ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

早春の塩屋崎へ

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(写真1 岬の北側、薄磯海岸から見た塩屋埼灯台)
東日本大震災で被災した灯台
 塩屋崎を訪ねた。東日本大震災からちょうど6年。塩屋埼灯台は大型灯台としては唯一であろう被災し一時灯りが消えた灯台である。
 岬は福島県の南部、いわき市にある。3月9日。岬へはいわき駅前からバスで向かった。9番乗り場から泉駅行き。このバスは小名浜などを経て岬をぐるっと一回りするようなルートで、岬はその中間くらいか。いわき駅前から30分ほどだった。停留所名は灯台入口とあってわかりやすかった。
 バスを降り立つと、岬の上に灯台の上部が遠望できた。岬まで家の一軒も見当たらない。これはおかしい。実は、この岬を訪ねるのはこれが3度目だが随分と久しぶり。かつては薄磯の集落を縫うように歩いていったものだった。停留所名も変わってしまっているが、停留所付近から灯台は見えなかったと記憶している。
 集落は東日本大震災の津波で壊滅していたのである。現在は嵩上げ工事の真っ最中のようだったが、途中で出会ったおばあさんの話によると、やっと高台に移転できることになった、6年も仮設住宅に住んでいたということだった。
 工事中の部分が残る立派に舗装された道を歩いて行くと、15分ほどで岬にたどり着いた。岬の付け根をばっさり開削して幅広の道路が抜けているから岬の全体像はとらえにくくなっているが、岬は太平洋に鋭く突き出ており、その先端に塩屋埼灯台が建っている。

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(写真2 間近から見た塩屋埼灯台)
 急な階段を数十メートルも喘ぎながら登ると、真っ白な灯台が迎えてくれる。大変姿の良い灯台で、灯高は24メートルあり、大型灯台である。一般公開されている参観灯台で、百数十段のらせん階段を登ると一気に眺望が開ける。灯火標高(平均海面から灯火まで)は73メートルもあり、眼前に大きな太平洋がいかにも大きく見える。両手を広げてなお余るほどだから240度もの眺望か。
 この日は快晴無風の絶好の日和だったのだが、灯台に登るとさすがに風が強く冷たい。北側にははるか遠くに白い煙突が見えたが、あれは福島第二原発であろうか。また、南側に目を移すと、眼下は豊間漁港であり、遠くには漁港で名高い小名浜から、東北と関東を隔てる勿来の関の方角である。
 眼下を洗う潮騒はこの日はおとなしく激浪も目立たない。岬周辺は潮の流れが激しく暗礁も多いところから海上交通の難所として知られたところ。初点は1899年(明治32年)である。沖合を貨物船やタンカーといった大型船がしきりに行き交っている。座標は北緯36度59分31秒、東経140度59分07秒である。
  灯台資料室が付属してあって、東日本大震災の被災の状況が写真パネルで説明されていた。それによると、灯塔そのものは無事だったものの、岬の麓から灯台に至る道が崩れたほか被害は大きかったようで、このため灯台の灯りは消え、航行警報が発令されたということである。消灯は約9ヶ月も続き再点灯は11月30日だった。
 灯台下には二つの碑が建っている。一つは塩屋崎を歌った美空ひばりの『みだれ髪』の歌碑。もう一つは、映画『喜びも悲しみも幾年月』の記念碑。この映画の記念碑は全国各地にあるが、ここに従事していた灯台長夫人の手記が映画の原案になったとのことで、映画のロケにもなったとのことだった。
 なかなか人気の岬で、大型観光バスでやってくる大勢の観光客で賑わっていた。もっとも、岬と灯台の素晴らしさもさることながら、美空ひばり人気が半分以上を占めているような様子だった。

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(写真3 南側の豊間海岸から見た塩屋埼灯台。この方角からの写真は珍しいのではないか)