ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

堀江敏幸+角田光代『私的読食録』

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食と読書の案内

 食にまつわるエピソードを小説やエッセイなどから拾って紹介している散文集。
 月刊誌に堀江と角田が交互に書いた連載100回分が収録されている。1回分が文庫3ページと短く、どこで栞を挟んでもいいようで読みやすい。拾い読みしてもいいようだが、面白くて結局最後まで読み通した。
 とくに印象に残った箇所に付箋を挟んでいったら6つになった。読み返してみると、食べ物の中身のことよりも、取りあげられた本そのものに興味がわいたし、既読ながら新しい視点が面白かったものなどが残った。
 一つ二つ引いてみよう。
 「湯豆腐、おでん、ビール、熱燗」(川上弘美『センセイの鞄』) 食べものの描写がうまい作家は古今多々いるが、川上弘美もそのひとり。老教師とツキコさんが再会した駅前の一杯飲み屋。二人はそっくりおなじものを注文する。まぐろ納豆、蓮根のきんぴら、塩らっきょう。居酒屋の風情というものが、この注文によって見えてくる。まず、注文すると「よろこんで!」と店員が叫ぶようなチェーン店でないことがわかる。かといって、今どきの、若い男の子たちが活発に働く、メニュウが手書き筆文字の、笊豆腐を塩で食べるような店でもない。まっとうな、理想的な正統的居酒屋であることが、最初の三品から、すでにわかってしまう。
 この小説を読んでいると、ひとり、という孤独は、なんと身軽ですがすがしいことか、と思えてくる。ひとりで生きることはさみしいことでも悪いことでもないと、ツキコさんたちが教えてくれるのだ。<角田>
 「病むためでなく健やかであるために食べる」(池澤夏樹『きみのためのバラ』) 池澤夏樹は失われていくまっとうさの奪回に真剣に向き合っている作家だと私は勝手に思っている。まっとうさというのは、人間らしいまともさである。むずかしい言葉でそれについて論じることもあるし、ひどくわかりやすい言葉で書いてくれることもある。
 この短編集に通底しているのは、人間の健全な体温だ。意味のないマニュアル会話と正反対に位置するもの。意味不明といってもテロや暴動のそれではなく、祖先や生まれ変わりといった人知を超えたもの。人とのあいだの断絶ではなく、一瞬だとしても、つながり、そうして、ひどく無力な人間たちが魔法の力もないのに奇跡を起こす。さりげなく、でも力強い奇跡。
 今、食べものにまっとうさを求めようとすると、マクロビデオティックとかオーガニックとか、ちょっとだけヒステリックな響きが混じり、そのせいかどうかちっともおいしそうに私には感じられないのだけれど、ここに登場する料理はそのどれもとも関係なく、そして真のまっとうさを感じさせる。しかもすべてがおいしそう。こぼれたコーヒー豆で淹れられたコーヒーすら。それで、はたと気づくのである。本来私たちは、病むためではなく健やかであるために食べるのだ、と。わかり合えないと知るためではなくわかり合えると思って他人とかかわるのと、まったくおんなじに。<角田>
 本文の末尾には、各回を担当した執筆者名が三文判のように押してある。堀江、角田両人とも守備範囲は広く、しかも一流の作家。ただ、ざっくりとした感想では、角田に私自身の好みが多かったように思う。堀江は体質的に酒はまったくたしなまないそうで、だから、好みが合わなかったからでもないだろうが。まあ、酒が出てこない食というものも何かわびしい。
 しかし、食を書かせればこの人だろうとページをくくる前から自分なりに想像していた内田百閒と開高健がそれぞれ紹介されていた。しかも、百間先生については2編も取りあげられていた。どちらも堀江の担当だったが、酒豪百間先生の人物像が百間先生の文章を引いて生き生きと紹介されていた。どうやら、酒を飲める飲めないはまったく関係のないことだったようだ。的外れなことを堂々と書いてしまったが。
 最後にもう一つ。太田愛人『辺境の食卓』が取りあげられていたのはうれしかった。「雨期こそ、ジャムの月」と題したエッセイで、北アルプスで伝道活動に携わりながら、地場で採れる果樹や山菜、山鳥や川魚など、土にまみれた本来の匂いに満ちた食材を用いて土地の文化や気候にあわせた食生活を楽しみ、その日々の模様を信者たちへの通信に書き綴ったとあり、聖書の中の荒れ果てた辺境のイメージや、言葉そのものにまつわる負の響きをあっけらかんとくつがえす、ほとんど「豊かな辺境」としかいいようのない世界を提示してくれる名著だと紹介している。<堀江>