ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

ミロスラフ・クルティシェフピアノリサイタル

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(写真1 演奏会場の様子)

ロシア気鋭のピアニスト

 8日築地の浜離宮朝日ホールで開催された。
  ミロスラフ・クルティシェフは、ロシア気鋭のピアニスト。レニングラード(現サンクトペテルブルク)生まれ34歳。第13回国際チャイコフスキーコンクール(4年に1度モスクワで開催される世界的コンクール)で優勝などの実績がある。
 いやはや力強くもつややかさも兼ね備えた演奏だった。特に、もちろん演奏した曲目のせいでもあるのだが、男性らしく激しくも大胆なピアノで驚いた
 演目は演奏順に、まず、シューマンの「クライスレリアーナOp.16」。8曲から構成されるピアノ曲集で、シューマンの代表的傑作らしいが、私のようなレベルの低い聴衆には難解だった。起伏のある曲で、同じモチーフが時折現ることぐらいはわかったが、全般に曲想がつかみにくいし、テクニック上も難曲らしいが楽しめなかった。そして、何よりも演奏時間が30分も超す長さで、率直にはやや飽きた。
 続いてリストの「ハンガリー狂詩曲第19番ニ短調S.244/19」。ハンガリー狂詩曲については第2番などはさすがに私でも知っているが、第19番というのは知らなかった。19曲つくったハンガリー狂詩曲中最後の作品らしい。
 それにしてもピアノという楽器は偉大だ。この会場は550席程度のホールで、私の席は2階席の後方だったが、ピアノの演奏が隅々まで届いていた。ホール自体の音響効果も抜群なようで、すばらしいコンサートとなっていた。
 さて、休憩を挟んで次がショパンの「バラード」。第1番から第4番まで全4曲が演奏された。バラードということだから物語風ということだろうが、なるほど、各曲ごとにバラードらしいダイナミックな変化が見られた。
 演奏者のクルティシェフは、4曲続けて演奏したのだが、1曲終わるごとに起ち上がってあいさつをしていて、初め気がつかなかったのだが、なるほど、これは第1番から第2番などとそれぞれが独立した曲だったのだ。
 そのつもりで聴いていると、第1番は激しく、第2番はメリハリがあり、第3番では華やぎがあったし、第4番は美しくも物語の大きさが感じられた。
 この日の演目は好事家ほど好むような内容で、拙い私には総じて難しい曲が多かったのだが、世界的にも活躍しているピアニストのリサイタルに立ち会えたという感激はあったのだった。

函館の「箱庭カフェ」

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(写真1 店舗玄関の様子)

まるで〝ふるカフェ〟の世界

 函館市電に乗っていたら十字街電停付近で古い商店のたたずまいにカフェの文字がチラッと見えた。それで、気になって帰途電車を降りて確認したところ、これはもうまるで〝ふるフェ〟の世界ではないか。
 「箱庭カフェ」と案内があり、店内に入ると、はこだて工芸社の店舗で、ガラスや繊維などの工芸品が一杯に展示されており、奥の一角が箱庭に面してカフェになっている。函館市末広町所在。
 建物は、昭和10年(1935年)の建築で、酒問屋として繁盛した梅津商店だったもの。茨城県常陸太田市出身の梅津福次郎が創業したもので、梅津は艱難辛苦の上財を成し、函館では高校の土地を寄付したり、出身地では役場の建物を寄贈したりしたという。

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(写真2 はこだて工芸社店内。往年の繁栄を偲ばせまるでふるカフェの世界)

 建物は、ほぼ往時のままで残されており、大金庫がでんと構えられていて繁盛ぶりが偲ばれるし、古き良き時代の函館が今に伝えられている。たびたび火災に遭っており現在残っている建物は四代目だという。函館は火災の多いところだったのだ。だから、函館の街路樹は火に強いナナカマドになっているとどこかで聞いたことがある。

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(写真3 箱庭カフェのコーナー)

 箱庭に面したカフェはガラス張りになっていてとても明るい。二人掛け用のテーブルと倚子が6卓ほど。小さなスペースだがとても落ち着く。人気のカフェのようで、地元客がちょくちょくと顔を出している。
 コーヒーを頼んだがこれがびっくり。陶器のカップが二段になっている。上段がドリッパーになっていて、蓋を取ってお湯を注ぐと下段のカップに抽出されるという具合。蓋は上段の受け皿になる。よく工夫してある。
 そして何よりも肝心のコーヒーの味が素晴らしい。淹れたての香りがあるし、濃いのに苦味は強くなく私の好みの味と香りだった。また、何ごとによらず熱いもの好きとしては熱いのもうれしかった。このカップが欲しいと思ったら、まだ商品にしていないとのことだった。
 旅に出て、ふらっと入ったカフェでうまいコーヒーをいただく。いい喫茶店のある街はいい街だというのが持論であり、至福の時が過ごせる。
 なお、蛇足かもしれないが、ふるカフェとは、NHKテレビで放送されていた番組のこと。

