日本海峡紀行
(写真1 音戸の瀬戸。手前が音戸大橋で、奥が第二音戸大橋)
呉港と安芸灘を最短で結ぶ
瀬戸とは、狭い水道のこと。つまり、瀬戸も水道も海峡である。
音戸の瀬戸は、広島県呉市の本州側と対岸の倉橋島との間の水道。平清盛が開削したという言い伝えもあり古くから海上交通路として使われてきた。
音戸の瀬戸は、長さ約650メートル、最狭幅は90メートルとまことに小さな水道だが、呉港から安芸灘へ抜ける最短の主航路であって、船舶交通量は1日あたり700隻ともいわれている。
特に、呉に鎮守府のあった海軍は、かつてこの瀬戸を抜けクダコ水道、釣島海峡を通り伊予灘から豊後水道を経て外洋に出ていく航路を利用していたとされ、重要な位置づけをになっていた。
(写真2 いかにも呉らしく海自の潜水艦桟橋)
音戸の瀬戸には、JR呉駅からバスが出ている。呉の町は現在も海自の拠点だから、沿道には海自の施設が多く、中には潜水艦の桟橋まであって、5隻もの潜水艦が係留されていた。潜水艦を間近に見るなどということは、滅多にない機会だったのでびっくりした。
(写真3 清盛塚。背景は音戸大橋)
実は、呉駅前のバス停で一緒になったおばあさんに音戸の瀬戸へ向かう路線を尋ねたところ、路線名と同時に清盛塚で下りるとよいと教えられていて、その通りにまずは清盛塚に向かったのだった。塚は音戸の瀬戸をまたぐ音戸大橋を倉橋島側に渡ったたもとにあった。音戸の瀬戸を開削したという清盛を祀ったもので、塚の緑の松の木と、赤い橋桁と、碧い瀬戸の流れが一枚の絵のように見えて大変風光明媚なところだった。
(写真4 複雑な音戸の瀬戸の潮流)
このあたりは、音戸の瀬戸の南の口に近いところで、瀬戸の幅が最も狭いところ。北に向けて音戸大橋と新音戸大橋二つの赤い橋が並列している。海面を見ると、複雑な潮流の様子がうかがえて、なるほど海の難所だったことがわかる。瀬戸は、潮の干満によって複雑に流れを変えるということである。幅はわずかに100メートル未満だが、潮流が速く泳いでわたることはできなかったそうである。
ところで、瀬戸内海は東西に広がる内海だから、海峡も水道も東西に伸びるところが多いが、この音戸の瀬戸のように南北の水道というのも珍しくはないかと思っていた。
(写真5 音戸の瀬戸を抜ける船舶)
貨物船だろうか、あるいは中型のタンカーかも知れないが、すぐ目の前を大きな船が高速で抜けていくと新鮮に思えた。
(写真6 音戸渡船の渡し場)
帰途のバスで音戸渡船の渡し場だったところに寄った。2021年10月31日に残念ながら廃止されてしまったのだが、航路幅わずかに90メートル、渡航時間約2分は日本一短い海上定期航路といわれていた。
(写真7 音戸渡船待合所跡)
本州側の待合所は残されていて、両岸の船着場もそのままあった。海峡は船で渡りたいものだが、今やそれも適わず大変残念なことだった。
なお、音戸の瀬戸を第二大橋の方に目を向けると、瀬戸の幅はやや広くなっているようで、北の口のあたりでは約200メートルほどにもなっているようだ。その奥には製鉄所が見えた。(2022年5月26日)
(写真8 音戸の瀬戸北口付近。第二音戸大橋の向こうに見えるのは製鉄所か)