎からの眺望)

 そして何よりもその素晴らしい眺望ぶり。九州の東海岸を部埼、関崎などと巡ってくると、鶴御埼灯台からの眺めは群を抜いている。まさしく絶景である。部埼、関埼などと比べてやや知名度に落ちるが、魅力は勝るとも劣らない。

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(写真3 灯台名のある門標から仰ぎ見た鶴御埼灯台)

 鶴御埼灯台は、海食崖によるものか、海抜200メートルもの断崖絶壁にある。すらりとした姿の灯台で、燈光会が建てた案内板によると、灯高が14.5メートル、灯火標高は197メートルとある。昭和56年初点灯というからまだ新しい灯台なのだ。
 灯台からは、眼下に豊後水道が一望にできる。大海原が遮るものなく広がっており、私流のいつもの表現なら両腕を180度に伸ばして余るほどだから240度ものパノラマである。なお、水ノ子島灯台を目撃したいと見渡したが確認できなかった。

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(写真4 灯台手前の構造物は海軍望楼の遺構)

 この灯台が建っている場所は、戦時中、鶴御崎海軍望楼という要塞だったところ。遺構があちこちにあって、地元鶴見町観光協会が建てた案内板によると、15糎(センチ)カノン砲が4門設置されていて、豊後水道をにらんでいたという。
 また、灯台を少し下ったところに灯台記念館があって、水ノ子島灯台などが紹介されていた。なお、九州最東端は本土としてはこの鶴御埼灯台だが、離島も含めると水ノ子島灯台になる。

<鶴御埼灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用=それぞれの表記が異なる場合には灯台表を優先している)

航路標識番号[国際標識番号]/5703[M4909.8]
位置/北緯32度55分9秒 東経132度04分9秒
名称/鶴御埼灯台(つるみさき)
所在地/大分県佐伯市
塗色・構造/白色塔形、コンクリート造
レンズ/キセノン灯器
灯質/単閃白光 毎8秒に1閃光
実効光度/41万カンデラ
光達距離/23.0海里(約43キロ)
塔高/14メートル
灯火標高/197メートル
初点灯/1981年3月25日
管轄/海上保安庁第七管区海上保安本部大分海上保安部

江差線江差駅


シリーズ 駅 情景

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(写真1 ありし日の江差駅=1991年6月29日)

廃線になった終着駅

 江差線は、五稜郭駅と江差駅の間79.9キロを結んでいたJRの路線(ただし、すべての列車は函館発着)。このうち、木古内-江差間は2014年に廃線となり、江差駅は廃駅となった。また、五稜郭-木古内間は北海道新幹線の開業に伴い道南いさりび鉄道に転換された。
 廃線となった木古内-江差間は42.1キロ、10駅、津軽海峡から日本海へと松前半島を横断する路線だった。渡島半島を足だとするなら、木古内は土踏まず、江差は足の甲にあたる。松前半島は、渡島半島のうち足の土踏まずから甲にかけて先の部分にあたる。
 木古内を出るとほどなく山間部へと分け入る。吉堀を出て少しして稲穂峠をトンネルで抜けた。渡島支庁と檜山支庁の境である。25‰で登り、20‰で下った。湯ノ岱に至って温泉があるらしく、駅前に旅館があった。

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(写真2 車窓に続くのは天の川か)

 乗ったのが冬の季節ならば、沿線に梢に雪の張り付いているのが見て取れるし、朝日に白銀が輝いている。月並みな表現だがその通りに美しい。左窓に川が寄り添ってきた。地図で確認すると天の川とあった。誰が名づけたものか随分とロマンティックなものだ。これが初夏の季節ならば鮎釣りの姿を見ることができる。
 江差が近づいてくると海岸に出る。海が澄んだブルーである。紺碧ではないし、冬の日本海でこれは珍しいほどで、紺青あるいはプルシアンブルーというべきか。

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(写真3 行き止まりの終着駅江差駅のホーム)

 そうこうして江差着。函館から2時間20分、木古内からなら約1時間10分である。片側1面1線のホームである。かつての繁栄の名残か、構内には多数の側線があった。
 江差の街は駅からやや離れている。高台にあって、駅からは下るように15分ほどか。江差線で江差の駅に降り立ったのはこれまでに二度。初めは1991年6月29日で、二度目が2011年2月12日。

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(写真4 高台から見下ろした江差の中心街)