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(写真4 箱庭カフェの二段になったコーヒーカップ)

津軽半島最北端龍飛崎紀行

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特集 私の好きな岬と灯台10選

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(写真1 津軽海峡に突き出た龍飛崎。突端は防衛省のレーダー施設で、対岸は北海道白神岬)

演歌の似合う風の岬

 日本全図を広げて北上していくと本州の端は蟹が二本の爪を広げたような形をしている。青森県で、大きな陸奥湾を囲い込むようになっていて、右指は鉞(まさかり)のような形をした下北半島であり、対する左が津軽半島である。津軽海峡に面しその半島の最北端にあるのが龍飛崎。
 龍飛崎あるいは竜飛崎とも。何と荒々しい名前か。実際、強風が常に吹いていて、厳冬期には、あまりに風が強すぎて降った雪が飛ばされてしまい積雪もできないほど。しかし、突端に立てば、津軽海峡を眼下に、北海道が眼前に横たわる雄大な風景を望むことができる。
 龍飛崎へは、青森駅から津軽線で向かう。全線55.8キロのローカル線である。陸奥湾沿いを走る路線だが、眺望が開けたのは蟹田に至ってから。左手は現在進んでいる津軽半島、右が夏泊半島とその先が下北半島である。夏泊半島は陸奥湾の中央部に突き出たでべそのような小さな半島。快晴ならば澄み切った青空にはなはだ見晴らしがいい。
 また、この駅のホームには、切り出したばかりのような風情のある立派な木の看板が立ってあって、「蟹田ってのは風の町だね」と『津軽』から引いた太宰治の文句が書かれてある。しかし、ここで風に驚いていてはいけない、この先はもっと風が強いのだ。
 蟹田を出ると津軽山地へと分け入っていく。次の中小国が、JR東日本とJR北海道の境界駅で、さらに進むと津軽二股。右手を見上げれば北海道新幹線の高架が並んでいて、奥津軽いまべつ駅が隣接している。この奥津軽いまべつ駅は本州にあるのにれっきとしたJR北海道の駅である。
 ここで乗り継ぐ人は滅多にいないと思われるが、私は非常なる興味があってかつてわざわざここで北海道新幹線から津軽線に乗り換えたことがある。津軽線は、起点の青森駅から終点の三厩(みんまや=30年前に乗った折には駅名はみうまやとなっていた)駅まで通し運転の列車は日に1本しかなく、蟹田で乗り継げる列車も4本しかないから時刻表を吟味しておく必要がある。
 私は木古内から北海道新幹線に乗車して奥津軽いまべつで下車し、津軽線津軽二股へと乗り継いだのだが、両駅間は徒歩わずかに数分。JTBの時刻表にも津軽線の覧に「津軽二股駅と北海道新幹線津軽いまべつ駅は隣接しています」と案内してある。
 津軽二股駅は片側1線の小さなホームがあるだけ。乗客は今別へ買い物に行くというおばあちゃんと、何用あってこの駅から乗るのか判然としないような男の私の二人。

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(写真2 津軽半島最北端の駅、龍飛崎への玄関口三厩駅)

 津軽二股を出ると津軽浜名で再び海に面しそのまま三厩到着。青森から通しで乗って来れば約1時間30分のところである。三厩駅は島式1面2線のホーム。私はこの駅で降り立ったのはこれまでに6度。この間に駅舎が新しくなった。それでも最果ての旅情が色濃く漂うところだ。
 駅前には、列車の到着時刻に合わせ外ヶ浜町営の龍飛崎行きのバスが発車を待っていてくれる。本来は町民のためのコミュニティバスだろうが観光客にも開放していて、料金はわずかに100円。
 三厩駅からおよそ30分で龍飛漁港。陸が尽きるというところにあり、太宰も『津軽』で「この先に道はない。だぼんと海に落ちるだけだ」と書いている。
 かつての路線バスはこの停留所が終点だったが、外ヶ浜町営バスは親切にもいったん来た道を少しだけ引き返し岬の尾根へと急な坂道を登っていってくれ、龍飛埼灯台へと誘ってくれる。

