ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

マイ・シューヴァル+ペール・ヴァールー『バルコニーの男』

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新訳のマルティン・ベックシリーズ
  柳沢由実子訳によるマルティン・ベックシリーズの新訳シリーズ。本作は4作目だが、日本語版発行は原作とは刊行順序が違っていて、原作では3作目。初訳は、高見浩訳で1971年の刊行だった。なお、高見訳が英語版からの重訳だったのに対し、本作柳沢訳はスエーデン語版からの直接の訳出。
  冒頭のシーンがいい。少し長くなるが引いてみよう。
 二時四五分に夜が明けた。
 それより一時間半ほど前に車の往来が途絶え、あたりが静まった。沿道のレストランの最後の客たちがにぎやかに引き揚げたのも同じころで、清掃車が通り過ぎた後のアスファルトの路面には清掃の跡が黒い帯状に残っていた。救急車がサイレンを鳴らしながら長いまっすぐの大通りを走っていた。……
 バルコニーの男はこれらすべてを見ていた。バルコニーはよくあるタイプで、手すりは鉄製の棒、下部は波状のプレートだった。男は両肘でバルコニーの手すりにもたれてたばこを吸っていた。……
 バルコニーの男は中肉中背で、ごく普通の体格だった。顔にも特に特徴がなく、服装はネクタイなしのワイシャツ姿で、アイロンのかかっていないギャバジンのズボン、グレーのソックス、それに黒い靴という姿だった。頭髪は薄く、後ろに掻き上げていた。がっしりした大きな鼻、瞳は灰色がかった青い色。
 時間は朝の五時半、時は一九六七年の六月二日、場所はストックホルムだった。……
 まるで映画のシーンでも見ているように情景がゆっくりと流れていく。極めて散文的で、マルティン・ベックシリーズの情感豊かな文章に引き込まれていく。
 ここで、グンヴァルト・ラーソンがシリーズ3作目にして初めて登場した。ストックホルム警察の警部補で、身長192センチ、体重98キロの大男。風貌同様に粗野な印象を与え同僚のベック(この時警部に昇格している)やコルベリ(警部補)とはそりが合わない。
 外線から電話が入り当直のラーソンが出る。年配の女性からで、通りの向かいの建物のバルコニーに男がいる、髪は薄く、後ろに掻き上げている、がっしりした大きな鼻、身長は中ぐらい、茶色のズボン、目の色は灰色がかった青で、その男は夜もバルコニーに立っているというもの。
 この時、そばにはベックやメランダーいたのだが、この時の電話のやりとりが伏線になっていて、この先事件解決の糸口になる。
 ストックホルムでは、その頃、連続強盗事件が発生していた。他方、時を同じくして連続少女暴行殺人事件が起きていた。
 1967年6月9日金曜日。ヴァーナディス公園。夜陰に紛れ木陰に潜み慎重に獲物を狙っていた強盗は、中年の女性に襲いかかり殴ってバッグを奪い取った。雨が降り始めた。
 翌日、同じ公園で少女が暴行を受け絞殺されているのが発見された。前夜、少女の母親から少女が行方不明になっていると訴えがあった。
 強盗事件は9件も発生しているのに手がかりが得られず、少女殺しに至っては夜来の雨が現場を流し、目撃情報もなかった。
 捜査は行き詰まり、市民の警察に対する指弾の声が高くなっていた。ついには自警団まで結成される始末で、リンチという最悪の事態までも想定された。
 ベックらは、強盗事件の発生が夜の9時から9時15分の間、女の子殺しが同じ夜の7時から8時の間だったことを重要視、強盗が女の子及び女の子殺しの犯人を見たかどうかに着目した。
 つまり、強盗の逮捕が何よりも優先されるのだったが……
 描写は実に微細である。登場人物たちの行動や言動が語られ、事件の経緯が詳細に述べられている。
 そして、このシリーズの魅力は、何よりも人間が描かれていることであり、事件の背景となる社会が浮き上がっていることであろう。
 シリーズは1年1作のペースで10年に及んだ。初訳の時も新刊が待たれるようだったが、50年経ったこのたびの新訳でも、シリーズの魅力はまったく色褪せることはなく、やはり次の発行が待たれる日々となっている。
(角川文庫)