ABABA’s ノート

旅と鉄道、岬と灯台、読書ときどき映画あるいは美術に関するブログです。

帰還困難区域を行く

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(写真1 常磐線竜田駅。上野方面から来ると鉄路はここで分断されており、この先は帰還困難区域で不通である)
常磐線不通区間は代行バスで
 寸断されていた常磐線のうち旧臘10日に運転再開した相馬-浜吉田間に乗るべく出かけたが、相馬までのうち未だ復旧していない竜田-小高間は代行バスとなった。
 12月24日、特急ひたち1号をいわきで乗り継ぎまずは普通電車で竜田へ。
 途中、広野9時45分。常磐線の原発事故と津波被害からの復旧はちょっとずつ段階を踏んでいて、大震災の年2011年12月30日に原発事故からの影響を確認すべく乗った際には、常磐線の運行はここ広野までだった。
 この広野駅は、福島第一原発から24キロの位置にあり、鉄道はもとより、国道も20キロ圏で閉鎖されていた。タクシーで原発に近づけるところまで行ってもらったのだが、途中の家々は空き家ばかりでまるでゴーストタウンになっていた。そう言えば、その折のタクシー運転手が言った「津波の被災地は時間と金をかければ復旧するだろう。しかし、(原発被害の)ここに元の生活が戻ることはないのではないか」という言葉が5年経った今でも忘れられないし、実際、その通りになっている。
 次にここを通ったのは、2015年8月30日。4年近く経ったら駅周辺は再開発に着手された様子だった。また、鉄道も広野から木戸、竜田までが復旧していた。そして、その折りも、竜田から先は代行バスとなったのだった。なお、広野駅周辺の再開発はその後も進んでいるようで、このたび通ったら10数階建ての大きなビルが建っていた。
 1年と少し経って2度目の代行バス。運行区間は変わらない。いわきから乗ってきた乗客の大半がそのまま乗り継いだのか、バスは満席で、積み残した乗客10人ほどはジャンボタクシーで送られるらしい。

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(写真2 国道沿いには「この先帰還困難区域(高線量区間を含む)」「自動二輪 原動機付自転車 軽車両 歩行者は通行できません」の看板)
 竜田駅10時05分発車。最前列の席だったが、通路を挟んだ隣の席には線量計とつながったパソコンがセッティングされていて、リアルタイムに放射線の線量がモニターに表示されていた。また、発車の際、車掌から「途中帰還困難区域を通るので窓の開閉は遠慮して下さい」とアナウンスがあり、原発事故の影響を身近に感じた。
 国道6号線をひたすら北へ走っているのだが、福島第二原発を過ぎたあたりから警察車両が目立って増えてきた。途中、第一原発を過ぎ双葉警察署のあたりで「1.5キロ先帰還困難区域」の表示が現れ、10時20分、「帰還困難地域」に入った。
 ここからはっきりと様相が変わった。沿道の家々は矢来を組んで閉鎖されている。辻辻には警官が立哨している。しかし、国道を往来する交通量は多い。10時28分大熊駅付近、10時32分双葉町、10時38分浪江町などと続く。
 原発事故から満5年の年が暮れようとしているが、風化は激しくて、町は廃墟と化している。
 そうこうして10時44分南相馬市に入った。ここで帰還困難区域は終了。バスの線量計は、帰還困難区域内ではピークが0.14μSv/hだったようだが、帰還困難区域を出たら0.06まで減少していた。それがどういう意味を表すのかわからないが、数値が変化していることだけは見て取れた。
 小高駅10時59分着。11時00分の到着予定に対しわずか1分ではあるが先着だった。
 なお、鉄道はここ小高駅からはつながっているのだが、バスと列車との連絡が悪くて、わずか2名を除いてほとんど全員がそのまま原ノ町駅まで乗っていた。
 私もそのまま原ノ町駅まで乗っていき、原ノ町からはこのたびの復旧区間である相馬-浜吉田へと向かった。
 常磐線は原ノ町から岩沼を経て仙台まで鉄道で一直線につながったことになったが、未だ復旧していない竜田-小高間の運転再開はいつのこととなるものか。
 JR東日本では、竜田-富岡間と浪江-小高間を今年2017年春に運転再開し、残る富岡-浪江間を2019年度末までに運転再開、常磐線全区間の復旧を果たすとしている。

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(写真3 沿道の家々は矢来を組んでいて人影が見当たらない)