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(写真3 麓の漁港から灯台へと登る〝階段国道〟)

 しかし、これは余計なお世話みたいなもので、龍飛漁港の停留所から〝階段国道〟と呼ばれる世にも珍しい階段が岬のてっぺんにまでつながっているのだ。バスが走ってきた国道339号線がそのまま伸びているのである。階段が国道だなんてここにしかないもので、龍飛の名物である。
 この国道は、外ヶ浜から弘前まで津軽半島を南北に貫く長い道路なのだが、途中どうして階段になってしまったのか、何でも国道を指定する役人が現地を見ずに地図だけで線を引いた結果こうなったということである。
 階段は362段、高低差70メートル。喘ぎながら登ると岬のてっぺんに至り、一気に眺望が開ける。津軽半島の最北端に位置する。岬は津軽海峡に鋭く突き出ていて、高い断崖絶壁となっている。段丘ではないようだから海蝕崖であろうか、海面からの高さは100メートルを超す。足下を洗う激浪の潮騒がかすかにしか届かないほどだ。
 しかし見晴らしはいい。これほど眺望の利く岬も、いかに眺望が自慢の岬の突端といいながら珍しいほどの素晴らしさだ。眼下は津軽海峡で、眼前に北海道が横たわっている。船舶が往来している。直線距離で19.5キロ。対岸といいたくなるほどに近く見えるのは松前半島の白神岬である。なお、ちなみに、津軽海峡でもっとも幅が狭いのは下北半島の大間﨑と亀田半島の汐首岬の間18.7キロである。
 私流の表現を使うなら、両手を広げて余るほどだから240度もの眺望か。白神岬の少し右が函館山で、さらにずっと右に見えるのが下北半島であろう。
 一緒に並んで海峡を眺めていた地元のお年寄りが、これほど見晴らしのいい日も珍しいといいながら、白神岬の左に見えるのが大島で、その隣にかすかに見えるのは小島だという。教えてくれなければ気がつかないほどで、この二つの島が並んで望めるのも珍しいのだとも。
 高い断崖絶壁にあるからまるで劈頭に立つ爽快感がある。これこそが岬の魅力である。両手を広げて飛び込みたくなる誘惑に駆られるが、幸か不幸かこれまでは一度もそういうことにはならなかった。
 龍飛崎で両手を広げて飛び込みたくなるのは、風の強いことにもよる。稀に弱い日もあるがおおむね強風が吹き荒れており、風が弱いと張り合いがないくらいだ。厳冬期に来たときなど、あまりに風が強くて、大人の男の私が風に吹き飛ばされそうになって這って歩いたほどだった。また、ここは風が強いから雪も積もれないのだった。岬はどこも地形上風が強くなるものだが、しかしここ龍飛崎はその名の通り、龍が舞うほどなのだ。
 岬の突端には、防衛省のレーダー施設がある。岬の突端といえば海上保安庁が設置する灯台が一般的だからこれは珍しい。津軽海峡の防衛上の位置がわかる。

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(写真4 龍飛埼灯台。日本海と津軽海峡を両睨みしている。後方は小泊岬)

 その龍飛埼灯台は、突端から少しだけ後ろに下がったところにある。龍飛崎そのものがそうなのだが、灯台は津軽海峡の出入り口と日本海を両睨みをするように向いて立っている。
 灯台はややずんぐりしている。塔高は13メートルほど。第三等フレネルレンズで、光達距離が44キロもある大型灯台だ。メタルハライド光源だが、実効光度は47万カンデラという。日本の灯台50選に選ばれている。

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(写真5 小泊岬との中間点にある瞰望台から見た龍飛岬)

 龍飛崎は大きな岬で、突端周辺にいてはわかりにくいが、後方に下がって岬全体を眺めると、大きな岬が海峡に鋭く突き出ているのっがよくわかる。かつては風力発電の風車が林立していたものだが、後年になってその数が減った。まさか風が弱くなったからでもないだろうが。
 初めてこの岬を訪れたのは1989年6月17日で、あれからもう30年にもなる。その後も季節の折々に訪ねていて、いつの年だったか、帰途のバスを待つ間、麓の漁港にある居酒屋で時間をつぶしたことがあったのだが、酒の肴にウニを頼んだら、どんぶり一杯にウニが殻のままで出てきたのには驚いた。なかなか得がたい経験だった。この居酒屋は建物は新しくなったが現在も営業を続けている。
 龍飛崎は演歌の似合う岬。そう言えば、襟裳岬も演歌の似合う岬で、あそこも風が強かった。

