ABABA’s ノート

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三浦英之『五色の虹』

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満州建国大学卒業生たちの戦後
 建国大学とは、戦時中、日本の国策により満州国に設立された最高学府で、満州国首都新京にあった。満州国とは、現在の中国東北部を版図に日本が建国した傀儡国家。
 1938年の開学で、入学生は9期までを数えたが、1945年8月満州国崩壊とともに閉学した。在籍学生総数約1400人と伝わる。
 大学は、満州国の運営を担わせるエリートの育成が目的で、学生は日本や満州全域から選抜され、当時国是とされた「五族協和」の実践を目指していた。五族とは、日、漢、朝、満、蒙を指す。
 学生の選抜にあたって、日本人は定員の半分に制限されており、残りは中国、朝鮮、モンゴル、ロシア各民族に割り当てられていた。カリキュラムも語学が授業の三分の一を占めており、日本語や中国語のほか、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、モンゴル語などが自由に選択できた。
 「そして驚くべきことに、建国大学の学生たちには当時、戦前戦中の風潮からはちょっと想像もつかないような、ある特権が付与されていた。言論の自由である。」としていて、中国人学生や朝鮮人学生が日本政府を公然と批判する自由を認めていたという。
 私は、不覚にしてこれまでこの建国大学の存在を知らなかった。もっとも、建国大学に関する資料の多くは敗戦とともに焼却され、卒業生たちも後世に記録の残ることを嫌ったし、多くを語らなかったといい、建国大学は「満州国の崩壊とともに歴史の深い闇に姿を消した。開学わずか八年しか存在し得なかった大学の名を今記憶している人はほとんどいない」ということだ。
 本書は、副題にある通りこの満州建国大学卒業生たちの戦後を追ったドキュメンタリーである。ただ、資料は少なく、卒業生も高齢化している中での取材は困難を極めた様子だ。
 エリートとして教育を受けた優秀な学生たちだったわけだが、戦後の人生においては悲惨だったものが少なくなかったようだ。多くは学徒出陣をし、戦後はシベリアなどでの過酷な抑留生活を経験していた。
 とくに、「満州や朝鮮、台湾という外地で暮らす日本人にとって、「八月十五日にどこにいたか」という地理的ファクターは、その後の未来を大きく左右しただけでなく、生死をも分断しかねない極めて大きな意味を持ち合わせていた」のだった。
 2期生藤森孝一は関東軍に組み込まれていて、侵攻してきたソ連軍に捕らわれ捕虜としてソ満国境の収容所に移送された。過酷な強制労働を経て帰国できたのは厳しい冬を二つ乗り越えてからだった。
 復員後、藤森は会社勤めなどをしながら細々と暮らしをつないだ。「建国大学出身者のなかでも一際明晰な頭脳を有し、誰もが絶賛する人格の持ち主だった藤森にとって、その半生が相応しいものだったのかどうか」と著者は自分に問うた。
 中には11年も帰国できなかったというものもいる。1期生百々和は山西省で敗戦となったが、投降がスムーズに行われず、国共内戦が激化するさなか、捕虜としてではなく戦力として国民党軍に組み込まれてしまい、最終的には共産党軍の捕虜となった。戦闘が終わったのは1949年4月20日、日本敗戦からすでに3年8ヶ月が過ぎていた。さらに捕虜として収容所に入れられ、反革命的だとして監獄に入れられ、帰国できたのは1956年9月だった。
 帰国後百々は、神戸大学の大学院に進み、経済学の教授となった。在職中、百々は「企業で直接役に立つようなことは、給料をもらいながらやれ。大学で学費を払って勉強するのは、すぐには役に立たないかもしれないが、いつか必ず我が身を支えてくれる教養だ」と常に学生たちに言い続けていたという。このことは建国大学で学んだことでもあったようだ。
 エピソードが豊富で枚挙にいとまがないが、いずれも面白くて一挙に読ませてくれる。中でも、戦後は辛酸をなめたものの、学生生活の話になると雄弁になるのは面白かった。とくに、座談会と称し塾(寮)で激論を戦わしたことは一様に印象深かったようで、語りぐさにしていた。
 著者は朝日新聞記者だが、卒業生たちの肉声を追ったなかなか分厚いドキュメンタリーとなっていて労作である。とくに可能な限りの裏付けを取って進めたあたりはいかにも新聞記者らしい姿勢であろうと感心した。開高健ノンフィクション賞受賞作。
(集英社刊)