ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

丹海バスで巡る奥丹後

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(写真1 激浪が襲う間人の海岸)
念願の間人に寄る
 丹後半島周遊。前日は京都丹後鉄道(丹鉄)で半島の付け根を横断した。翌日は、丹海バス(丹後海陸交通)に乗って丹後半島の外周を日本海沿いにひたすら走った。
 3月2日。スタートは、宮津線の網野駅。丹海バス8時15分発間人(たいざ)行きに乗車。峰山駅から出てきたバスで通学の高校生でいっぱいだったが、私のために席を空けてくれた。
 丹海バスとは、丹後海陸交通が運行するバス路線の通称。面白い企業名だが、丹後半島で鉄道を除く大半の交通事業を営んでおり、バスのほか伊根湾の海上交通や天橋立の傘松ケーブルなどが含まれる。
 バスは国道178号線を走っており、このあたりは京丹後市。峰山町、大宮町、網野町、久美浜町、丹後町、弥栄町の旧6町が合併して誕生した市制で、広域な市域を有し、丹後半島の大部分を占める。
 発車してしばらくは網野の市街を走っていて、網野高校前で高校生がごっそり下車した。少しして日本海に出た。強風で海が荒れている。いよいよ奥丹後の風情だ。
 そうこうして間人8時41分着。1分と違わぬ時刻表通りの到着だった。ここで途中下車した。この停留所は丹海バスの車庫になっており、立派な待合室もあった。トイレを使わしてもらったが、実にきれいに清掃されていて感心した。
 間人の町の中心で、ここは間人カニで有名だが、朝も早かったからそれらしき店は見当たらなかった。
 海岸に降りてみたら、激浪が岩礁を叩いている。海が荒れているせいでもあるのだろうが、高い波は高さが10メートルを超しているようで、恐いほどだった。日本海の、というよりも奥丹後の厳しい自然がうかがわれた。しばしば波しぶきがカメラを襲った。
  ところで、間人と書いてたいざと読ませるとはいかにも難読地名だが、これには曰くがあるようで、何でも、聖徳太子の生母間人(はしうど)皇后が避難していたこの地から去るについて、自らの名をこの地に贈ったものの、住民は、はしうどと呼び捨てにすることは畏れ多いとして、皇后が退座したことにちなみ間人をたいざと読み替えたとする伝承が残っているという。この付近には間人皇后と聖徳太子が連れ添った像があるはずだが、バス停の近くには見当たらなかった。
 間人とは何と詩的な響きか。私はかねてこの地を一度は訪れたいものだと念願していて、それも冬の間人を熱望していたのだが、やっと念願が叶った。訪れてみて、大きな波浪が繰り返し押し寄せる厳しい冬の海岸に立ってみると、思い描いていた通りのいかにも奥丹後の間人なのだった。

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(写真2 間人のバス停に到着した丹海バス)
 間人から再びバス。9時35分の発車。やはり峰山駅、網野駅と経由してきたバスで、海岸の中腹を切り拓いた道だから、見晴らしはいいのだが、道幅が狭く、そのためバスはたびたび対向車に道を譲るため停車した。
 しかし、このことはすでに織り込み済みだったのか、終点経ヶ岬には定刻の10時13分ぴったりの到着だった。間人の町を過ぎてから乗客は自分一人だけだった。バスの車庫があるだけの殺風景な停留所で、私はここから経ヶ岬を踏破したあと次の12時50分発のバスに乗った。宇川温泉から袖志を経てきたバスで乗客はここでもほかにいなかった。
 途中に伊根。船屋で知られる伊根湾巡りが人気だが、かつて訪れたこともありこのたびは下車しなかった。バスの乗客が一気に増えて天橋立に向かった。
 これによって丹後半島の日本海沿いの外周を走破したことになり、途中下車を繰り返したものの、乗車時間を単純に合算すると、網野駅から天橋立駅まで3時間39分だった。また、前日の丹鉄宮津線による半島付け根の横断から始めて、丹後半島を一周したことになる。

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(写真3 丹海バスは奥丹後の海岸を走る)