 20年ぶりの再訪だったが、大きな変化は感じられなかった。ただ、二度も街をぶらぶら歩いたからこの街のことは多少なりともわかった。
 つまり、この街はよくできている。江差はニシン漁と北前船で栄えたのだが、港町の例で、街は斜面に張り付くように広がっている。それで、最下段に海岸通りがあり、その上の次の段にはいにしえ街道という古い街並みが残っており、さらにその上の段の通りには学校などが並んでいる。察するに、過去に津波の被害でもあったのだろうか、災害に強い街づくりが行われていたのである。駅は最も高いところにあり、不便ではあるが災害対策を優先させたものであろう。詳しく調べたわけではないが、私にはこのように受け止められた。
 いにしえ通りには、重文に指定されているかつての網元の住居もあったし、港には海陽丸という船が係留されていた。幕末、幕府の艦船だった船だだが、江差で座礁したものらしい。
 江差まで来たなら是非とも寄りたいのが海鮮の店。ただし、時間がまだ早かったせいか店はまだ開いていなくて、江差追分会館というところでウニ丼を食べたが、さすがにこれは絶品だった。江差は紛れもなく江差追分発祥の地なのである。
 ところで、来る途中の列車では、母親に連れられた小学校高学年の男の子と一緒だった。この子は、函館から江差まで2時間余もずっと運転席の後ろに立ちっぱなしだった。よほどの鉄道ファンなのであろう。帰りの列車でも一緒だったが、北海道は鉄道ファンを育む夢の大地である。この頃ではあちこちの路線が廃線になってしまって随分と寂しくはなってしまったが。

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(写真5 かつての木古内駅。現在は新幹線開業に伴い立派な新駅舎となった=2011年2月12日)

『シンコーメタリコン創業80年史』

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我が国溶射工業のパイオニア

 メタリコンとは、溶射技術のこと。表面改質技術の一環として、化学機械や製鉄機械、航空機などに適用され、近代工業にとって必須の技術となっている。
 シンコーメタリコンは、この溶射工業の我が国のパイオニアで、1933年の創業。創業者立石亨三氏が京都帝大工学部卒業後京都・山科の地に設立した。創業時の社名は新興メタリコン工業所。当初から溶射企業として発足したが、二代目社長立石善通氏の時代に滋賀県湖南市の現在地に新社屋新工場を新築移転した。現在は三代目の立石豊氏が社長。
 この間、一貫して我が国溶射工業を牽引してきたが、その歩みは技術革新の連続だったようだ。当時、どのような技術か、文献も少なかった時代に、自ら溶射機の開発から始めたといい、単なる防錆溶射からより高い技術力が必要とされる機能溶射の分野へと発展していった。その転機になったのがプラズマ溶射装置の導入だった。
 社史をひもとくと、同社の取り組みがよく分かる。「日本を機械長寿の国に」「機械に未来を溶射する」などとあり、機械に新たな機能を溶射することによって、機械の高機能化、長寿命化、安全性の向上などが図られる。
 同社は、技術開発型の企業のようで、特に本社工場を移転した1983年頃からの発展はめざましく、新たな装置の導入によって溶射の新しい開拓を進めてきた。また、溶射技術研究所を設立したり技術志向は強く、ISO9001の認証取得するなど品質の確保に挑戦してきている。
 この社史の題名が面白い。80th+7とあり、つまり、創業80周年の節目から7年も経ってからの発刊となっている。この間には様々な環境の変化もあったのだろうが、社史から読み取れることは創業以来一貫して技術開発を怠ることなく、従業員を大事にしてきたという姿勢。
 技術者の中には、黄綬褒章や現代の名工、あるいはおうみ若者マイスターといった受賞者が続出しており、大きな伝統となっている。
 従業員を大事にする姿勢は技術者のみならず、一般の社員など隅々まで及んでおり、これらの人々が数多く登場している。これほど多くの従業員が誌面に登場している社史というものも珍しいほどだ。つまり、社員こそが主役の社史と言えるわけで、同社の経営の精神なのであろう。定年退職する人を卒業式とよんで祝い讃えているのもその姿勢の一つであろう。

関崎と関埼灯台

シリーズ 灯台慕情

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(写真1 展望台から見下ろした関埼灯台と高島。その向こう水平線上に佐田岬がかすかに望める=2016年7月23日)

佐田岬と相対

 関崎は、大分県の佐賀関半島の先端。関埼灯台がある。最狭部ならわずか幅わずか13.5キロの豊予海峡を挟んで愛媛県の佐田岬半島と相対している。瀬戸内海と太平洋を結ぶこの海峡は潮流がきつく船舶にとっては難儀なところだが、流れの速い潮流が好漁場となっており、ここで水揚げされる〝関アジ・関サバ〟は好まれている。