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(写真6 龍飛漁港から見た龍飛崎と龍飛埼灯台)

<龍飛埼灯台メモ>(「灯台表」等から引用)
 航路標識番号1501(国際番号M6662)
 名称/龍飛埼灯台
 所在地/青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩龍浜
 位置/北緯41度15分30秒 東経140度20分33秒
 塗色・構造/白色塔形コンクリート造
 レンズ/第3等大型フレネル式
 灯質/群閃白光毎20秒に2閃光
 実効光度/47万カンデラ
 光達距離/23.5海里(約44キロ)
 塔高/14メートル
 灯火標高/119メートル
 初点灯/1932年7月1日
 歴史/1998年メタルハライド化
 管理事務所/第二管区海上保安本部青森海上保安部

ホーカン・ネッセル『悪意』

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スウェーデンミステリー

 このところ元気なスウェーデンミステリー。次々と新しい作品が紹介されて楽しませてくれている。特に現地在住の翻訳家の活躍が光る。英語版からの重訳ではなく原書からの訳出だから細かな味わいが出ているように思う。マイ・シューバル/ペール・ヴァールーによるマルティン・ベックシリーズを新訳した柳沢由実子、そして本書は、レイフ・GW・ペーション『許されざる者』を訳した久山葉子。
 またまた新しい作家を見いだしたわけだが、訳者あとがきによれば、ホーガン作品の日本紹介は16年ぶりだったとのことで、しかし、ホーガンはガラスの鍵賞も受賞している実力者だとのこと。わたしは初めて手に取った。
 本書は、単行本2段組400ページ超。ほぼ2冊分のボリュームで、5本の短篇、というよりも、5本の長さはまちまちで、長さだけで見当をつけるなら3本の短篇に1本の中編、1本の掌編と区分することもできる構成。
 いずれもじっくりと読み進むに味わいのある物語ばかりで、探偵が謎を解き明かすわけでも、刑事が難事件を解決するわけでもなないが、高尚で緻密な謎解きだ。そして不気味。
 読者をぐいっと惹きつけるプロローグ、そしてあっと驚かされる大逆転のエピローグ。読者としては大いなる皮肉と受け止める向きも多いに違いない。
 冒頭の短篇「トム」では、22年前に死んだはずの息子トムと名乗る男から電話がかかってくる。死体こそ見つからなかったものの、懸命の捜査にも行方がわからなかったのだ。今頃になって誰が何の目的でかけてきた電話か。なお、呼び出しに指定された場所はイントリーゴというカフェ。実は、このイントリーゴというのは本書の原題で、訳せば悪意とか陰謀という意味があるそうだ。正体のわからない不気味さが募るが、オチも二段階になっているから要注意だ。
 言葉遣いもユニークで、例えば、「ユーディットはマリア・ローセンベルグが同情しているのか、軽い皮肉を言ったのか、判断がつかなかった。それともそれを両方同時にやる能力を持ち合わせているのか。そんな合金のような存在なのだとしたら、彼女の叡智が膨らみ続けることにも説明がつく」とあって、合金のようなという表現もわかるようでわからない。
 2編目は中篇と読んでいい長さの「レイン ある作家の死」。ベートーベンのバイオリン協奏曲のコンサートをラジオで聴いていたら、曲が終わろうとするひときわ静かな箇所で咳が聞こえてきた。聞き間違いの可能性もあるし勘違いをしただけかもしれないが、「あれは絶対に彼女だった。エヴァの咳だった。半年前の録音の際に、失踪した妻が客席のどこかに座っていたのだ。そしてわずかな咳のかゆみを我慢できなかったせいで、わたしは三年ぶりに、彼女が生きている証を得たのだ。」
 突拍子もないほどの大変珍しいエピソード。コンサートはAのコンサートホールで行われたのだが、それで、わたしはAに向かいたいと思っていた。
 実は、Aへと旅する理由はもうひとつあって、人気作家のレインが自死したこと、レインは初めに母国語以外で出版することを命じた言葉を遺していて、遺稿を受け取った編集者は、わたしに対しAに滞在して翻訳するよう要請したのだった。
 それにしても、この二つの物語はどのように進むのか、絡むのか絡まないのか、辛い結末が待っていた。
 ほかにも凝ったつくりの物語が多くて、秋の夜長、煎った豆を一粒一粒口かみ砕いていくような、じっくりと読んでいくと味わいが増すようだ。
(東京創元社刊)

