ABABA’s ノート

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『教科書名短編科学随筆集』

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科学者の名エッセイ

 中学校の国語教科書に載った科学者のエッセイを集めた。
 エッセイは、寺田寅彦、中谷宇吉郎、湯川秀樹、岡潔、矢野健太郎、福井謙一、日髙敏隆の6人。科学者として一流であるばかりか、いずれも名文家としても知られる錚々たるメンバー。
 教科書で学んだ随筆などの作品は、いくつになっても忘れがたいもの。人生の進路で参考になったという人も少なくないに違いない。
 寺田などは、物理学者としての業績にはつまびらかではなくとも、エッセイはしばしば親しんできたし、中谷も湯川も時に目に触れるエッセイは興味深いものだった。
 含蓄のあるものが多いし、物事の考え方に示唆に富んだものが多くて、それでいて決して説教くさくはなく、腑に落ちることもしばしば。
 寺田の「科学者とあたま」には次のような一文がある。
 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。
 科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(おろかもの)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。
 頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからである。

 まあ、少々アイロニーっぽくはあるが。
 湯川の「詩と科学」からは少し長くなるが全文を引いてみよう。こどもたちのためにと断っている。
 詩と科学遠いようで近い。近いようで遠い。どうして遠いと思うのか。科学は厳しい先生のようだ。いいかげんな返事はできない。こみいった実験をたんねんにやらねばならぬ。むつかしい数学も勉強しなければならない。詩はやさしいお母さんだ。どんな勝手なことをいっても、たいていは聞いて下さる。詩の世界にはどんな美しい花でもある。どんなおいしい果物でもある。
 しかし何だか近いようにも思われる。どうしてだろうか。出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること聞くことからはじまる。薔薇の花の香をかぎ、その美しさをたたえる気持と、花の形状をしらべようとする気持の間には、大きな隔たりはない。しかし、薔薇の詩をつくるのと顕微鏡を持ち出すのとではもう方向がちがっている。科学はどんどん進歩して、たくさんの専門にわかれてしまった。いろんな器械がごちゃごちゃに並んでいる実験室、わけの分からぬ数式がどこまでもつづく書物。もうそこには詩の影も形も見えない。科学者とはつまり詩を忘れた人である。詩を失った人である。
 そんなら一度うしなった詩はもはや科学の世界にはもどって来ないのだろうか。詩というものは気まぐれなものである。ここにあるだろうと思って一しょうけんめいにさがしても詩が見つかるとは限らないのである。ごみごみした実験室の片隅で、科学者は時々思いがけなく詩を発見するのである。しろうと目にはちっとも面白くない数式の中に、専門家は目に見える花よりもずっとずっと美しい自然の姿をありありとみとめるのである。しかしすべての科学者がかくされた自然の詩に気がつくとは限らない。科学の奥底に再び自然の美を見出すことは、むしろ少数のすぐれた学者にだけ許された特権であるかも知れない。ただし一人の人によって見つけられた詩は、いくらでも多くの人にわけることができるのである。
 いずれにしても、詩と科学とは同じ所から出発したばかりではなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。そしてそれが遠くはなれているように思われるのは、途中の道筋にだけに目をつけるからではなかろうか。どちらの道でもずっと先の方までたどって行きさえすればだんだん近よって来るのではなかろうか。そればかりではない。二つの道は時々思いがけなく交叉することさえあるのである。
 教科書に載った名短編を集めたというのはなかなかいい企画だ。面白くて興味深く読んだ。
(中公文庫)