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(写真2 日豊本線の幸崎駅)

 関崎へは、日豊本線の幸崎が最寄り駅。大分からなら鈍行で約30分。ここからはJRバスが佐賀関まで出ている。約20分。高い煙突が見えてくると終点である。かつての日本鉱業、現在のパンパシフィック・カッパーの佐賀関精錬所である。我が国最大の粗銅生産量で知られる。

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(写真3 バス車中から遠望した佐賀関精錬所。煙突が2本見えている=1992年8月19日)

 高い煙突は日本の重工業の象徴のような存在で、かつては東洋一高い煙突として小学校の教科書にも載っていた。
 初めて訪れた1992年には2本の煙突だったが、次に訪れた2016年には1本になっていた。古い1本は撤去されたようだ。残った赤白縞模様の煙突は高さが200メートルもあるという。

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(写真4 さがのせき駅と看板がある)

 JRバスの終点は佐賀関駅となっている。バスの停留所とは思われないほどの立派な駅舎である。鉄道駅跡をバスの停留所として活用する例は多いが、ここにはかつて日鉱の専用線があった。軌間762ミリの小さな鉄道ながら、貨客両用で、沿線の社宅から従業員を運んでいたようだ。また、ここは漁港でもあって、かつてタクシーの運転手に教えて貰った寿司屋で食べたアジとサバは、肉厚ながら身が締まり大変美味なものだった。
 なお、私はこの日はこのあと湯布院に向かう予定だったのだが、佐賀関駅では佐賀関から由布院までのJRの切符を発行してくれた。(幸崎・南大分・久大)経由とある。

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(写真5 佐賀関発行の湯布院行き切符)

 さて、バスは佐賀関からその先へは伸びていなくて、歩くと山道を1時間以上もかかるというので、タクシーにした。なるほど、ほぼ登る一方の狭くくねくねした道が続いている。これは岬への道の常だが、20分もかかった。
 途中に、関崎稲荷という神社があり、ここが灯台への入り口だった。ここからは起伏の緩い道を約10分ほど。

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(写真6 関埼灯台。鉄造である)

 岬の突端には関埼灯台。灯台は、灯塔が付属舎に付いているという様子。初点銘版には明治三十四年七月とあり、いかにも明治期の灯台という感じ。鋲の跡がはっきりしており鉄造である。
 ややずんぐりしているが、灯高は70メートルもあり、豊予海峡を眼下に絶景である。タンカーなど船舶がしきりに往来している。海面を注視すると、潮の流れが見た目にもわかるほどだ。
 二度目に訪れたときには、後背地に海星館という展望台があった。ここからのながめは、灯台と豊予海峡と佐田岬が一望にできて素晴らしいものだった。

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(写真7 海星館)

<関埼灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)

航路標識番号/4979
位置/北緯33度16分0秒 東経131度54分1秒
名称/関埼灯台(せきざき)
所在地/大分県大分市関崎
塗色・構造/白色塔形、鉄造
レンズ/第4等不動白光
灯質/等明暗白光 明3秒、暗3秒
実効光度/5600カンデラ
光達距離/12海里(約23キロ)
塔高/11メートル
灯高/69.5メートル
初点灯/1901年(明治34年)7月20日
管轄/海上保安庁第七管区海上保安本部大分海上保安部

高千穂鉄道高千穂駅

シリーズ 駅 情景

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(写真1 高千穂線終点の高千穂駅=1992年8月23日)

廃線になった終着駅

 高千穂鉄道高千穂線は、延岡駅と高千穂駅を結んでいた第三セクター路線。全長50.0キロ。19駅。全線宮崎県。
 国鉄・JRから転換された路線だったが、2005年の台風被害のため全線で運転休止となり、結局、そのまま2008年12月28日をもって廃止となった。

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(写真2 道ばたから見た高千穂橋梁の様子)

 そもそも高千穂線は、日豊本線の延岡から熊本県境に近い高千穂の間を結んでいて、特に終点の高千穂は神話の里として人気の観光地。高千穂峡や天岩戸神社もあり、また、路線中の深角-天岩戸間の高千穂橋梁(全長353メートル)は、水面からの高さが105メートルもあって、日本一高い鉄道橋として知られた。
 この高千穂線には一度だけだが乗ったことがある。1992年8月23日で、この時のノートには次のような記述がある。
 延岡7時52分発高千穂行き快速列車に乗った。三セクに転換されてサービスが向上したらしく2両のきれいなディーゼル列車である。
 列車は、五ヶ瀬川に沿って走るが、この川は終始エメラルドグリーンの神秘的な深みをたたえている。