戸田泰生画『再生』

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(写真1 自身の作品とともに戸田泰生さん)

第49回純展出品

 戸田泰生画『再生』は、上野公園の東京都美術館で開催されていた公募展純展に出品されていた。
 純展は毎年秋に開催されていて、関東地方からの出品が大半で、今回は238人290点に上る作品が出品され、ほかにトルコなど海外からも50点を超す作品が出品されていた。
 戸田さんの作品は、会場入口近いところに展示してあって、この展示室は実力者の作品が集まっていたが、100号の大作であり、会場に入ってすぐに目立った。
 大きな木が不気味な枝を伸ばしている。背景の山は赤く燃えている。碧い湖が静けさを際立たせている。異次元の世界のようでもあるが、画面右上の山裾に工業のプラントも見える。
  終末のようでもあるが、絵が若若しいし不思議な生命力も感じられる。こじつければ様々な受け取り方ができそうだが、難しい味わいがある。
 戸田さんとはかねて昵懇の間柄。同じ業界にいて駆け出しの頃から可愛がってもらってきた。
 戸田さんは83歳。高校大学時代から絵は好きだったようだが、会社勤めをしていた時代は絵筆を握ることはなかったが、70歳で社長を退任してから本格的に取り組み初め、それも美大を目指す若い学生が通う教室で基礎から学んだという。
 私はこの10数年来戸田さんの絵を見てきているのだが、戸田さんの特徴はモチーフが多彩で次々と変化のあること。
 10年くらい前になるか、当時は沖縄の闘牛の模様を好んで描いていた。とにかく迫力のある表現でディテールがしっかりしていたし、優れて臨場感のある作品だった。これで、画家としての評価を確立したのではなかったか。
 それで、しばらく闘牛を追求していたのだがある年からふっとこのモチーフが消えた。その後、里山の風景などを描いていたが、4年ほどになるか、都会の街路を大胆な構図で描いてきて、しゃれた画風はストーリー性に時間の動きまでも感じさせる秀逸な作品世界を完成させていた。この作品で純展の最高賞を受賞し、名だたる地位を確立させていた。
 それが、今年の春の公募展旺玄展あたりからまたまたモチーフを転換させ、生命の不思議と取り組む作品世界へと変わってきた。
 その一連の展開がこのたびの『再生』で、この絵の中で、碧い湖があって我々は再生できる可能性を知ることができた。ただ、戸田さん特有の遊びがなくなってきたように思える。
 とにかく戸田さんの絵は見るたびに変化が大きくて、それは大きな楽しみでもあるのだが、戸田さんの創造力に感銘を与えられるとともに、常に100号近い大作に取り組んでいるエネルギーにも感服する。

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(写真2 戸田泰生画『再生』

小樽の日和山灯台

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(写真1 高島岬に立つ日和山灯台)

北海道で二番目に古い灯台

 日和山灯台は、小樽の郊外祝津にあり、小樽駅からバスで10分ほど。終点おたる水族館から坂道を登ること約10分。石狩湾にでべそのように突き出た小さな岬高島岬の先端にあって小樽港に出入りする船舶を誘っている。

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(写真2 麓から見上げた日和山灯台と鰊御殿)

 麓は住宅地で、水族館から坂を登っていくと、坂の途中に、かつての鰊御殿だという立派な建物があって、灯台はさらにそこから急な坂を登り詰めたところにある。

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(写真3 後ろ側から見上げた灯台)

 灯台は、赤と白の縞模様になっていて、しかも、灯塔ばかりか付属舎も同じように塗られているから、遠目には灯台とは思えず、観光用の展望台のように見えなくもない。近づいても円形の大きな缶を立てたようにも見えるし、赤い塗色が剥がれかかって傷んでいる。小樽駅の観光案内所によれば、近々、塗装工事が行われるらしい。
 灯台は、塀がぐるりと回され、門扉は錠がかかっていて近づくことはおろか敷地に入ることもできない。全国の灯台にはこのように固く閉ざされたところが少なくないが、なぜだろうか。灯台はがっしりした建造物だし、容易に破壊されるものとも思えないから、灯塔の内部はともかく近寄ることぐらいはさせて欲しいものだ。灯台は今や観光資源としても注目されているところだし、一考して欲しいものだ。
 地図で見ると、高島岬は、積丹半島の東側の付け根に位置し、日和山灯台は石狩湾を挟んで石狩川の河口にある石狩灯台と対置しているように受け止められる。二つの灯台は、小樽港のほか、石狩湾新港にも対応しているものであろう。
 岬の先端は高い崖になっている。高さ40メートルほど。眼前は石狩湾。時折船が横切るが、概して船舶交通量は多くはない。このあたりは北海道の灯台のことで、ひっきりなしに船舶が航行する東京湾や瀬戸内海に比べれば静かな海だ。
 目を右に向ければ、眼下に小樽港が見える。もとより小樽港は北海道開拓の拠点となってきたところ。日和山灯台が、1883年の初点と、納沙布岬灯台に次いで北海道で二番目に古い灯台というのも頷けるところ。かつては鉄道と結びついて石炭輸送の重要な役割を担ってきたところだが、現在はクルーズ船が頻繁に寄港していて観光港としての位置づけを強めているように思えるがどうであろうか。

