ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

丹後半島最北端経ヶ岬灯台

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(写真1 展望台から遠望した経ヶ岬灯台)
白堊の第1等大型灯台
 このたびの丹後半島の旅では、丹後半島最北端の経ヶ岬を踏破した。京丹後市所在。旧町名なら丹後町である。もとより京都府すなわち近畿地方の北端に位置する。
 経ヶ岬へは丹海バスに半島を海沿いに走る二つのバス便がある。西側からなら、宮津線の網野駅から経ヶ岬行きがあり、東側からなら同じ宮津線の天橋立駅から出ていて、網野駅からは所要1時間4分、天橋立駅からは1時間41分である。
 3月2日。私は網野方面から経ヶ岬を目指した。終点経ヶ岬到着10時13分。国道178号線に停留所があり、バスの車庫があった。かつてはレストハウスもあったらしいが、現在は付近に何も見当たらなかった。
 ちなみに、この178号線は、京都府の舞鶴市から鳥取県の岩美町に至る延長195キロの長い国道で、途中、日本海沿いに若狭湾と丹後半島を周回している。
 バス停からすぐ左に別れて岬へと向かう道があった。看板の表示がはっきりしていて迷う不安はまったくない。その看板には経ヶ岬灯台まで1.4キロとあった。幅の広い舗装道路が伸びていて、緩やかなアップダウンがあって約15分で経ヶ岬灯台への登り口となる駐車場に。1台の乗用車が止まっていた。登り口には杖になりそうな竹竿が20本ほども束ねてあった。ご自由にどうぞとは書いてはいなかったが、そういう意味だろうと理解して1本拝借した。
 さて、いよいよ登山開始。急な階段がどこまでも続いている。一瞬ためらうほどの急登坂である。
 なかなか辛い。登っていてなぜかくもきついのかそのきつさがわかった。なぜか。つまり、階段の一段一段の段差が大きいのである。20センチから30センチもの段差があって大きな歩幅が必要なのである。だから一段ごとに立ち止まらなくてはならない。折角、階段を整備してくれるなら、もう少し段差の小さい階段にして欲しかった。それならば次々と足を繰り出せたのではないか。もっとも、全国の灯台にはこういう階段が少なくないが。
 しばらく歩いたがまったく階段が途切れることがない。灯台は見えないし、潮騒も聞こえてこない。しかし、道ばたには、「魚つき林」の立て札があった。森は海の恋人なのである。私はこのことを畠山重篤さんの著作で知った。
 途中で、展望台へと分かれる道があったが、私はそのまま直進した。そうしたら、登り口から10数分も歩いたころか、灯台が木立の影から見え始めた。ここからは階段もなくなり、思わず足早になって一気に灯台へ。ここまで約15分というところ。

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(写真2 経ヶ岬灯台の第1等フレネルレンズ)
 白堊のどっしりとした大きな灯台だ。半円形の建物に円形の灯塔がくっついている構造だ。ここが経ヶ岬の先端であろう。随分と高いところにあって、日本海が遮るものもなく見渡せる。いつもの私流の表現なら両腕を伸ばして余るほどだから210度もの展望だ。
  灯台は一段低いところにあって、このためレンズが目の高さになっている。大きなレンズだ。第1等フレネルレンズとある。現在の日本に5つしかない大型レンズである。ちなみに残る4つは犬吠埼灯台、出雲日御碕灯台、角島灯台、室戸岬灯台である。
 しかも、このレンズを回転させるためのものとしてあるのが水銀槽式回転機械と称するもの。1893年のパリ万博に出品されていたものをそのまま購入したという。日本初だった。レンズは台も含めて5トンもの重量があるのだが、この水銀槽を使えば指先で軽く動くのだという。光り方は群閃白光で、毎20秒に3閃光とある。実効光度28万カンデラで、光達距離は22海里(約40.7キロ)。
 ちなみに、カンデラはキャンドルが訛ったもののようで、1カンデラはろうそく1本の明るさに相当することをいうようだ。なお、この経ヶ岬灯台の現在の光源はメタルハライドランプを使用しているという。現在は閉まっているが灯塔への入口上部に「初点明治三十一年十二月」のプレートがあった。
 そう言えば、この灯台は地蔵崎の美保関灯台に似ている。ともに白堊の石造で、半円形の建物に円形の灯塔がくっつりている構造だし、レンズも現在は二代目となって変わってしまったが、当初は美保関灯台も第1等フレネルレンズだった。初点も、ともに明治31年であり類似点が多い。設計者も同じなのではないか。
 座標は灯台の位置で北緯35度46分38秒、東経135度13分24秒である。塔高が12メートルとあり、灯火標高は148メートルとある。
 後背地は山になっていて、灯台はその中腹に建設されたもののようだ。岬全体は海蝕崖になっていて、特に海側は柱状節理になっているようだ。このため、この岩の形状が経本に似ているところから経ヶ岬と呼ばれるようになったという説が有力らしい。
  地図で見ると、経ヶ岬灯台は大きくは若狭湾を挟んで越前岬と対置しているように見える。もちろんどちらの灯台にしても光りが届くほどの近さではないが。
 ただ、船舶からしてみれば、日本海を西から進んでくると、角島灯台、出雲日御碕灯台、美保関灯台などとあって次がこの経ヶ岬灯台であり、船舶の航行に大きな役割を果たしていたことがわかる。舞鶴港への入口に当たるから、あるいは軍事上の必要性が強くて設置されたものかも知れない。ちなみに正式の開庁は明治34年だが、舞鶴鎮守府は明治29年頃から建設が始まっていたようで、明治31年という初点日から類推すると鎮守府の開設に呼応して灯台建設が促進されたものかも知れない。
 灯台からの帰途、展望台へ登ってみると、木立の中に灯台が展望できたが、とても美しいものだった。
  この日は、麓では寒風吹きすさび寒かったのだが、灯台に着いたら風もなく穏やかな気候となった。沖合では大型のフェリーが航行しているのが遠望できた。

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(写真3 経ヶ岬灯台全景)