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(写真3 車窓から見た見事な滝。運転士はここで徐行してくれた)
 進むにつれて谷が深くなってくる。途中、滝があったり景観の素晴らしいところにくると運転士は徐行させガイドをしてくれる。延岡から約1時間ほど、高千穂駅の少し手前で鉄道ファンにとって有名な鉄橋を渡った。水面から100メートルもあるそうで、確かに谷底は深い。
 なるほど、魅力のある路線で、再訪したいと念願しているうちに廃線になってしまった。

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(写真4 高千穂駅構内。車庫の脇にはさらに線路が伸びていたが、未成線の名残だったか)

 高千穂着9時03分。ホームは1面2線。ホームの端、奥に車庫が見えた。なお、高千穂では短い時間だったがタクシーで高千穂峡や天岩戸神社を巡った。

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(写真5 絶景の高千穂峡)

 高千穂からはバスで県境を越え熊本県の南阿蘇鉄道高森駅に赴いた。なお、高千穂-高森間は国鉄時代に延伸を計画していた未成線で、全長は23.0キロとなっていた。
 やはりこの時のノートには、「高千穂からは熊本行きの特急バスで高森に向かった。阿蘇山の山中だが広大な高原になっていて、牧場が点在し、まるで北海道の夏のような雰囲気だった」とある。
 延岡から高千穂、高森、立野と鉄道で一直線に繋がる路線ができていれば、さぞかし魅力的な鉄道旅を楽しめただろうと思われた。

 それにしても、自然災害に遭って運転休止となりそのまま廃線となる例が多い。岩手県の岩泉線もそうだったし、危ぶまれながらもきちんと復活できたのは三重県の名松線くらいなものか。

 なお、高千穂駅周辺では、観光振興の一環として地元の熱意によって現在は「高千穂あまてらす鉄道」が軽トラック改造車両などを使用した運行を行っているという。高千穂橋梁までも運転されているというからかえってスリリングな絶景が見られるのかもしれない。

ウェーブフィルター

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(写真1 特徴のあるウェーブフィルター。ドリッパーにフィルターをセットした状態)

味がストレートに出る

 コーヒーは好きで、毎日、朝食後と夕方に飲んでいる。コーヒーを淹れるのは私の役目。テレビでコーヒーの出てくる場面などを録画し繰り返し見て探求している。
 コーヒーは、豆を購入してきて自分で挽いている。このため、自動のコーヒーミルを使っている。以前は手動だったが、自動のミルは粉の粗さを15段階にまで設定できるし、ミルの時間も断然短い。
 さて、挽いた粉をどうやって抽出するか。ペーパードリップで淹れている。ネルドリップもやってみたが、難しくて期待したほどの味にはならなかった。
 それで、手入れも簡単だし、ペーパードリップにしたのだが、これには底が台形になったドリッパーを使い、そのためのフィルターを使っていた。
 元来が、ミリ単位、グラム単位でこだわるような性分でもなし、そうは言っても、大雑把でも、うまいコーヒーが飲みたいとは思う。
 しかし、ペーパーフィルターを使ったドリップは再現性が悪い。豆の量なのか、挽く粗さ加減なのか、お湯の温度、淹れる時間、淹れ方、それぞれを少しずつ変えて試している。
 そんな折、世界のバリスタが競う世界選手権でチャンピオンになったという日本人バリスタが、テレビでおいしいコーヒーの淹れ方というデモンストレーションを行っていた。
 そこで紹介されていたのがウェーブ状のフィルターったのである。初めて目にしたのだが、とても良さそうだった。もちろん、デモを行っているバリスタの実力によるところが大きいのだろうが、解説を聞くと魅力もありそうだ。
 それで、早速、購入してみた。ウェーブフィルターとフィルターとセットになるドリッパーという組み合わせである。これにサーバーもセットになっていた。ドリッパーの底は平らになっている。
 何度か試したあと、従来の台形状のフィルターと、ウェーブフィルターと2種類を同時に使い、同じお湯、同じ豆、同じ粗さ、同じ豆の量で同じ抽出量という具合に全く同じ条件で同時に淹れてみた。
 このコーヒーを三人のモニター(妻と娘=いずれもコーヒー好き)に飲んで貰った。そうすると、その感想は次の通りだった。
 ウェーブフィルターでは、豆の味がストレートに出ている。酸味が強調されている。雑味は少ない。
 これに対し、台形状フィルターでは、味に含みが感じられる。まろやか。
 あまり違いは感じられないという意見もあり、毎日飲むなら、台形状の方がくせがなくて飲みやすいという声も。
 結局、もう少したくさんの量を飲んでみないと評価は難しいとの意見が大勢を占めた。
 ただ、味はともかく、淹れる立場からすると、抽出の速度は断然速い、抽出のテクニックはあまり問われない、という特徴があるように思われた。

