写真と図解が豊富
1872(明治5)年10月14日、日本で初めて鉄道が新橋-横浜間に走ってから今年はちょうど開業150年となる。
日本の鉄道の歴史についてはおびただしいほどの類書があるが、本書の特徴はそのとき折々のエピソードをつなげて綴ったこと。研究書などと違って視点も独特だし、写真と図解が豊富なことも読みやすくしている。
新橋-品川間の本開業の4カ月前に品川-横浜間で仮開業していたという。運賃も徴収していたし、この仮開業中には明治天皇も乗車されていたという。歴史家や熱心な鉄道ファンでもない限りあまり知られていないエピソードだろう。
1905年ごろから始まったとされる改軌の動き。鉄道院総裁だった後藤新平が主導したもので、現在と同じ1067ミリの狭軌だった軌間を1435ミリの標準軌にしようとするもので、大方の賛同を得ていたのだが、立憲政友会原敬首相につぶされた。標準軌は現在の新幹線と同じゲージで、もし、実現していたら日本の鉄道事情は画期的に変わっていただろう。なお、私は改軌に反対したのは陸軍だったと認識していたが、どうだったのだろう。
なお、原は岩手県盛岡、後藤は同じく岩手県水沢の出身で、原ものちに鉄道院総裁を歴任しているが、同郷ながらゲージの幅は合わせられなかったようだ。
なお、一般性がないからだろうが、貨物輸送に対する記述がほとんどなかったことや、すでに動き出しているLRTへの記述もなかったことは残念だった。
この頃では食堂車は、観光列車や特別企画列車以外では見かけなくなったが、日本で初めての食堂車は山陽鉄道だったとのこと。メニューは、ビフテキ、オムレツ、ライスカレーなどだった。
食堂車については私にも大きな思い出がある。1965年ごろだったか、東京午後6時発(当時東北本線に東京駅始発の列車があった)仙台行き特急ひばり号に乗った折、発車するとほどなく食堂車から座席の予約と料理の注文を取りに来た。指定した時間になると食堂車からわざわざ迎えに来たのではなかったか。私はカレーライスを頼んだが、このように、座席と料理の予約というのははなはだ珍しかった。
もう一つ、青函トンネルが開通し、上野から札幌行きの北斗星号が運転を開始した頃、夕食の食堂車は予約制で、私は滅多にない機会だからと奮発してフレンチのフルコースを頼んだものだった。当時7千円。
また、私は鉄道好きで、金曜日の夜行寝台列車で、山陰や九州、北東北などに頻繁に出掛けていた。東京駅や上野駅を出ると、すぐに旅情が増したものだった。もっとも、この頃は食堂車を利用する経済的余裕がなく、もっぱらラウンジカーで弁当を食べていたのだった。
食堂車もない、寝台車もなくなってこの頃は鉄道旅行の楽しみが減ったような気がしてさみしい。
(徳間書店刊)