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(写真4 麓の住宅地から遠望した日和山灯台)

<日和山灯台メモ>(灯台表及び海上保安庁/燈光会等が設置した看板等から引用。なお、灯台表と看板の表記が異なる場合は灯台表を優先し、必要に応じ看板表記を括弧内に補記した)
 航路標識番号(国際番号)/0580(M6996)
 位置/北緯43度14分3秒(43 14.18N)  東経141度00分9秒(141 00.56E)
 所在地/北海道小樽市祝津
 塗色/白地に赤横帯2本
 構造/塔形コンクリート造
 灯質/単閃白光 毎8秒に1閃光(群閃白光毎20秒に2閃光)
 実効光度/11万カンデラ
 光達距離/19海里(約35キロ)
 明弧/108度~347度
 塔高/10メートル
 灯火標高/50メートル
 初点灯/1883年(明治16年)10月15日(当初は木造六角形で、1953年に現在のコンクリート造に建て替えられた)
 管轄/第一管区海上保安本部小樽海上保安部
 なお、ウィキペディアによれば、レンズは40センチ回転灯器だとのこと。また、小樽観光協会の案内によると、光源は70ワットメタルハライド電球だとのこと。

小樽市総合博物館の車掌車・緩急車

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(写真1 車掌車ヨ7904)

シリーズ車掌車を訪ねて

 小樽市総合博物館は、小樽駅からバスで5分ほど。手宮にあり、ここは北海道における鉄道の原点。旧手宮鉄道施設のあったところで、国の重要文化財に指定されている煉瓦造の機関車庫などが残されている。
  なかなか広大な施設で、多数の鉄道車両が展示されている。総合博物館というが、内容的には鉄道博物館ではないか。

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(写真2 国の重要文化財である煉瓦造の機関車庫や転車台。ラッセル車も見える)

 屋外展示場に出たすぐ右手には、機関車庫のほか転車台といった重要文化財が展示されている。ここにはキ270やキ1567といったラッセル車の姿も見え、いかにも北海道の鉄博らしい。

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(写真3 北海道鐵道開通起點のモニュメント)

  敷地の中央には、「北海道鐵道開通起點」という準鉄道記念物のモニュメントがあった。そこには1880年(明治13年)、北海道で最初の鉄道がここから始まったと記されてあった。
 キハ56形急行車両などとかつて北海道で活躍した車両が数多く展示されていた。また、この日は、北海道最古の動態保存蒸気機関車に引かれた列車が構内運転されていて、夏休み中の多くの子どもたちが歓声を上げていた。

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(写真4 貨物列車に連結されて緩急車ワフ29984)

 ホキ、トラ、セキ、ワムなどとDEに牽引される形で展示されていた貨物列車の編成の最後尾に緩急車ワフ29984が連結されていた。緩急車は一部が貨物室になった車掌が乗務する事業用貨車。車掌車同様ブレーキが取り付けられているのが大原則。車内はやはり車掌車に比べやや狭い。
 車掌車は1両だけの展示で、ヨ6000形のヨ7904がやはり貨車と連結されて展示されていた。説明板によると、1968年(昭和43年)東急車輌製造/協三工業の製造。自重8.8トン。なお、この説明板には日本語のほか英語とロシア語の表記も含まれてあった。釧路や稚内ではロシア語表記の店を時折見かけるが、小樽でもロシア人の来場者は多いのであろうか。
 帰途、館外で飲食施設として使用されている車両があって、そのうちの1両はよく見ると緩急車だ。車体は再塗装されていて車番などは消されていたが、足回りをのぞき見ると、ワフ29688と読めた。

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(写真5 小樽市総合博物館の本館建物)