 もう少し研鑽が必要なようだ。

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(写真2 ウェーブフィルター。ウェーブは20個ある)

部埼灯台

シリーズ 灯台慕情

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(写真1 1日千隻もの船舶の安全を見守る部埼灯台)

関門海峡の入り口を照らす

 下関と門司は一直線に繋がっているのではなくて、地図を子細に見ると、少しずれている。つまり、下関側が南へ長く伸びているのに対し、門司側は北へ向かって本州へ食い込んでいる風である。この両者のずれた間が関門海峡ということになる。
 九州側で本州に食い込んでいるのが企救半島で、部埼(へさき)はその北東端にあたる。つまり、関門海峡の九州側東端であり、周防灘に面する。
 部埼へは、鹿児島本線の起点門司港駅からバスが出ている。ただし、白野江行きというこのバスは部埼までは届かず、その先およそ1時間ほども歩かなければならない。タクシーなら門司港駅から約30分の距離だ。
 岬が近づくといかにも海峡という様子。部埼灯台は小高い丘の上にあり、海岸沿いの道路から狭い階段を数十段ほど登らなくてはならない。

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(写真2 眼前の海峡はまことに狭い)

 素晴らしい景観だ。眼前が関門海峡である。狭い海峡だからまるで入江のようにも見える。対岸の山口県側とは指呼の間である。右手奥は小野田あたりか。
 船舶の往来が激しい。実際、1日あたり1千隻もの交通量があるというから驚く。岬の突端に立つ灯台から茫漠とした風景を眺めるのも風情があるが、こうした交通量の多い灯台から見るというのも灯台の持つ役割が如実に感じられて捨てがたい魅力である。

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(写真3 ブラントンの設計になるAランクの保存灯台である)

 灯台は白くずんぐりとしている。花崗岩による石造の灯台である。明治5年(1872年)の初点で、幕府が欧米列強と設置を約定した五つの灯台の一つであり、歴史的価値が高いところからAランクの保存灯台に指定されている。
 円筒形の灯塔に付属舎が付くデザインは、いかにも日本の灯台の父ブラントンの設計になるものだ。灯高は9.7メートル、灯火標高が39.1メートルということである。

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(写真4 潮流の動きを知らせる部埼潮流信号所の電光掲示板)

 また、灯台の隣には大きな電光板が設置されているが、これは部埼潮流信号所というもの。何しろ、早鞆の瀬戸ともいわれる海峡の最狭部は幅わずかに500メートルあるいは600メートルともいわれ、早い潮流が1日4回も向きを変えるという過密にして難所。信号は、潮流の向きや早さなどを船舶に知らせている。
 ところで、灯台下の道路の海岸沿いに松明を持った大きな像があって、これは江戸末期、海峡を通る船舶に松明を焚いて安全を知らしめた僧清虚なる人物を記念したものだという。それほどにこの海峡は船舶にとって難所だったということでもあるのだろう。

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(写真5 たいまつを掲げた僧清虚の像)

 

<部埼灯台メモ>(灯台表、現地の看板、ウィキペディア等から引用)

航路標識番号[国際標識番号]/5409[M5312]
位置/北緯33度57分6秒 東経131度01分4秒
名称/部埼灯台
所在地/北九州市門司区
塗色・構造/白塔形、石造
レンズ/第三等フレネル式
灯質/連成不動単閃白光 毎秒15秒に1閃光
実効光度/閃光18万カンデラ、不動光7千カンデラ
光達距離/閃光17海里(約32キロ)、不動光10海里(約18キロ)
塔高/9.7メートル
灯高/39メートル
初点灯/1871年(明治5年)1月22日
管轄/海上保安庁第七管区海上保安本部門司海上保安部
備考/日本の灯台50選、A保存灯台